第11話 旅の支度
カーン。
カーン。
朝の鐘が、町へゆっくりと響いていた。
高い鐘楼から放たれた音は、眠りから覚め始めた家々の屋根を越え、細い路地を抜け、遠くの森へ向かって広がっていく。
「……ん」
アリアは毛布の中でもぞりと動いた。
閉じていたまぶたを、ゆっくりと開く。
見慣れない白い天井。
壁に掛けられた小さな燭台。
窓から差し込む、朝の光。
一瞬だけ、ここがどこなのか分からなかった。
「……あ」
教会。
昨日。
家が消えて。
町まで歩いて。
シスターに助けてもらって。
そして、夜。
「女神さま……」
小さくつぶやきながら、そっと胸元へ手を当てる。
指先へ触れたのは、小さな白い羽の飾りだった。
その中心で、水色の石が朝日を受け、きらりと輝いている。
「……」
夢じゃない。
本当に。
女神さまに会えたんだ。
アリアはネックレスを両手で包み込んだ。
昨夜、自分の名前を呼んでくれた声。
飛び込んだ時に受け止めてくれた腕。
頭をなでてくれた、やさしい手。
思い出すほどに、胸の奥がぽかぽかと温かくなっていく。
昨日まで胸いっぱいに広がっていた不安も、今は少しだけ小さくなっていた。
お父さんとお母さんは、生きている。
また会える。
すぐには無理でも。
鍵の欠片を集めれば、もう一度つながることができる。
「えへへ」
思わず笑みがこぼれた。
その声に気づいたのか、隣のベッドで毛布が動いた。
「……アリア?」
ルカが、まだ眠そうな顔でゆっくりと体を起こす。
「おはよう」
「おはよう」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
ルカも胸元へ手を伸ばす。
指先に触れたのは、木で作られた細いチョーカーだった。
なめらかな木目をそっとなぞる。
木でできているはずなのに、今朝も不思議なほど温かかった。
家族のチョーカー。
女神さまが言っていた言葉が、胸の中へよみがえる。
家族。
その二文字だけで、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
けれど、昨日とは違う。
どこにいるのか分からない不安は、まだ消えていない。
それでも、もういないわけではない。
今もどこかで生きている。
「パパたち……」
ルカは窓の向こうへ目を向けた。
「生きてるんだよね」
「うん」
アリアは迷わずうなずいた。
「女神さまが言ってたもん」
「うん」
ルカも、もう一度うなずく。
その声は、昨夜よりも少しだけ力強かった。
少し離れた床の上では、小さな毛布がもぞもぞと動いていた。
やがて、長い耳が一本。
ぴょこんと毛布の外へ飛び出す。
「……ふぁぁ」
大きなあくびをしながら、マルルがゆっくりと顔を出した。
眠そうに目をこすり、二人を見上げる。
「おはようなの」
アリアとルカは、同時にマルルを見つめた。
そして。
顔を見合わせて笑った。
「ほんとだ」
ルカが思わずつぶやく。
「朝になっても、ちゃんとしゃべってる」
マルルは不思議そうに首をかしげた。
「昨日もしゃべったなの」
「そうなんだけど」
ルカは苦笑する。
「もしかしたら、朝になったら元へ戻るかもしれないって、少しだけ思ってた」
マルルは額の中央へ前足を当てた。
そこには、澄んだ青い宝石が静かに輝いている。
「女神さまがくれたものなの」
「だから、大丈夫なの」
それだけ言うと、マルルは大切そうに石をなでた。
アリアも小さくうなずく。
「うん」
「ずっとお話できるね」
マルルの長い耳が、嬉しそうに揺れた。
三人は、しばらく何も言わなかった。
窓から吹き込む朝の風が、白いカーテンをやさしく膨らませる。
昨日までとは違う朝。
家は、まだ戻っていない。
旅も、まだ始まっていない。
それでも。
三人の胸の中には、進むべき道が小さな灯のようにともっていた。
その時だった。
こんこん。
部屋の扉が、やさしく叩かれる。
「皆さん、お目覚めでしょうか」
扉の向こうから、シスターの穏やかな声が聞こえた。
「朝食の準備ができましたよ」
「はーい!」
アリアは元気よく返事をすると、ベッドのそばへ置かれていた白いマントを抱き上げた。
ふわりとした柔らかな布が、腕へ触れる。
