第8話 帰る場所
朝の庭に出ると、アリアはいつものように空を見上げた。
雲は高く、木々の葉もそれほど大きく揺れていない。頬へ当たる風も穏やかで、飛ぶにはちょうどよさそうだったけれど、すぐに羽を広げることはせず、庭の端に置かれた籠や薪、それから少し離れたところでマルルが草を眺めていることまで順番に確かめていく。
「今日は、こっちから風が来てる」
アリアが指差すと、隣に立っていたルカも同じ方角へ顔を向けた。
「うん。昨日より弱いね。でも、木の上まで行ったら少し変わるかもしれないから、急に高く上がらないこと」
「分かってるよ」
「昨日もそう言った」
「昨日は、ちょっとだけだもん」
「その『ちょっとだけ』で枝にぶつかりそうになったでしょ」
言われたアリアは口を尖らせたものの、それ以上は反論しなかった。自分でも、昨日は少し調子に乗ったと思っているらしい。
背中の小さな白い羽へ淡い光が集まり始めると、その光は左右へゆっくり伸び、やがてアリアの身体よりもずっと大きな透き通った羽へ姿を変えた。
「じゃあ、行くね」
「うん。最初はあの木まで」
ルカが示したのは、庭の向こうに立つ大きな木だった。
アリアは一度だけ深く息を吸ってから地面を蹴った。
身体がふわりと浮き、朝の風が足元を抜けていく。一年前なら浮かび上がっただけで嬉しくなり、そのまま勢いよく羽を動かしていたけれど、今では身体が傾けば自分で直し、高さが変わっても慌てずに羽の角度を整えられるようになっていた。
「ルカー!」
木の近くまで行ったところで、アリアが嬉しそうに振り返る。
「見てるよ! 前も見て!」
「あっ」
慌てて進行方向へ顔を戻す。
その様子にルカが笑い、少し離れた芝生ではマルルも長い耳を揺らしながらアリアを追っていた。
「ぴ!」
「マルルも見てる!」
嬉しくなったアリアはもう一度だけ大きく羽ばたいたものの、そこで昨日のことを思い出したらしい。もっと高く行きたい気持ちを抑え、教わった通りに大きく円を描いて庭へ戻ってきた。
地面が近づいたところで羽を少し開き、速度を落とす。
とん。
両足が芝生へついた。
「できた!」
「今日はちゃんと最後まで前を見てたね」
「一回だけルカ見たよ?」
「それは見てた」
「じゃあ、できた?」
「できた」
ようやく認めてもらえて、アリアは満足そうに笑った。
光の羽がゆっくり薄れていき、最後にはいつもの小さな白い羽だけが背中へ残る。少し前までなら一度飛ぶだけで肩まで息をしていたのに、今ではすぐにマルルのところまで駆けていけるくらいには体力もついていた。
アリアはマルルを抱き上げ、そのまま家の方へ振り返った。
窓の向こうから、ミルの姿が見える。
朝ご飯の支度をしているのだろう。
「お腹すいた!」
「飛ぶ前にも言ってたでしょ」
「飛んだから、もっとすいたの」
「便利だね、それ」
ルカに笑われながら、アリアはマルルを抱いたまま家へ駆け戻った。
◇
朝の食卓には、いつものように温かなスープと焼いたパンが並んでいた。
レオは工房で使う木についてミルと話しながら食事をし、ルカはその横で今日手伝うことを聞いている。アリアもパンを頬張りながら何度も話へ入ろうとしたけれど、口に物が入ったままでは話せないとミルに言われ、慌てて飲み込んではまた口を開いた。
マルルは自分用の小さな皿の前へ座り、朝からずいぶん機嫌がよさそうだった。
「今日は午後から森へ行ってもいい?」
アリアが尋ねると、ミルは食器を片づけながら窓の外を見た。
「お手伝いが終わってからならいいわよ」
「やった!」
「まだ何を手伝うか聞いてないよ」
ルカが笑う。
「何するの?」
「アリアはお皿を拭いてくれる?」
「うん!」
「マルルには、この布をお願いしようかしら」
「ぴ!」
小さな布を渡されたマルルは、得意そうに前足で押さえた。
食事が終わると、アリアは洗った皿を一枚ずつ受け取り、布で水気を拭いていった。最初の頃は皿を落とさないよう持っているだけで精いっぱいだったけれど、今では縁まで確かめてから棚のそばへ重ねられる。
レオとルカは工房へ向かい、ミルは洗濯物を庭へ運ぶ。マルルも与えられた布を前足で押さえたり引っ張ったりしながら、自分なりに働いているつもりらしい。
誰かが特別なことをしているわけではなかった。
