第10話 女神さま!
ルカが、そっと取っ手へ手をかけた。
きぃ……。
小さな音を立てて、部屋の扉が開く。
廊下には誰もいなかった。
壁に掛けられた燭台の炎が、時折、夜風に揺らされるように細くなり、石造りの床へ長い影を落としている。
部屋の前まで伸びていた淡い水色の光は、細い小川のように廊下を流れ、その先にある礼拝堂へと続いていた。
「……あっち」
アリアが小さく言った。
ルカも光の行方へ目を向ける。
何も聞こえない。
けれど、水色の光だけは確かにそこにあり、呼吸するように淡く明滅していた。
「行こう」
ルカがうなずく。
マルルも、いつになく真剣な顔で長い耳を立てた。
「ぴ」
三人は、眠っている教会を起こさないように、靴を手に持って静かに歩き始めた。
ぺた。
ぺた。
裸足の裏が、冷たい石の床へ触れる。
いつもなら真っ先に声を上げそうなアリアも、今は何も言わなかった。
水色の光から目を離さず、その後ろを追いかける。
廊下の角を曲がると、礼拝堂へ続く扉が見えてきた。
昼間、三人が初めてくぐった扉とは別の、奥の部屋から出入りするための小さな扉だった。
光は、その下の隙間から向こう側へ流れ込んでいる。
ルカがもう一度、アリアを見る。
「ここ?」
「うん」
「まだ、呼んでる」
アリアは胸へ手を当てた。
声は耳から聞こえてくるのではない。
もっと内側。
胸の奥へ直接触れるように、やさしく名前を呼んでいる。
ルカは静かに息を吸い、扉の取っ手へ手を伸ばした。
きぃ……。
小さな音を立てて、扉が開いた。
◇ ◇ ◇
夜の礼拝堂は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
色鮮やかだったステンドグラスは、月明かりを受けて静かに眠り、壁へ掛けられた燭台の炎だけが、広い空間のところどころを淡く照らしている。
誰もいない長椅子。
見上げるほど高い天井。
祭壇の奥には、昼間と変わらぬ白い女神像が立っていた。
両手を胸の前で重ね、少しだけ目を伏せている。
厳かで。
静かで。
何一つ忘れることなどなさそうな、石の女神。
礼拝堂は、あまりにも静かだった。
自分たちの息づかいも。
衣服がかすかに擦れる音も。
遠くで燃える蝋燭の、小さな炎の揺れさえも。
何もかもが聞こえてしまいそうだった。
「……誰もいないね」
ルカが声を潜める。
アリアは返事をしなかった。
青い瞳は、まっすぐ祭壇の前へ向けられている。
部屋から続いていた水色の光は、長椅子の間を抜け、女神像の足元へ集まっていた。
「……こっち」
アリアはそうつぶやくと、ゆっくり歩き始めた。
ぺた。
ぺた。
小さな足音が、夜の礼拝堂へ響く。
その後ろを、マルルがとことこと追いかける。
「ぴ」
ルカも、二人から離れないように後へ続いた。
祭壇の前まで来ると、アリアは立ち止まって靴を履き直す。
白い女神像を見上げる。
昼間と何も変わらない。
石でできた女神像は、静かに目を伏せたまま、動く気配もなかった。
その時だった。
――アリア。
やさしい声が、礼拝堂へ響いた。
昼間よりも近い。
まるで、すぐ目の前から呼ばれたようだった。
アリアの顔が、ぱっと輝く。
「女神さま!」
その声と同時に、女神像の足元から、小さな光が一つ、ふわりと浮かび上がった。
水色だった。
夜空へ舞い上がる蛍のように、ゆっくりと宙を漂う。
一つ。
また一つ。
さらに一つ。
やがて、無数の水色の光が祭壇の前へ集まり始めた。
その中へ、淡い金色の光も混じっていく。
水色と金色。
二つの光は互いを追いかけるようにくるくると舞い、少しずつ、一人の女性の姿を形作っていった。
最初に見えたのは、長い金色の髪だった。
月の光を溶かし込んだような髪が、風もない礼拝堂でやわらかく揺れている。
その下には、透き通るような白い衣。
