第76話 空の下の湖
エルヴァレイン伯爵家を出てから、三日目。
二台の馬車はその間も毎朝南へ向かって出発し、町へ立ち寄ればセレフィナと一緒に通りを歩き、ときには白い鐘楼を見つけて教会へ寄った。昼になれば街道の途中で馬を休ませながら自分たちも食事を取り、日が傾く頃にはその日の宿へ入る。
そんな旅を繰り返しているうちに、馬車の中での過ごし方も少しずつ変わっていた。
ルカは以前より地図を開くことが増えた。
最初はセレフィナが広げた地図を横から覗いていただけだったのに、今では自分から現在地を探し、道が二つに分かれていれば、どちらへ進むのか考えるようになっている。
「この村がここなら、次の町は……こっち?」
「どうしてそう思うのです?」
「川がこの向きだから……って、また聞くんですね」
「ルカが自分から地図を見ていたのでしょう?」
「そうだけど」
口ではそんなことを言いながらも、ルカの指はすぐ地図へ戻っていく。
その隣では、アリアも紙と鉛筆を出すことが増えていた。
見たもの。
食べたもの。
通った場所。
まだ長い文章を書くことはできないけれど、知っている文字をつなげれば、自分が見たものの名前を少しずつ紙へ残せるようになっている。
はし。
かわ。
あんず。
みち。
うま。
書き終えた文字を一つずつ読み返し、ちゃんと読めることを確かめるたび、アリアは嬉しそうに笑った。
「今日、一人で全部書けた!」
「ええ。昨日よりずっと速くなりましたね」
「ほんと?」
「本当ですよ」
セレフィナに褒められれば、すぐに新しい紙へ手を伸ばす。
「じゃあもう一回書く!」
「やっぱり分かりやすいね」
ルカが笑うと、アリアはきょとんとする。
「上手になったんだから、もっと書いたらもっと上手になるでしょ?」
「うん。アリアはそれでいいと思う」
何がおかしいのか分からないまま、アリアはまた鉛筆を動かし始めた。
ノルンはそんな二人のそばで、この地方について書かれた本を読んでいることが多かった。
「ノルン、何読んでるの?」
「今日は、この地方に生えている植物についてです」
「面白い?」
「面白いですよ」
アリアも覗いてみたけれど、細かな文字がびっしりと並び、ときどき植物の絵が入っているだけだった。
「絵、少ないよ?」
「なくても読めます」
「すごいね」
「ありがとうございます」
アリアには、まだその楽しさはよく分からなかった。
そして、マルルは。
「湖、まだなの?」
「まだだよ」
「お魚もまだなの?」
「湖に着いてないんだから、まだでしょ」
「遠いなの……」
三日間、ほとんど同じことを聞き続けていた。
それでも翌朝になれば、また「今日は湖に着くなの?」と尋ねるので、どうやら諦めるつもりはないらしい。
◇
三日目の午後になると、窓の外を流れていく景色が、これまでとは少しずつ違うものへ変わり始めた。
広く続いていた畑は少なくなり、街道の両側には背の高い木々が増えている。道の近くには何度も小さな川が現れ、窓を開けていると、水を含んだ草や土の匂いが風と一緒に馬車の中へ入ってきた。
空を飛ぶ白い鳥の姿も多い。
「あの鳥、昨日もいた」
窓へ顔を寄せていたアリアが、木々の向こうを飛んでいく一羽を指さした。
「いましたね」
セレフィナも同じ方を見る。
「湖が近いから?」
「そうですよ」
何気なく返されたその言葉に、アリアは勢いよく振り返った。
「近い!?」
「ええ」
「どのくらい?」
身体ごとセレフィナへ向く。
「今日には着きますよ」
「今日!」
馬車の中へ声が響いた。
その瞬間まで座席の上で丸くなっていたマルルまで、ぱっと顔を上げる。
「今日なの!?」
「そうですよ」
「お魚!」
「湖だよ」
「湖にはお魚がいるなの!」
「着く前からそこなんだ」
ルカが笑う。
アリアはもう二人のやり取りを聞いていなかった。
窓へ戻り、木々の間を覗き込む。
「見える?」
「まだですよ」
「どっち?」
「進んでいる方です」
「前、見えないよ」
「馬車ですからね」
それなら、と右側を見る。
