第11話 旅の準備
カーン。
カーン。
朝の鐘が、眠りから覚め始めた町へゆっくりと響いていた。
高い鐘楼から放たれた音は、並んだ家々の屋根を越え、細い路地を抜け、その向こうに広がる森へ向かって遠くまで流れていく。
「……ん」
毛布の中で、アリアがもぞりと身体を動かした。
閉じていたまぶたをゆっくり開くと、最初に見えたのは見慣れない白い天井だった。壁には小さな燭台が掛かり、窓から差し込む朝の光が白いカーテンを柔らかく透かしている。
アリアはしばらくぼんやりと天井を見つめていた。
目を覚ましたばかりの頭では、ここがどこなのかすぐには分からなかった。
「……あ」
思い出した途端、昨日の出来事が一つずつ戻ってくる。
家へ帰ったら、何もなくなっていたこと。
ルカとマルルと一緒に町まで歩き、この教会へ来たこと。
シスターに助けてもらい、初めて知らない場所で夜を迎えたこと。
そして、その夜。
「女神さま……」
小さく呟きながら、アリアは胸元へ手を伸ばした。
指先へ触れたのは、小さな白い羽をかたどった飾りだった。その中心には水色の雫石が嵌め込まれ、朝の光を受けて静かに輝いている。
昨日まではなかったものが、今もちゃんとここにある。
それだけで、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと分かった。
女神さまは、本当に自分の名前を呼んでくれた。
駆け寄った自分を受け止めて、頭を撫でながら、お父さんとお母さんは生きていると教えてくれた。
すぐには会えない。
どこにいるのかも、まだ分からない。
それでも、もう「いなくなってしまったのかもしれない」と思わなくていい。
八つに分かれた鍵の欠片を集め、壊れてしまった鍵を元へ戻せば、離れてしまった場所をもう一度つなぐことができる。
昨日まで胸いっぱいに広がっていた不安が、全部なくなったわけではなかった。これから何をするのかも、どこへ行くのかも分からないことばかりで、考えればまだ怖い。
けれど、どこへ進めばいいのかさえ分からなかった昨日とは違う。
遠くても、その先へ続く道がある。
そう思うと、胸の奥にあった重たいものの中へ、小さな明かりが一つ灯ったような気がした。
「えへへ」
思わず笑みがこぼれる。
その声に気づいたのか、隣のベッドで毛布が動いた。
「……アリア?」
ルカが、まだ半分眠っているような顔で身体を起こした。
「おはよう」
「おはよう」
二人は顔を見合わせ、それだけで何となく笑った。
ルカも昨夜のことを思い出したらしく、胸元へ手を伸ばした。指先へ触れたのは、女神さまからもらった木製のチョーカーだった。
木でできているはずなのに、触れると不思議なくらい温かい。
昨夜、女神さまから聞いた言葉が胸の中へ戻ってきた。
家族。
その言葉を思うと、やっぱり胸の奥は少しだけ締めつけられる。
「パパたち……」
ルカはチョーカーへ触れたまま、窓の向こうへ目を向けた。
「生きてるんだよね」
「うん」
アリアは迷わず頷いた。
「女神さまが言ってたもん」
「うん」
ルカも、もう一度頷く。
昨夜聞いた時と同じ答えだった。
それでも、夜の不思議な光の中で聞いた言葉を、こうして朝になってからもう一度口にしてみると、少しずつ本当のこととして胸へ馴染んでくる。
家はまだ戻っていないし、パパとママも今ここにはいない。
それでも二人は生きていて、もう一度会うために自分たちにもできることがある。
そう考えた時、ルカは昨日の朝とは少し違う気持ちで窓の外を見ることができた。
その時、少し離れた床の上で、小さな毛布がもぞもぞと動いた。
やがて、白い毛布の隙間から長い耳が一本だけ、ぴょこんと飛び出す。
「……ふぁぁ」
大きなあくびと一緒に、マルルがゆっくり顔を出した。
眠そうに前足で目元をこすり、それから二人を見上げる。
「おはようなの」
「…………」
アリアとルカは同時にマルルを見た。
そして、ほとんど同時に顔を見合わせる。
「ほんとだ」
先に笑ったのはルカだった。
「朝になっても、ちゃんとしゃべってる」
マルルは何を言われているのか分からないように首を傾げた。
「昨日もしゃべったなの」
「そうなんだけどさ」
ルカは少し照れたように頭をかいた。
「朝になったら元に戻ってるかもしれないって、ほんのちょっとだけ思ってた」
マルルは自分の額へ前足を当てた。