その隣には、生成り色の小さなポシェットも置かれていた。
昨夜は嬉しさでいっぱいになり、夢中で受け取った。
けれど、朝の光の中であらためて眺めると、どちらも本当に自分のものになったのだと実感できた。
アリアはポシェットを大切そうに持ち上げ、肩から斜めに掛けてみる。
小さな体にちょうどいい大きさだった。
「似合ってる」
ルカが笑う。
「ほんと?」
「うん」
アリアは嬉しそうに、その場でくるりと回った。
生成り色のポシェットが、体の動きに合わせてふわりと揺れる。
「えへへ」
マルルも、自分の首元へ目を落とした。
胸元では、小さな銀色のコンパクトが静かに揺れている。
前足を添えると、冷たいふたの感触が伝わってきた。
「ぼくも、大事にするなの」
マルルはそうつぶやくと、胸へ抱えるようにコンパクトを押さえた。
ルカも、もう一度チョーカーへ触れる。
昨日までは、何をすればよいのか分からなかった。
家はなくなった。
村も消えた。
お父さんもお母さんも、どこにいるのか分からない。
ただ、歩くしかなかった。
けれど、今は違う。
やるべきことがある。
鍵の欠片を集める。
そうすれば、もう一度みんなに会える。
その希望があるだけで、胸の中へ差し込む朝の光まで、昨日より明るく感じられた。
「朝ごはん、行こう!」
アリアが靴へ足を入れ、きゅっと紐を結ぶ。
ルカも自分の靴を履いた。
すると。
ぐぅ。
小さな音が、部屋へ響いた。
「……」
三人の動きが止まる。
ルカは笑いをこらえるように、そっと口元を押さえた。
アリアは頬を赤くする。
「……聞こえた?」
「うん」
マルルも真面目な顔でうなずいた。
「聞こえたなの」
「もう!」
アリアは恥ずかしそうに笑いながら、扉へ向かった。
その後ろをルカが続く。
マルルも、小さな足でとことこと追いかけた。
扉を開けると、廊下には朝のやわらかな光が差し込んでいた。
開け放たれた窓から吹き込む風が、焼きたてのパンの香りを運んでくる。
「いい匂い」
アリアは立ち止まり、美味しそうな香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
待っていたシスターが微笑む。
「今日は、焼きたてのパンですよ」
「ほんと!」
アリアの顔が、ぱっと明るくなった。
その様子に、ルカも自然と笑顔になる。
三人はシスターのあとについて、朝の食堂へ向かった。
◇ ◇ ◇
食堂へ入ると、大きな窓から明るい日差しが差し込んでいた。
長い木の机には、焼きたてのパンと、湯気の立つスープが並べられている。
昨日と同じ食堂。
それなのに、今日はどこか違って見えた。
「おはようございます」
昨日、食事を運んでくれた年配のシスターが、にこやかに頭を下げる。
「おはよう!」
アリアも元気よく返した。
「おはようございます」
ルカは丁寧に頭を下げる。
マルルは何も言わず、二人のあとをとことこと歩いていった。
三人は昨日と同じ席へ着いた。
若いシスターが、温かなスープを運んでくる。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「ありがとう」
アリアは両手を合わせた。
「いただきます!」
「いただきます」
ルカも続く。
マルルも前足をそろえた。
「いただきますなの」
若いシスターは、特に気づいた様子もなく、空になったお盆を持って厨房へ戻っていった。
三人は顔を見合わせることもなく、いつものように食べ始めた。
焼きたてのパンをちぎる。
スープへ少し浸し、口へ運ぶ。
柔らかなパンと温かなスープが、空っぽだったお腹へゆっくりと染み込んでいく。
「おいしい」
アリアが頬を緩ませる。
「うん」
ルカも小さく笑った。
マルルはパンの欠片を口へ運び、満足そうに耳を揺らす。
「ふわふわなの」
三人は自然と笑い合った。
食堂には、穏やかな朝の時間が流れていた。
その時だった。
「昨日さ」
アリアがパンを片手に、楽しそうに笑った。
「女神さま、また忘れ物してたよね」
ルカが吹き出す。
「引き出しを探してたね」
「すぐ戻るって言って、本当にすぐ戻ってきたなの」
マルルも小さく笑った。
「ぼく、ちょっとだけ心配したなの」
その瞬間。
ガシャン!
