第9話 教会の灯り
ギィ……。
重い木の扉が、長い眠りから目を覚ますように、ゆっくりと内側へ開いていった。
夕暮れの光が、ルカたちの足元から細長く伸び、薄暗い礼拝堂の床をまっすぐに照らしていく。
外ではまだ、町の人々の声が聞こえていた。
店じまいをする音。
石畳を行き交う靴音。
遠くで誰かを呼ぶ声。
けれど、扉が開くにつれて、それらの音は少しずつ遠ざかり、代わりに、ひんやりとした静けさが三人を包み込んだ。
ルカは扉へ添えていた手を、そのまま止めた。
礼拝堂は、思っていたよりもずっと広かった。
見上げるほど高い天井。
太い柱が左右へ並び、その間に、何列もの長椅子が整然と置かれている。
壁の上には細長い窓があり、赤や青、淡い金色の硝子を通った夕日が、床へ色とりどりの光を落としていた。
青い光。
赤い光。
その中へ、細かな埃がゆっくりと舞っている。
まるで、目には見えない小さな生き物が、静かな教会の中で踊っているようだった。
「……きれい」
アリアが、小さくつぶやいた。
声は高い天井へ昇り、いつもより少しだけ遠くから返ってきた。
きれい。
きれい。
自分の声なのに、誰かが囁いているように聞こえる。
アリアは不思議そうに天井を見上げた。
胸には、マルルをしっかりと抱えている。
マルルも大きな黒い瞳を丸くしながら、見慣れない礼拝堂をきょろきょろと見回していた。
「……ぴ」
小さな声も、静かな空間へやわらかく広がった。
礼拝堂の奥には、白い布をかけられた祭壇があった。
その後ろに、大きな女神像が立っている。
両手を胸の前で重ね、少しだけ目を伏せた、白い石の女神。
頭には花を編んだような冠があり、肩から流れる衣は、風をまとっているかのように細かく彫られていた。
天界で見た女神さまよりも、ずっと厳かで。
少しだけ、大人びて見える。
アリアは足を止めた。
「……女神さま」
ルカが振り返る。
「知ってるの?」
「うん」
アリアは女神像を見上げたまま、こくんとうなずいた。
「でも」
少しだけ首をかしげる。
「ほんものと、ちがう」
「違うの?」
「もっと、ふわふわしてる」
「ふわふわ?」
「うん」
アリアはうまく説明できないように、両手を少し広げた。
「よく笑うの」
「それから」
何かを思い出したのか、少しだけ頬が緩む。
「たまに、わすれる」
ルカは女神像を見上げた。
どう見ても、何一つ忘れそうにない顔をしている。
「……そうなんだ」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。
三人は、まだ扉の近くに立ったままだった。
入っていいのか。
誰かを呼んだ方がいいのか。
ルカには分からない。
教会へ来たのは、これが初めてだった。
レオと町へ来た時にも、この高い鐘楼は遠くから見たことがある。
けれど、中へ入ったことはなかった。
静かすぎる場所に声を出すのが怖くて、ルカはしばらくその場から動けなかった。
けれど、いつまでも扉の前に立っているわけにはいかない。
町の女性が教えてくれた。
困っている人を助けてくれる場所だと。
今夜、泊まる場所がない。
食べ物もない。
レオも、ミルもいない。
言わなければ。
自分たちが困っていることを、誰かへ伝えなければならない。
ルカは唇を一度なめ、乾いた喉から声を押し出した。
「あの……」
思ったよりも小さな声だった。
高い天井へ吸い込まれ、すぐに消えてしまう。
返事はない。
ルカはもう一度、少しだけ大きな声を出した。
「すみません」
今度は、礼拝堂の奥まで届いた。
しばらくすると。
コツ。
どこかで、靴音がした。
三人は同時に顔を上げる。
コツ。
コツ。
祭壇の右手にある小さな扉の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
やがて扉が開き、白い修道服を着た女性が姿を現した。
年は、ミルより少し上だろうか。
淡い栗色の髪を布で包み、胸元には小さな銀色の飾りを下げている。
手には、火を灯した細い燭台を持っていた。
女性は礼拝堂の入口に立つ三人を見つけると、少し驚いたように足を止めた。
「まあ」
その声は、教会の静けさを壊さないほど穏やかだった。
「どうしました?」
ルカは答えようとした。
けれど。
「あの……」
そこから先が、うまく出てこない。
町の女性へ話した時と同じだった。
もう一度、家がなくなったと言わなければならない。
お父さんとお母さんがいないと。
村まで消えたと。
口にするたびに、その出来事が胸の奥へ深く沈み込んでいく。
ルカは拳を握った。
言わなければ。
そう思っているのに、声が喉につかえて出てこない。
その横で。
アリアが一歩前へ出た。
「おうちが」
小さな声だった。
シスターがアリアを見る。
「おうちが、なくなっちゃったの」
言葉にした瞬間。