肩や袖には繊細な金の刺繍が施され、裾の周りを小さな光の粒が花びらのように舞っていた。
石像のような厳かな表情ではない。
アリアが昼間に話していた通り。
あたたかくて。
ふわりとしていて。
よく笑う人なのだと、一目で分かるような、やさしい顔だった。
「こんばんは、アリア」
女神は目を細めて微笑んだ。
「また会えましたね」
「女神さま!」
アリアはたまらず駆け出した。
女神も白い衣の裾を広げるようにしゃがみ込み、飛び込んできた小さな体を両腕で受け止めた。
「大きくなりましたね」
「うん!」
「羽も、ずいぶんしっかりしました」
女神はアリアの背中にある小さな羽へ目を向ける。
白い羽が、嬉しそうにふるふると震えていた。
「毎日、れんしゅうしてたの」
「そうですね」
「ちゃんと見ていましたよ」
その言葉に、アリアは女神の胸元から顔を上げた。
「見てたの?」
「ええ」
「昨日より少し高く」
「昨日より少し遠くへ」
「毎朝、頑張っていましたね」
アリアは照れくさそうに笑った。
「えへへ」
もっと高く飛べるようになれば、いつか先生に会えるかもしれない。
誰にも言わずに胸へしまっていた願いまで、女神は知っているのだろうか。
そう思ったけれど、アリアは聞かなかった。
今はただ、もう一度女神に会えたことが嬉しかった。
そのすぐ隣では、マルルが尻尾をぶんぶん振っていた。
「ぴっ」
女神が笑う。
「あなたも、よく頑張りましたね」
アリアを片腕で抱いたまま、もう一方の手でマルルのふわふわした頭をなでる。
マルルは気持ちよさそうに目を細めた。
「ぴぃ」
ルカは、少し離れたところから三人を見つめていた。
本当にいた。
女神像ではない。
絵本の中でもない。
生きている女神が、今、自分たちの目の前で微笑んでいる。
女神は、ゆっくりとルカへ顔を向けた。
「ルカ」
突然名前を呼ばれ、ルカは背筋を伸ばした。
「は、はい」
女神の青い瞳が、まっすぐルカを見つめる。
怖い目ではなかった。
けれど、自分が隠してきたことを、何もかも見透かされてしまいそうな瞳だった。
「アリアをここまで守ってくれて、ありがとう」
その一言だけだった。
けれど。
胸の奥へ、まっすぐ届いた。
「……ぼく」
続く言葉が出てこない。
何もできなかったと思っていた。
家を見つけることも。
パパとママを探すことも。
アリアを泣かせないことも。
できなかった。
怖かった。
泣きたかった。
それでも、アリアの前では立っていなければならないと思っていた。
その全部を、女神は知っているような気がした。
「もう、大丈夫ですよ」
女神はやさしく微笑んだ。
昼間、シスターから同じ言葉をかけられた時のように、ルカの肩から少しだけ力が抜けた。
「……はい」
小さくうなずく。
それを見届けると、女神はアリアをそっと床へ下ろし、今度はマルルの前へしゃがみ込んだ。
「さて」
「ずいぶん待たせてしまいましたね」
女神が手のひらを上へ向ける。
そこへ、小さな水色の光が集まり始めた。
光は丸くなり。
透き通り。
やがて、親指の先ほどの青い宝石へ姿を変えた。
夜空を小さく切り取り、そのまま閉じ込めたような、澄んだ青だった。
マルルは宝石を見つめ、首を傾ける。
「ぴ?」
「これは、あなたへ返さなければならなかったものです」
女神は少し申し訳なさそうに笑った。
「本当は、あなたを送り出す前に、つけておかなければいけなかったのですけれど」
「……ぴ?」
「少しだけ、忘れていました」
女神が言うと、マルルの長い耳が、ぴたりと止まった。
アリアは女神を見上げる。
「これ、わすれてたの?」
「ええ」
「机の引き出しに、大切にしまっておいたままでした」
女神は宝石を指先へ乗せた。
「今度こそ、きちんとお渡ししますね」
そっと。
マルルの額へ指を近づける。
