第6話 1年後
朝。
森はまだ、淡い朝靄の中で眠っていた。
東の空が少しずつ白み始め、木々の葉に残った朝露が、目を覚ましたばかりの光を小さく弾いている。
鳥たちの声も、最初は一羽だけだった。
やがて、あちらからも。
こちらからも。
静かだった森の奥へ、少しずつ朝が広がっていく。
ラグドール家の小さな家は、まだひっそりとしていた。
その二階で。
かすかな音を立てて、一つの扉が開いた。
アリアだった。
寝ぼけた顔のまま廊下へ出るのではなく、もうきちんと着替えを済ませている。
窓辺には、昨夜たたんで置いた寝間着。
ベッドの上では、布団が少しだけ歪んでいた。
アリアは一度振り返ると、小さな手で布団の端を引っ張った。
右へ。
左へ。
最後に枕を、ぽん。
「……よし」
少し曲がっている気もする。
けれど、アリアは満足そうにうなずいた。
枕元に彫られた花と羽を、指先でそっとなでる。
一年前。
レオが作ってくれた、自分だけのベッド。
木肌は今もすべすべで、手を触れるたびに、あの日の夕日のぬくもりを思い出す。
「いってきます」
小さく告げて、部屋を出た。
階段を下りる。
家族はまだ眠っている。
物音を立てないように玄関まで歩き、そっと扉を押し開けた。
ひんやりとした朝の空気が、アリアの頬をなでる。
湿った土の匂い。
若い葉の匂い。
夜の名残を含んだ、冷たい風。
アリアは大きく息を吸い込んだ。
「んー……」
眠気が、すうっと消えていく。
庭の真ん中まで歩くと、両腕を広げるようにして、背中の羽をゆっくりと開いた。
白い羽が、朝の光を受けて淡く輝く。
少し膝を曲げる。
地面を蹴る。
ふわっ。
小さな体が、朝露の残る草の上から静かに浮かび上がった。
最初は庭を一周。
低い木の枝を目印にして、ゆっくりと曲がる。
風が右から吹けば、左の羽を少し強く動かす。
木の葉が近づけば、体を傾けてよける。
一年前は、地面を離れるだけで精いっぱいだった。
少し浮けば嬉しくて。
すぐに力が抜けて、ぽすんと尻もちをついていた。
今は、庭を一周しても落ちない。
木の枝と同じ高さまで上がり、少しだけなら風に乗って進むこともできる。
「もういっかい」
庭へ降りることなく、そのまま二周目へ入る。
今度は、昨日より少しだけ高く。
羽を大きく動かす。
ばさっ。
風が羽の下へ入り込み、体を押し上げた。
昨日は届かなかった枝が、すぐそばまで近づく。
「あと、ちょっと……」
もう一度。
ばさっ。
枝の上へ、朝露に濡れた葉が広がった。
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「できた!」
嬉しくなって、空を見上げた。
森の上には、どこまでも淡い青空が広がっている。
その向こうには、白い雲。
もっと高く飛べるようになったら。
もっと遠くまで飛べるようになったら。
あの雲を越えて、空のずっと向こうまで行けるようになったら。
先生に、会えるだろうか。
先生がどこにいるのか、アリアには分からない。
自分が地上へ落ちてしまったことを、先生が知っているのかも分からない。
それでも、昨日より高く飛べた朝は、先生へほんの少し近づけたような気がした。
だから、毎朝飛ぶ。
誰にも話したことのない、小さな願いを胸の中へしまいながら。
しばらく空を見上げていたアリアは、やがて気持ちを切り替えるように、ぱん、と両手を合わせた。
「つぎ」
庭の端にある切り株へ降りる。
今度は魔法の練習だった。
両手を胸の前へ出し、指先へ意識を集める。
「ひかり」
ふわり。
小さな光が現れた。
一年前なら、手のひらへ浮かんだ瞬間に消えていた光が、今は朝露のように揺れながら、ゆっくりとアリアの周りを回っている。
「ひとつ」
光が一周する。
「ふたつ」
もう一周。
「みっつ……」
少し形が揺らぐ。
「まだ」
アリアは唇をきゅっと結んだ。
光はふるふると震えながら、なんとかもう半周する。
