第8話 帰る場所
朝。
森の木々の向こうから、やわらかな光が差し込んでいた。
夜の名残をまとった葉の先で、朝露が小さく輝いている。
鳥たちはもう目を覚まし、枝から枝へ飛び移りながら、森の朝をにぎやかに告げていた。
「ルカ!」
「もう、いい?」
家の前の草地で、アリアが振り返る。
淡い水色の髪は、左右の低い位置で結ばれていた。
青いリボンが、朝の風にふわふわと揺れている。
六歳になったアリアは、一年前より少し背が伸びた。
けれど、飛ぶ前になると落ち着かなくなるところは、まだ変わらない。
「まだ」
少し離れたところで、ルカが答えた。
「羽を出す前に、ちゃんと周りを見て」
「木の枝」
「風の向き」
「飛んでくる鳥がいないか」
アリアは右を見る。
左を見る。
それから、空を見上げた。
「いない!」
「風は?」
アリアは目を閉じ、頬へ当たる風を感じようとする。
前髪が、ほんの少し後ろへ流れた。
「こっちから」
小さな手で、森の方を指す。
「うん」
ルカはようやくうなずいた。
「じゃあ、いくよ」
「うん!」
アリアは両腕を広げた。
背中にある小さな白い羽が、淡く光り始める。
はじめは、蛍ほどの小さな光だった。
それが少しずつ集まり、背中から左右へ伸びていく。
ふわり。
大きな光の羽が朝の空気を押し広げた。
透き通るような羽の一枚一枚に朝日が差し込み、淡い金色の光が草の上へこぼれる。
「いくよ!」
アリアが地面を蹴った。
ふわっ。
体が浮き上がる。
その瞬間、ルカも猫の姿へ変わった。
茶色と白の長い毛。
アリアを背中へ乗せても走れるほどの、大きなラグドール。
ルカは草を蹴り、アリアの下を駆け出した。
「今日は、あの木まで!」
「まけないよ!」
アリアは羽を大きく動かした。
朝の森へ、三人の影が伸びていく。
ルカが地面を走る。
アリアがその横を飛ぶ。
マルルは二人の後ろを、小さな体で懸命に追いかけていた。
一年前、森で出会った時より、少しだけ大きくなった白いふわふわ。
長い耳を左右へ揺らしながら、草の上を走る。
「ぴ!」
朝から置いていかれてはたまらないとでも言うように、元気な声を上げた。
「マルルも、がんばって!」
アリアが空から笑う。
その瞬間だった。
「アリア、前!」
ルカの声が飛ぶ。
「え?」
細い木の枝が、目の前へ迫っていた。
「わっ!」
アリアは慌てて体を傾けた。
羽の片方が光を散らし、枝のすぐ横を通り抜ける。
髪の先が、葉へ少し触れた。
「……できた!」
枝を避けたアリアは、そのまま空中でくるりと回った。
勢いがつきすぎて、少し斜めになる。
「あれ?」
「前を見て!」
「はーい!」
ルカは大きな猫の姿のまま、呆れたように耳を動かした。
けれど、その口元は少し笑っていた。
最初のころは、まっすぐ飛ぶだけで精いっぱいだった。
風に流されて木へぶつかりそうになり、着地すれば草の上を転がった。
それが今では、枝を避け、曲がり、少しなら空中で姿勢を直すこともできる。
危なっかしいことに変わりはない。
それでも。
アリアは、ちゃんと少しずつ前へ進んでいた。
「今日は昨日より高く飛べた!」
家へ戻りながら、アリアは何度も同じことを言った。
「うん」
人の姿へ戻ったルカは、短く答える。
「枝にもぶつからなかった!」
「ぎりぎりだったけどね」
「ぶつからなかったもん」
「ぼくが言わなかったら、ぶつかってた」
「でも、よけたもん」
「はいはい」
ルカが笑う。
その後ろを歩くマルルも、二人の会話に合わせるように耳を揺らした。
「ぴ」
朝の光の中を、三人はいつもの家へ帰っていった。
◇ ◇ ◇
「おかえり」
扉を開けると、焼きたてのパンの香りがアリアの鼻をくすぐった。
台所ではミルが鍋をかき混ぜている。
窓から差し込む朝日が、茶色い髪と猫耳をやさしく照らしていた。
「ただいま!」
アリアは靴を脱ぎながら答える。
