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森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


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第6話 1年後


 朝。


 森はまだ、淡い朝靄の中で眠っていた。


 東の空が少しずつ白み始め、木々の葉に残った朝露が、目を覚ましたばかりの光を小さく弾いている。最初は一羽だけだった鳥の声も、やがてあちらから、こちらからと重なり始め、静かだった森の奥へ少しずつ朝が広がっていった。


 ラグドール家の小さな家は、まだひっそりとしている。


 その二階で、かすかな音を立てて一つの扉が開いた。


 出てきたのはアリアだった。


 寝ぼけた顔のまま起きてきたわけではない。もうきちんと着替えを済ませ、水色の髪も自分なりに整えている。


 けれど部屋を出る前に、アリアは一度だけ振り返った。


 窓辺には昨夜たたんで置いた寝間着があり、ベッドの上では、さっきまで眠っていた布団が少しだけ歪んでいる。


「……ん」


 このままでも困る人はいない。


 それでもアリアはベッドへ戻ると、小さな手で布団の端をつかんだ。


 右へ引っ張り、今度は左へ。最後に枕の位置を少し直して、ぽん、と手のひらで叩く。


「……よし」


 まだ少し曲がっているようにも見えたけれど、本人は満足したらしい。


 こくんと頷いてから、枕元に彫られた花と羽へ、いつものように指先を滑らせた。


 一年前、レオが作ってくれた自分だけのベッドだった。


 毎晩ここで眠り、毎朝ここから起きるようになって、一年。


 木肌は今もすべすべで、指で触れると、あの日、出来上がったばかりのベッドへ初めて腰を下ろした時のことまで思い出せるような気がする。


「いってきます」


 誰もいない部屋へ小さく告げると、アリアは今度こそ廊下へ出た。


 階段を下りても、家の中はまだ静かだった。


 レオもミルも眠っているらしく、いつもなら先に起きていることの多いルカの姿もない。


 アリアは物音を立てないよう玄関まで歩き、そっと扉を押し開けた。


 ひんやりとした朝の空気が頬へ触れる。


 湿った土と若い葉の匂いに、夜の名残を含んだ少し冷たい風。


 家の中とは違う朝の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、残っていた眠気がすうっと消えていった。


「んー……」


 庭の真ん中まで出る。


 今日も、最初にすることは決まっていた。


 アリアは両腕を広げるようにして背中の小さな羽をゆっくり開き、少しだけ膝を曲げると、地面を蹴った。


 ふわっ。


 朝露の残る草から、小さな身体が静かに浮かび上がった。


 まずは庭を一周する。


 低い木の枝を目印にして、なるべく同じ高さを保ちながらゆっくり曲がる。右から風が来れば身体がどちらへ押されるのかを感じて、羽の角度を変える。枝や葉が近づけば、慌てて羽をばたつかせるのではなく、身体を少し傾けて避けた。