けれど。
ポシュン。
小さな光の粒になって、朝の空気へ溶けてしまった。
「……あ」
消えた場所を見つめる。
以前なら、少しだけしょんぼりしていた。
けれど今は。
「きのうより、ながかった」
満足そうに笑う。
次は、小さな花。
「おはな」
手のひらの上へ、淡い水色の花が一輪現れた。
花びらは透き通り、光に当たるたびに、きらきらと色を変える。
アリアは花へ顔を近づけた。
「きれい」
そっと匂いをかいでみる。
匂いはしない。
本物によく似ている。
けれど、本物ではない。
それでも、前よりずっと花らしくなった。
「お母さんに、みせよ」
そう言って立ち上がった瞬間。
ポシュン。
「……あ」
手の中から花が消えた。
アリアは空になった手を見つめ、それから小さく笑う。
「また、つくろ」
「おはよう」
不意に、下から声がした。
アリアが振り返ると、庭の木の根元に一匹のラグドールが座っていた。
淡いクリーム色の長い毛。
少し濃い色をした耳と、ふさふさの太いしっぽ。
胸元と足先だけが、雪をかぶったように白い。
青い瞳が、朝の光の中で静かに輝いていた。
「ルカ!」
アリアは嬉しそうに手を振る。
ルカは猫の姿のまま、少しだけあくびをした。
「今日も早いね」
「うん!」
「きょう、たかくとべたの!」
「見てたよ」
ルカは木の幹へ前足をかけると、そのままするすると登り始めた。
人の姿では届かない枝も、猫の姿ならあっという間だった。
枝から枝へ軽やかに飛び移り、やがてアリアのいる高さまでやって来る。
「昨日より高かった」
「ほんと?」
「うん。でも」
ルカのしっぽが、ゆらりと揺れる。
「今日はもう、『えーい!』って飛び出しちゃだめだからね」
アリアは目をぱちぱちさせる。
「わかってるよ」
「昨日もそう言った」
「きょうは、ほんと」
「昨日も『ほんと』って言った」
アリアは少しだけ口をとがらせた。
「じゃあ、ちゃんとみてて」
「見るけど……」
ルカが言い終わるより早く。
アリアは枝の先へ駆け出した。
「えーい!」
「アリア!」
白い羽が大きく開く。
勢いよく枝を蹴った体が、朝の空へ飛び出した。
けれど、少し勢いが強すぎた。
右の羽が風に押され、体がぐらりと傾く。
「わっ」
「右の羽!」
ルカの声が飛ぶ。
「ひらいて!」
「うん!」
アリアは右の羽をいっぱいに広げた。
ばさっ。
風を受け止める。
傾いていた体が少しずつ戻り、やがて庭の上を滑るように進み始めた。
その横を、ルカが枝から枝へ跳びながら追いかける。
「ゆっくり!」
「できてる!」
「まだ降りてない!」
「だいじょうぶ!」
地面が近づく。
アリアは両足を前へ出した。
ふわり。
とん。
朝露に濡れた草の上へ、少しだけよろめきながらも、両足で立つ。
「できた!」
満面の笑みで振り返る。
ルカも最後の枝から飛び降り、すぐそばへ着地した。
「もう……」
白い胸元が、大きく上下している。
「毎朝、びっくりする」
「でも、とべたよ」
「飛べたけど、約束は守ってない」
「……えへへ」
アリアは笑ってごまかした。
ルカはしばらくじっと見つめていたけれど、やがて諦めたようにしっぽを揺らした。
「明日は、本当に急に飛び出さないでね」
「うん!」
返事だけは、今日もとてもよかった。
◇ ◇ ◇
「二人とも、ご飯よ」
家の中から、ミルの声が聞こえた。
「はーい!」
アリアは元気よく返事をすると、家へ向かって駆け出した。
ルカも猫の姿のまま、その後ろを追いかける。
玄関の前まで来たところで、淡い光がふわりとルカの体を包んだ。
ぽん。
次の瞬間には、猫耳と太いしっぽを持つ七歳の男の子が立っていた。
服も靴も、きちんと元どおりになっている。
ルカはお腹へ手を当てた。
「おなかすいた」
「わたしも!」
二人は顔を見合わせる。
どちらからともなく笑って、競争するように家の中へ駆け込んだ。
◇ ◇ ◇