大きな音が、食堂へ響いた。
三人が同時に振り向く。
スープを運んでいた若いシスターが、その場へ立ち尽くしていた。
手から滑り落ちたお盆が床の上で揺れ、そのそばを木の器がからん、と転がっていく。
「い、今……」
若いシスターは目を大きく見開き、マルルを見つめていた。
「お話を……」
マルルはきょとんと首をかしげる。
「どうしたなの?」
食堂の空気が、ぴたりと止まった。
近くで朝食を取っていたシスターたちも、一斉に顔を上げる。
誰もが、マルルを見つめていた。
マルルは少しだけ耳を倒した。
年配のシスターが、ゆっくりと立ち上がる。
「……神父様を、お呼びしてまいります」
声は落ち着いていた。
けれど、その足取りはいつになく早かった。
ルカは食堂の中を見回し、ようやく気づいた。
「あ……」
自分たちにとっては、昨夜からもう当たり前になっていた。
けれど。
教会のみんなは、マルルが昨日まで「ぴ」としか話せなかったことを知っている。
アリアも同じことに気づいたらしく、目をぱちぱちさせた。
「……びっくりするよね」
「うん」
ルカは苦笑しながらうなずいた。
「たぶん、すごく」
マルルは自分の口元へ前足を当てる。
それから、周りのシスターたちを見回した。
「……しゃべらない方がよかったなの?」
「そんなことないよ」
アリアはすぐに首を振った。
「びっくりしただけだよ」
「そうだよ」
ルカも笑う。
「大丈夫」
マルルは少しだけ安心したように耳を上げた。
ほどなくして、食堂の扉が静かに開いた。
灰色の髪をきちんと整えた神父が、ゆっくりと中へ入ってくる。
その後ろには、先ほどの年配のシスターと、何人かのシスターたちの姿もあった。
神父は三人の前まで来ると、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
ルカが立ち上がり、頭を下げる。
アリアも慌てて立ち上がった。
「おはようございます!」
マルルも前足をそろえる。
「おはようなの」
神父は、その声を聞いても騒ぐことはなかった。
ただ、マルルの額に輝く青い石と、首元のコンパクトへ静かに目を向ける。
「……本当に、お話ができるようになったのですね」
「うんなの」
マルルは小さくうなずいた。
神父は近くの椅子を引き、三人と向かい合うように腰を下ろした。
「昨夜、何があったのですか」
穏やかな声だった。
「落ち着いて、初めから聞かせてください」
三人は顔を見合わせた。
アリアが、胸元のネックレスへ触れる。
「昨日の夜ね」
「女神さまに、呼ばれたの」
アリアは、部屋まで伸びてきた水色の光のことを話した。
その光を追い、三人で夜の礼拝堂へ向かったこと。
女神像の前へ水色と金色の光が集まり、本物の女神さまが姿を現したこと。
もう一度抱きしめてもらったこと。
羽を褒めてもらったこと。
話すうちに、アリアの顔へ昨夜と同じ嬉しそうな笑みが浮かんでいく。
神父もシスターたちも、誰一人として話を遮らなかった。
アリアの話が一段落すると、今度はルカが続きを話した。
女神さまが、自分たちのことをずっと見守ってくれていたこと。
お父さんとお母さんが、生きていると教えてくれたこと。
ルカは胸元のチョーカーへ触れた。
「これは、家族のチョーカーだそうです」
アリアも白い羽のネックレスを見せる。
「わたしは、これと」
「ポシェットと、マントをもらったの」
マルルは額の青い宝石を指した。
「ぼくは、翻訳の石をもらったなの」
それから、首元のコンパクトを前足でそっと持ち上げた。
「これも、女神さまがくれたなの」
神父の視線が、三人の贈り物をゆっくりと巡る。
どれも、この町では見たことのないものだった。
特に、マルルの額に輝く青い宝石からは、かすかな光が絶えず揺れている。
神父は静かに息をついた。
「女神様が、本当に皆さんの前へお姿を現されたのですね」
「はい」
ルカはうなずいた。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「それだけじゃないんです」