 一年前なら、地面からほんの少し離れただけでも嬉しくなり、その拍子に力が抜けて、ぽすんと尻もちをついていた。


 何度も落ちた。


 飛べたと思った次の瞬間には、くるくる回って先生を慌てさせたことだってある。


 けれど今は、庭を一周しても落ちない。


 木の枝と同じ高さまで上がることもできるし、少しくらいなら風の流れに身体を預けたまま進めるようにもなっていた。


「もういっかい」


 地面へ降りることなく、そのまま二周目へ入る。


 今度は、昨日より少しだけ高く。


 アリアは頭の上にある一本の枝を見た。


 昨日は、どうしてもあそこまで届かなかった。


 羽を少し大きく動かすと、風が下へ入り込み、身体を押し上げる。


 枝が近づいた。


「あと、ちょっと……」


 もう一度だけ、羽へ力を込める。


 ばさっ。


 視線の高さが上がり、さっきまで見上げていた枝の上へ、朝露に濡れた葉が見えた。


「できた!」


 思わず声が弾んだ。


 嬉しくて枝へ手を伸ばしかけたアリアは、そのまま顔を上げた。


 森の上には、どこまでも淡い青空が広がっている。


 そのずっと向こうには、朝日に染まり始めた白い雲が浮かんでいた。


 もっと高く飛べるようになったら。


 もっと遠くまで、自分の羽で飛べるようになったら。


 あの雲よりもっと高いところまで行けるようになったら。


 先生に、会えるだろうか。


 一年前に別れたままの先生が、今どこにいるのかは分からない。


 自分が地上で元気に暮らしていることを知っているのかも、アリアには分からなかった。


 それでも、昨日より少しだけ高く飛べた朝には、先生のいる場所へ自分から一歩近づけたような気がする。


 だから毎朝、こうして飛ぶ。


 誰にも話したことのない小さな願いを、胸の奥へ大切にしまったまま。


 しばらく空を見上げていたアリアは、やがて気持ちを切り替えるように、ぱん、と両手を合わせた。


「つぎ」


 今度は庭の端にある切り株へ降りた。


 飛ぶ練習の次は、魔法だった。


 両手を胸の前へ出し、指先へ意識を集める。


「ひかり」


 ふわりと、小さな光が生まれた。


 一年前なら、手のひらへ現れた瞬間に消えてしまった光が、今では朝露のように淡く揺れながら、アリアの周りをゆっくり回る。


「ひとつ」


 一周。


「ふたつ」


 もう一周。


「みっつ……」


 三周目へ入ったところで、輪郭が少し揺れた。


 アリアの眉が寄る。


「まだ」


 すぐに力を足したくなるのを我慢して、消えそうな光をじっと見つめる。


 光はふるふる震えながら、それでもあと半周ほど進んだ。


 そして。


 ポシュン。


「……あ」


 小さな光の粒となり、朝の空気へ溶けていった。


 アリアは消えた場所をしばらく見つめた。


 一年前なら、ここで少し肩を落としていたかもしれない。


 けれど今は違う。


「きのうより、ながかった」


 ちゃんと昨日の自分と比べられる。


 それが嬉しくて、アリアは満足そうに笑った。


 次は花を作ってみる。


「おはな」


 両手の上へ淡い水色の光が集まり、少しずつ輪郭を作っていく。


 やがて現れたのは、一輪の小さな花だった。


 透き通るような花びらが朝日を受け、角度を変えるたびにきらきらと色を変えている。


「できた」


 アリアは嬉しそうに顔を近づけ、そっと匂いを嗅いでみた。


 けれど、何も香らない。


 本物によく似ているのに、本物とはどこか違う。


 それでも一年前の、花なのか何なのか分からなかった形に比べれば、ずっと上手になった。


「お母さんに、みせよ」


 これならきっと喜ぶ。


 そう思って立ち上がった、その瞬間。


 ポシュン。


「……あ」


 手の中から花が消えた。


 アリアは空っぽになった手を見つめたものの、今度はそれほど残念そうにはしなかった。


「また、つくろ」


 見せられるまで作ればいい。


 そう思えるようになったことも、この一年で変わったことの一つだった。


「おはよう」


 不意に下から声がして、アリアは振り返った。


 庭の木の根元に、一匹の大きなラグドールが座っている。


「ルカ!」


 淡いクリーム色の長い毛に、少し濃い色をした耳とふさふさの太いしっぽ。胸元と足先だけは雪をかぶったように白く、青い瞳が朝の光の中で静かに輝いている。


 アリアが嬉しそうに手を振ると、ルカは猫の姿のまま大きくあくびをした。


「今日も早いね」


「うん! きょう、たかくとべたの!」


「見てたよ」


「ほんと?」


「昨日より高かった」


 その一言だけで、アリアの顔がぱっと明るくなる。


 ルカは木の幹へ前足をかけると、そのままするすると登り始めた。人の姿なら簡単には届かない枝も、この姿ならあっという間で、枝から枝へ軽やかに移りながらアリアと同じくらいの高さまでやって来る。