そこには昨夜女神さまからもらった澄んだ青い宝石があり、朝の光の中でも静かに輝いている。
「女神さまがくれたものなの。だから大丈夫なの」
「うん」
アリアも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、ずっとお話できるね」
「できるなの!」
嬉しくなったマルルの長い耳が、ぴょこんと弾んだ。
その姿がおかしくて、ルカも笑う。
三人はしばらく、朝の光の中で顔を見合わせていた。
昨日まで、マルルの言いたいことはほとんど分からなかった。それでも一緒に歩き、一緒にここまで来たけれど、今はもう、嬉しいことも怖いことも、そのまま言葉にして話すことができる。
それだけでも、三人の旅が少しだけ違うものになったような気がした。
そんな時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
こんこん。
「皆さん、お目覚めでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、昨日自分たちを迎えてくれたシスターの穏やかな声だった。
「朝食の準備ができましたよ」
「はーい!」
アリアは元気よく返事をすると、ベッドから降り、そばへ置かれていたポシェットを抱き上げた。
その隣には、昨夜女神さまからもらった旅用のマントもきれいに畳まれている。少し離れた椅子にはルカの分も置かれていた。
昨夜は一度にいろいろなことを聞き、贈り物をもらったことが嬉しくて、それぞれをゆっくり眺めている余裕もなかった。
けれど今、朝の光の中で改めて見ると、本当に自分たちのために用意されたものなのだと実感できる。
アリアはポシェットを肩から斜めに掛けてみた。
小さな身体にもきちんと収まり、歩いても邪魔にならない。
「似合ってる」
ルカが言った。
「ほんと?」
「うん」
嬉しくなったアリアは、その場で一度くるりと回ってみる。ポシェットも一緒になってふわりと揺れ、その動きを見たアリアの顔がさらに明るくなった。
「えへへ」
マルルも、自分の首元へ前足を添えていた。
そこには二センチほどの小さなコンパクトが揺れている。前足でそっと触れてみると、ひんやりとした蓋の感触が返ってきた。
「ぼくも、大事にするなの」
胸へ抱えるように、コンパクトをそっと押さえる。
ルカも自分のチョーカーを握った。
昨日までは、何をすればいいのか分からなかった。
家も、村も消えた。
パパもママもどこにいるのか分からず、ただ町へ向かって歩くことしかできなかった。
けれど今は、何のために歩けばいいのかを知っている。
八つの鍵の欠片を集める。
そうすれば、離れてしまった家族ともう一度会える。
「朝ごはん、行こう!」
アリアが靴へ足を入れ、紐を結び始めた。
ルカも自分の靴を履き、マルルも毛布から這い出してくる。
その時だった。
ぐぅ。
小さな音が部屋の中へ響いた。
「…………」
三人の動きが、ぴたりと止まった。
ルカは笑いをこらえるように口元へ手を当てる。
アリアの頬が、みるみる赤くなった。
「……聞こえた?」
「うん」
「聞こえたなの」
マルルまで真面目な顔で頷いた。
「もう!」
アリアは恥ずかしそうに笑いながら、逃げるように扉へ向かった。
その後ろをルカが続き、マルルも小さな足でとことこと追いかける。
扉を開けると、廊下には朝の柔らかな光が差し込み、開け放たれた窓から入ってきた風に乗って、焼きたてのパンの香りが流れてきた。
「いい匂い」
アリアは思わず足を止め、胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。
廊下で待っていたシスターが笑う。
「今日は焼きたてのパンですよ」
「ほんと!」
さっきまで赤かった頬も忘れたように、アリアの顔がぱっと明るくなった。
その様子を見て、ルカも自然と笑う。
三人はシスターのあとについて、朝の食堂へ向かった。
◇ ◇ ◇
食堂へ入ると、昨日も座った長い木の机に、焼きたてのパンと湯気の立つスープが並んでいた。
同じ部屋。
同じ机。
けれど、昨日ここへ案内された時とは、アリアにはまるで違う場所のように感じられた。
昨日は、温かな食事を目の前にしても、お父さんやお母さんもご飯を食べているだろうかと考えずにはいられなかった。
今も会いたい気持ちは変わらない。
