第7話 新しい家族
◇ ◇ ◇
そのころ。
はるか空の上。
白い雲がゆっくりと流れる天界で、一人の女神さまが机へ向かっていた。
「……あら?」
机の隅で、小さな光がぴかりと光る。
女神さまは首をかしげながら、それを手に取った。
手のひらで転がるほどの大きさしかない、透き通った水色の宝石。
「あ」
ぱちり。
女神さまの目も丸くなる。
「……」
宝石を見る。
空を見る。
もう一度、宝石を見る。
「…………」
しばらく固まったあと。
女神さまは、両手でほっぺを押さえた。
「忘れてた」
女神さまの手の中で、小さな水色の宝石がきらりと光る。
マルルに最後に組み込むはずだった、翻訳魔法。
「……」
女神さまは遠い空を見つめた。
「もう、行っちゃったわよね」
小さく笑う。
「えへ」
笑ってごまかしてみた。
もちろん、何も変わらない。
「ごめんなさい……」
しょんぼりとうつむく。
それから、小さく両手を合わせた。
「マルル」
「がんばってね」
「……なんとか」
しばらく考えてから、
もう一度だけつぶやく。
「うん」
「きっと、なんとかなるわ」
女神さまは一人うなずくと、水色の宝石を机の引き出しへそっとしまった。
◇ ◇ ◇
「ただいまー!」
元気いっぱいの声が、森の小さな家へ響いた。
勢いよく玄関の扉が開く。
アリアは両腕で大事そうに白いふわふわを抱えたまま、ぱたぱたと居間へ駆け込んだ。
「おかえり」
台所で夕飯の支度をしていたミルが振り返る。
そのまま笑顔を向けようとして、
「あら」
思わず手を止めた。
アリアの腕の中に、小さな白い生き物がいたからだ。
まるくて。
ふわふわで。
長い耳が力なく垂れている。
黒い瞳だけが、不安そうに部屋の中を見回していた。
「……ぴ」
小さな声が響く。
その声を聞いて、工房の奥からレオも顔を出した。
「帰ったか」
そこまで言って、アリアの胸元を見る。
少しだけ間があいた。
「……増えたな」
その一言に、ルカが思わず吹き出す。
「うん」
「増えた」
アリアは満面の笑みで大きくうなずいた。
「ひろった!」
「拾ったっていうか……」
ルカは頭をかきながら苦笑する。
「森で会って」
「気が付いたら抱っこしてた」
「逃げなかったんだ」
レオは白い生き物を見る。
白い生き物も、恐る恐るレオを見上げる。
「……ぴ」
小さく鳴いて、耳をぺたりと寝かせた。
ミルはゆっくりしゃがみ込む。
驚かせないように。
そっと目線を合わせた。
「こんにちは」
やさしい声だった。
白い生き物は、少しだけ安心したように耳を動かす。
「……ぴ」
アリアはミルを見上げた。
「お母さん」
「この子ね」
「おなかすいてたの」
「ひとりだった」
少しだけ抱きしめる力が強くなる。
「だから」
「おうち、つれてきた」
ミルはアリアの顔を見る。
その瞳は、まっすぐだった。
ただ可愛いから連れてきたわけではない。
困っているから。
ひとりだったから。
その理由が、アリアらしかった。
「そう」
ミルは静かに微笑んだ。
「優しい子ね」
アリアは少し照れくさそうに笑う。
「えへへ」
その時だった。
ぐぅぅ……
白い生き物のお腹が、小さく鳴いた。
一瞬だけ部屋が静かになる。
アリアは慌てて白い生き物を見る。
「まだ、おなかすいてる!」
ルカも吹き出した。
「さっき木の実食べたのに」
「ぴ……」
恥ずかしそうに耳が垂れる。
ミルは思わず笑った。
「ふふ」
「まずは、ご飯ね」
「話は、そのあとにしましょう」
レオも小さくうなずく。
「ああ」
「腹が減っていては、落ち着いて話もできん」
アリアは嬉しそうに顔を輝かせた。
「やった!」
「ごはん!」
ミルは小さなお皿へ、細かくちぎったパンを入れる。
スープを少しだけ染み込ませる。
それを白い生き物の前へ、そっと置いた。
「どうぞ」
白い生き物は、お皿とミルの顔を何度も見比べる。
そして、おそるおそる近づいた。
くん。
くん。
匂いをかぐ。
ぱくっ。
「……ぴ!」
黒い瞳が、ぱあっと輝いた。
夢中になって食べ始める。
あまりのおいしさに、耳までぴこぴこと動いていた。
アリアはその様子を見て、嬉しそうに笑う。
「よかったぁ」
ミルは、その笑顔を見つめながら、小さく目を細めた。
あの日も。
