第77話 通達の中の少女
イレーネ・アルフェルトがその少女を初めて見たのは、ミレア湖へ続く街道だった。
グランヴェル家の馬車が遠くに姿を現した時、最初に目へ入ったのは見慣れた家紋だった。御者も馬車も、後ろに続く供の者たちも見覚えがある。予定より三日遅れていることを除けば、大奥様であるセレフィナを迎える、いつもとさほど変わらない光景だった。
ただ今回は、その馬車に客人が乗っている。
しかも、その中には王都から通達まで出された者がいるという。
通達には、幼い少女について必要最低限のことだけが記されていた。
六歳ほどの天使の少女で、髪は淡い水色。背中には小さな羽があり、数名の同行者と共に国内を旅している。
旅を妨げないこと。
保護を理由に本人たちの意思へ反して留め置かず、必要な場合には宿や道、治安について支援すること。
そして、鍵の欠片や使命について、むやみに聞き出さないこと。
王国各地の騎士団へ送られる通達としては、ずいぶん念を押した内容だった。
まして、そこには国王の名まで入っていた。
イレーネは当然、それなりの覚悟を持った人物を想像していた。
六歳という年齢は記されていても、国王がここまで気を配るほどの旅をしている少女なのだ。普通の子どもとはどこか違うのだろうと、知らず知らずのうちに思っていた。
馬車が近づき、こちらに合わせるように速度を落とす。
イレーネが馬を降りて道の脇へ立つと、窓の向こうで何かが動いた。
次の瞬間。
「こんにちは!」
窓から、小さな顔がひょこっと出てきた。
「…………」
返事が一拍遅れたのは、イレーネ自身にも予想外だった。
「こんにちは」
通達にあった通り、淡い水色の髪をしている。大きな青い瞳がまっすぐこちらを見ていて、身体を少し乗り出した背中には、小さな白い羽が確かに見えた。
間違いない。
この子だ。
「……こちらが?」
思わずセレフィナへ確認すると、馬車の中から落ち着いた声が返ってきた。
「ええ。話していた子たちです」
「話してたの?」
少女はすぐにセレフィナを振り返った。
「少しだけですよ」
「何を?」
「いろいろです」
「いろいろって?」
「それはまたあとで」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん!」
少女が声を上げて笑った。
イレーネは、その笑顔をしばらく見ていた。
もっと警戒していると思っていた。
自分たちの旅に国王が関わり、各地へ通達まで出されているのだから、見知らぬ土地へ来れば周囲の大人を警戒するようになっていても不思議ではない。
けれど目の前の少女は、初めて会ったイレーネにも迷わず挨拶をし、セレフィナの「たぶん」に笑っている。
通達の文字から想像していた少女と、ずいぶん違った。
いや。
違うというより、文字の中には書かれていなかったのだ。
こんなふうに笑う子だということが。
◇
少女の隣には、茶色の髪と猫の耳を持つ少年が座っていた。
年齢は少女より少し上だろう。
こちらは窓から身を乗り出すこともなく、静かにイレーネを見ていた。視線が合うと、ごく自然に軽く頭を下げる。
イレーネも同じように返した。
たったそれだけのやり取りだったが、よく似た年頃の子ども同士でも、ずいぶん雰囲気が違うものだと思う。
その足元には、白いロップイヤー。
少し奥には、淡い髪の少女が一人。
さらに馬車の近くには、腰へ剣を下げた若い男がいた。
旅人の装いではあるものの、立ち方や装備には見覚えがある。
「西方騎士団の方でしょうか?」
声を掛けると、男はすぐに姿勢を正した。
「はい。エリオ・フェルンです」
「イレーネ・アルフェルトです。辺境伯閣下の補佐をしております」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
通達には、この騎士について詳しいことは書かれていなかった。
けれど、この子どもたちと一緒にここまで来ている以上、何らかの任務を負っているのだろう。
今ここで詳しく尋ねる必要もない。
イレーネはそう判断し、それ以上は聞かなかった。
代わりに馬車へ視線を戻すと、先ほどの少女とまた目が合った。
どうやら、まだこちらを見ていたらしい。
「お姉さん」
「はい」
「騎士さん?」
「いいえ」
「違うの?」
「秘書官です」
「ひしょかん?」
少女の眉が少し寄った。
どうやら言葉だけでは、何をする人なのか分からなかったらしい。
「辺境伯閣下のお仕事を、お手伝いしています」
「いっぱい?」
「…………」
いきなり量を聞かれるとは思っていなかった。
イレーネは一瞬だけ考えてから答えた。
「いっぱいです」
「大変?」
「それなりに」
「すごいね!」
「……ありがとうございます」
何がそれほどすごかったのかは分からないが、少女はすっかり納得したようだった。
そして、興味はあっさり次へ移る。
「湖、もう見える?」
「もう少し先です」
「ほんと!?」
先ほどまでより、明らかに声が大きくなった。
「この先の丘を越えれば見えますよ」
「丘!」
青い目が一気に輝いた。
イレーネは、思わず瞬いた。
