第10話 女神さま!
ルカがそっと取っ手へ手をかけると、きぃ、と小さな音を立てながら部屋の扉が開いた。
廊下には誰もいない。
壁に掛けられた燭台の炎が時折細く揺れ、石造りの床へ長い影を落としている。その床の上を、寝室の前まで来ていた淡い水色の光が細い小川のように流れ、その先にある礼拝堂の方へ続いていた。
「……あっち」
アリアが小さく言った。
ルカも光の先へ目を向け、念のため耳を澄ませてみる。
けれど、やはり声は聞こえない。
アリアが聞いたという誰かの声も、廊下の向こうから人が歩いてくる気配もなかった。それでも水色の光だけは確かにそこにあり、まるで自分たちが来るのを待っているように、ゆっくり明るくなったり薄くなったりを繰り返している。
「行こう」
ルカが頷くと、マルルもいつになく真剣な顔で長い耳を立てた。
「ぴ」
三人は眠っている教会の誰かを起こしてしまわないよう靴を手に持ち、裸足のまま廊下を歩き始めた。
冷たい石の感触が足の裏へ伝わってくる。
いつものアリアなら、冷たいとか、暗いとか、何か一つくらい口にしそうなものなのに、今は何も言わなかった。ただ床を流れていく水色の光から目を離さず、その先にいるらしい誰かを確かめるようについていく。
廊下の角を曲がると、やがて礼拝堂へ続く小さな扉が見えてきた。
昼間、三人が初めて教会へ入った時にくぐった大きな入口ではない。教会の奥から礼拝堂へ出入りするための扉らしく、水色の光はその下の細い隙間を通り、そのまま向こう側へ流れ込んでいる。
ルカが足を止めた。
「ここ?」
「うん」
アリアは胸へ小さな手を当てたまま頷いた。
「まだ、呼んでる」
やはりルカには何も聞こえない。
けれどアリアの様子を見ていると、嘘を言っているわけでも、聞き間違えたわけでもなさそうだった。
耳から聞こえているというより、もっと内側から感じているのかもしれない。胸の奥へ直接触れるように、誰かが何度もアリアの名前を呼んでいる。
ルカは一度だけ息を吸うと、扉の取っ手へ手を伸ばした。
きぃ……。
静かな教会の中へ、小さな音が響いた。
◇
夜の礼拝堂は、昼間に初めて見た時とはまるで別の場所のようだった。
夕日を受けて赤や青の光を床へ落としていたステンドグラスは、今は暗い窓の中へ色を沈め、壁に掛けられた燭台だけが、何列も並ぶ長椅子や太い柱をぼんやりと照らしている。
その奥には、昼間と変わらず白い女神像が立っていた。
胸の前で両手を重ね、静かに目を伏せている石の女神は、やはり何一つ忘れ物などしそうにない、厳かな顔をしている。
「……誰もいないね」
ルカが声を潜めた。
けれどアリアは答えなかった。
青い瞳が見つめているのは女神像そのものではなく、そこへ向かって流れていく水色の光だった。
寝室からずっと三人を導いてきた光は、長椅子の間を通り抜け、祭壇の前へ集まっている。
「……こっち」
アリアはそう呟くと、ゆっくり歩き始めた。
マルルがそのあとをついていき、ルカも二人から離れないように続く。
祭壇の前まで来ると、アリアはそこで一度立ち止まった。手に持ったままだった靴を履き直してから、もう一度女神像を見上げる。
昼間と何も変わらない。
白い石の瞳は伏せられたままで、もちろん唇が動くこともない。
それなのに。
――アリア。
今度は、はっきり聞こえた。
「!」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
寝室で聞いた時より、ずっと近い。まるですぐ目の前にいる誰かから、自分だけに向かって呼びかけられたようだった。
「女神さま!」
アリアが声を上げたのとほとんど同時に、女神像の足元から小さな水色の光が一つ、ふわりと浮かび上がった。
続いてもう一つ、そのあとからさらにいくつもの光が現れ、祭壇の周りへゆっくり集まっていく。
そこへ淡い金色の光まで混じり始めた。
水色と金色の光は、互いを追いかけるようにゆっくり舞いながら、少しずつ一つの輪郭を作っていく。
最初に見えたのは、長い金色の髪だった。