青い宝石が、淡い光を放った。
ふわり。
宝石は水へ沈む雫のように、マルルの白い額へゆっくりと溶け込んでいく。
光が収まると、額の中央には、小さな青い宝石がきらりと輝いていた。
マルルは目をぱちぱちさせる。
「……ぴ」
もう一度、口を開く。
「……あ」
今までとは違う音がこぼれた。
マルル自身が一番驚いたように、自分の口へ前足を当てる。
「ぼく……」
言葉が出る。
頭の中で思っていたことが、そのまま音になって外へ出ていく。
「ぼく、しゃべれる」
一度、口を閉じる。
そして。
嬉しさが一気にあふれた。
「しゃべれるなの!」
アリアの青い瞳が、まんまるになる。
「マルル!」
「しゃべった!」
ルカも驚きながら、思わず笑顔になった。
「ほんとだ……」
マルルは尻尾をぱたぱたと振り、アリアとルカを交互に見る。
「アリア!」
「ルカ!」
「ぼく、しゃべれるなの!」
アリアは歓声を上げて、マルルをぎゅっと抱きしめた。
「いっぱい、お話できるね!」
「うん!」
「いっぱい話すなの!」
「朝から夜まで?」
「夜も話すなの!」
「寝られないよ」
ルカが笑う。
マルルは少し考えた。
「じゃあ、寝るときは小さい声にするなの」
「それでも話すんだ」
ルカが吹き出す。
アリアも笑った。
マルルも自分の声が嬉しくてたまらないように、何度も同じ言葉を繰り返す。
「アリア」
「ルカ」
「ぼく」
「マルル」
「ぼく、マルルなの!」
三人の笑い声が、夜の礼拝堂へ小さく広がった。
女神も、その様子を見ながら目を細めていた。
「これで一安心ですね」
満足そうにうなずく。
けれど。
次の瞬間。
女神の笑顔が、そのまま止まった。
「…………」
アリアが首をかしげる。
「女神さま?」
女神は何かを確かめるように、自分の両手を見る。
右の袖を見る。
左の袖も見る。
それから、しばらく宙を見つめた。
「…………あ」
小さな声が漏れる。
「あら」
「まだありました」
ルカが目をぱちぱちさせる。
「何が?」
女神は少しだけ頬を赤くした。
「みなさんへ、ほかにも贈り物を用意していたのですが」
白い袖の中を、もう一度確かめる。
何も出てこない。
「どうやら、持ってくるのを忘れてしまったようです」
アリアの口元が、少しだけ緩む。
「ふふ」
マルルも女神を見上げた。
「女神さまらしいなの」
「すみません」
女神は照れくさそうに笑った。
「少しだけ、待っていてくださいね」
「探してきます」
「探すの?」
ルカが聞き返す。
「ええ」
「どこへしまったのか、それも少し曖昧で」
女神は困ったように頬へ指を当てた。
「でも、大丈夫です」
「必ず見つけて戻りますから」
「うん」
アリアは慣れたようにうなずく。
「待ってる」
「ぼくも待つなの」
女神はほっとしたように微笑んだ。
「すぐ戻りますね」
ふわり。
金色の光が舞い上がる。
女神の長い髪も。
白い衣も。
少しずつ光の中へ溶けていき、最後には小さな金色の粒だけが、祭壇の前をしばらく漂っていた。
やがて、それも消える。
礼拝堂へ、静けさが戻った。
ルカは誰もいなくなった祭壇の前を見つめた。
「……本当に探しに行った」
「うん」
アリアは楽しそうに笑う。
「女神さま、たまに忘れちゃうの」
「たまに?」
「うん」
「でも、ちゃんと戻ってくるよ」
マルルも何度もうなずいた。
「きっと見つけてくるなの」
ルカは二人の顔を見比べる。
それほど心配している様子はない。
どうやら、本当にいつものことらしい。
「神様でも、忘れ物するんだ……」
ぽつりとつぶやくと、アリアがくすくす笑った。
「するよ」
その時だった。
ぽん。
小さく音が弾けた。
三人が同時に祭壇を見る。
金色の光が、再び一か所へ集まり始める。
「あ!」
アリアが嬉しそうに声を上げた。
光の中から、女神が姿を現す。