自分たちは、こんなふうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
白い生き物は、小さなお皿をぺろりときれいにした。
最後の一口まで食べ終えると、満足そうに息をつく。
「……ぴ」
その声は、さっきより少しだけ元気だった。
アリアは思わず拍手する。
「ぜんぶたべた!」
ルカも笑う。
「よっぽどお腹すいてたんだね」
白い生き物は少し照れたように耳を揺らした。
ミルは空になったお皿を受け取りながら、小さく微笑む。
「よかった」
「これで少し安心ね」
部屋には、ほっとした空気が流れた。
しばらく誰も話さない。
白い生き物も、居心地が悪そうにする様子はなく、アリアの膝の上で小さく丸くなっている。
レオが静かに口を開いた。
「名前は」
アリアが顔を上げる。
「え?」
「その子の名前だ」
言われてみれば。
誰も聞いていなかった。
アリアは白い生き物を見つめる。
「おなまえ、なあに?」
白い生き物は、一生懸命答えようとした。
今度こそ。
ちゃんと伝えよう。
胸いっぱいに息を吸う。
「…………ぴ」
やっぱり、それしか出なかった。
ルカが苦笑する。
「やっぱり『ぴ』しか言えないんだ」
白い生き物はしょんぼりとうつむく。
(ちがうんだ。)
(ちゃんと話してるんだ。)
(話してるんだけど……。)
心の中だけが、空回りしていた。
アリアは少し考える。
「ぴ……」
「ぴぴ……」
何度か真似をしてみる。
そして。
「あ」
顔をぱっと輝かせた。
「マルル!」
部屋が静かになる。
アリアは嬉しそうにもう一度呼ぶ。
「マルル!」
「ぴ!」
白い生き物が思わず返事をした。
ルカが吹き出す。
「返事した!」
アリアは目をきらきらさせる。
「この子、マルル!」
白い生き物は、自分を指さす。
「……ぴ?」
もう一度。
「マルル」
「ぴ!」
また返事をしてしまった。
ミルは優しく笑う。
「気に入ったみたいね」
ルカもうなずく。
「うん」
「ぼくも、マルルってかわいいと思う」
レオも小さくうなずいた。
「いい名前だ」
マルルはきょとんとしていた。
(ぼく……。)
(マルル……?)
違うような。
でも。
なんだか悪くない気もする。
「……ぴ」
小さく鳴く。
その声を聞いたアリアは、とても嬉しそうだった。
◇ ◇ ◇
レオは腕を組み、マルルを静かに見つめた。
「マルル」
「……ぴ」
「ここで暮らすか」
マルルは顔を上げる。
本当は伝えたいことがある。
お仕事もある。
でも。
アリアの隣は、あたたかかった。
ミルの笑顔も。
ルカの笑い声も。
焼きたてのパンの匂いも。
全部が、どこか懐かしい気がした。
「……ぴ」
小さくうなずくように鳴く。
アリアは期待した顔でレオを見上げた。
「お父さん」
「マルル」
「いっしょがいい」
レオは少しだけ目を閉じた。
去年。
森で出会った、小さな天使。
あの日のことが、ふと頭をよぎる。
あの時も。
目の前の子は、不安そうな顔をしていた。
そして今。
今度は、その小さな天使が、誰かの手を取ろうとしている。
レオは静かに笑った。
「そうか」
短く、それだけ言う。
そして、マルルへ向かって、ゆっくりと言葉を続けた。
「今日から」
「お前も、この家の子だ」
その一言だけだった。
アリアの顔が、ぱあっと輝く。
「やったぁ!」
思わず立ち上がる。
その勢いでマルルを高く抱き上げた。
「マルル!」
「かぞくだよ!」
マルルはびっくりして目をぱちぱちさせる。
(家族……。)
(ぼくが?)
そんな言葉を、かけてもらったことはなかった。
マルルは胸の奥が、ぽっとあたたかくなるのを感じた。
目の前の人たちは、当たり前のように言った。
**「家族」**と。
マルルの黒い瞳が、少しだけ潤む。
「……ぴ」
小さく鳴いたその声は、
さっきまでより、少しだけやさしく聞こえた。
ミルは、その小さな頭をそっとなでる。
「ようこそ、マルル」
ルカも笑って手を振る。
「これからよろしくね」
アリアは満面の笑みでマルルをぎゅっと抱きしめた。
「よろしく!」
「……ぴ」
小さな返事が聞こえる。
アリアは思わず笑った。
「えへへ」
マルルも、小さく耳を揺らした。
窓の外では、夕方の風が森をやさしく揺らしていた。