扉を開けると、焼きたてのパンの香りが、ふわりと二人を包んだ。
野菜の入ったスープからは白い湯気が立ち、木の実のジャムが小さな器の中で赤く光っている。
「おかえり」
ミルが食卓へ皿を並べながら振り返った。
アリアは迷うことなく、その胸へ飛び込んでいく。
「ただいま、お母さん!」
「おはよう、アリア」
ミルは笑いながら、少し乱れた髪を指で整えた。
「今日もたくさん飛んだのね」
「うん。きのうより、たかくとべたよ」
「そう」
「あとね、おはなもつくったの」
「まあ」
「でも、お母さんにみせるまえに、ポシュンってきえた」
アリアが両手を広げてみせる。
ミルはくすっと笑った。
「それは残念だったわね」
「でも、またつくる」
「楽しみにしてるわ」
その言葉を聞くと、アリアは嬉しそうにうなずいた。
食卓の向こうでは、レオが大きなパンを切り分けていた。
「お父さん」
「ん?」
「きょうね、ここまでとべた!」
アリアは手を高く上げる。
レオは窓の向こうにある木を一度見てから、静かにうなずいた。
「見ていた」
「ほんと?」
「ああ」
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「高くなったな」
その一言で、アリアの胸は朝の光みたいに明るくなった。
「えへへ」
「でも」
レオは切ったパンを籠へ入れる。
「着地は、まだ少し急ぎすぎだ」
アリアの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「……みてたの?」
「見ていた」
ルカが椅子へ座りながら、すかさず口を挟んだ。
「また『えーい!』って飛んだんだよ」
「だって、とべるもん」
「飛べるのと、危なくないのは別だよ」
ルカは真剣な顔で言う。
その言い方がおかしかったのか、ミルが小さく笑った。
「ルカ、本当にお兄ちゃんらしくなったわね」
「そんなことないよ」
ルカは少し照れながら、籠のパンへ手を伸ばす。
アリアは隣から、じっとその横顔を見つめた。
「ルカ」
「なに?」
「お兄ちゃん、パンとって」
ルカの手が止まる。
猫耳が、ぴんと立った。
「……今、お兄ちゃんって言った?」
「うん」
「もう一回言って」
「お兄ちゃん、パン」
ルカの頬が、みるみる赤くなる。
アリアは不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
ルカは顔をそらしながら、アリアの前へパンを置いた。
「はい」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「もういいって!」
とうとう耳まで赤くなったルカを見て、レオが口元を緩める。
ミルも耐えきれずに笑い出した。
アリアだけが、どうしてみんなが笑っているのか分からず、きょとんとしている。
「じゃあ、いただきましょうか」
ミルがそう言うと、四人は手を合わせた。
「いただきます」
声が重なる。
アリアは焼きたてのパンを両手で持ち、大きく一口かじった。
外側は少しだけ香ばしく、中はふわふわだった。
「おいしい!」
「今日はジャムもあるわよ」
ミルが小さな器を差し出す。
赤い木の実のジャム。
アリアは目を輝かせ、匙ですくう。
たっぷり。
もう一匙。
「アリア、それは……」
ルカが止めるより早く、パンへ乗せる。
べたっ。
ジャムが端から、にゅうっとはみ出した。
「あっ」
今にも落ちそうになったジャムを、アリアは慌てて舌でぺろりとなめる。
ルカが吹き出した。
「つけすぎだよ!」
「だいじょうぶ」
「何が?」
「おいしい」
アリアは満足そうに笑う。
その顔を見て、ミルも笑った。
レオも小さく肩を揺らす。
焼きたてのパンの匂いと、家族の笑い声。
それが、ラグドール家のいつもの朝だった。
◇ ◇ ◇
朝ご飯を食べ終えると、レオは工房の戸を開けた。
中から、乾いた木の香りが流れ出す。