アリアの瞳が大きく揺れた。
ずっとこらえていたものが、声と一緒に外へ出てしまったようだった。
「帰ったら」
「なにも、なかったの」
「お父さんも」
「お母さんも」
唇が震える。
「いなくなっちゃった」
最後の言葉は、ほとんど息のようだった。
礼拝堂が、しんと静まる。
シスターの表情から、驚きが消えた。
代わりに浮かんだのは、深い心配だった。
燭台を近くの台へ置き、ゆっくりと二人の前まで歩いてくる。
急がず。
問い詰めることもなく。
アリアと同じ高さになるように、静かに膝をついた。
「そうだったの」
やさしい声だった。
「怖かったでしょう」
その一言を聞いた途端。
アリアの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……うん」
今までこぼれなかった涙が、一粒だけ頬を伝う。
アリアは泣くまいと唇を結んだ。
けれど、もう一粒。
また一粒。
涙が青い瞳からあふれてくる。
シスターはすぐに抱きしめようとはしなかった。
ただ、アリアが自分から近づけるように、両腕を静かに広げた。
アリアは迷うようにシスターを見た。
それから、マルルを抱いたまま、一歩だけ前へ出る。
もう一歩。
やがて、額を白い修道服へそっと押し当てた。
シスターの腕が、アリアとマルルをやさしく包む。
「よく、ここまで来ましたね」
その声を聞きながら、アリアは小さく鼻をすすった。
「……ルカも」
シスターは顔を上げる。
ルカは少し離れたところに立ったまま、唇を固く結んでいた。
「ルカが」
「つれてきてくれたの」
アリアは涙を拭かないまま言った。
「大丈夫って」
「ぼくがいるって」
シスターの目が、ルカへ向く。
ルカは反射的に背筋を伸ばした。
褒められることではない。
自分は何もできなかった。
家を見つけることも。
両親を探すことも。
アリアを泣かせないことも。
何一つできていない。
けれど、シスターは静かに微笑んだ。
「あなたも」
「よく頑張りましたね」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
ルカは何か答えようとした。
「ぼくは……」
けれど、その先が続かない。
怖かった。
ずっと。
でも、怖いと言ってはいけないと思っていた。
自分がお兄ちゃんだから。
アリアが自分を見ているから。
だから、泣かないようにしていた。
けれど。
もう頑張らなくてもいいと言われたような気がした。
ルカは顔を伏せた。
視界がにじむ。
「……ぼく」
声が震える。
「どうしたらいいか」
「分からなくて」
「はい」
シスターは急かさずにうなずいた。
「分からなくて、当然です」
ルカが顔を上げる。
「あなたは、まだ子どもですもの」
その言葉は、不思議だった。
少し前まで。
ルカは、自分が子どもであることを忘れようとしていた。
子どもではいられない。
自分がしっかりしなければならない。
そう思っていた。
けれど本当は。
誰かに助けてほしかった。
何をすればいいか、教えてほしかった。
シスターは立ち上がると、ルカの肩へそっと手を置いた。
「もう大丈夫ですよ」
「今夜は、ここにいなさい」
「温かいご飯もあります」
「眠る場所もあります」
「明日になったら」
少しだけ間を置く。
「一緒に、これからどうするか考えましょう」
ルカは、すぐには答えられなかった。
大丈夫。
その言葉を、今日だけで何度も使った。
けれど、自分が誰かから言われたのは初めてだった。
「……はい」
ようやく声を出す。
それだけで、張りつめていた肩から少し力が抜けた。
◇ ◇ ◇
シスターは三人を、礼拝堂の奥にある小さな部屋へ案内した。
そこには丸いテーブルと、何脚かの椅子が置かれていた。
壁際には棚があり、木の器や布がきちんと並んでいる。
礼拝堂ほど広くはない。
けれど、暖炉の中では火が赤く燃え、部屋全体をやわらかく温めていた。
ぱち。
薪がはぜる。
暖かな空気に触れた瞬間、アリアのお腹が小さく鳴った。
ぐぅ。
アリアは慌ててお腹を押さえる。
ルカが振り返った。
アリアは少し恥ずかしそうに俯く。
「……おなか、すいた」
マルルも同じように鳴いた。
「ぴ……」
シスターは思わず笑った。
「すぐに用意しますね」
しばらくすると、温かいスープと、少し硬いパンが運ばれてきた。
湯気と一緒に、野菜と香草の匂いが広がる。
アリアは椅子へ座り、両手を合わせた。
「いただきます」
ルカも隣で手を合わせる。
マルルは小さな皿の前にちょこんと座っている。
アリアはスプーンですくったスープへ息を吹きかけた。
ふう。
ふう。
少しだけ口へ入れる。
温かい。
冷えていた体の中へ、ゆっくりと熱が広がっていく。
「……おいしい」
けれど、その味を感じた瞬間。
ミルの作ったスープを思い出した。
いつもの鍋。