今度は小さな木箱を大切そうに抱えていた。
「お待たせしました」
少し息をつきながら、胸をなで下ろす。
「見つかりました」
マルルの耳が、ぴんと立った。
「ほんとなの?」
「ええ」
女神は木箱を持ち上げ、にっこり笑った。
「机の引き出しの、一番奥でした」
「大切なものだから、なくさないようにしまっておいたのですけれど」
少しだけ目を伏せる。
「しまった場所を、きれいに忘れてしまいました」
アリアが吹き出す。
「やっぱり!」
ルカもつられて笑った。
「本当に、引き出しにあったんだ」
「ありました」
女神も照れくさそうに笑う。
マルルは嬉しそうに尻尾を振った。
「見つかって、よかったなの!」
「ありがとうございます」
女神は木箱を抱き直すと、今度こそ慎重に祭壇の上へ置いた。
「では」
「みなさんへの贈り物です」
ふたへ指をかける。
ゆっくりと木箱を開いた。
その瞬間。
ふわり。
淡い金色の光が、礼拝堂いっぱいへあふれ出した。
「わぁ……」
アリアが思わず声を漏らす。
小さな光の粒が何十、何百と舞い上がり、高い天井へ向かってゆっくりと昇っていく。
夜空へ浮かぶ星のように礼拝堂を漂ったあと、いくつかの光が三人の前へ降りてきた。
最初の光は、ルカの前で止まった。
金色の光が、ゆっくり形を変えていく。
やがて現れたのは、木で作られた細いチョーカーだった。
木目はなめらかで、表面には小さな葉と、絡み合う枝の模様が丁寧に彫り込まれている。
装飾は派手ではない。
けれど、見つめていると、どこか懐かしい気持ちになるような温かさがあった。
女神はチョーカーを両手で持ち上げた。
「これは、家族のチョーカー」
ルカはその言葉に、わずかに目を見開く。
「家族……」
「ええ」
「あなたが大切に思う人たちと、これからも一緒に歩いていくための証よ」
女神はルカの首へ、そっとチョーカーをつけた。
留め具が静かに閉じる。
その瞬間、木目の中を淡い金色の光が一度だけ走り、すぐに消えた。
ルカは胸元へ指を触れる。
木でできているのに、冷たくない。
レオが削った木に触れた時のような、やさしい温もりがあった。
「……ありがとうございます」
次の光が、アリアの前へ降りてきた。
くるくると舞いながら、一つのネックレスへ姿を変える。
細い金色の鎖。
その先には、小さな白い羽をかたどった飾りがついている。
羽の中心には、透き通る水色の石が一粒、雫のように揺れていた。
「きれい……」
アリアの青い瞳が、きらきらと輝く。
女神はネックレスを持ち上げ、アリアの首へそっとかけた。
胸元へ小さな羽が触れる。
水色の石が、燭台の炎を受けて静かに光った。
「これは、あなたのネックレス」
「大切にしてくださいね」
「うん!」
アリアは両手で羽の飾りを包み込む。
「ありがとう、女神さま!」
女神は続けて、木箱から生成り色の小さなポシェットを取り出した。
柔らかな布で作られ、ふたの部分には小さな羽の刺繍が入っている。
アリアの体に合わせた細い肩紐がつき、斜めに掛けても邪魔にならない大きさだった。
「これも、あなたのものよ」
「ポシェット!」
アリアは嬉しそうに受け取り、すぐに肩へ掛けてみる。
体を少し左右へ揺らすと、ポシェットも一緒に揺れた。
「似合う?」
「とても」
女神が笑う。
アリアは得意そうに胸を張った。
その隣へ、もう一つ。
白い布が、ふわりと舞い降りる。
肩から羽織れる、簡素な形の小さなマントだった。
余計な飾りはなく、端へ細い水色の縁取りだけが入っている。
背中の羽を邪魔しないよう、後ろはきれいに分かれ、アリアが動いても引っ掛からない作りになっていた。
「これは、あなたの羽を包むマント」
「旅へ出る時に使いなさい」
アリアは白いマントを胸へ抱きしめる。
「ふわふわ」
「気に入った?」
「うん!」
