第7話 新しい家族
◇ ◇ ◇
そのころ。
地上からはるか遠く離れた空の上では、真っ白な雲が穏やかな風に運ばれながら、どこまでも澄み渡る青の中をゆっくりと流れていた。
その雲よりさらに高い天界の一室で、女神さまは朝から机へ向かい、何枚もの書類へせっせと筆を走らせている。
窓の外には、地上ではなかなか見ることのできないほど澄んだ空が広がっていたけれど、今の女神さまにはそれを眺める余裕もないらしく、一枚を書き終えては次の一枚へ手を伸ばしていた。
そんな静かな部屋の中で、机の隅に置かれていた何かが、ぴかりと小さく光った。
「……あら?」
筆を止めた女神さまが、不思議そうに首を傾げる。
そこにあったのは、手のひらへすっぽり収まるほどの小さな宝石だった。
透き通った水色の石は、窓から差し込む光を受けるたび、内側から淡い輝きを返している。
女神さまはそれを手に取り、しばらく眺めた。
見覚えはある。
もちろんある。
けれど、何のためにここへ置いていたのだったか。
そこまで考えたところで、女神さまの目がぱちりと大きくなった。
「あ」
手の中の宝石を見たあと、今度は窓の外へ顔を向ける。
もう一度宝石へ目を戻したところで、その表情がぴたりと止まった。
しばらく固まったまま動かなかった女神さまは、やがて両手で自分の頬を押さえた。
「忘れてた」
あまりにも小さな声だった。
手の中では、水色の宝石が何も知らないように、きらりと光っている。
マルルに最後に組み込むはずだった、翻訳の魔法。
地上の言葉を理解することはできても、マルル自身の言葉を誰かへ伝えるためには、この魔法が必要だった。
それなのに、肝心の宝石は今もここにある。
「……もう、行っちゃったわよね」
困ったように呟きながら窓の向こうへ目を向けても、もちろん返事などない。
マルルはとっくに天界を離れ、地上へ落ちたアリアを探しに向かっているはずだった。
女神さまはもう一度宝石を見つめ、眉尻を下げた。
「えへ」
とりあえず笑ってみる。
何も解決しなかった。
「……ごめんなさい」
今度はしょんぼりと肩を落とした。
マルルへ頼んだのは、地上へ落ちてしまったアリアを見つけ、そのそばにいてもらうことだった。
いつか必要な時が来れば、女神さまのもとへつながるための大切な役目もある。
その最初の一歩から言葉が通じないとなれば、かなり困るはずなのだけれど、今さら追いかけて宝石を渡すわけにもいかない。
女神さまは水色の宝石を両手で包みながら、遠い地上へ思いを向けた。
「マルル」
届くはずのない名前を、そっと呼ぶ。
「がんばってね」
そこまで言ったところで、少し考えた。
「……なんとか」
さらに考える。
やがて、自分へ言い聞かせるように小さく頷いた。
「うん。きっと、なんとかなるわ」
そうして水色の宝石を机の引き出しへしまい、そっと閉じる。
女神さまはその場所をしばらく見つめていたけれど、自分の言った「なんとか」が、すでに地上で思いもよらない形になり始めていることには、まだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
「ただいまー!」
元気いっぱいの声と一緒に、森の小さな家の玄関が勢いよく開いた。
アリアは両腕で白いふわふわを大切そうに抱えたまま、ぱたぱたと居間へ駆け込んでくる。
「おかえり」
台所で夕食の支度をしていたミルが、いつものように振り返った。
けれどアリアの顔へ向けた笑顔は、その腕の中にいるものを見つけたところで、少しだけ驚いたものへ変わった。
「あら」
そこには、まるくて小さな白い生き物がいた。
全身を柔らかな毛に包まれ、頭の左右から長い耳が力なく垂れている。アリアに抱かれているせいか逃げ出す様子はなかったけれど、まんまるな黒い瞳だけは、初めて見る家の中を落ち着かなさそうに見回していた。