木の匙。
湯気の向こうで笑うお母さん。
アリアはスプーンを持つ手を止めた。
「お母さんも」
ぽつりと言う。
「ごはん、食べてるかな」
ルカの手も止まる。
答えは分からない。
でも、何も言わないままでは、アリアがもっと不安になる。
「食べてるよ」
ルカは言った。
「きっと」
アリアは少しだけ笑った。
「うん」
それから、もう一口スープを飲んだ。
マルルは、自分の皿へ顔を近づけて夢中で食べている。
「ぴ」
少し元気な声だった。
その様子を見て、アリアの表情がほんの少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
食事を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
礼拝堂の窓から差し込んでいた夕日の色は消え、代わりに、壁へ掛けられた燭台の光が静かに揺れている。
シスターは、奥にある小さな寝室へ三人を連れていった。
狭い部屋だった。
けれど、白い布をかけたベッドが二つあり、その間には小さな机と水差しが置かれている。
「今夜は、ここを使ってください」
「ありがとうございます」
ルカは頭を下げる。
アリアも真似をする。
「ありがとうございます」
「何かあったら、呼んでくださいね」
シスターはそう言って、扉を閉めた。
部屋に静けさが戻る。
ルカは一つのベッドへ腰を下ろした。
柔らかな布団が、少し沈む。
アリアはもう一つのベッドへ座り、マルルを膝へ乗せた。
しばらく誰も話さなかった。
聞こえるのは、遠くで鳴る鐘の余韻と、夜風が窓を撫でる音だけだった。
「……ルカ」
アリアが呼ぶ。
「なに?」
「ここで、ねるの?」
「うん」
「明日は、帰る?」
ルカは答えるまでに少し時間がかかった。
「明日、シスターと話そう」
「お父さんたちのことも」
「探してくれるかな」
「うん」
今度は、なるべく迷わずに答えた。
「きっと探してくれる」
アリアは小さくうなずいた。
けれど、その手は布団を握ったままだった。
いつもの部屋ではない。
レオが作ってくれたベッドでもない。
隣の部屋に、ミルもいない。
アリアは横になろうとしたものの、すぐに顔を上げた。
「ルカ」
「なに?」
「いっしょに、ねてもいい?」
ルカは少し驚いた。
けれど、すぐにうなずく。
「いいよ」
アリアはマルルを抱え、ルカのベッドへ移った。
狭くなる。
それでも、三人で横になると、先ほどより少しだけ安心できた。
アリアはルカの袖をつかむ。
森を歩いていた時と同じように。
「おやすみ」
「おやすみ」
「ぴ」
マルルも小さく鳴いた。
けれど。
眠りへ落ちる直前。
礼拝堂の方角から、かすかな光が差し込んだ。
扉の下。
細い隙間から。
淡い水色の光が、床をゆっくりと這うように伸びてくる。
マルルの耳が、ぴくりと動いた。
「……ぴ?」
アリアも目を開ける。
胸の奥が、不思議にあたたかくなった。
どこかで。
とても遠い場所から。
自分を呼ぶ声がしたような気がした。
――アリア。
懐かしい。
やさしい声だった。
「……お母さん?」
アリアは小さくつぶやく。
返事はない。
けれど。
今度は、もう少しはっきり聞こえた。
――アリア。
やさしい声。
どこか遠くから。
けれど、確かに自分を呼んでいる。
アリアはそっと起き上がった。
隣ではルカが静かな寝息を立てている。
マルルも丸くなって眠っていた。
部屋の扉の下からは、淡い水色の光が細く伸びている。
昼間にはなかった光だった。
アリアはその光を見つめる。
「……あそこ」
胸が、ふわりとあたたかくなった。
呼ばれている。
そんな気がした。
そっとベッドを降りる。
冷たい床へ裸足が触れる。
一歩。
また一歩。
扉へ近づく。
けれど、その手が取っ手へ届く前に、不安が胸をよぎった。
一人で行っていいのかな。
アリアは振り返る。
「……ルカ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
もう一度。
「ルカ」
今度は少しだけ大きな声だった。
ルカがゆっくりと目を開ける。
「……アリア?」
「どうしたの」
アリアは扉を指さした。
「あっちから」
「声がするの」
ルカは首をかしげる。
「声?」
「うん」
「お母さんじゃないけど」
「でも」
「やさしい声」
ルカは耳を澄ませる。
何も聞こえない。
部屋は静まり返っていた。
聞こえるのは、夜風が窓を揺らす音だけ。
けれど。
扉の下から漏れる淡い水色の光だけは、ルカにも見えていた。
「……なんだろう」
ルカはゆっくりと起き上がる。
マルルも耳をぴくりと動かし、小さく目を開けた。
「ぴ……?」
三人は顔を見合わせた。
そして。
淡い水色の光をたどるように、静かに部屋の扉へ歩き始めた。
その先で、また声がした。
――アリア。