「今日はね、高く飛べたの!」
「そう」
ミルは振り返り、嬉しそうに目を細めた。
「昨日よりも?」
「うん!」
「枝もよけた!」
「危なかったけどね」
後ろから入ってきたルカが付け加える。
「ちゃんと、よけたもん」
アリアは少し頬を膨らませる。
工房から出てきたレオが、その様子を見て笑った。
「見てたぞ」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「お父さん、見てたの?」
「ああ」
「着地も、昨日よりましになってた」
「まし?」
「上手くなったってことだ」
レオは大きな手で、アリアの頭を軽くなでた。
青いリボンが、ぴょこんと揺れる。
「えへへ」
アリアは嬉しそうに笑った。
マルルはミルの足元へ近づくと、朝食の匂いを確かめるように鼻を動かした。
「ぴ……」
「マルルもお腹が空いたのね」
ミルが笑う。
「すぐに食べましょう」
いつもの朝だった。
いつもの声。
いつもの匂い。
いつもの食卓。
アリアはその時、それが明日も続くものだと信じていた。
ルカも。
マルルも。
誰も、その朝が最後になるとは思っていなかった。
◇ ◇ ◇
朝食が終わると、それぞれのお手伝いが始まった。
アリアは、ミルが洗った皿を布でふく。
小さな手で皿を持ち、落とさないように慎重に水滴をぬぐっていく。
「ここも」
ミルが皿の端を指す。
「あ」
アリアは残っていた水滴を見つけた。
「まだ、ぬれてた」
「よく見つけたわね」
アリアはもう一度丁寧にふく。
隣では、マルルが小さな布をくわえていた。
何か手伝いたいらしい。
けれど、どこをふけばいいのか分からず、アリアの後ろをついて歩くだけになっている。
「マルル」
アリアがしゃがむ。
「ここ、お願い」
低い棚の扉を指さすと、マルルは嬉しそうに耳を揺らした。
「ぴ!」
布をくわえたまま、扉へ体を寄せる。
ごし。
ごし。
白い毛まで扉へ押しつけながら、一生懸命に動く。
「ふけてる?」
ルカが薪を抱えて通りかかる。
「ふけてるよ」
アリアは真剣に答えた。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
ルカが吹き出す。
マルルは不満そうに振り返った。
「ぴ」
「ごめん、ごめん」
ルカは笑いながら外へ薪を運んでいった。
レオは工房で木を削っている。
コン。
しゃっ。
コン。
しゃっ。
木づちと、かんなの音。
台所では、皿を重ねる音。
窓の外からは、鳥の声。
家の中には、家族が暮らす音が満ちていた。
アリアは皿をふきながら、その音を聞いていた。
何も特別ではない。
だからこそ、大好きな音だった。
◇ ◇ ◇
昼ご飯を食べ終えると、ルカは窓の外を見た。
空は青く、雲も少ない。
「遊びに行こう」
「行く!」
アリアは椅子から飛び降りる。
その勢いで椅子が少し揺れた。
「走らないの」
ミルに言われ、アリアはその場でぴたりと止まる。
「はーい」
口では返事をしながら、足だけがそわそわしている。
マルルも玄関の近くで、すでに待っていた。
長い耳が床へ届きそうになっている。
「マルル、はやい」
「朝から行く気だったんじゃない?」
ルカが笑う。
「ぴ!」
そうだと言うように、マルルが元気よく鳴いた。
「夕方までには帰ってくるのよ」
ミルが三人を見渡す。
「暗くなる前に」
「はーい!」
アリアは片手を上げる。
ルカも靴を履きながら答えた。
「分かってる」
工房ではレオが木を削っていた。
「遠くまで行くなよ」
「うん」
「アリア」
レオが顔を上げる。
「ルカの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「聞いてるもん」
「いつも聞いてるとは言えんがな」
「聞いてるよ」
ルカが小さな声で言った。
「たまに」
「ルカ!」
アリアが振り返る。