月の光をそのまま溶かしたような髪が、風もない礼拝堂で柔らかく揺れている。その下へ透き通るような白い衣が現れ、肩や袖には繊細な金の刺繍が浮かび、裾の周りでは小さな光の粒が花びらのように舞っていた。
昼間に見た石像とは違う。
同じ女神をかたどったものだと分かるのに、目の前に現れた女性は、もっと温かくて、どこか柔らかい。
アリアが「よく笑う」と言っていた意味を、ルカにも何となく分かるような気がした。
「こんばんは、アリア」
女神はアリアを見つけると、すぐに目を細めた。
「また会えましたね」
「女神さま!」
もう我慢できなかった。
アリアが駆け出すと、女神も白い衣の裾を広げるようにその場へしゃがみ込み、飛び込んできた小さな身体を両腕でしっかり受け止めた。
「大きくなりましたね」
「うん!」
アリアを少しだけ離して顔を見たあと、女神の視線が背中の小さな羽へ移る。
「羽も、ずいぶんしっかりしました」
「毎日、れんしゅうしてたの」
「そうですね。ちゃんと見ていましたよ」
「見てたの?」
「ええ」
女神は笑いながら、少しずつ高く、少しずつ遠くへ飛ぼうとしていたアリアのことを話した。
昨日より高く飛べた日も、風に流されて慌てた日も、それでも次の日になればまた庭へ出て練習していたことも、どうやら本当に知っているらしい。
「えへへ」
アリアは照れたように笑いながら、もう一度女神へ身体を寄せた。
もっと上手に飛べるようになったら、いつか先生のところまで行けるかもしれない。
誰にも言わず胸の中へしまっているその願いまで、女神なら知っているのだろうか。
少し気になったけれど、今は聞かなかった。
ただ、もう一度会えたことの方がずっと嬉しかった。
その足元では、マルルが自分のことも忘れないでと言わんばかりに、尻尾をぶんぶん振っている。
「ぴっ」
女神はその姿に気づくと、アリアを片腕で抱いたまま手を伸ばした。
「あなたも、よく頑張りましたね」
ふわふわした頭を撫でられ、マルルが気持ちよさそうに目を細める。
「ぴぃ」
少し離れたところでは、ルカがその光景を何も言えずに見つめていた。
本当にいる。
石で作られた像でも、絵本の中の誰かでもない。
本物の女神が自分たちの前にいて、いつものアリアを抱きしめ、マルルの頭を撫でている。
まだ信じきれない気持ちのまま見ていると、その女神がゆっくりルカへ顔を向けた。
「ルカ」
「!」
突然名前を呼ばれ、ルカは反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい」
女神の青い瞳が、まっすぐ自分へ向いている。
怖い目ではない。
けれど、今日一日ずっと誰にも見せないようにしてきたものまで、全部見つかってしまいそうな目だった。
「アリアをここまで守ってくれて、ありがとう」
たった一言だった。
それなのに、ルカは何も答えられなかった。
「……ぼく」
自分は何もできなかったと思っていた。
家を見つけることも、パパとママを探すことも、アリアを泣かせないこともできなかった。自分だってずっと怖かったし、何をすればいいのか分からなかった。
それでもアリアの前では、自分が立っていなければならないと思っていた。
きっと、その全部を女神は知っている。
「もう、大丈夫ですよ」
女神が優しく微笑んだ。
昼間、シスターから同じ言葉をかけられた時のように、また少しだけルカの肩から力が抜けていく。
「……はい」
ようやく小さく頷いたルカを見届けると、女神はアリアを床へ下ろし、今度はマルルの前へしゃがみ込んだ。
「さて、ずいぶん待たせてしまいましたね」
「ぴ?」
何のことか分からず首を傾げるマルルの前で、女神が手のひらを上へ向ける。
そこへ小さな水色の光が集まり始めた。
光は少しずつ丸みを帯び、透明になり、やがて親指の先ほどの青い宝石へ姿を変えていく。
夜空を小さく切り取り、そのまま閉じ込めたような澄んだ青色だった。
「ぴ?」
「これは、あなたへ渡さなければならなかったものです」
女神は、ほんの少し申し訳なさそうに笑った。
「本当は、あなたを送り出す前につけておかなければいけなかったのですけれど」
「……ぴ?」