壁には木づちやのこぎり、のみやかんながきれいに並び、作業台の上には昨日から作りかけの椅子が置かれていた。
「ルカ」
「うん!」
名前を呼ばれる前から分かっていたように、ルカは椅子を降りる。
「今日は、ここの続き?」
「ああ。脚を付ける」
「ぼく、押さえるよ」
「頼む」
ルカは嬉しそうに工房へ駆けていった。
アリアは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
ルカはレオの仕事を手伝うのが好きだった。
以前は木くずを掃くくらいしかできなかったけれど、今は小さな板を運び、道具を渡し、木が動かないように押さえることもできる。
工房の奥から、二人の声が聞こえてきた。
「これ?」
「そっちじゃない。短い方だ」
「こっち?」
「ああ」
アリアは小さく笑うと、くるりとミルを振り返った。
「お母さん」
「なあに?」
「わたしも、おてつだいする」
「ありがとう」
ミルは洗濯物の入った大きな籠を持ち上げた。
「それじゃあ、一緒に干してくれる?」
「うん!」
アリアは籠の反対側へ回り、小さな両手でしっかりと持つ。
一人ではほとんど持ち上がらない。
けれど、ミルと一緒なら運べる。
「せーの」
「よいしょ」
二人で息を合わせ、庭へ運んだ。
◇ ◇ ◇
庭には、朝より少し暖かくなった風が吹いていた。
物干し竿の近くへ籠を置くと、ミルは白いシーツを一枚取り出す。
大きく広げる。
ぱん。
布が空気を含み、ふわりと膨らんだ。
その向こうに、ミルの笑顔が透けて見える。
アリアは思わず笑った。
「おばけみたい」
「ふふ。本当ね」
二人でシーツの端を持ち、物干し竿へかける。
アリアには少し高い。
けれど背中の羽を一度動かせば、つま先が地面から静かに離れる。
ふわっ。
洗濯ばさみを一つ。
ぱちん。
もう一つ。
ぱちん。
風が吹き、白いシーツが大きく揺れた。
「できた!」
アリアは空中で振り返る。
気を抜いたせいで、体が少し傾く。
「わっ」
慌てて羽を広げると、そのままくるりと半回転して地面へ降りた。
とん。
少し危なかった。
けれど、転ばなかった。
ミルは目を丸くしたあと、安心したように笑った。
「着地も上手になったわね」
「まいにち、れんしゅうしてるもん」
アリアは得意そうに胸を張る。
「そうね。毎朝、頑張ってるものね」
ミルはアリアの髪を、そっとなでた。
朝の訓練に隠された小さな願いを、ミルは知らない。
それでも、その手のぬくもりは、アリアの胸の奥までゆっくりと届いた。
「つぎ、ちょうだい」
「はい、お願い」
小さな靴下。
タオル。
ハンカチ。
ルカのシャツ。
レオの大きな作業着。
一枚ずつ受け取っては、ふわりと浮かび、物干し竿へかけていく。
工房からは、木づちの音が聞こえてきた。
コン。
コン。
その合間に、ルカの声がする。
「パパ、曲がった!」
「まだ打つな」
「あっ」
ミルが吹き出す。
アリアも、白いタオルを抱えたまま笑った。
庭を抜ける風。
揺れる洗濯物。
工房から漂う木の香り。
家族の声。
その全部が混ざり合い、いつもの午前がゆっくりと過ぎていった。
◇ ◇ ◇
昼ご飯を食べ終えるころには、空の青がずいぶん濃くなっていた。
工房の戸を閉めたレオが、木くずの付いた手を払う。
「今日はここまでだ」
ルカも額の汗を腕でぬぐった。
「あと少しだったのに」
「続きは明日だ」
「はーい」
ミルは食器を重ねながら、二人の顔を見比べる。
「午後は遊んできてもいいわよ」
アリアの羽が、ぴくっと動いた。
「ほんと?」
「ええ。でも、夕方までには帰ってくるのよ」
「うん!」
アリアは椅子から飛び降りると、もう玄関へ向かって走り出している。
「森いこ、ルカ!」
「ちょっと待って!」
ルカも慌てて立ち上がった。
レオは二人の帽子を手に取り、先に走り出したアリアの頭へ、ぽすんとかぶせる。
「忘れ物」
「あ」