レオとミルが笑った。
その笑い声につられて、アリアも笑う。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
ミルが手を振る。
レオも工房から片手を上げた。
「気をつけてな」
三人は家を飛び出した。
アリアは一度だけ振り返った。
扉の前で、ミルがまだ手を振っている。
その奥に、レオの姿も見えた。
アリアはもう一度、大きく手を振った。
「いってきまーす!」
それが、二人へ向けた最後の言葉になった。
◇ ◇ ◇
森へ入ると、アリアはすぐに走り出した。
木の根を飛び越え、花を見つけては立ち止まり、小さな虫がいればしゃがみ込む。
進んでいるのか、戻っているのか分からない。
「アリア」
少し先を歩いていたルカが振り返る。
「置いてくよ」
「まって!」
アリアは慌てて追いかける。
マルルもその後ろを走った。
「ぴ、ぴ!」
森の奥には、小さな小川が流れていた。
三人がよく遊びに来る場所だった。
水は透き通り、底の丸い石まで見える。
アリアは靴を脱ぎ、そっと足を入れた。
「つめたい!」
足を引っ込める。
けれど、すぐにもう一度入れる。
「つめたいけど、きもちいい!」
ルカは川辺の石へ腰を下ろしていた。
「転ばないでよ」
「転ばないよ」
そう答えた直後、アリアの足が石の上ですべる。
「わっ」
ルカが腕を伸ばし、後ろから服をつかんだ。
「ほら」
「……転ばなかった」
「ぼくがつかんだからね」
「でも、転んでない」
アリアは胸を張る。
「それでいいの?」
ルカは呆れたように笑った。
マルルは水辺へ顔を近づけ、自分の姿をのぞき込んでいる。
白いふわふわ。
垂れた耳。
黒い瞳。
水の中のマルルも、同じようにこちらを見ている。
「ぴ?」
首を傾ける。
水の中の自分も首を傾けた。
「マルル、それ自分だよ」
アリアが隣へしゃがむ。
「ぴ」
「わかってる?」
「ぴ」
「わかってない顔だね」
ルカが言う。
三人の笑い声が、小川の音へ重なった。
花を摘んだ。
木の実を拾った。
倒れた木の上を歩いた。
アリアは途中で羽を広げ、低い枝から低い枝へ飛び移った。
ルカは猫の姿になり、森の中を駆けた。
マルルは二人の後を追い、時々草へ埋もれた。
それは何度も繰り返してきた、いつもの遊びだった。
何も変わらないと思っていた。
帰れば、ミルが夕飯を作っている。
レオが工房で待っている。
扉を開ければ、いつもの匂いがする。
アリアはそう信じていた。
◇ ◇ ◇
森の中へ、夕方の光が差し込み始めた。
木々の影が長く伸びる。
「そろそろ帰ろう」
ルカが空を見上げた。
「もう?」
「暗くなる前にって、お母さんが言ってたでしょ」
「あとちょっと」
「帰るよ」
「……はーい」
アリアは名残惜しそうに、小川を振り返った。
マルルは拾った小さな木の実を口へくわえている。
「それ、持って帰るの?」
「ぴ」
「お母さんに見せる?」
「ぴ!」
アリアは笑った。
「きっと、かわいいって言うよ」
三人は森の道を戻り始めた。
帰り道では、アリアが今日あったことを何度も話した。
どの花が一番きれいだったか。
小川の石がどれほどつるつるしていたか。
マルルが水に映った自分へ話しかけていたこと。
「お母さんに言おう」
アリアは楽しそうに笑う。
「マルルがね、自分に『ぴ』って言ってたの」
「マルル、怒るよ」
ルカが言う。
「ぴ」
やはり不満そうな声がした。
「でも、かわいかったよ」
アリアはマルルを抱き上げ、頬を寄せる。
いつもの帰り道。
いつもの会話。
森を抜ければ、家が見える。
煙突から上がる煙。
窓から漏れる明かり。
扉の近くに積まれた薪。
いつもなら、そこにあるはずだった。
「ただいまー!」
森を抜けるより先に、アリアが声を上げた。
返事は聞こえない。
まだ少し遠いからだろう。
アリアは気にせず走った。