「……ぴ」
小さな声が響く。
それを聞きつけたのか、工房の奥からレオも顔を出した。
「帰ったか」
そう言いながらアリアへ目を向け、その胸元で白いものが動いたのに気づく。
ほんの少しだけ間があった。
「……増えたな」
後ろから入ってきたルカが、思わず吹き出した。
「うん!」
アリアは満面の笑みで大きく頷いた。
「増えた! ひろった!」
「拾ったっていうか……森で会って、気がついたらアリアが抱っこしてた」
ルカが苦笑しながら説明すると、レオはアリアの腕の中へ目を向けた。
白い生き物も、恐る恐る顔を上げる。
「……ぴ」
小さく鳴いた途端、長い耳がさらにぺたりと垂れた。
ミルは驚かせないようにゆっくりしゃがみ込み、小さな生き物と目の高さを合わせた。
「こんにちは」
柔らかな声だった。
それだけで少し安心したのか、垂れていた耳の先が小さく動く。
「……ぴ」
「お母さん」
アリアがミルを見上げた。
「この子ね、おなかすいてたの」
落とさないように抱き直しながら、もう一度腕の中へ視線を落とす。
「ひとりだったから、おうちにつれてきたの」
最後のところだけ、声が少し静かになった。
ただ可愛いから連れてきたのではないらしい。
お腹を空かせていたから。
一人でいたから。
困っているように見えたから。
一年前、自分も知らない森の中で一人だったことを、アリアがどこまで重ねているのかは分からない。
けれどミルは何も尋ねず、ただ柔らかく笑って、アリアの水色の髪をそっと撫でた。
「そう。連れてきてあげたのね」
「うん」
アリアは少し照れくさそうに笑った。
「えへへ」
その時だった。
ぐぅぅ……。
アリアの腕の中から、身体の大きさには似合わないほど立派なお腹の音が鳴った。
部屋の中が一瞬だけ静かになり、アリアが慌てて白い生き物を覗き込む。
「まだ、おなかすいてる!」
「さっき木の実食べたのに」
ルカが笑う。
「ぴ……」
白い生き物は恥ずかしそうに顔を伏せ、長い耳までしゅんと垂らした。
ミルもとうとう笑った。
「ふふ。まずはご飯ね。話はそのあとにしましょう」
「ああ。腹が減っていては、落ち着いて話もできん」
レオも静かに頷く。
すると、なぜかアリアまでぱっと顔を輝かせた。
「やった! ごはん!」
「アリアが食べるんじゃないでしょ」
「わたしも食べるよ?」
「もうすぐ夕飯だからね」
「うん!」
そこだけは迷いがなかった。
ミルは小さな皿を取り出すと、パンを細かくちぎり、そこへスープをほんの少し染み込ませた。熱くないことを確かめてから床へ置き、白い生き物の前へそっと差し出す。
「どうぞ」
白い生き物はすぐには近づかず、皿とミルの顔を何度か見比べた。
やがて、そろそろと顔を寄せて匂いを確かめる。
くん、くん。
そして、ぱくり。
「……ぴ!」
まんまるな黒い瞳が一気に輝いた。
そこからはもう迷う様子もなく、夢中になって食べ始める。垂れていた長い耳の先まで、嬉しそうにぴこぴこと動いていた。
「よかったぁ」
アリアが、まるで自分がご飯を食べさせてもらったような顔で笑う。
その姿を見ているうちに、ミルの胸へ一年前の夕暮れがふっと蘇った。
ルカが森から連れてきた、小さな女の子。
初めて温かな食事を出した時、アリアはスープをひと口飲んで目を丸くし、「おいしい」と言いながら何度も匙を動かしていた。
あの時は、自分たちがアリアへ食事を差し出した。
今はそのアリアが、別の小さな誰かの隣へ座り、ちゃんと食べられているかを嬉しそうに見守っている。
ミルは何も言わず、そっと目を細めた。
◇ ◇ ◇
白い生き物は最後の一口まできれいに食べ終えると、満足したように小さく息を吐いた。
「……ぴ」
家へ入ってきた時より、少しだけ元気な声になっている。
「ぜんぶたべた!」
アリアがぱちぱちと拍手し、ルカも笑った。