「少しだけ、忘れていました」
それまで動いていたマルルの長い耳が、ぴたりと止まる。
アリアも女神を見上げた。
「これ、わすれてたの?」
「ええ」
「どこに?」
「机の引き出しです」
女神は少し困ったように笑った。
「大切なものだからと、きちんとしまっておいたのですけれどね」
その答えに、アリアの口元が少し緩んだ。
昼間、女神像を見ながら「たまに忘れる」と言ったばかりだった。
「今度こそ、きちんとお渡ししますね」
女神が指先をマルルの額へ近づけると、青い宝石が淡く光った。
そして、水へ落ちた雫がそのまま溶けていくように、ゆっくり白い額の中へ沈んでいく。
光が収まったあとには、額の中央へ小さな青い宝石が残っていた。
マルルは目をぱちぱちさせ、自分に何が起きたのか確かめるように口を開いた。
「……ぴ」
そこから、今までとは違う音がこぼれた。
「……あ」
自分でも驚いたらしい。
前足を口元へ当て、もう一度声を出してみる。
「ぼく……」
今度は、はっきり言葉になった。
「ぼく、しゃべれる」
頭の中にあったものが、そのまま声になって外へ出ていく。
それに一番驚いたのは、マルル自身だった。
「しゃべれるなの!」
「マルル!」
アリアの青い瞳がまん丸になった。
「しゃべった!」
ルカも驚いた顔のままマルルを見つめ、それからゆっくり笑った。
「ほんとだ……」
マルルは自分の声が嬉しくて仕方がないらしく、尻尾をぱたぱた振りながら二人を交互に見た。
「アリア! ルカ! ぼく、しゃべれるなの!」
アリアは歓声を上げ、そのままマルルをぎゅっと抱きしめた。
「いっぱい、お話できるね!」
「うん! いっぱい話すなの!」
「朝から夜まで?」
「夜も話すなの!」
「寝られないよ」
ルカが笑うと、マルルは真剣な顔で少し考えた。
「じゃあ、寝るときは小さい声にするなの」
「それでも話すんだ」
とうとうルカが吹き出し、アリアも一緒になって笑った。
マルルはそんな二人を見ながら、もう一度自分の名前を声にしてみる。
「ぼく、マルルなの!」
三人の笑い声が、静かな夜の礼拝堂へ小さく広がった。
女神もその様子を嬉しそうに眺めていた。
「これで一安心ですね」
満足そうに頷いた、その直後だった。
女神の笑顔が、ふと止まった。
「…………」
「女神さま?」
アリアが首を傾げる。
女神は何かを確かめるように右の袖を見て、今度は左の袖へ目を移した。そのまま少し考え込んだあと、ようやく思い出したらしい。
「あら」
「どうしたの?」
「まだありました」
「なにが?」
ルカが尋ねると、女神は少しだけ頬を赤くした。
「みなさんへ、ほかにも贈り物を用意していたのです」
「贈り物?」
「ええ」
ところが白い袖の中を確かめても、もちろん何も出てこない。
「どうやら、持ってくるのを忘れてしまったようです」
アリアの口元が、とうとう緩んだ。
「ふふ」
さっきまで「ぴ」としか言えなかったマルルまで、得意そうに女神を見上げる。
「女神さまらしいなの」
「すみません」
女神は照れくさそうに笑った。
「少しだけ待っていてくださいね。探してきます」
「探すの?」
ルカが聞き返す。
「ええ、どこへしまったのか、それも少し曖昧で」
それを聞いたアリアは、もう驚きもしなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
女神は今度こそ自信ありげに微笑んだ。
「必ず見つけて戻りますから」
「うん。待ってる」
「ぼくも待つなの」
「ありがとうございます」
女神がほっとしたように笑うと、金色の光がふわりと周囲へ舞い上がった。
長い金色の髪も、白い衣も、少しずつ光の中へ溶けていき、最後には小さな金色の粒だけが祭壇の前をしばらく漂ったあと、それも静かに消えていった。
ルカは誰もいなくなった祭壇を見つめた。
「……本当に探しに行った」
「うん」
アリアは楽しそうに笑っている。
「女神さま、たまに忘れちゃうの」
「たまに?」
「うん。でも、ちゃんと戻ってくるよ」
マルルまで何度も頷いた。
「きっと見つけてくるなの」