最後に残った小さな光が、マルルの前へ降りた。
光はとても小さかった。
マルルの体に合わせるように、ゆっくりと細い輪へ変わっていく。
そこへ、ほんの二センチほどの小さな丸いコンパクトが現れた。
銀色の縁。
表には、星と羽を組み合わせた模様が刻まれている。
閉じている時には、少し大きな飾りのようにしか見えない。
女神はそれを、マルルの首元へそっとつけた。
「ぼくの?」
「ええ」
マルルは首を曲げ、自分の胸元を一生懸命のぞき込む。
額には青い翻訳の石。
首元には、小さなコンパクト。
嬉しさを隠しきれず、尻尾がまた勢いよく揺れ始めた。
「かわいいなの!」
「よかったね、マルル」
アリアが笑う。
「うん!」
「ぼく、すっごくうれしいなの!」
三人を見渡し、女神はようやく安心したように息をついた。
「今度こそ、全部お渡しできました」
アリアはネックレスへ触れ。
ルカは木のチョーカーを手のひらで包み。
マルルは胸元のコンパクトを何度も確かめている。
礼拝堂には、しばらく穏やかな時間が流れていた。
けれど。
ルカは、胸元の木に触れながら、少しずつ笑顔を消していった。
家族。
その言葉を聞いた時から、胸の奥へ押し込めていた思いが、静かに浮かび上がっていた。
パパ。
ママ。
朝まで、確かに家にいた。
手を振ってくれた。
いってらっしゃいと言ってくれた。
今もどこかにいるのだろうか。
苦しい思いをしていないだろうか。
自分たちを探しているのだろうか。
ルカはチョーカーをぎゅっと握りしめた。
「……女神さま」
女神が振り向く。
「なあに?」
ルカは顔を上げた。
聞くのが怖かった。
もし。
答えが、自分の望んでいるものと違ったら。
けれど、聞かなければならない。
「パパとママは……」
声がかすかに震える。
「もう一度、会える?」
礼拝堂が、静まり返った。
アリアの笑顔も消える。
マルルも胸元から顔を上げ、女神を見つめた。
女神はすぐには答えなかった。
ただ、ルカの瞳をまっすぐに見つめる。
やがて。
ゆっくりと、うなずいた。
「ええ」
「二人とも、生きているわ」
ルカの目が、大きく開いた。
「……ほんと?」
「本当よ」
アリアも女神の前へ一歩出る。
「お父さんも?」
「お母さんも?」
「ええ」
女神はやさしく微笑んだ。
「二人とも無事よ」
「今は、あなたたちとは違う場所にいるの」
「だから、すぐには会えないけれど」
ルカの頬を、一筋の涙が伝った。
今度は、こらえることができなかった。
けれど。
それは、絶望の涙ではなかった。
「……よかった」
その一言だけが、ようやく口からこぼれた。
ずっと胸の奥を締めつけていたものが、少しだけほどけていく。
アリアも両手を胸へ当て、ゆっくり息を吐いた。
「よかったぁ……」
マルルも長い耳をほっと下ろした。
「ほんとに、よかったなの」
女神は三人が落ち着くのを、急かさずに待っていた。
やがて、ルカが涙を手の甲で拭う。
女神は、その姿を見届けてから、少しだけ表情を改めた。
「でも」
「どうして、そんなことが起きたのか」
「それを知ってもらわなくてはいけないわ」
「少しだけ、大切なお話をするわね」
三人は静かにうなずいた。
女神は祭壇の奥に立つ、自分によく似た石像へ目を向ける。
燭台の炎が、白い横顔を淡く照らしていた。
「この世界は、昔は一つにつながっていたの」
「人も」
「動物も」
「神獣も」
「天界も」
「今よりずっと近くて、行き来することもできたわ」
アリアは何も言わずに聞いている。
ルカも胸元のチョーカーを握ったまま、女神を見つめた。
マルルは長い耳をぴんと立てている。
「でも、ある日」
「世界をつないでいた、とても大切な鍵が壊れてしまったの」
「鍵?」
ルカが小さく聞き返す。
女神はうなずいた。
「ええ」