けれど、もうどこにもいないのではないかと思わなくていい。
その違いだけで、パンの香りも、窓から入ってくる朝の光も、昨日より少しだけ素直に受け取ることができた。
「おはようございます」
昨日食事を運んでくれた年配のシスターが、にこやかに頭を下げる。
「おはよう!」
アリアが元気よく返し、ルカも丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
マルルも二人について昨日と同じ場所へ座る。
ほどなく若いシスターが温かなスープを運んできた。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「ありがとう」
アリアは胸の前で両手を合わせた。
「いただきます!」
「いただきます」
ルカも続き、その横でマルルまで小さな前足をそろえる。
「いただきますなの」
若いシスターは空になった盆を持って、そのまま厨房へ戻っていった。
アリアたちは、もうマルルが話すことを特別なことだと思わなくなっていた。
昨夜から何度も話し、今朝も同じように「おはよう」と言い合ったばかりだったから、それが誰かを驚かせることなどすっかり忘れていた。
焼きたてのパンをちぎり、スープへ少し浸してから口へ運ぶ。
柔らかなパンと温かなスープが、朝から空っぽだったお腹へゆっくりと染み込んでいった。
「おいしい」
アリアの頬が緩む。
「うん」
ルカも笑った。
マルルはパンの欠片を大事そうに口へ運び、満足げに耳を揺らしている。
「ふわふわなの」
その言い方がおかしくて、三人は自然と笑い合った。
そうして食べているうちに、アリアは昨夜のことをまた一つ思い出した。
「昨日さ」
パンを片手に、楽しそうに笑う。
「女神さま、また忘れ物してたよね」
ルカが吹き出した。
「引き出しを探してたね」
「すぐ戻るって言って、本当にすぐ戻ってきたなの」
マルルも思い出したらしく、長い耳を揺らした。
「ぼく、ちょっとだけ心配したなの」
その瞬間だった。
ガシャン!
大きな音が食堂へ響いた。
三人が驚いて振り返る。
少し離れたところでスープを運んでいた若いシスターが、盆を落としたまま立ち尽くしていた。床へ転がった木の器が、からん、と最後の音を立てて止まる。
「い、今……」
シスターの目は、まっすぐマルルへ向いていた。
「お話を……」
マルルは何を驚かれているのか分からず、きょとんと首を傾げた。
「どうしたなの?」
今度こそ、食堂の空気が完全に止まった。
近くで朝食を取っていたシスターたちまで、一斉に顔を上げている。
皆。
マルルを見ていた。
「…………」
集まった視線に気づき、マルルの長い耳が少しずつ後ろへ倒れていく。
やがて年配のシスターが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……神父様をお呼びしてまいります」
声こそ落ち着いていたものの、食堂を出ていく足取りは、いつもよりずいぶん速かった。
ルカはその背中を見送り、それから食堂にいる人たちの顔を順番に見た。
そこで、ようやく気づいた。
「あ……」
自分たちにとっては、もう当たり前になっていた。
けれど、教会の人たちが昨日まで知っていたマルルは、「ぴ」としか鳴けなかったのだ。
アリアも同じことに気づいたらしく、目をぱちぱちさせる。
「……びっくりするよね」
「うん」
ルカは苦笑した。
「たぶん、すごく」
マルルは少し不安そうに、自分の口元へ前足を当てた。
「……しゃべらない方がよかったなの?」
「そんなことないよ」
アリアはすぐに首を振った。
「びっくりしただけだよ」
「そうだよ」
ルカも頷いた。
昨夜までなら、マルルが何を考えているのか、表情や鳴き声から想像するしかなかった。
今は、こうして不安になったことまで自分で言葉にできる。
それを止める方が、ルカにはずっとおかしなことに思えた。
「大丈夫」
「……うんなの」
マルルの耳が、少しだけ元へ戻った。
ほどなくして食堂の扉が開き、灰色の髪をきちんと整えた神父が、先ほどのシスターと一緒に入ってきた。その後ろからも、何人かのシスターたちが気になるように顔を覗かせている。
神父は三人の前まで来ると、いつもと変わらない穏やかな顔で頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