「でも」


 隣の枝へ乗ったルカのしっぽが、ゆらりと揺れた。


「今日はもう『えーい!』って飛び出しちゃ駄目だからね」


 アリアが目をぱちぱちさせる。


「わかってるよ」


「昨日もそう言った」


「きょうは、ほんと」


「昨日も『ほんと』って言ったよ」


「……じゃあ、ちゃんとみてて」


「見るけど……」


 ルカが最後まで言うより早く、アリアは枝の先へ進んだ。


「えーい!」


「アリア!」


 白い羽を大きく開き、そのまま勢いよく枝を蹴る。


 朝の空へ身体が飛び出した。


 けれど、少し勢いが強すぎた。


 右から吹いた風をまともに受け、小さな身体がぐらりと傾く。


「わっ」


「右の羽! もっと開いて!」


「うん!」


 ルカの声に反応し、アリアは右の羽をいっぱいに広げた。


 ばさっ、と風を受け止めると、傾いていた身体が少しずつ戻り、そのまま庭の上を滑るように進んでいく。


 その横を、ルカが枝から枝へ飛び移りながら追いかけた。


「ゆっくり!」


「できてる!」


「まだ降りてないよ!」


「だいじょうぶ!」


 地面が近づく。


 アリアは前ばかり見ず、今度はちゃんと足元を確かめた。


 両足を前へ出し、身体を起こす。


 ふわり。


 とん。


 朝露に濡れた草の上へ、少しよろめきながらも両足で着地した。


「できた!」


 満面の笑みで振り返る。


 ルカも最後の枝から飛び降り、すぐ近くへ着地したものの、白い胸元が大きく上下していた。


「もう……毎朝びっくりする」


「でも、とべたよ」


「飛べたけど、約束は守ってない」


「……えへへ」


 アリアが笑ってごまかす。


 ルカはしばらくじっと見ていたが、結局それ以上怒ることはできなかったらしい。


「明日は、本当に急に飛び出さないでね」


「うん!」


 返事だけは、今日もとてもよかった。


     ◇


「二人とも、ご飯よ」


 家の中からミルの声が聞こえた。


「はーい!」


 アリアは元気よく返事をすると、さっきまでの練習など忘れたように家へ向かって駆け出した。


 ルカも猫の姿のまま、その後ろを追いかける。


 玄関の前まで来ると、淡い光がふわりとルカの身体を包み、次の瞬間には猫耳と太いしっぽを持つ七歳の男の子へ戻っていた。


 ルカはお腹へ手を当てた。


「おなかすいた」


「わたしも!」


 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い、そのまま競争するように家の中へ駆け込んだ。


     ◇


 扉を開けると、焼きたてのパンの香りが二人を包んだ。


 野菜の入ったスープからは白い湯気が立ち、小さな器に入った木の実のジャムが朝の光を受けて赤く輝いている。


「おかえり」


 食卓へ皿を並べていたミルが振り返った。


 アリアは迷うことなく、その胸へ飛び込んだ。


「ただいま、お母さん!」


「おはよう、アリア」


 ミルは笑いながら受け止め、少し乱れた水色の髪を指で整えた。


「今日もたくさん飛んだのね」


「うん。きのうより、たかくとべたよ。それからね、おはなもつくったの」


「まあ」


「でも、お母さんにみせるまえに、ポシュンってきえた」


 アリアが両手を広げて見せると、ミルは小さく笑った。


「それは残念だったわね」


「でも、またつくる」


「楽しみにしてるわ」


「うん!」


 そう答えるアリアには、もう失敗したことを気にしている様子はなかった。


 食卓の向こうでは、レオが大きなパンを切り分けている。


「お父さん」


「ん?」


「きょうね、ここまでとべた!」


 アリアは自分が飛んだ高さを見せるように、片手をいっぱいまで上げた。


 レオはその手と窓の向こうの木を見比べ、静かに頷いた。


「見ていた」


「ほんと?」


「ああ。高くなったな」


 その一言だけで、アリアの胸は朝の空みたいに明るくなる。


「えへへ」


「でも」


 続いた言葉に、笑っていた顔が少し止まった。


「着地は、まだ急ぎすぎだ」


「……みてたの?」


「見ていた」


 今度はルカが椅子へ座りながら、すかさず口を挟む。


「また『えーい!』って飛んだんだよ」


「だって、とべるもん」


「飛べるのと、危なくないのは別だよ」