「よっぽどお腹すいてたんだね」
白い生き物は少し恥ずかしそうに耳を揺らしたものの、ご飯を食べたことで緊張もずいぶん解けたらしい。いつの間にかアリアの膝の上へ移り、小さな身体を丸くして座っていた。
その姿を見ていたレオが、静かに口を開く。
「名前は」
「え?」
「その子の名前だ」
言われて、アリアは目を瞬いた。
「……あ」
そういえば、まだ聞いていなかった。
膝の上へ顔を近づける。
「おなまえ、なあに?」
白い生き物の顔がぱっと上がった。
ようやく聞いてくれた。
森の中では何度伝えようとしても通じなかったけれど、今なら皆が自分を見ている。まず名前を伝え、そのあとでアリアを探していたことも、女神さまから頼まれたことも話さなくてはならない。
白い生き物は胸いっぱいに息を吸った。
マルル。
自分の名前を、はっきりと言った。
そのはずだった。
「…………ぴ」
部屋に響いたのは、やはりそれだけだった。
マルルの顔が固まった。
「やっぱり『ぴ』しか言えないんだ」
ルカが困ったように笑う。
「……ぴ」
違う。
ちゃんと話している。
今だって、自分の名前を言った。
マルルだと、はっきり伝えたつもりだった。
それなのに、口から外へ出た途端、どうして全部「ぴ」になってしまうのだろう。
頭の中には言いたいことがたくさんあるのに、そのどれ一つとして届かない。
マルルはがっくりと頭を下げた。
その姿を、アリアがじっと見ていた。
「ぴ……」
自分でも真似してみる。
少し首を傾げて、もう一度。
「ぴぴ……」
今度は反対側へ首を傾げた。
何度か声を真似しながら、膝の上にいる白い生き物の顔を見つめているうちに、不意にアリアの表情が変わった。
名前を考えていたわけではない。
鳴き声から何かを思いついたわけでもなかった。
ただ、その黒い瞳を見ていると、胸の奥へ一つの音がふっと浮かんできた。
初めて聞くはずなのに、不思議と知らない気がしない。
むしろ、ずっと前から知っていたものを、今ようやく思い出したような感覚だった。
「あ」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「マルル!」
その瞬間、膝の上にいた白い生き物の身体がぴたりと止まった。
「……ぴ?」
まんまるな黒い瞳が、さらに大きくなる。
今、何と言ったのだろう。
「マルル」
アリアは嬉しそうに、もう一度呼んだ。
「あなた、マルル!」
「ぴっ!」
思わず大きな声が出た。
その反応にルカが笑う。
「返事した!」
「ほら!」
アリアの瞳もきらきらと輝いた。
「マルルだよ!」
マルルは呆然とアリアを見つめた。
違わない。
それは自分の本当の名前だった。
天界で、女神さまから何度も呼ばれていた名前。
けれど、アリアが知っているはずはない。
ついさっき自分で伝えようとした時でさえ、皆には「ぴ」としか聞こえていなかったのだから。
「マルル」
アリアは、何の不思議も感じていない顔でもう一度呼んだ。
どうして分かったのか尋ねたかった。
けれど、今のマルルにできるのは、やはり鳴くことだけだった。
「……ぴ」
それでも、今度は少しだけ嬉しかった。
少なくとも、自分の名前だけは届いた。
ちゃんと自分を呼んでもらえている。
「うん、マルル!」
アリアはそれで十分だったらしく、満足そうに笑った。
ルカもすっかり納得したように頷く。
「かわいい名前だね」
「ええ。よく似合ってるわ」
ミルも微笑み、レオも白い生き物を見ながら静かに頷いた。
「マルルか。いい名前だ」
どうしてアリアに本当の名前が分かったのかは、マルルにも分からなかった。
けれど皆が次々にその名前を呼ぶのを聞いていると、胸の中へ広がっていた戸惑いよりも、名前を知ってもらえた嬉しさの方が少しずつ大きくなっていった。
マルルは長い耳を小さく揺らし、もう一度だけ鳴いた。