「ただいまー!」
もう一度。
けれど。
森の外へ出たアリアの足が、止まった。
「……あれ?」
少し遅れて追いついたルカも、その場で立ち尽くした。
目の前には、夕日に照らされた草地が広がっていた。
風が通り抜ける。
草の先が、一斉に同じ方向へ傾いた。
それだけだった。
家がない。
扉も。
窓も。
煙突も。
工房も。
何もなかった。
アリアは何度か瞬きをした。
「……おうち?」
場所を間違えたのだろうか。
そんなはずはない。
森から出たところに、大きな木がある。
その木の横に、家がある。
毎日、何度も通った道だった。
大きな木はある。
けれど、その横にあるはずの家だけがない。
「ルカ」
アリアは振り返った。
「まちがえた?」
ルカは答えられなかった。
目の前の光景が、頭の中で形にならない。
家がない。
ただ、それだけのことを理解するのに、時間がかかった。
(なんで。)
(朝は、あった。)
(お父さんも、お母さんもいた。)
(いってらっしゃいって。)
ルカは草地へ一歩踏み出した。
家のあった場所へ近づく。
何か残っているはずだと思った。
木の切れ端でも。
石でも。
レオの道具でも。
ミルが育てていた花でも。
けれど、そこには何もなかった。
壊れたのではない。
燃えたのでもない。
最初から何もなかったように、草だけが揺れている。
「お父さん?」
アリアが呼んだ。
「お母さん?」
返事はない。
「ただいま」
少し声を小さくして、もう一度言った。
「帰ってきたよ」
それでも。
誰も答えなかった。
アリアの顔から、少しずつ笑顔が消えていく。
「……どこ?」
小さな声だった。
「お父さんと、お母さん」
ルカの胸が強く締めつけられた。
分からない。
何も分からない。
自分だって聞きたかった。
どこへ行ったのか。
なぜ家がないのか。
朝まで確かにここにあったものが、どうして全部消えているのか。
「探そう」
ようやく、それだけ言った。
声が震えないように、喉へ力を入れる。
「近くにいるかもしれない」
アリアはすぐにうなずいた。
「うん」
そう言ってもらえたことで、まだ探せば見つかると思ったらしい。
アリアは森の反対側へ走り出した。
「お母さーん!」
「お父さーん!」
ルカも追いかける。
マルルは何が起きているのか分からないまま、二人の後を走った。
「ぴ!」
◇ ◇ ◇
家から村までは、少し離れていた。
森の中の道を抜け、小さな丘を越えた先に、何軒もの家が並んでいる。
きっと村へ行けば誰かいる。
家だけに何か起きたのかもしれない。
誰かが、レオとミルの行方を知っているかもしれない。
ルカはそう考えようとした。
考えなければ、足を動かせなかった。
「早く」
アリアが前を走る。
「村に行ったのかも」
「そうかもしれない」
ルカは答える。
本当は、そう思えているわけではなかった。
家の消え方が、あまりにもおかしかった。
壊された跡すらない。
何も残っていない。
嫌な予感が、胸の奥で少しずつ膨らんでいた。
それでも。
アリアの前では、口にできなかった。
丘を越える。
いつもなら、村の屋根が見える。
畑。
井戸。
細い煙。
夕飯を知らせる匂い。
けれど。
何もなかった。
アリアの足が止まる。
「……村は?」
草地が広がっていた。
家も。
畑も。
井戸も。
広場も。
人の姿も。
何一つない。
森と丘の間に、空白だけが残っていた。
「うそ」
ルカの口から、声がこぼれた。
自分でも気づかないほど小さな声だった。
ここまで来れば、誰かいると思っていた。
誰かに聞けばいいと思っていた。
大人がいれば。
助けてと言えば。
どうしたらいいのか教えてもらえると思っていた。
けれど。
誰もいない。
ルカは八歳だった。
森の道は知っている。
猫の姿になれば、アリアを背中へ乗せて走ることもできる。
薪も運べる。
火の起こし方も、少しなら知っている。