 いつになく真剣な顔で言われ、アリアは少しだけ口を尖らせた。


 けれど、その様子を見ていたミルが小さく笑う。


「ルカ、本当にお兄ちゃんらしくなったわね」


「そんなことないよ」


 ルカは急に照れたように視線を逸らし、籠のパンへ手を伸ばした。


 その横顔を、アリアがじっと見つめる。


「ルカ」


「なに?」


「お兄ちゃん、パンとって」


 ルカの手が止まった。


 頭の猫耳が、ぴんと立つ。


「……今、お兄ちゃんって言った?」


「うん」


「もう一回言って」


「お兄ちゃん、パン」


 みるみるうちにルカの頬が赤くなっていく。


 アリアは理由が分からず、首を傾げた。


「どうしたの?」


「なんでもない」


 顔を逸らしたまま、それでもちゃんとパンを一つ取って、アリアの前へ置く。


「はい」


「ありがとう、お兄ちゃん」


「もういいって!」


 とうとう耳まで赤くなった。


 レオが口元を緩め、ミルも耐えきれず笑い出したが、アリアだけはどうして皆が笑っているのか分からず、きょとんとしている。


「じゃあ、いただきましょうか」


 ミルの声で、四人は手を合わせた。


「いただきます」


 重なった声のあと、アリアは焼きたてのパンを両手で持ち、大きく一口かじった。


 外は少し香ばしく、中はふわふわしている。


「おいしい!」


「今日はジャムもあるわよ」


 ミルが赤い木の実のジャムを差し出すと、アリアの目が輝いた。


 匙ですくう。


 たっぷり。


 さらにもう一匙。


「アリア、それは……」


 ルカが止めるより早く、パンの上へ乗せた。


 べたっ。


 乗りきらなかったジャムが、端からにゅうっとはみ出した。


「あっ」


 落ちそうになったところを、アリアは慌ててぺろりとなめる。


 その姿にルカが吹き出した。


「つけすぎだよ!」


「だいじょうぶ」


「何が?」


「おいしい」


 本人は満足そうだった。


 その顔を見れば、それ以上言う気にもなれない。


 ミルが笑い、レオも小さく肩を揺らした。


 焼きたてのパンの匂いと、皆の笑い声。


 アリアにとって、それはもう特別なものではなくなっていた。


 この家で毎朝繰り返される、いつもの朝だった。


     ◇


 朝ご飯を終えると、レオは工房の戸を開けた。


 乾いた木の香りが流れ出し、壁には木づちやのこぎり、のみやかんなが整然と並んでいる。作業台の上には、昨日から作りかけの椅子が置かれていた。


「ルカ」


「うん!」


 名前を呼ばれる前から分かっていたように、ルカが椅子を降りる。


「今日は、ここの続き?」


「ああ。脚を付ける」


「ぼく、押さえるよ」


「頼む」


 嬉しそうに工房へ駆けていくルカを、アリアは少しの間見送った。


 ルカはレオの仕事を手伝うのが好きだった。


 一年前には木くずを掃くくらいしかできなかったのに、今では小さな板を運び、必要な道具を渡し、木が動かないよう押さえることまでできる。


 工房の奥から、すぐに二人の声が聞こえてきた。


「これ?」


「そっちじゃない。短い方だ」


「こっち?」


「ああ」


 アリアは小さく笑ってから、今度はミルへ向き直った。


「お母さん」


「なあに?」


「わたしも、おてつだいする」


「ありがとう。それじゃあ、一緒に洗濯物を干してくれる?」


「うん!」


 ミルが持ち上げた大きな籠の反対側へ回り、アリアも小さな両手でしっかりつかむ。


 一人では、ほとんど持ち上がらない。


 けれど、ミルと一緒なら運べる。


「せーの」


「よいしょ」


 二人で息を合わせ、庭へ運んでいった。


     ◇


 庭には朝より少し温かくなった風が吹いていた。


 物干し竿のそばへ籠を置くと、ミルは白いシーツを一枚取り出し、大きく広げた。


 ぱん、と空気を含んで膨らんだ布の向こうに、ミルの笑顔がうっすら透けて見える。


「おばけみたい」


「ふふ。本当ね」


 アリアも笑い、二人で端を持って物干し竿へ掛けた。


 アリアには少し高い。


 けれど今なら、背中の羽を一度動かすだけで、つま先を地面からふわりと離すことができる。


 洗濯ばさみを一つ留め、もう一つ。


 風を受けた白いシーツが大きく膨らんだ。