食堂の空気が、少しだけ変わった。
「女神さまは……」
「どうして村が消えたのかも、教えてくれました」
神父は静かにうなずいた。
「聞かせてください」
ルカは一つ息を吸った。
「昔は、この世界は一つにつながっていたそうです」
「人も」
「動物も」
「神獣も」
「天界も」
「今よりずっと近くて、行き来することができていたって」
シスターたちが、そっと顔を見合わせる。
そのような話は、教会に伝わる古い教えの中にも残されていなかった。
それでも、誰も口を挟まない。
ただ、ルカの言葉へ耳を傾けていた。
「でも、ある日」
「世界をつないでいた、大切な鍵が壊れてしまったそうです」
「鍵が……」
年配のシスターが、小さくつぶやく。
「はい」
ルカはうなずいた。
「鍵は、たくさんの欠片になって、この国じゅうへ散らばってしまったって」
昨夜の女神の言葉を、一つひとつ確かめるように話していく。
「だから今は、つながっていた場所が離れてしまったり」
「あるはずの場所が、別のところへ流されてしまったりすることがあるそうです」
神父は目を閉じ、黙って聞いている。
「ぼくたちの村も……」
ルカはチョーカーを握りしめた。
「なくなったんじゃなくて」
「ぼくたちとは違う場所へ、離れてしまっただけなんです」
アリアが、力強くうなずく。
「だから、お父さんもお母さんも生きてるの」
「女神さまが、そう言ってた」
マルルも、静かに続けた。
「みんな、無事なの」
食堂は、しんと静まり返っていた。
窓の外から聞こえるのは、小鳥のさえずりと、庭の木々が風に揺れる音だけ。
神父はしばらく目を閉じたまま、何かを考えていた。
やがて。
ゆっくりと目を開く。
「……女神様は」
「散らばった鍵の欠片を、皆さんに集めてほしいとおっしゃったのですね」
「はい」
ルカがうなずく。
「ぼくたち三人に」
アリアは、首から下げたネックレスを両手で包んだ。
「集めたら、おうちに帰れるんだって」
「みんなにも、また会えるんだって」
神父は、三人を順番に見つめた。
まだ幼い子どもたち。
昨日まで家族と暮らし、家の近くで遊び、何も知らずに笑っていたはずの子どもたち。
その小さな肩へ、あまりにも大きな役目が託されている。
神父は静かに席を立つと、窓の前まで歩いていった。
朝の光が、教会の庭を明るく照らしている。
「私は、皆さんのお話を疑ってはいません」
三人が顔を上げる。
神父は、窓の外を見つめたまま言葉を続けた。
「ですが、村が一つ消えたという出来事を、教会だけで抱えておくわけにはいきません」
ゆっくりと振り返る。
「町の騎士団へも、知らせる必要があります」
アリアの表情が、少しだけ曇った。
「怒られる?」
神父は、やさしく首を振った。
「いいえ」
「皆さんを疑うためではありません」
「消えた村を調べることも」
「これから旅へ出ようとしている皆さんを守ることも」
「教会だけでは、できないことがあります」
ルカはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
神父は穏やかに微笑む。
「騎士団へ連絡する間に、皆さんは朝食を召し上がってください」
「食事が終わりましたら、旅の支度について一緒に考えましょう」
「……うん」
アリアはお皿の上に残っているパンを見つめ、それから神父を見上げた。
「ちゃんと食べる」
「ええ」
「それも、大切な支度の一つです」
神父は優しくうなずき、食堂をあとにした。
その背中を見送りながら、ルカは胸元のチョーカーへそっと触れた。
これから先。
自分たちだけでは決められないことが、きっとたくさんある。
知らない道も。
怖いことも。
迷うこともあるだろう。
それでも。
一人ではなかった。
教会には、自分たちの話を最後まで聞き、信じてくれる人がいる。
そのことが、ルカには何より心強かった。
◇ ◇ ◇
神父は食堂を出ると、朝の光が差し込む廊下を静かに歩いていった。