二人とも心配している様子がまるでない。
どうやらアリアにとっては、本当に「いつものこと」らしい。
「神様でも、忘れ物するんだ……」
ルカがぽつりと呟くと、アリアがくすくす笑った。
「するよ」
その時。
ぽん、と小さな音が弾けた。
三人が同時に祭壇を見ると、消えたばかりの金色の光が、また一か所へ集まり始めている。
「あ!」
アリアが嬉しそうに声を上げた。
光の中から再び姿を現した女神は、今度は胸の前に小さな木箱を大切そうに抱えていた。
「お待たせしました。見つかりました」
ほっとしたように息をつく女神を見て、マルルの耳がぴんと立つ。
「ほんとなの?」
「ええ」
女神は木箱を少し持ち上げた。
「机の引き出しの、一番奥でした」
アリアとルカが顔を見合わせる。
「大切なものだから、なくさないようにしまっておいたのですけれど」
女神は少しだけ目を伏せた。
「しまった場所を、きれいに忘れてしまいました」
とうとうアリアが吹き出した。
「やっぱり!」
ルカまでつられて笑う。
「本当に引き出しにあったんだ」
「ありました」
「見つかってよかったなの!」
「ありがとうございます」
女神は照れくさそうに笑いながら木箱を祭壇へ置き、今度こそ慎重に蓋へ指をかけた。
「では、みなさんへの贈り物です」
ゆっくり蓋が開いた、その瞬間。
淡い金色の光が、木箱の中からふわりと溢れ出した。
「わぁ……」
アリアが思わず声を漏らす。
小さな光の粒は何十、何百と舞い上がり、高い礼拝堂の天井へ向かってゆっくり昇っていった。
星のように漂っていた光のうち、一つがゆっくり降りてくると、最初にルカの前で止まった。
金色の光がほどけ、その中から現れたのは、木で作られた細いチョーカーだった。
なめらかな木目の表面には、小さな葉と絡み合う枝の模様が丁寧に彫られている。派手な飾りはないのに、その木の色を見ていると、ルカにはどこか懐かしいものへ触れているような気がした。
女神はそれを両手で持ち上げた。
「これは、家族のチョーカーです」
その言葉に、ルカの瞳がわずかに揺れた。
「家族……」
「ええ、あなたが大切に思う人たちと、これからも一緒に歩いていくための証です」
女神がルカの首へそっとつけると、留め具が静かに閉じ、その瞬間だけ木目の中を淡い金色の光が走った。
ルカはすぐに胸元へ手を伸ばした。
木でできているのに、冷たくない。
レオが削った木へ触れた時のような、優しい温もりが手のひらへ伝わってくる。
「……ありがとうございます」
次の光は、アリアの前へ降りてきた。
くるくると舞いながら細い金色の鎖へ姿を変え、その先には小さな白い羽をかたどった飾りが現れる。羽の中央には透き通る水色の石が一粒、雫のように揺れていた。
「きれい……」
女神がそれをアリアの首へそっと掛けると、胸元へ触れた白い羽の中央で、水色の石が燭台の炎を受けて静かに光った。
「これは、あなたのネックレスです。大切にしてくださいね」
「うん! ありがとう、女神さま!」
アリアは嬉しそうに両手で羽の飾りを包み込んだ。
女神は続いて、生成り色の小さなポシェットを取り出した。
柔らかな布で作られ、蓋には小さな羽の刺繍が入っている。アリアの身体に合わせた細い肩紐がついていて、斜めに掛けても歩く邪魔にはならなそうだった。
「これも、あなたのものですよ」
「ポシェット!」
すぐに受け取ったアリアが肩へ掛け、身体を左右へ揺らしてみる。
「似合う?」
「とても」
それだけで満足したらしく、アリアは胸を張った。
さらにもう一つ、白い布がふわりと舞い降りる。
肩から羽織る小さなマントだった。
余計な飾りはなく、端に細い水色の縁取りが入っているだけだったが、背中は小さな羽を邪魔しないよう二つに分かれ、アリアが動いても引っ掛からないように作られている。
「これは、あなたの羽を包むマントです。旅へ出る時に使いなさい」
「ふわふわ」
アリアは受け取ったマントを胸へ抱えた。
「気に入りました?」
「うん!」
最後に残った光は、マルルの前へ降りてきた。