「それから」
レオは帽子のつばを整えながら、アリアを見る。
「遠くまで行きすぎるな」
「はーい!」
今日も返事だけは、とてもよかった。
「「いってきます!」」
二人の声が重なり、玄関の扉が開く。
アリアは夏の光の中へ飛び出した。
ルカも、その後を追いかける。
「アリア、待って!」
「はやくー!」
二人の笑い声が、森へ続く小道の向こうへ遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
森の中は、家の庭よりも少しだけ涼しかった。
高い木々が日差しを遮り、葉の隙間から落ちた光が、地面へ丸い模様を作っている。
アリアはその光を踏むようにして走った。
一つ。
もう一つ。
黄色い光の上へ、ぴょん。
「ルカ!」
「はやく!」
「そんなに急がなくても、森は逃げないよ!」
「でも、あそぶじかんなくなっちゃう!」
「夕方まであるよ!」
ルカの言葉を聞いているのかいないのか、アリアは倒れた木を飛び越えた。
羽を少しだけ広げる。
ふわり。
普通なら足を引っかけそうな太い幹を、軽々と越えていく。
ルカはため息をつくと、淡い光に包まれた。
ぽん。
次の瞬間には、ふさふさのラグドールが地面を駆けている。
四本の足で草を蹴り、あっという間にアリアへ追いついた。
「ねこ、はやい!」
「アリアが速すぎるの!」
猫の姿のまま、ルカが答える。
アリアは楽しそうに笑った。
「きょう、なにする?」
「木の実を探す?」
「うん!」
「かくれんぼも?」
「する!」
「それから……」
「ぜんぶ!」
アリアは両腕を広げた。
「ぜんぶする!」
森の奥へ、明るい声が響いていった。
その声を。
大きな切り株の陰で、じっと聞いているものがいた。
「……ぴ」
ほんの少しだけ、白い耳がのぞく。
細長く垂れた耳。
風に揺れるたび、先がふわふわと動く。
その下から、まんまるの黒い瞳が、小道の向こうを見つめていた。
白くて。
小さくて。
手のひらに乗ってしまいそうなほど、まるい生き物。
両手には、拾ったばかりの木の実を大事そうに抱えている。
「アリアー!」
「まってー!」
名前が聞こえた瞬間。
黒い瞳が、大きく開いた。
「ぴ!」
切り株の陰から、ほんの少しだけ体を乗り出す。
青い髪。
白い羽。
女神さまから見せてもらった姿より、少しだけ背が伸びている。
けれど間違いない。
探していた、小さな天使。
アリアだった。
白い生き物は、木の実を落としそうになりながら、慌てて立ち上がった。
行かなければ。
今度こそ、伝えなければ。
女神さまから託された、大切なお仕事がある。
アリアに知らせなくてはならないことがある。
一歩、前へ出る。
「……ぴ」
けれど、足が止まった。
どうやって伝えればいいのだろう。
頭の中では、ちゃんと分かっている。
女神さまの顔も。
頼まれたことも。
向かわなければならない場所も。
全部、覚えている。
それなのに。
口を開いても。
「ぴ」
もう一度、頑張る。
「ぴぃ……」
出てくるのは、それだけだった。
白い生き物は困ったように耳を垂らす。
そうしている間にも、アリアの声はどんどん近づいてきた。
「あっ!」
黄色い蝶が、木漏れ日の中をひらひらと飛んだ。
アリアはぱっと顔を輝かせる。
「ちょうちょ!」
「アリア、また急に……」
「まってー!」
ルカの声を残し、蝶を追いかけて茂みへ飛び込む。
がさっ。
葉が大きく揺れた。
「きゃっ」
「ぴぃっ!」
やわらかいものへぶつかり、アリアはその場へ尻もちをついた。
白い生き物も、木の実を放り出して後ろへころころと転がっていく。
一回。
二回。
最後は、ぽすんとお尻をついたまま止まった。
長い耳が、頭の上へかぶさっている。
「……あれ?」
アリアは目を丸くした。
白い生き物も、耳の隙間から黒い瞳をのぞかせる。
二人は、しばらく見つめ合った。
「……ぴ」
アリアの顔が、ぱあっと明るくなる。