朝になれば起きて、ご飯を食べ、それぞれの仕事をする。終われば一緒に昼を食べ、時間があれば森へ遊びに行く。
アリアにとって、それはもう「ここへ来た時にしてもらったこと」ではなく、自分も一緒に暮らしている毎日の中にあるものだった。
「終わった!」
最後の皿を置いたアリアが両手を上げる。
「じゃあ、森へ行ってらっしゃい」
「うん!」
「夕方までには戻ってくるのよ」
「はぁい!」
返事をしながら、アリアはもう玄関へ向かっていた。
「アリア、待って」
ルカが自分の荷物を持って追いかける。
「待ってるよ!」
「歩きながら言ってるでしょ」
「ぴ!」
マルルまで二人を追い、玄関の扉が賑やかに閉じた。
その時のアリアは、夕方になればまた同じ扉を開けて「ただいま」と言うのだと、疑いもしなかった。
◇
森では、いつものように時間が過ぎていった。
ルカが木へ登ればアリアが下から見上げ、アリアが飛べそうな場所を見つければルカが周囲を確かめる。マルルは二人の間を行ったり来たりしながら、ときどき気になる草や木の実を見つけては立ち止まった。
遊んでいるうちに陽が傾き始め、木々の間へ差し込む光が少しずつ赤くなる。
「そろそろ帰ろう」
ルカに言われ、アリアも空を見上げた。
「もう?」
「お母さんに夕方までって言われたでしょ」
「あ」
思い出した途端、素直に立ち上がる。
「じゃあ帰る!」
行きよりも少し疲れた足で、それでも三人はいつもの道を戻っていった。
この角を曲がれば家が見える。
大きな木の向こうにはレオの工房があり、もう少し近づけば煙突から煙が見えるはずだった。夕飯の支度が始まっていれば、風に乗ってミルの料理の匂いが届くこともある。
アリアはそれを楽しみにしながら、最後の茂みを抜けた。
「ただいまー!」
いつものように声を上げ、そのまま走り出そうとした足が止まった。
返事がなかったからではない。
返事をするはずの家そのものが、どこにもなかった。
「……え?」
アリアは目の前を見たまま動かなかった。
大きな木はある。
森から続く道も、庭の端にあった石も覚えている。朝、飛行練習をした芝生だって、少し伸びた草の形まで見覚えがあった。
それなのに、その先にあるはずの家だけがない。
「……おうち?」
小さく呟いてから、アリアは何度か瞬きをした。
場所を間違えたのだと思ったのかもしれない。けれど朝、自分が飛んだ木がすぐそこにあり、レオの工房があったはずの場所も分かる。そのどちらにも、建物は残っていなかった。
「ルカ」
呼ばれたルカも、答えなかった。
ルカはアリアより先に状況を理解しようとしていた。火事なら焼けた木が残る。壊れたなら板や家具が散らばるはずだし、誰かが家を動かしたのなら、こんな短い間に工房まで跡形もなく消えるはずがない。
けれど、何度見ても何もない。
「お父さん?」
アリアが家のあった場所へ歩き始めた。
「お母さん?」
返事を待ちながら、少しずつ足が速くなる。
「お母さーん!」
その声に押されるようにルカも走った。
家があった場所を抜け、工房の跡を確かめる。朝まで木材が積まれていたはずの場所にも、削りかけの木も、道具も残っていなかった。
アリアは何もない草の上を行ったり来たりしながら、しきりに地面を見ていた。
「ベッドは?」
突然そう言った。
「わたしのベッドもない」
レオが自分のために作ってくれた、花と羽の彫刻があるベッド。
「おようふくも……」
今朝まで自分の部屋にあったものが、一つずつ頭へ浮かんできたらしい。
けれど、それらがないことよりも。
「お父さんと、お母さんは?」
最後に出てきた言葉は、それだった。
ルカは答えられなかった。
「村へ行こう」
ようやく言えたのは、それだけだった。
「誰かいるかもしれない」
「うん」
アリアはすぐに頷いた。
そうだ。
村へ行けば誰かいる。
お父さんとお母さんも、何かあって村へ行っただけかもしれない。
そんな考えへしがみつくように、アリアはルカと一緒に走り出した。
◇
けれど、村へ続く道を抜けたところで、ルカの足も止まった。
あるはずの家々がなかった。
人の声も聞こえない。
いつもなら夕方になれば食事の支度をする煙がいくつも上がり、井戸のそばでは誰かが桶を運び、畑から戻ってきた人と道ですれ違う。
今日は、そのどれもなかった。
「……誰もいない」