「こっち?」
「まだ見えません」
今度は反対側。
「こっちは?」
「そちらにもまだありません」
「まだ?」
「まだです」
「今日ずっとそれやるの?」
ルカが呆れたように言った。
「だって今日見えるんだよ!」
アリアにとっては、それだけで一日中窓を見ていられるくらい大きなことだった。
これまでに聞いたミレア湖の話が、次々と頭へ浮かんでくる。
向こう岸が遠く霞んで見えるほど大きな湖。
風のない朝には空がそのまま水面へ映り、空が二つあるように見える場所。
満月の夜には、不思議なものが現れることもあるという湖。
そして何より、次の鍵の欠片があるかもしれない場所。
まだ一度も見たことのないその湖が、今日、この道の先にある。
そう思うと、窓の外を流れていく木々まで、いつもよりゆっくりに見えた。
◇
しばらくすると、馬車の速度が少しずつ落ちた。
「どうしたの?」
湖ばかり探していたアリアが、今度は道の先へ目を凝らす。
街道脇に、馬へ乗った人たちが並んでいた。
一人、二人ではない。
揃いの騎士服と胸当てを身につけた騎士たちが道の両側へ馬を寄せ、こちらの馬車が近づいてくるのを待っている。
「騎士さん?」
「グランヴェル家の者たちですよ」
セレフィナが答えた。
「お迎え?」
「そうですね」
その先頭には、騎士たちとは少し違う服を着た女性がいた。
濃紺の動きやすそうな上着に白いシャツを合わせ、腰には小さな革鞄を下げている。きちんと後ろへまとめられた髪も、馬上でまっすぐ前を向く姿も、てきぱきとした印象を与える女性だった。
馬車が止まると、女性はすぐに馬から降り、窓の近くまで歩いてきた。
「大奥様。お迎えに上がりました」
「ご苦労さま」
セレフィナはいつもと変わらない顔で答えたが、女性はほんの少しだけ困ったように続けた。
「予定より遅かったので、辺境伯閣下が気にしておられました」
「一日や二日のことで大げさですね」
「三日です」
「…………」
ほんのわずかな沈黙が落ちた。
ルカがセレフィナを見る。
アリアも見る。
「三日?」
「少し寄り道をしましたから」
「いっぱいしたよ!」
「しましたね」
悪びれる様子のない二人を見て、外の女性が小さく息を吐いた。
「やはり」
「何です?」
「閣下が『母上の予定は予定ではない』と」
「ヴォルターが?」
「はい」
「失礼ですね」
「私からは何も申し上げておりません」
そう言った女性の口元にも、ほんの少し笑みが浮かんでいた。
アリアは窓からひょこっと顔を出した。
「こんにちは!」
女性が顔を上げる。
「こんにちは」
最初にアリアの顔を見て、それから背中の小さな白い羽へ一瞬だけ目を留めた。
次にルカ。
マルル。
ノルン。
最後に少し離れたところにいるエリオまで確かめる。
「……こちらが?」
「ええ。話していた子たちです」
「話してたの?」
今度はアリアがセレフィナを振り返った。
「少しだけですよ」
「何を?」
「いろいろです」
「いろいろって?」
「それはまたあとで」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん!」
思わず笑ったアリアにつられて、外の女性も少しだけ表情を緩めた。
「別邸までは、もうそれほどかかりません」
その一言で、アリアの意識はすぐに湖へ戻った。
「湖も?」
「ええ。もう少し先の丘を越えれば見えますよ」
「丘!」
アリアの目が一気に大きくなる。
「どの丘?」
「これから上る丘です」
今にも自分で走っていきそうな勢いで窓の外を見た。
「早く行こう!」
「アリアが御者ではありませんから、急がせられませんよ」
「そっか!」
納得はした。
けれど早く行きたい気持ちは、まったく小さくならなかった。
グランヴェル家の騎士たちが馬車の前後へ分かれると、一行は再びゆっくりと動き始めた。
◇
道はほどなく、緩やかな上り坂へ変わった。
街道の両側には木々が続いているせいで、その向こうに何があるのかはまだ見えない。
けれど。