「できた!」


 嬉しくなって空中で振り返った、その瞬間。


 少しだけ気が抜け、身体が傾いた。


「わっ」


 けれど朝の練習と同じように慌てず羽を広げると、そのまま半回転して、両足で地面へ降りることができた。


 とん。


 少し危なかった。


 それでも、転ばなかった。


 ミルは一瞬だけ目を丸くしたあと、安心したように笑った。


「着地も上手になったわね」


「まいにち、れんしゅうしてるもん」


「そうね。毎朝頑張ってるものね」


 そう言って、水色の髪をそっと撫でる。


 毎朝の練習に隠している小さな願いを、ミルは知らない。


 それでも、その手のぬくもりが嬉しくて、アリアは少しだけ目を細めた。


「つぎ、ちょうだい」


「はい、お願い」


 小さな靴下に、タオル、ハンカチ。ルカのシャツに、レオの大きな作業着。


 一枚ずつ受け取っては、必要な時だけふわりと浮かび、物干し竿へ掛けていく。


 その間も、工房からは木づちの音が聞こえていた。


「パパ、曲がった!」


「まだ打つな」


「あっ」


 声が聞こえるたび、ミルが笑う。


 アリアも白いタオルを抱えたまま笑った。


 庭を抜ける風と、揺れる洗濯物。工房から漂う木の香りに、その奥から聞こえてくる家族の声。


 それらが混ざり合う中で、いつもの午前がゆっくりと過ぎていった。


     ◇


 昼ご飯を食べ終える頃には、空の青がずいぶん濃くなっていた。


 工房の戸を閉めたレオが手についた木くずを払い、ルカも額へ浮かんだ汗を腕でぬぐう。


「今日はここまでだ」


「あと少しだったのに」


「続きは明日だ」


「はーい」


 ミルは食器を重ねながら、二人の顔を見比べた。


「午後は遊んできてもいいわよ」


 その言葉を聞いた途端、アリアの羽がぴくっと動いた。


「ほんと?」


「ええ。でも、夕方までには帰ってくるのよ」


「うん!」


 返事をした時には、もう椅子から飛び降りていた。


「森いこ、ルカ!」


「ちょっと待って!」


 慌ててルカも立ち上がる。


 先に玄関へ向かおうとしたアリアの頭へ、レオが帽子をぽすんとかぶせた。


「あ」


「忘れ物」


 つばを整えながら、もう一つ付け加える。


「遠くまで行きすぎるな」


「はーい!」


 今日も返事だけは、とてもよかった。


「いってきます!」


 二人の声が重なり、玄関の扉が開く。


 アリアは夏の光の中へ飛び出し、ルカもその後を追いかけた。


「アリア、待って!」


「はやくー!」


 二人の笑い声が、森へ続く小道の向こうへ遠ざかっていった。


     ◇


 森の中は、家の庭より少しだけ涼しかった。


 高い木々が日差しを遮り、その隙間から落ちた光が地面へ丸い模様を作っている。


 アリアは、その光を一つずつ踏んでいくように走った。


 黄色い光を見つければ、ぴょん。


 次の光へ、もう一度。


「ルカ! はやく!」


「そんなに急がなくても、森は逃げないよ!」


「でも、あそぶじかんなくなっちゃう!」


「夕方まであるって!」


 ルカの言葉を聞いているのかいないのか、アリアは倒れた木へ向かってそのまま走ると、小さな羽を少しだけ広げた。


 ふわり。


 普通なら足を引っ掛けそうな太い幹を、軽々と越えていく。


 ルカは後ろから大きく息を吐いた。


 次の瞬間、淡い光が身体を包み、四本の足で森の地面を蹴る大きなラグドールへ姿を変える。


 これならアリアに負けない。


 草を蹴り、あっという間に隣へ追いつく。


「ねこ、はやい!」


「アリアが速すぎるの!」


 猫の姿のまま答えると、アリアは楽しそうに笑った。


「きょう、なにする?」


「木の実を探す?」


「うん!」


「かくれんぼも?」


「する!」


「それから……」


「ぜんぶ!」


 アリアは両腕をいっぱいに広げた。


「ぜんぶする!」


 明るい声が、森の奥へ響いていった。


 その声を、大きな切り株の陰でじっと聞いているものがいた。


「……ぴ」


 切り株の端から、白い耳がほんの少しだけのぞく。


 細長く垂れた二つの耳に、まんまるな黒い瞳。全身を白い柔らかな毛に覆われた小さな生き物が、拾ったばかりの木の実を両前足で大切そうに抱えながら、小道の向こうを見つめていた。