アリアの声が、今度は震えた。
「探そう」
ルカはそう言って歩き出した。
自分にも何が起きているのか分からなかったが、立ち止まっているより、何か一つでも見つけたかった。
二人は井戸のあった場所へ行き、畑を通り、広場まで足を延ばした。誰かが残っていないか何度も名前を呼び、道の脇や森へ続く小径まで確かめたけれど、声を返してくれる人は一人もいなかった。
マルルも最初は二人のあとを懸命についてきていたが、やがていつものように辺りを走り回ることをやめ、アリアの足元へぴたりと寄り添うようになった。
「お母さーん!」
アリアがもう一度叫ぶ。
「お父さーん!」
遠くまで届くように何度も呼んだ。
それでも返ってくるのは自分の声だけだった。
やがてアリアは歩くのをやめ、何もなくなった広場の真ん中で立ち尽くした。
「ルカ」
「うん」
「みんなどこ行ったの?」
「……分からない」
「帰ってくる?」
ルカは口を開いたものの、すぐには言葉が出なかった。
帰ってくると言ってあげたかった。
朝までここにいたのだから、きっと戻ってくると。
けれど、自分にも何一つ分からないのに、そう言っていいのか迷った。
アリアはルカの顔を見上げている。
その目を見た瞬間、ルカは自分が泣きそうになっていることに気づいた。
お父さんも、お母さんもいない。
家もない。
村の大人も、助けを求められる相手も、一人も残っていない。
怖かった。
どうすればいいのか、誰かに教えてほしかった。
それでも今、自分の隣にはアリアがいて、足元にはマルルがいる。
ルカは一度顔を伏せ、握っていた手をゆっくり開いた。
「……大丈夫」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
本当は、全然大丈夫ではない。
けれどアリアがその言葉を聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。
「もう一回探そう」
「うん」
「それでもいなかったら、町へ行こう。町なら人がいるし、何か知ってる人がいるかもしれない」
「お父さんとお母さんのことも?」
「うん。聞いてみよう」
アリアはしばらくルカを見つめてから、小さく頷いた。
それから三人は、陽がさらに傾くまで探した。
けれど、最後まで誰も見つからなかった。
◇
家があった場所へ戻ってくる頃には、アリアの足取りもずいぶん重くなっていた。
ルカは何もない地面をしばらく見つめたあと、近くから大きめの石をいくつか集め始めた。
「何するの?」
「もし、お父さんたちが戻ってきたら、僕たちがどこへ行ったか分からないから」
「戻ってくる?」
「戻ってきた時のために」
そう答えながら、石を一つずつ積んでいく。
アリアもその意味が分かると、すぐに石を探し始めた。マルルまで小さな石を前足で押し、三人で作った目印は、やがて膝ほどの高さになった。
ルカはそのそばへしゃがみ込み、少し平らな地面を選ぶと、拾った枝で大きな矢印を描いた。
矢印の先は、町へ続く道。
その下へ、覚えた文字をゆっくり書く。
『まちへいく』
アリアはしゃがみ込み、その文字をじっと見た。
「これ、お父さん読める?」
「読めるよ」
「お母さんも?」
「うん」
「じゃあ、分かるね」
その一言を聞いて、ルカは最後の文字をもう一度深くなぞった。
戻ってきてほしい。
これを見つけて、自分たちを追いかけてきてほしい。
そんなことまで書くことはできなかったけれど、矢印と文字を残しておけば、少なくとも自分たちがどこへ行ったのかは伝えられる。
「行こう」
ルカが立ち上がった。
アリアも立ったものの、すぐには歩き出さなかった。
何もない場所を、見つめている。
朝、自分の部屋から出てきた。
お母さんの作った朝ご飯を食べて、お父さんの声を聞いて、森へ行く時には「夕方までに帰る」と言った。
ちゃんと帰ってきた。
それなのに、帰ってきた場所がなくなっていた。
「アリア」
ルカに呼ばれ、アリアはようやく前を向いた。
「……うん」
今度は三人で、町へ続く道を歩き始めた。
◇
森を抜ける頃には、空は夕暮れの色へ変わっていた。
朝から何度も歩いた足は重く、昼から何も食べていなかったことも思い出したけれど、三人とも立ち止まろうとはしなかった。