「かわいい!」
ルカがようやく追いついた。
「アリア、大丈夫?」
「うん!」
アリアは立ち上がると、白い生き物の前へしゃがみ込む。
「ルカ、みて!」
「ふわふわ!」
ルカも人の姿へ戻り、隣へ腰を下ろした。
「……なんだろう、この子」
小さな生き物は、二人を交互に見つめる。
伝えなければ。
今こそ。
アリアが目の前にいる。
大切な役目を果たす時だ。
「ぴ」
やっぱり、それしか出なかった。
アリアはにこっと笑う。
「こんにちは」
「……ぴ」
「ひとり?」
「ぴ……」
「おなかすいた?」
白い生き物のお腹が。
ぐう。
小さく鳴った。
一瞬、森が静かになった。
生き物は耳を赤くするように、顔を伏せる。
アリアとルカは顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
「おなかすいてるんだ」
「ぴぃ……」
アリアは肩から下げていた小さな袋を開く。
ミルが持たせてくれた、木の実のおやつ。
一つ取り出し、手のひらへ乗せる。
「はい」
白い生き物は、木の実を見る。
アリアを見る。
もう一度、木の実を見る。
そろそろと近づき、両手で受け取った。
くんくん。
匂いをかぐ。
そして。
ぱくっ。
「ぴ!」
黒い瞳が、きらきらと輝いた。
アリアも嬉しそうに笑う。
「おいしい?」
「ぴ!」
「もうひとつ?」
「ぴ!」
今度の返事は、とても元気だった。
ルカが吹き出す。
「そこはちゃんと分かるんだ」
アリアはもう一つ木の実を渡すと、そっと両手を伸ばした。
「だっこ、してもいい?」
「……ぴ?」
白い生き物は、首をかしげる。
返事なのか。
困っているのか。
アリアには分からなかった。
けれど、逃げようとはしない。
「いい?」
「ぴ……」
アリアはそれを許可だと思ったらしい。
両手でそっとすくい上げる。
ふわっ。
「わぁ……」
思っていたよりも、ずっと軽い。
手のひらの中で、やわらかな毛がふわふわと揺れる。
胸元へ抱き寄せると、ほんのりあたたかかった。
「ふわふわ」
頬を寄せる。
すり。
白い生き物は、全身をかちんと固くした。
伝えなければ。
自分には、お仕事がある。
抱っこされている場合ではない。
そう思うのに。
アリアの腕はあたたかくて。
背中をなでる手は、やさしくて。
「……ぴ」
思わず、力が抜けた。
長い耳が、アリアの腕へ垂れる。
ルカはその様子を眺めながら、少しだけ笑った。
「気に入られたみたいだね」
「うん!」
アリアは白いふわふわを胸へ抱いたまま、ぱっと顔を上げた。
「ルカ」
「なに?」
「このこ、おうちにつれてかえる」
「えっ」
あまりにも迷いのない言葉に、ルカは目を丸くした。
「パパとママに聞かなくていいの?」
「きくよ」
「家に着いてから?」
「うん!」
「それは、聞くっていうのかな……」
ルカは困ったように白い生き物を見る。
白い生き物も、黒い瞳でルカを見返した。
本当は帰る場所があるのかもしれない。
何か目的があって森にいたのかもしれない。
けれど、アリアの腕から逃げようとはしなかった。
むしろ、丸いしっぽまでアリアの手首へ寄せ、少し安心したように目を細めている。
ルカは小さく息をついた。
「……帰ってから、ちゃんと聞こうね」
「うん!」
アリアは満面の笑みで、白いふわふわへ話しかける。
「いっしょにかえろ」
「……ぴ」
伝えなければならないことは、まだ胸の中にある。
女神さまから頼まれた、大切な役目も忘れてはいない。
けれど。
今は少しだけ。
このあたたかな腕の中にいてもいいような気がした。
白い生き物は、アリアの胸元で小さく丸くなる。
あとで。
家へ着いたら。
きっと、その時こそ。
そう思っていたはずなのに。
アリアの腕の中はあまりにもあたたかくて、家へ着くころには、白い生き物は小さな寝息を立てていた。
大切なお仕事は、また少しだけ、あとになった。