「……ぴ」
その返事を聞いて、アリアはまた嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、レオは腕を組みながら、アリアの膝へ丸くなっているマルルを見た。
「マルル」
「……ぴ」
名前を呼ばれると、もう自然に顔が上がる。
「ここで暮らすか」
今度は、すぐに返事ができなかった。
マルルには、女神さまから頼まれた役目がある。
地上へ落ちたアリアを見つけ、この子のそばにいること。
必要な時が来れば、女神さまへつながるための手助けをすること。
まだアリアへ伝えなければならないことはあるし、今のままではその説明すらできない。
それでも、ここに暮らすことは、その役目から離れることではないような気がした。
何より、今いるアリアの膝の上はあたたかい。
ミルの柔らかな笑顔も、ルカの明るい声も、レオの落ち着いた話し方も、焼きたてのパンとスープの匂いが残るこの部屋も、今日初めて知ったものばかりなのに、不思議なくらい安心できた。
マルルはレオを見上げてから、ゆっくり頷くように頭を動かした。
「……ぴ」
その小さな返事を聞いた途端、アリアはマルルを両手でそっと抱き上げ、期待いっぱいの顔でレオを見た。
「お父さん」
「ん?」
「マルル、いっしょがいい」
レオはアリアと、その腕の中にいる小さな白い生き物をしばらく見つめた。
すると、一年前のことが自然に思い出された。
ルカが森から連れて帰ってきた、小さな天使。
知らない場所へ落ち、家へ来たばかりの頃は、笑っていてもどこか心細そうで、夜になれば会えない先生を思って泣いていた。
そんなアリアが一年経った今、自分よりもっと小さな誰かを大切そうに抱いている。
一年前、自分たちがアリアへ伸ばした手を、今度はそのアリアが、一人で困っていた誰かへ自然に伸ばしていた。
レオの口元がゆっくりと緩んだ。
「そうか」
短く答えてから、今度はマルルへ目を向ける。
「なら、今日からお前もこの家の子だ」
その一言で、アリアの顔がぱあっと輝いた。
「やったぁ!」
嬉しさのあまり勢いよく立ち上がると、そのままマルルを少し高く抱き上げた。
「マルル!」
そして、満面の笑みで言った。
「かぞくだよ!」
マルルは目をぱちぱちさせた。
家族。
今度は、ちゃんと言葉の意味を考える。
自分がこの人たちと家族になる。
これまでそんな言葉を、自分へ向けてもらったことはなかった。
けれど目の前の人たちは、何かとても大変なことを決めたような顔などしていない。レオはいつもの落ち着いた顔でそこにいて、ミルは柔らかく笑い、ルカも当然のように自分を見ている。
まるで、ご飯を一人分増やすことと同じくらい自然に、自分もこの家にいていいのだと言ってくれた。
そのことが分かった途端、マルルの胸の奥へ、ぽっと小さなぬくもりが灯った。
「……ぴ」
小さな声だったけれど、それまでより少しだけ柔らかく聞こえた。
ミルがマルルの頭へそっと手を伸ばす。
「ようこそ、マルル」
「これからよろしくね」
ルカも嬉しそうに笑った。
「よろしく!」
アリアは満面の笑みでマルルを胸へ抱き寄せた。
「……ぴ」
腕の中から、小さな返事が返ってくる。
アリアはそれだけで嬉しそうに笑い、マルルもそのぬくもりへ身を預けながら、長い耳を小さく揺らした。
どうしてアリアだけが、自分の本当の名前を知ることができたのか。
その理由は、マルルにも分からない。
そしてアリア自身も、名前を考えて当てたとは思っていなかった。ただ白い生き物を見ていたら、「マルル」という名前が自然に浮かんできただけだった。
その小さな不思議に、この時はまだ誰も気づいていない。
窓の外では夕方の風が木々の間を抜け、森の中の小さな家を優しく包んでいた。
この日、ラグドール家には、もう一人の小さな家族が増えた。