「アリアー!」


「まってー!」


 名前が聞こえた瞬間、その黒い瞳が大きく開いた。


「ぴ!」


 切り株の陰から、もう少しだけ顔を出す。


 水色の髪。


 背中の白い羽。


 女神さまから見せてもらった姿より少しだけ大きくなっていたけれど、間違えるはずがなかった。


 ずっと探していた、小さな天使。


 アリアだった。


 白い生き物は、抱えていた木の実を落としそうになりながら慌てて立ち上がった。


 やっと見つけた。


 ここまで来たのだから、今度こそ伝えなければならない。


 女神さまから託された大切な仕事があり、アリアへ知らせなければならないこともある。


 けれど一歩踏み出したところで、足が止まった。


「……ぴ」


 頭の中では、言いたいことがちゃんと分かっている。


 女神さまの顔も、頼まれたことも、向かわなければならない場所も覚えている。


 それなのに、それをアリアへ伝えようと口を開いても。


「ぴ」


 もう一度。


「ぴぃ……」


 やっぱり、それしか出てこなかった。


 困ったように長い耳が下がる。


 その間にも、アリアの声はどんどん近づいてきた。


「あっ、ちょうちょ!」


 黄色い蝶が、木漏れ日の中をひらひらと横切った。


 アリアは見つけた途端に顔を輝かせ、そのまま後を追う。


「アリア、また急に……」


「まってー!」


 ルカの声を後ろへ残し、茂みへ飛び込んだ。


 がさっ、と葉が大きく揺れた次の瞬間。


「きゃっ」


「ぴぃっ!」


 何か柔らかいものへぶつかった。


 アリアはその場へ尻もちをつき、白い生き物も抱えていた木の実を放り出して、ころころと後ろへ転がっていく。


 最後には、ぽすんとお尻をついたまま止まり、長い耳が頭の上からすっぽり顔へかぶさった。


「……あれ?」


 アリアは目を丸くした。


 白い生き物も、耳の隙間からまんまるな黒い瞳をのぞかせる。


 しばらく二人で見つめ合った。


「……ぴ」


 その声を聞いた瞬間、アリアの顔がぱっと明るくなる。


「かわいい!」


 ようやく追いついたルカが、先にアリアの方を確かめた。


「アリア、大丈夫?」


「うん!」


 アリアはもう立ち上がり、目の前の白い生き物へ夢中だった。


「ルカ、みて! ふわふわ!」


 ルカも人の姿へ戻って隣へしゃがみ込む。


「……なんだろう、この子」


 白い生き物は、二人を交互に見つめた。


 目の前にアリアがいる。


 ずっと探していた相手だ。


 今こそ、大切な役目を果たさなければならない。


「ぴ」


 けれど、やっぱりそれしか出なかった。


 そんなことなど知らないアリアは、にこっと笑った。


「こんにちは」


「……ぴ」


「ひとり?」


「ぴ……」


「おなかすいた?」


 その時だった。


 ぐう。


 小さなお腹が鳴った。


 一瞬だけ、二人と一匹の間が静かになる。


 白い生き物は恥ずかしそうに顔を伏せ、長い耳までしゅんと垂らした。


 アリアとルカは顔を見合わせる。


「おなかすいてるんだ」


「ぴぃ……」


 アリアは肩から下げていた小さな袋を開いた。


 中には、ミルが持たせてくれた木の実のおやつが入っている。


 一つ取り出し、手のひらへ乗せる。


「はい」


 白い生き物は、木の実を見た。


 次にアリアを見る。


 それからもう一度木の実へ目を戻し、そろそろと近づいて両前足で受け取った。