この坂の向こうだ。
そう聞いてしまったアリアには、さっきまでと同じ景色には見えなかった。
馬車が一つ進むたびに、少しずつ湖へ近づいている。
車輪が一度回れば、その分だけ近くなる。
「まだ?」
「まだですよ」
「もうちょっと?」
「もうちょっとです」
少し進む。
アリアはまた窓から坂の先を覗いた。
「まだ?」
「アリア」
ルカが笑いをこらえながら声を掛ける。
「聞いても坂は短くならないよ」
「でも早く見たいもん」
「僕だって見たいけど」
その返事に、アリアがすぐ振り返る。
「ルカも?」
「そりゃね」
気づけばルカも反対側の窓へ顔を向けていた。
ノルンも、さっきまで読んでいた本をもう閉じて膝の上へ置いている。
マルルは座席の上で身体を伸ばし、長い耳までどこか前のめりになっていた。
「マルルも見たいなの」
「お魚?」
「湖なの!」
「ほんと?」
「お魚もなの」
「やっぱり」
いつものやり取りに笑いながらも、アリアの目はすぐ坂の先へ戻った。
上っていくにつれて、木々の隙間から差し込む光が少しずつ強くなっている。
さっきまでは枝の間に細く見えていた空も、坂の上へ近づくほど大きく広がっていった。
「あ……」
アリアの声が、自然と小さくなる。
明るい。
この先だけ、空が大きい。
「もうすぐですよ」
セレフィナの声が聞こえた。
けれどアリアは返事をしなかった。
できなかった。
窓へ両手をついたまま、坂の先から目を離せない。
馬の蹄が一定の音を立て、馬車がゆっくりと最後の坂を上っていく。
木々が少しずつ低くなり、その隙間から見えていた青空が、どんどん大きくなる。
あと少し。
もう少し。
そして馬車が丘のいちばん高いところへ出た、その瞬間。
それまで両側を塞いでいた木々が途切れた。
目の前の景色が、一気に開いた。
「…………」
アリアは息をするのも忘れた。
そこに、青があった。
けれど、空ではない。
丘の下から始まった青い水面が、その先へ、そのまた先へと広がり、どこまで目を凝らしても終わりが見えない。
午後の光を受けた湖面には細かな銀色の光が無数に揺れ、風が通り抜けるたび、その輝きが遠くへ向かって一斉に走っていく。
右を見ても。
左を見ても。
ずっと水が続いている。
遠い向こう岸は白く霞み、空と湖の境目さえ、どこなのか分からないほどだった。
「……わ」
ようやく、小さな声が出た。
頭の中で何度も想像していた。
大きな湖。
空が二つに見える場所。
セレフィナから聞くたびに、自分なりに形を作っていた。
けれど。
全然違った。
想像していたものより、ずっと、ずっと大きい。
「わあ……!」
声が少し大きくなる。
それでも足りなかった。
「わあああああっ!」
とうとうアリアは座席から立ち上がった。
「おっきい!」
「アリア、座って!」
「ルカ! 見て! 見て!」
「見てるって!」
「全部お水!」
「うん!」
「ずーっと!」
「うん!」
「向こうないよ!」
「あるよ!」
「でも見えない!」
「それくらい大きいんだよ!」
「すごい!」
何を言っても足りない。
アリアは右の窓を見る。
次に左。
もう一度右へ戻る。
どこを見ても湖がある。
「どこまであるの!?」
「見えている水面は、全部ミレア湖ですよ」
セレフィナの答えに、アリアは目を見開いたまま振り返った。
「ぜんぶ?」
「ええ」
「これ、ぜんぶ?」
「そうですよ」
「わあああ……」
今度は声が小さくなった。
大きすぎて、どこを見ればいいのか分からなくなってきた。
湖のずっと向こうに、小さなものが浮かんでいる。
「あっ、お船!」
「ありますね」
「あんなにちっちゃい!」
「舟が小さいのではありませんよ。遠くにいるのです」
「遠いって……」
アリアは舟を見る。
霞んだ向こう岸を見る。
また舟へ目を戻す。
遠いという言葉は知っていた。
長い街道を歩けば、遠い場所にも行けることも知っている。
でも今、目の前にある「遠い」は、今まで知っていたものとは少し違った。
「すっごく遠いんだね」