「その鍵は、たくさんの欠片になって、この国じゅうへ散らばってしまったわ」
「だから今は」
「世界は少しずつ離れていってしまっているの」
女神の声が、広い礼拝堂へ静かに広がっていく。
「本来なら触れ合えるはずの場所が、遠くなってしまったり」
「つながっていたものが、突然途切れてしまったり」
「あるはずの場所が、別のところへ流されてしまうこともあるわ」
ルカの指に、力が入る。
「それって……」
女神はルカへ顔を向けた。
「あなたたちの家や村が消えてしまったことも、その一つよ」
アリアが息をのむ。
「おうち……」
「なくなったんじゃないの?」
「完全になくなったわけではないわ」
女神は静かに首を振る。
「あなたたちとは違う場所へ、離れてしまったの」
「そこに、お父さんとお母さんもいるの?」
「ええ」
「だから二人は無事なの」
アリアの瞳へ、少しだけ光が戻った。
ルカも、女神の言葉を一つずつ確かめるように聞いていた。
「じゃあ」
「つながれば、帰ってくる?」
女神は、やさしくうなずいた。
「鍵が元の姿へ戻れば、離れてしまった場所を、もう一度つなぎ直すことができるわ」
女神は三人を順番に見つめた。
「だから」
「あなたたちには、この国に散らばった鍵の欠片を集めてもらいたいの」
礼拝堂が、しんと静まった。
アリアが目をぱちぱちさせる。
「わたしたちが?」
「ええ」
「アリアと」
「ルカと」
「マルル」
「三人で」
ルカは胸元のチョーカーを見る。
アリアはネックレスとポシェットへ手を触れる。
マルルは、自分の首元にある小さなコンパクトを見下ろした。
女神は、その様子を見て微笑む。
「マルル」
「そのコンパクトを開いてみて」
「これなの?」
「ええ」
マルルは小さな前足で、コンパクトの縁へ触れる。
かちり。
小さなふたが開いた。
中には、透明な硝子の下で、細い金色の針が静かに横たわっていた。
普通の方角を示す文字はない。
代わりに、中央へ小さな星の印が刻まれている。
「これは、鍵の欠片を探すための羅針盤よ」
「らしんばん?」
マルルが首をかしげる。
「欠片が近くにあると、針がその方向を教えてくれるの」
女神が指先を近づける。
すると。
止まっていた金色の針が、かすかに震え始めた。
「わぁ……」
アリアがのぞき込む。
針は右へ。
左へ。
一度大きく回ってから、ゆっくりと一つの方向を指した。
礼拝堂の壁の向こう。
まだ三人が見たことのない、遠い場所へ。
マルルは目を丸くした。
「ぼくが、みんなを案内するなの?」
「そうよ」
女神は笑う。
「とても大切な役目ね」
マルルは胸を張った。
「ぼく、がんばるなの!」
アリアもすぐに顔を上げる。
「わたしも集める!」
ルカは二人を見た。
鍵の欠片を集める。
そうすれば、離れてしまった場所をつなぎ直せる。
パパとママに、もう一度会える。
怖くないわけではなかった。
どこへ行くのかも。
何が待っているのかも分からない。
それでも。
今度は、何をすればいいのか分かっている。
ルカは小さく息を吸った。
「ぼくも行きます」
女神は三人を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう」
「でも、今夜はもう遅いわ」
「まずは、しっかり眠りなさい」
「明日から少しずつ、旅の準備を始めましょう」
「明日から?」
アリアの羽が、ぴくりと動く。
女神はくすっと笑った。
「いきなり飛び出してはいけませんよ」
「……はーい」
少しだけ残念そうに返事をするアリアを見て、ルカが笑う。
マルルも笑った。
「アリア、すぐ行きそうだったなの」
「行かないもん」
「ほんとなの?」
「ほんと!」
三人の声が重なる。
その真ん中で。
マルルのコンパクトにある金色の針だけが、遠い何かへ導くように、静かに一つの方向を指し続けていた。