光は小さな身体に合わせるように細い輪へ変わり、正面には直径二センチほどの丸いコンパクトが現れる。銀色の縁には星と羽を組み合わせた小さな模様があり、閉じている時には少し大きな飾りのようにも見えた。
「ぼくの?」
「ええ」
女神はそれをマルルの首元へそっとつけた。
額には青い翻訳の石。
胸元には、小さなコンパクト。
マルルは一生懸命首を曲げて自分の姿を確かめ、嬉しさを隠しきれないように尻尾を振った。
「かわいいなの!」
「よかったね、マルル」
「うん! ぼく、すっごくうれしいなの!」
三人へすべて渡し終えたところで、女神はようやく安心したように息をついた。
「今度こそ、全部お渡しできました」
アリアは胸元のネックレスへ触れ、ルカは新しい木のチョーカーを手のひらで包み、マルルは自分のコンパクトを何度も覗き込んでいる。
礼拝堂には、しばらく穏やかな時間が流れていた。
けれどルカは、胸元へ触れているうちに、さっき女神から聞いた言葉をもう一度思い出していた。
家族。
その一言が、ずっと胸の奥へ押し込めていたものを静かに引き上げていく。
朝までは、パパもママも確かに家にいた。
いつものように手を振り、「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
今もどこかにいるのだろうか。
苦しい思いをしてはいないだろうか。
自分たちを探しているのだろうか。
ルカの指が、チョーカーを少し強く握った。
「……女神さま」
「なあに?」
顔を上げたものの、その先を尋ねるのが怖かった。
もし返ってきた答えが、自分の望んでいるものとは違ったら。
それでも、聞かないままではいられなかった。
「パパとママは……もう一度、会える?」
礼拝堂が静まり返った。
さっきまで贈り物を喜んでいたアリアも笑顔を消し、マルルも胸元のコンパクトから顔を上げる。
女神はすぐには答えなかった。
ただ、ルカの瞳をまっすぐ見つめてから、ゆっくり頷いた。
「ええ、二人とも、生きています」
ルカの目が大きく開く。
「……ほんと?」
「本当ですよ」
今度はアリアも女神の前へ一歩出た。
「お父さんも? お母さんも?」
「ええ、二人とも無事です」
胸の中で固まっていた何かが、その言葉を聞いた瞬間にほどけ始めた。
女神は少しだけ声を落とした。
「今は、あなたたちとは違う場所にいます。だから、すぐには会えませんけれど」
それでも。
生きている。
無事でいる。
ルカの頬を、一筋の涙が伝った。
今度はこらえようとは思わなかった。
「……よかった」
ようやく、その一言が口からこぼれた。
アリアも両手を胸へ当て、ずっと止めていた息を吐くように呟いた。
「よかったぁ……」
「ほんとに、よかったなの」
マルルの長い耳も、ほっとしたように下がった。
女神は何も急かさず、三人が落ち着くのを静かに待っていた。
やがてルカが手の甲で涙を拭うのを見届けると、女神は少しだけ表情を改めた。
「でも、どうしてそんなことが起きたのか。それを、あなたたちには知ってもらわなくてはいけません」
祭壇の奥に立つ、自分によく似た白い石像へ一度目を向ける。
「少しだけ、大切なお話をしますね」
三人は静かに頷いた。
燭台の炎が揺れ、その向こうで女神の横顔を淡く照らしている。
「この世界は昔、今よりもっと近くにつながっていました。人の暮らす場所も、神獣たちのいる場所も、そして天界も、今ほど遠くはなく、行き来することができたのです」
アリアは何も言わず、女神を見つめていた。
ルカも胸元のチョーカーへ触れたまま聞いている。
マルルも長い耳をぴんと立てた。
「けれど、ある時、世界をつないでいたとても大切な鍵が壊れてしまいました」
「鍵?」
ルカが聞き返す。
「ええ、その鍵は八つの欠片になり、この国のあちこちへ散らばってしまったのです」
「はちこ?」
「そうです」
女神はアリアへ微笑んだものの、そのまま話を続けた。
「鍵が壊れてから、世界の間にあったつながりは少しずつ弱くなり、本来なら触れ合えるはずだった場所まで遠くなってしまいました。そして時には、あるはずの場所そのものが、別の場所へ流されてしまうこともあります」