「そうですね」
座席の下では、マルルが必死に跳ね始めていた。
「マルルも見るなの!」
「あ、待って!」
アリアはようやく窓から離れ、マルルを抱き上げた。
「ほら!」
窓の向こうへ向けてやる。
「…………」
マルルが黙った。
いつもなら湖より先に魚の話をするマルルが、しばらく何も言わない。
「どう?」
「…………いっぱいなの」
「でしょ!」
「お魚も……いっぱいなの?」
「たぶん!」
その瞬間、マルルの目がきらりと輝いた。
「ここに住むなの」
「旅終わっちゃうよ!」
「じゃあ帰りに住むなの」
「それ、帰りも帰らなくなるでしょ」
ルカが笑う。
けれど、そのルカもまだ湖から目を離していなかった。
「……これ、本当に湖?」
小さな声で呟く。
「湖ですよ」
セレフィナが答えた。
「海みたいだ」
それを聞いたアリアが、すぐに振り返った。
「海、見たことないでしょ?」
「アリアもないじゃん」
「でも海みたい!」
「じゃあ同じだね」
「うん!」
二人で笑ってから、また一緒に湖を見る。
ノルンも、閉じた本を膝の上へ置いたまま、静かに水面を眺めていた。
「セレフィナ様がおっしゃっていた通りですね」
「なにが?」
アリアが聞くと、ノルンは窓の向こうを指した。
「空が二つあるように見える、というお話です」
「あ……」
さっきまで湖の大きさばかり見ていたアリアが、今度は少し視線を上げた。
頭の上には、高く広がる青い空。
そして、その下には同じ空をいっぱいに映した湖がある。
白い雲まで水面の中へ浮かび、遠くへ行くほど本物の空と水に映った空が重なって、どこからがどちらなのか分からなくなっていた。
「ほんとだ……」
アリアの声が、また小さくなる。
「空が、下にもある」
丘を越えてきた風が水面を渡り、銀色の光を一斉に揺らした。
「きれい……」
今度は誰も笑わなかった。
馬車が丘を下り始めても、アリアたちはしばらく窓から離れることができなかった。
◇
丘を下っていくにつれ、遠くに広がっていた湖が、少しずつ身近な景色へ変わっていった。
木々の間から見える水面はどんどん大きくなり、やがて街道のすぐ向こうに、湖へ続く細い道や小さな舟着き場まで見えるようになる。
網を干している家がある。
舟のそばで何かを運ぶ人がいる。
大きな籠を抱えて歩いている人もいた。
マルルは急に忙しくなった。
「あっち!」
「なに?」
「お魚なの!」
アリアが窓を見る。
「どこ?」
「籠なの!」
「籠じゃん」
「入ってるなの!」
今度は反対側へ顔を向ける。
「あっちもなの!」
「今度は何?」
「お魚のにおいなの!」
「もう分かったよ」
ルカが笑う。
マルルにとっては、ようやく待ち続けた場所へ着いたらしい。
やがて木々の向こうに、大きな白い建物が見え始めた。
湖畔の少し高い場所に建ち、広い庭の向こうには大きな窓がいくつも湖へ向かって並んでいる。
「あれ?」
アリアが指をさした。
「あのお家?」
「ええ」
セレフィナが懐かしそうに窓の外へ目を向ける。
「着きましたよ。グランヴェル家の別邸です」
「ここ?」
「そうです」
馬車は大きな門をくぐった。
先を進んでいた騎士たちが左右へ分かれ、その向こうでは使用人たちがこちらを迎えるために並んでいる。
けれどアリアは。
屋敷を見る。
湖を見る。
もう一度、屋敷を見る。
やっぱり湖を見る。
「アリア」
「なあに?」
「今、屋敷ほとんど見てないでしょ」
「だって!」
アリアは窓いっぱいに広がる湖を指さした。
「湖がある!」
「屋敷は逃げないよ」
「湖も逃げませんよ」
セレフィナまで笑う。
アリアは少しだけ考えた。
それなら。
「じゃあ湖見る!」
「そうなるんだ」
馬車がゆっくりと速度を落としていく。
長かった街道の旅は、ここでひとまず終わった。
けれどアリアの目の前では、これまで見たどんな景色よりも広い青が、まだどこまでも続いている。
午後の空をいっぱいに映したミレア湖が、アリアの目の前で、どこまでも静かに輝いていた。