それでも。
家も。
両親も。
村も。
全部が消えた時にどうすればいいのかなんて、知らなかった。
知っているはずがなかった。
「ルカ」
アリアが呼ぶ。
ルカは答えられず、消えた村を見つめた。
「ルカ」
もう一度。
今度の声は、さっきよりも小さかった。
振り返る。
アリアは泣きそうな顔をしていた。
目には不安がいっぱいにたまり、それでも涙を落とすまいとして、必死にルカを見上げている。
「お父さんたち」
「いないの?」
ルカの中で、張りつめていたものが切れそうになった。
いない。
分からない。
怖い。
自分だって泣きたかった。
「お父さん」
そう呼びたかった。
「お母さん」
助けてほしかった。
どうしたらいいのか聞きたかった。
でも、目の前にはアリアがいる。
自分より二つ年下の、小さな妹。
森で出会った日から、ずっと一緒に暮らしてきた。
怖い時は、自分の服をつかむ。
嬉しい時は、真っ先に自分へ話しに来る。
そして今も。
アリアはルカの答えを待っていた。
ルカは拳を握った。
爪が手のひらへ食い込む。
ゆっくりと息を吸う。
(ぼくがお兄ちゃんだ。)
そう思った。
けれど、その言葉だけでは足りなかった。
お兄ちゃんだから、怖くないわけではない。
お兄ちゃんだから、答えを知っているわけでもない。
何も分からない。
本当は、アリアと同じくらい怖かった。
それでも。
アリアを一人にしてはいけない。
それだけは分かった。
「……大丈夫」
口にした言葉は、弱々しかった。
自分でも、嘘だと思った。
大丈夫なことなんて、何もない。
けれどアリアは、その一言を聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
ルカはそれを見た。
だから、もう一度言った。
「大丈夫」
今度は、さっきより少しだけはっきりと。
「ぼくがいる」
アリアの目が揺れる。
「マルルもいる」
「ぴ」
マルルがアリアの足元へ寄り添った。
長い耳が、心配そうに垂れている。
「みんなで探そう」
ルカは言った。
「お父さんも、お母さんも」
「村のみんなも」
「絶対に」
絶対という言葉に、確かな根拠はなかった。
けれど、今はそれを言うしかなかった。
アリアは唇をぎゅっと結び、うなずいた。
「……うん」
三人は、村のあった場所を探した。
何度も。
何度も。
草をかき分けた。
森の近くも見た。
名前を呼んだ。
けれど、見つかったものは何もなかった。
空は少しずつ赤くなっていく。
夕方が終われば、夜になる。
家はない。
明かりもない。
食べ物も持っていない。
このまま森にいることはできなかった。
ルカは遠くを見た。
丘の向こう。
森をさらに抜けた先に、町がある。
レオと一緒に一度だけ行ったことがあった。
遠い。
けれど、歩いて行けない距離ではない。
町なら人がいる。
大人もいる。
何か知っている人がいるかもしれない。
少なくとも、今夜のことを相談できる。
ルカはすぐには口を開けなかった。
町へ行く。
それを決めるということは、この場所から離れるということだった。
もしかしたら、レオとミルが戻ってくるかもしれない。
その時、自分たちがいなければ。
そんな思いが足を止めた。
「……待ってた方がいいかな」
アリアが消えた家の方角を見ながら言った。
同じことを考えていたのだろう。
「お母さんたち、帰ってくるかも」
ルカは答えられなかった。
待ちたい。
朝まででも。
明日まででも。
ここにいたい。
けれど、夜の森は危険だった。
アリアもマルルもいる。
ルカ一人なら、猫になって木の下で夜を越すこともできたかもしれない。
でも二人を危険へ巻き込むわけにはいかない。
「町へ行こう」
声にすると、胸が痛んだ。
アリアが振り返る。
「町?」
「うん」
「町なら、誰かいる」
「お父さんたちのことも、何か分かるかもしれない」