王都から届いた通達には、旅を妨げず、本人たちの意思を尊重し、むやみに事情へ踏み込まないよう求める慎重な言葉が並んでいた。
その中心にいた少女が、今いちばん気にしているのは。
どうやら、初めて見る湖らしい。
◇
一行が再び動き始めると、イレーネは騎士たちと共に馬車の前方へ回った。
街道をしばらく進んだ頃、後ろから少女の声が聞こえてきた。
「まだー?」
「まだですよ」
セレフィナの声が返る。
しばらくすると、また。
「もうちょっと?」
「もうちょっとです」
さらに少し進んだところで。
「まだ?」
イレーネは前を向いたまま、とうとう口元を緩めた。
なるほど。
大奥様がこの子たちを気に入っているらしいことは、何となく分かった。
◇
やがて街道は、湖を望む丘へ差しかかった。
この道はイレーネも何度となく通っている。
木々の間を進み、最後の坂を上りきったところで一気に視界が開き、その向こうへミレア湖が現れる。
見慣れていても美しい場所だった。
まして、初めて見る者なら。
どんな顔をするのだろう。
そんなことを考えた自分に気づき、イレーネは少しだけ驚いた。
馬を脇へ寄せ、後ろから来る馬車が丘の上へ出るのを待つ。
木々が途切れた。
馬車の窓から、青い湖が一気に見える。
そして。
「わあああああっ!」
予想していたより、ずっと大きな声が響いた。
イレーネが振り返ると、窓いっぱいに少女の顔があった。
「おっきい!」
どうやら座席から立ち上がったらしい。
すぐに少年の声が飛んでくる。
「アリア、座って!」
「ルカ! 見て! 見て!」
「見てるって!」
「全部お水!」
「うん!」
「ずーっと!」
「うん!」
前を走っていた騎士の一人が、とうとう馬上で吹き出した。
イレーネが横目を向ける。
視線に気づいた騎士は、何事もなかったように前へ向き直った。
だがイレーネ自身も、もう人のことは言えなかった。
少女は右の窓を見て、左を見て、また右へ戻っている。湖が大きすぎて、どこを見ればいいのか本気で分からないらしい。
「向こうないよ!」
「あるよ!」
「見えない!」
今度こそ、イレーネの口元にもはっきり笑みが浮かんだ。
通達に記されていた天使の少女。
国王が各騎士団へ配慮を求めた旅人。
その少女は今、初めて見る湖の大きさに、身体全部で驚いていた。
その姿を見ていると、王都から届いた堅い文面が、急にひどく遠いものに思えた。
◇
丘を越えて別邸へ近づいてからも、アリアはほとんど湖から目を離さなかった。
湖畔の高台に建つ別邸は、初めて訪れる者なら足を止めて見上げても不思議ではないほど大きな屋敷だ。
だがアリアは、大きな窓も白い壁も一度ちらりと見ただけで、すぐにまた湖へ顔を向けてしまう。
屋敷。
湖。
もう一度屋敷。
やはり湖。
「今、屋敷ほとんど見てないでしょ」
ルカの声が聞こえた。
「だって湖がある!」
「屋敷は逃げないよ」
「湖も逃げませんよ」
セレフィナまで加わる。
アリアは少し考えたようだったが、答えは早かった。
「じゃあ湖見る!」
迷いがない。
イレーネは馬から降り、手綱を従者へ預けながら、もう一度その姿を見た。
なるほど。
王都の通達に書かれていた人物は、確かに普通ではないのかもしれない。
小さな羽を持っている。
六歳でありながら遠い土地を旅している。
国王が動き、各地の騎士団へ通達まで出されるだけの事情もある。
けれど、それはこの少女の一部にすぎないのだろう。
「わあ……」
今も、湖を見ている。
何度見てもまだ足りないらしい。
目の前にいるのは、特別な使命を背負った何者かである前に、初めて見る大きな湖に夢中になっている小さな女の子だった。
「イレーネ」
呼ばれて振り返ると、セレフィナが馬車から降りていた。
「はい」
「どうしました?」
「何も」
そう答えたイレーネの後ろで、すぐに賑やかな声がする。
「マルル、お魚見える?」
「まだなの!」
「あとで湖行こう!」
「行くなの!」
アリアは今度は白い兎と一緒に、庭の向こうに見える湖を覗き込んでいる。
その姿を見たセレフィナが、どこか自慢するように微笑んだ。
「可愛いでしょう?」
イレーネは返事をする前に、もう一度アリアを見た。
さっきまで湖の大きさに叫んでいたかと思えば、今度はマルルと魚を探す相談をしている。
通達の中では分からなかったことが、ほんの短い時間でずいぶん増えた。
「…………ええ」
少し間を置いて答える。
すると、セレフィナの笑みがさらに深くなった。
その顔を見た途端、イレーネは少し嫌な予感がした。
「大奥様」
「何です?」
「そのお顔はおやめください」
「何のことでしょう?」
「何でもありません」
どうせ尋ねても認めない。
それくらいは、長く仕えているイレーネにも分かっている。
別邸の大きな扉が開き、使用人たちが一行を迎えるために頭を下げた。
その向こうではまだ、アリアとマルルが湖を見ながら何かを話している。
王都から届いた通達の中にいた少女は、もうイレーネの中にはいなかった。
代わりにいるのは、よく笑い、よく驚き、見たことのないものへまっすぐ目を輝かせる、アリアという一人の少女だった。