 くんくんと匂いを確かめてから、ぱくり。


「ぴ!」


 黒い瞳が一気に輝いた。


 その反応が嬉しくて、アリアも笑う。


「おいしい?」


「ぴ!」


「もうひとつ?」


「ぴ!」


 今度の返事は、迷いなく元気だった。


 ルカが思わず吹き出す。


「そこはちゃんと分かるんだ」


 アリアはもう一つ木の実を渡してから、今度は両手をそっと差し出した。


「だっこ、してもいい?」


「……ぴ?」


 白い生き物が首を傾げる。


 それが返事なのか、困っているだけなのか、アリアには分からない。


 けれど逃げようとはしなかった。


「いい?」


「ぴ……」


 アリアはそれを許してくれたのだと思ったらしい。


 両手でそっとすくい上げる。


「わぁ……」


 思っていたよりずっと軽く、柔らかな毛が指の間でふわふわ揺れた。


 胸元へ抱き寄せてみると、小さな身体はほんのり温かい。


「ふわふわ」


 嬉しくなって、そっと頬を寄せる。


挿絵(By みてみん)


 その瞬間、白い生き物の身体がかちんと固まった。


 自分には大切な仕事がある。


 ようやくアリアを見つけたのだから、一刻も早く伝えなければならない。


 こんなふうに抱かれている場合ではないはずだった。


 けれど、アリアの腕は思っていたよりずっと温かく、背中を撫でる小さな手も優しい。


「……ぴ」


 張っていた力が、少しずつ抜けた。


 長い耳が、アリアの腕へ柔らかく垂れていく。


 ルカはその様子を見ながら、少しだけ笑った。


「気に入られたみたいだね」


「うん!」


 アリアは白いふわふわを胸へ抱いたまま、ぱっと顔を上げる。


「ルカ」


「なに?」


「このこ、おうちにつれてかえる」


「えっ」


 あまりにも迷いのない言い方に、ルカは目を丸くした。


「パパとママに聞かなくていいの?」


「きくよ」


「家に着いてから?」


「うん!」


「それは、聞くっていうのかな……」


 ルカは困ったように、アリアの腕の中へ目を向けた。


 白い生き物も、まんまるな黒い瞳でルカを見返している。


 本当は帰る場所があるのかもしれない。


 何か目的があって、この森にいたのかもしれない。


 さっきから何度も何かを伝えようとしているようにも見える。


 けれど、少なくともアリアの腕から逃げようとはしていなかった。むしろ身体の力を抜き、丸いしっぽまでアリアの手首へ寄せて、少し安心したように目を細めている。


 ルカは小さく息を吐いた。


「……帰ってから、ちゃんと聞こうね」


「うん!」


 アリアは満面の笑みを浮かべ、腕の中の白い生き物へ話しかけた。


「いっしょにかえろ」


「……ぴ」


 白い生き物の胸には、まだ伝えなければならないことが残っている。


 女神さまから頼まれた大切な役目も、ちゃんと覚えていた。


 けれど、今は少しだけ。


 この温かな腕の中にいてもいいような気がした。


 アリアの胸元で身体を小さく丸めながら、家へ着いたら今度こそ伝えようと思う。


 今度こそ。


 きっと。


 そう思っていたはずなのに、森の小道を歩く揺れとアリアのぬくもりは思っていたより心地よく、家へ着く頃には、小さな寝息を立てていた。


 女神さまから託された大切なお仕事は、もう少しだけ、あとになった。

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