「でも」
アリアは草地を見る。
「帰ってきたら?」
ルカは唇をかんだ。
戻ってくるかもしれない。
戻ってきてほしい。
今すぐ森の向こうから名前を呼んでほしい。
けれど。
「ここに、しるしを残そう」
ルカは周りを見回し、地面から少し大きな石を拾った。
家があった場所の近くへ、石を三つ重ねる。
その横へ、落ちていた枝を立てた。
アリアも小さな石を拾った。
「これも」
ルカが積んだ石の上へ、そっと置く。
マルルは口にくわえていた木の実を、その横へ置いた。
「ぴ」
アリアが木の実を見る。
「マルルも、しるし?」
「ぴ」
ルカは小さくうなずいた。
「これなら、ぼくたちがここに来たって分かる」
「町へ行ったことは?」
アリアが聞く。
ルカは少し考え、地面へ細い枝で町の方向を示す矢印を描いた。
その下へ、覚えたばかりの文字で短く書く。
まちへいく。
きれいな文字ではなかった。
それでも、レオやミルなら読んでくれる。
「これで大丈夫」
ルカは言った。
アリアはしばらく文字を見つめた。
それから、小さくうなずいた。
「……うん」
三人は、消えた家と村へ背を向けた。
アリアは何度も振り返った。
ルカも振り返りたかった。
けれど、前を歩いた。
自分が止まれば、アリアも止まる。
自分が迷えば、アリアはもっと怖くなる。
だから、前へ進むしかなかった。
◇ ◇ ◇
歩き慣れた森の道が、今日はまるで別の場所に見えた。
鳥の声。
葉の擦れる音。
遠くの小川の音。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、自分たちだけだった。
アリアはルカのすぐ後ろを歩いていた。
いつもなら、花を見つけるたびに立ち止まる。
面白い形の枝があれば拾う。
けれど今日は、何も見ていなかった。
森の中を歩きながら、何度も後ろへ目を向ける。
もしかしたら。
次に振り返った時には、お父さんが追いかけてくるかもしれない。
大きな声で名前を呼びながら。
お母さんも一緒かもしれない。
少し怒って。
でも、最後には抱きしめてくれる。
そんなことを考えていた。
けれど。
何度振り返っても、森の道には誰もいなかった。
「……ルカ」
「なに?」
「お母さん、怒ってるかな」
ルカは足を止めそうになった。
「どうして?」
「町に行くって、言わなかったから」
アリアは心配そうだった。
家が消えたことよりも、勝手に町へ行くことで叱られると思っている。
まだ、心のどこかで。
帰ればミルがいると信じている。
ルカは胸の奥に痛みを感じた。
「怒らないよ」
「ほんと?」
「うん」
ルカは振り返り、少しだけ笑った。
「しるしも残したから」
「お母さんたち、見つけてくれる?」
「きっと」
アリアはうなずいた。
そのあと、ルカの服の裾をそっとつかんだ。
小さな手だった。
ルカは何も言わず、歩く速さを少しだけ落とした。
マルルはアリアの反対側を歩いている。
時々、足へ体を寄せる。
三人は、離れないように森の道を進んだ。
◇ ◇ ◇
森を抜けるころには、空は赤く染まっていた。
丘の向こうに、いくつもの屋根が見える。
煙突から煙が上がっている。
町の鐘が、夕方を知らせるように鳴った。
ゴーン。
ゴーン。
「あ……」
アリアが顔を上げる。
「町」
その声に、ほんの少しだけ安堵が混じった。
「着いた」
ルカも小さく息を吐く。
町は消えていなかった。
それだけで、胸の奥に詰まっていたものが少し緩んだ。
石畳の道。
並んだ家。
店先の明かり。
人々の声。
パン屋から漂う焼きたての匂い。
八百屋には色とりどりの野菜が並び、子どもたちが笑いながら道を走っている。
何も変わっていない。
町の人々にとっては、いつもと同じ夕方だった。
その普通の景色が、アリアには不思議に見えた。
自分たちの家はなくなった。
お父さんも、お母さんもいない。