白い石の床へ、窓枠の影が細長く伸びている。
廊下の奥にある小さな執務室へ入ると、扉を閉めた。
部屋の中央には、使い込まれた木の机。
壁一面には、古い書物がぎっしりと並んでいる。
神父は机の前へ腰を下ろし、一枚の便箋を広げた。
羽ペンをインクへ浸す。
そして、静かに文字を書き始めた。
森の近くにあったという村が、跡形もなく消えたこと。
そこから三人の幼い子どもが、町まで歩いてきたこと。
夜の礼拝堂へ女神が現れたこと。
言葉を話せなかった神獣が、人の言葉を話し始めたこと。
そして。
世界をつなぐ鍵が壊れ、その欠片が国じゅうへ散らばっているという話。
神父は、三人から聞いたことを一つずつ思い返しながら、丁寧に書き記していった。
やがて最後の一行を書き終える。
便箋を封筒へ入れ、赤い封蝋を垂らすと、教会の印章を静かに押した。
神父は封書を見つめ、小さく息をつく。
「……どうか」
「この子たちの言葉を、聞いてくださる方へ届きますように」
こんこん。
執務室の扉が、軽く叩かれた。
「神父様」
年配のシスターの声だった。
「使いの者を呼んでまいりました」
「ありがとうございます」
神父は扉を開け、封書を差し出す。
「西方騎士団へ」
「できるだけ急いで届けてください」
「承知いたしました」
シスターは両手で封書を受け取り、大切そうに胸元へ抱えた。
扉が閉じる。
神父は窓際へ歩き、庭を見下ろした。
食事を終えたらしい三人が、窓辺で話をしている姿が見える。
アリアが何かを話し。
ルカが笑い。
マルルは二人のそばで、長い耳を静かに揺らしていた。
「……まだ、幼い子どもたちです」
神父は胸の前で手を組んだ。
「どうか」
「力になってあげてください」
◇ ◇ ◇
昼前。
町の中央に建つ、重厚な石造りの建物。
王国騎士団、西方方面騎士団詰所。
濃紺の制服をまとった騎士たちが忙しく行き交う中、一人の使者が足早に建物へ入ってきた。
「教会より、至急の報告です」
封書は受付で受け取られ、すぐに二階へ運ばれていった。
長い廊下の一番奥。
重厚な木の扉が、静かに叩かれる。
「失礼します」
「入れ」
低く落ち着いた声が返ってきた。
扉を開ける。
部屋の中には、一人の騎士がいた。
濃紺の騎士服。
銀色の肩当て。
机いっぱいに広げられた、町と周辺の森の地図。
窓から差し込む光が、深い紺色の髪と、端正な横顔を静かに照らしている。
「教会より、至急の報告です」
騎士は地図から顔を上げた。
「こちらへ」
届けられた封書を受け取る。
教会の印章を確かめると、封蝋を静かに切った。
紙の開く音が、部屋へ小さく響く。
一行。
また一行。
騎士は、黙ったまま便箋へ目を走らせていく。
村が消えた。
三人の子ども。
女神の出現。
言葉を話す神獣。
そして。
世界をつなぐ鍵。
読み進めるにつれ、青灰色の瞳がわずかに細くなっていった。
やがて、最後の一行まで読み終える。
騎士は便箋を机の上へ置いた。
しばらく、何も言わなかった。
報告を持ってきた若い騎士も、声を掛けられずにその場で待っている。
やがて。
男は机の上に広げられた地図へ視線を落とした。
指先が、町の外に広がる森の一角へ触れる。
「馬を用意してくれ」
若い騎士が顔を上げた。
「馬を、ですか?」
「ああ」
男は静かに立ち上がる。
「まずは教会へ向かう」
「今すぐに」
「ですが」
若い騎士は、机に置かれた便箋へ目を向けた。
「この報告を、本気でお調べになるのですか」
男は外套を取り、肩へ羽織った。
腰の長剣が、かすかに音を立てる。
「子どもの話だからといって」
「調べる前から、嘘だと決めつける理由にはならない」
若い騎士は、思わず口を閉じた。
男はもう一度、地図へ目を向ける。
森の中へ記された、一本の細い道。
「現場を見なければ」
青灰色の瞳が、静かに細められた。
「真実は、分からない」
その一言を残し、男は部屋をあとにした。
廊下へ、規則正しい靴音が響く。
コツ。
コツ。
コツ。
その足音は迷うことなく、教会へ向かっていた。