ルカのチョーカーを握る指へ、また少し力が入った。
「それって……」
「あなたたちの家や村が消えてしまったことも、その一つです」
アリアが小さく息を呑んだ。
「おうち……なくなったんじゃないの?」
「完全になくなったわけではありません」
女神は静かに首を横へ振る。
「あなたたちとは違う場所へ、離れてしまったのです」
「そこに、お父さんとお母さんもいるの?」
「ええ、だから二人は無事なのですよ」
アリアの瞳へ、少しだけ光が戻った。
ルカも女神の言葉を一つずつ確かめながら、ようやく次の問いを口にする。
「じゃあ……もう一度つながれば、帰ってくる?」
「鍵が元の姿へ戻れば、離れてしまった場所を、もう一度つなぎ直すことができます」
女神はそこで、アリア、ルカ、マルルの順に一人ずつ見つめた。
「だから、あなたたちには、この国に散らばった八つの鍵の欠片を集めてもらいたいのです」
アリアが目をぱちぱちさせた。
「わたしたちが?」
「ええ、アリアと、ルカと、マルル。三人で」
三人は、それぞれ自分の手元を見た。
ルカの首には木のチョーカーがあり、アリアの胸元には白い羽のネックレスが揺れ、肩には新しいポシェットが掛かっている。そしてマルルの首元には、今も小さなコンパクトがついていた。
「マルル。そのコンパクトを開いてみてください」
「これ?」
「ええ」
小さな前足で縁へ触れると、かちり、と音がして蓋が開いた。
内側には、星を囲むように八つの小さな窪みが並んでいる。
「わぁ……はちこ!」
「そうです」
女神はコンパクトへ指先を近づけた。
「これは、鍵の欠片を探すためのものです。欠片の気配を見つけると、進む方向を教えてくれます」
女神の指先からほんの少しだけ光が零れた。
それに応えるように。
リン。
澄んだ小さな音が響き、コンパクトの中央が淡い青色に光った。
やがてその光は細い線となり、祭壇の向こう、礼拝堂の壁さえ越えるように、まだ三人が見たことのない遠い場所へ向かって伸びていく。
「わぁ……!」
アリアが目を輝かせた。
マルルも自分の胸元から伸びる光を、驚いたように見つめている。
「ぼくが、みんなを案内するなの?」
「そうですよ。とても大切な役目です」
そう聞いた途端、マルルは小さな胸をいっぱいに張った。
「ぼく、がんばるなの!」
「わたしも!」
アリアもすぐに声を上げる。
「わたしも集める!」
ルカは二人を見た。
八つに分かれた鍵の欠片を集めれば、離れてしまった場所をもう一度つなげることができる。
そうすれば、パパとママへもう一度会える。
もちろん、怖くないわけではない。
どこへ行けばいいのかも、その先に何が待っているのかも、まだ何一つ分からない。
それでも、少し前までとは違った。
今までは、何をすればいいのかさえ分からなかった。
けれど今は、進むために必要なことが一つ見えた。
ルカは小さく息を吸った。
「ぼくも行きます」
女神は三人を見つめ、ゆっくり微笑んだ。
「ありがとう」
けれど、すぐに声を柔らかくする。
「でも、今夜はもう遅いです。まずはしっかり眠って、明日から少しずつ旅の準備を始めましょう」
「明日から?」
アリアの小さな羽が、ぴくりと動いた。
それを見た女神が、くすっと笑う。
「いきなり飛び出してはいけませんよ」
「……はーい」
明らかに少し残念そうな返事だった。
ルカが笑うと、マルルまで楽しそうに続ける。
「アリア、すぐ行きそうだったなの」
「行かないもん」
「ほんとなの?」
「ほんと!」
三人の声が、夜の礼拝堂へ重なった。
その足元では、開いたままの小さなコンパクトから伸びる青い光だけが、まだ見ぬ最初の欠片へ導くように、静かに遠い場所を指し続けていた。
★お読みいただきありがとうございます★
女神様登場の動画はこちらです('ω')ノ
↓↓↓
https://www.instagram.com/reel/Da1tvUTpvjZ/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==&igsi=MzRlODBiNWFlZA==