村も消えた。
なのに、ここではみんなが笑っている。
パンを買い。
夕飯の話をし。
家へ帰っていく。
アリアは人混みの中を見回した。
「お父さん」
どこかにいるかもしれない。
「お母さん」
先に町へ来ているのかもしれない。
アリアは行き交う人の顔を、一人ずつ確かめるように見つめた。
けれど。
知っている顔はなかった。
ルカも同じように町を見渡していた。
猫耳を持つ人は何人もいる。
茶色い髪の男もいる。
けれど、レオではない。
似た色の髪をした女性もいる。
けれど、ミルではない。
アリアは次第に足を止めた。
「いない」
ルカは返事をしなかった。
町まで来れば、何か変わると思っていた。
誰かに会える。
何か分かる。
そんな期待があった。
けれど、町はあまりにもいつもどおりで、自分たちだけが取り残されたようだった。
これから、どこへ行けばいい。
誰に聞けばいい。
今夜はどこで眠る。
食べ物は。
明日は。
考え始めると、次々に分からないことが増えていく。
ルカは立ち止まりそうになる足を、どうにか動かした。
自分が困った顔をしてはいけない。
けれど、どうすればいいのか、本当に分からなかった。
その時だった。
「どうしたんだい?」
やさしい声がした。
三人が振り向く。
紙袋にパンを抱えた年配の女性が、少し離れたところからこちらを見ていた。
白い髪を後ろでまとめ、茶色い外套を羽織っている。
「ずいぶん不安そうな顔をして」
女性は三人へ近づいた。
「迷子かい?」
ルカは一歩だけアリアの前へ出た。
知らない人だった。
警戒しなければならない。
レオにも、知らない人へ簡単についていくなと言われている。
けれど今は、誰かに聞かなければ何も始まらない。
「あの」
声がうまく出なかった。
ルカは一度唾を飲み込み、頭を下げる。
「ぼくたち」
「森の向こうに住んでるんですけど」
女性は黙って続きを待った。
「遊びに行って」
「帰ったら……」
言葉が止まる。
家がなくなった。
口にすれば、それが本当のことになってしまうような気がした。
それでも、言わなければ助けてもらえない。
「家が、なくなってたんです」
女性が目を見開く。
「家が?」
「はい」
「村も」
「何もなくて」
「お父さんと、お母さんもいなくて」
最後の言葉は、かすかに震えた。
ルカは俯きそうになった顔を、必死に上げていた。
アリアはルカの後ろで、服の裾を握っている。
マルルも不安そうに二人を見上げていた。
女性は、すぐには何も言わなかった。
三人の顔を順番に見る。
冗談ではないと分かったのだろう。
抱えていたパンを片腕へ移し、少し腰をかがめた。
「そうかい」
声が、先ほどよりもやわらかくなる。
「それは、怖かったね」
その一言を聞いた瞬間。
ルカの胸の奥が、大きく揺れた。
怖かった。
ずっと。
家を見つけられなかった時から。
村まで消えていた時から。
けれど、自分でそれを言ってはいけないと思っていた。
お兄ちゃんだから。
アリアを安心させなければならないから。
それなのに、知らない女性が、当たり前のように言った。
怖かったね、と。
ルカは泣きそうになり、強く唇を結んだ。
「今夜、泊まる場所はあるのかい?」
女性が尋ねる。
ルカは首を横に振った。
「ありません」
「お金は?」
「……ないです」
財布も。
着替えも。
食べ物も。
全部、家の中だった。
女性は少し考えるように町の中心へ目を向けた。
「それなら、教会へ行ってごらん」
「教会?」
アリアがルカの後ろから顔を出す。
「ええ」
女性は通りの向こうを指さした。
「この道をまっすぐ行った先に、大きな鐘楼が見える」
「困っている人を助けてくれる場所だよ」
「神父さまも、シスターたちも、とても親切な方たちだから」
「きっと話を聞いてくださる」
ルカは女性が指さした方向を見る。
建物の間から、高い塔の先が少しだけ見えた。