ようやく町の屋根が見えてきた時、アリアは少しだけ歩く速さを上げた。
「人いる」
「うん」
ルカも、それを見ただけで少し息を吐いた。
町はいつもと変わらなかった。
店じまいを始める人がいて、買い物袋を持って家へ帰る人がいる。パンを焼く匂いが流れ、道の向こうからは誰かの笑い声まで聞こえてきた。
その当たり前の光景を見た瞬間、ルカは少しだけ戸惑った。
自分たちの家も村もなくなったのに、ここではいつもと同じ一日が続いている。
誰かに聞かなければならない。
そう思うのに、知らない大人のところへ行き、「村がなくなった」と話すことが急に難しく感じられた。
何と言えば信じてもらえるのだろう。
家が消えた。
村もなくなった。
お父さんとお母さんを探している。
頭の中では何度も言えるのに、道を行き交う人を見るたび足が止まった。
「ルカ」
アリアが袖を引いた。
「誰に聞く?」
「……ちょっと待って」
ルカが周囲を見回していた時だった。
「どうしたんだい?」
近くから声を掛けられた。
二人が振り返ると、丸いパンをいくつか抱えた年配の女性が立っていた。買い物の帰りらしく、最初はただ不思議そうにこちらを見ていたものの、アリアの汚れた靴や疲れた顔、それに足元へ寄り添うマルルまで見ると、表情が少し心配そうに変わった。
「こんな時間に、子どもだけでどうしたの?」
ルカは一度アリアを見た。
ここまで来たのだから、話さなければ何も始まらない。
「あの……」
声を出すまでに少し時間がかかった。
「僕たち、森の向こうの村から来たんです」
「森の向こう?」
「はい。でも、帰ったら……村がなくなってて」
自分で口にしても、やはり変な話に聞こえた。
女性もすぐには返事をしなかった。
けれど笑ったり、そんなはずはないと言ったりもしなかった。
「お父さんとお母さんもいないの」
アリアが隣から言った。
「探したけど、誰もいなかったの」
その声を聞いた女性は、しばらく二人を見つめたあと、抱えていたパンの中から一つを取り出した。
「まず、これをお食べ」
「いいの?」
「お腹が空いてるでしょう」
差し出された丸いパンを、アリアはすぐには受け取らなかった。
ルカを見る。
ルカが小さく頷くと、ようやく両手を伸ばした。
「ありがとう」
「三人で分けるんだよ」
「うん」
アリアはパンを大切そうに抱えた。
女性は少し考えてから、町の奥へ顔を向けた。
「それなら、教会へ行きなさい」
「教会?」
「この道をまっすぐ行けば、大きな鐘楼が見えるよ。あそこなら、今夜泊まるところも相談できるし、お父さんたちを探すことだって、どうすればいいか一緒に考えてくれるはずだから」
ルカは、教えられた方角を見た。
家へ帰る方法ではなかった。
お父さんとお母さんがどこにいるのか分かったわけでもない。
それでも、ずっと自分一人で考えなければならないと思っていたところへ、「一緒に考えてくれる人がいる」と初めて教えてもらえた。
「ありがとうございます」
ルカが頭を下げると、アリアも慌てて同じように頭を下げた。
「ありがとう!」
「気をつけてお行き」
女性に見送られながら、三人はもう一度歩き始めた。
手の中のパンはまだ温かかった。
◇
教えられた道を進んでいくと、やがて家々の向こうに高い鐘楼が見えてきた。
アリアは何度か見上げながら歩き、近づくにつれて建物が思っていたよりずっと大きいことに気づいたらしい。
「ここ?」
「たぶん」
白い壁の建物の前まで来ると、ルカも足を止めた。
町の女性は、困った人を助けてくれる場所だと言った。
けれど、ルカは教会へ入ったことがない。
どうやって頼めばいいのかも、誰へ話せばいいのかも分からなかった。
それでも隣を見ると、アリアが自分を見上げていた。
その腕には、三人で少しずつ食べて小さくなったパンがあり、足元にはマルルがぴたりと寄り添っている。
ここまで自分が連れてきた。
けれど、本当はもう、自分一人で何とかしなくてもいいのかもしれない。
この扉の向こうには、大人がいる。
助けてほしいと言ってもいい相手が、いるのかもしれない。
ルカは小さく息を吸った。
「……行こう」
「うん」
アリアが頷く。
「ぴ」
マルルも小さく鳴いた。
二人と一匹は並んで階段を上がり、大きな木の扉の前へ立った。
ルカは一度だけアリアを見てから、両手を扉へ掛けた。