あそこへ行けばいい。
ようやく、次に進む場所が見つかった。
「ありがとうございます」
ルカは深く頭を下げた。
アリアも慌てて隣へ並ぶ。
「ありがとうございます」
少し言いにくそうにしながら、丁寧に頭を下げる。
マルルも二人をまねて、ぺこりと頭を下げた。
「ぴ」
女性は思わず目を細めた。
「気をつけてお行き」
それから紙袋の中から、小さな丸いパンを三つ取り出した。
「これを持っていきなさい」
「でも」
ルカは戸惑った。
「いいんだよ」
「教会へ着くまでにお腹が空くだろう」
「……ありがとうございます」
受け取ったパンは、まだほんのり温かかった。
ルカはその温かさを、両手で包むように持った。
◇ ◇ ◇
夕日に照らされた石畳を、三人はゆっくりと歩いた。
町の明かりが、一つずつ灯り始めている。
家々の窓から、夕飯の匂いと家族の声が漏れてくる。
そのたびに、アリアは足を止めそうになった。
笑い声がする。
食器が触れ合う音がする。
「ただいま」と言う子どもの声。
「おかえり」と答える大人の声。
少し前まで、自分にもあったものだった。
アリアは胸の前でパンを抱えた。
温かい。
けれど、その温かさに触れるほど、ミルの作ったパンを思い出した。
「お母さんのパン」
小さくつぶやく。
ルカは隣を歩きながら、その声を聞いた。
「……うん」
「明日の朝、帰れるかな」
ルカは答えられなかった。
帰れると言ってあげたかった。
朝になれば、全部元に戻っていると。
家も。
村も。
レオも。
ミルも。
けれど、自分でも信じられなかった。
「教会で聞こう」
代わりにそう言った。
「何か分かるかもしれない」
アリアは、しばらくルカの顔を見ていた。
それから小さくうなずく。
「うん」
少し先で、町の建物が途切れた。
開けた場所の向こうに、白い建物が見える。
夕日を受けた白い壁が、淡い橙色へ染まっていた。
高い鐘楼。
細長い窓。
その上には、空へ伸びる十字架。
夕焼けを背にして、静かに立っている。
アリアは思わず足を止めた。
「……きれい」
家も村もなくなってから、初めて出た素直な言葉だった。
ルカも隣で教会を見上げる。
「ここが……教会」
町の女性が教えてくれた場所。
今夜、自分たちを受け入れてくれるかもしれない場所。
そして。
この扉を開けば、何かが変わる。
そんな気がした。
三人は教会の前まで歩いた。
大きな木の扉。
アリアの背丈よりも、ずっと高い。
近くで見ると、何年も風雨にさらされてきた木の模様が見えた。
ルカは扉の前で立ち止まる。
すぐに手を伸ばすことができなかった。
知らない場所。
知らない大人たち。
ここで本当に助けてもらえるのかは分からない。
家が消えたなんて話を、信じてもらえるだろうか。
追い返されたら。
笑われたら。
今夜はどうすればいい。
不安が次々に浮かぶ。
ルカは自分の手を見た。
まだ小さい。
レオの手のように、大きくも強くもない。
自分には、何ができるのだろう。
「ルカ」
アリアが呼ぶ。
振り返る。
アリアはマルルを抱き、こちらを見ていた。
青い瞳に、不安が浮かんでいる。
けれど。
その奥には、ルカを信じる気持ちもあった。
ルカが決めてくれる。
ルカと一緒なら大丈夫。
そう思っている顔だった。
胸の奥で、怖さとは別のものが生まれた。
逃げたくない。
アリアを守らなければならないからではない。
アリアと一緒にいたい。
マルルと三人で、もう一度家族のところへ帰りたい。
そのために。
今は、この扉を開かなければならない。
ルカは大きく息を吸った。
震えそうになる手を、ゆっくりと前へ伸ばす。
「……行こう」
アリアがうなずく。
「うん」
「ぴ」
ルカの手が、木の扉へ触れた。
冷たい。
けれど、手を離さなかった。
ゆっくりと力を込める。
ギィ……。
重い音を立てて。
教会の扉が、静かに開き始めた。