ルカが立ち上がって頭を下げると、アリアも慌てて続いた。
「おはようございます!」
そしてマルルも、小さな前足をそろえる。
「おはようなの」
やはり人の言葉だった。
それでも神父は驚いた声を上げることなく、マルルの額に輝く青い石と、首元に揺れている小さなコンパクトへ静かに目を向けた。
「……本当に、お話ができるようになったのですね」
「うんなの」
マルルが小さく頷く。
神父は近くの椅子を引き、三人と向かい合うように腰を下ろした。
「昨夜、何があったのですか。落ち着いて、初めから聞かせてください」
三人は顔を見合わせた。
最初に胸元のネックレスへ手を添えたのは、アリアだった。
「昨日の夜ね」
昨夜のことを思い出しただけで、少し嬉しそうな顔になる。
「女神さまに、呼ばれたの」
アリアは、自分たちの寝ていた部屋まで淡い水色の光が伸びてきたところから話し始めた。
三人でその光を追い、誰もいない夜の礼拝堂へ行ったこと。
女神像の前へ水色と金色の光が集まり、その中から本物の女神さまが現れたこと。
もう一度自分を抱きしめてくれたことも、羽を褒めてくれたことも、アリアにとってはどれも外せない話だった。
話しているうちに、昨夜と同じような笑顔が顔に戻ってくる。
神父もシスターたちも、その話を子どもの空想だと笑うことはなく、誰一人途中で遮らなかった。
それだけでも、ルカには少し嬉しかった。
やがてアリアの話が一段落すると、今度はルカが続きを引き取った。
女神さまが、自分たちのことをずっと見守っていたこと。
パパとママは無事だと教えてくれたこと。
そこまで話したところで、ルカは胸元のチョーカーへ触れた。
「これは、家族のチョーカーだそうです」
アリアも、自分の白い羽のネックレスを両手で持ち上げる。
「わたしはこれと、ポシェットと、マントをもらったの」
「僕もマントをもらいました」
ルカが付け足す。
最後にマルルが、自分の額を小さな前足で示した。
「ぼくは、翻訳の石をもらったなの」
今度は首元のコンパクトへ前足を添える。
「これも女神さまがくれたなの」
神父は、三人が見せたものを順番に見つめた。
どれも、この町では見たことのないものだった。
特にマルルの額にある青い宝石は、窓から差し込む朝の光を受けているだけではなく、石そのものの内側から淡い光がにじんでいるようにも見える。
神父はしばらくそれを見てから、静かに息をついた。
「女神様が、本当に皆さんの前へお姿を現されたのですね」
「はい」
ルカは頷いた。
けれど、本当に伝えなければならないのは、そのことだけではない。
ルカは少し表情を引き締めた。
「それだけじゃないんです」
その声に、食堂の空気がほんの少し変わった。
「女神さまは、どうして村が消えたのかも教えてくれました」
神父は何も言わず、続きを促すように静かに頷いた。
ルカは昨夜聞いた話を、できるだけ間違えないよう一つずつ思い出した。
「昔は、この世界は一つにつながっていたそうです。人も動物も、神獣も、天界も、今よりずっと近くて、行き来することができていたって」
周りにいたシスターたちが、わずかに顔を見合わせる。
それでも、誰も口を挟まなかった。
「でも、ある日、世界をつないでいた大切な鍵が壊れてしまったそうです」
「鍵が……」
年配のシスターが思わず小さく呟いた。
「はい」
ルカは頷いた。
「鍵は八つの欠片になって、この国じゅうへ散らばったって。それから、今までつながっていた場所が離れたり、あるはずの場所が、別のところへ流されてしまったりすることがあるそうです」
言葉にしながら、ルカの指が無意識に木のチョーカーを握った。
「ぼくたちの村も……なくなったんじゃなくて、ぼくたちとは違う場所へ離れてしまっただけなんです」
「だから、お父さんもお母さんも生きてるの」
すぐにアリアが力強く頷いた。
「女神さまが、そう言ってた」
「みんな無事なの」
マルルも続ける。
食堂の中が静かになった。
けれど、今度の静けさは、誰も信じていないからではなかった。
神父もシスターたちも、幼い三人が話したことを一つずつ受け止めようとしている。
それが分かるから、ルカも焦らず続きを待つことができた。
しばらくして、神父が口を開く。
「……女神様は、散らばった八つの鍵の欠片を、皆さんに集めてほしいとおっしゃったのですね」
「はい」
ルカが頷いた。
「ぼくたち三人に」
アリアはネックレスを両手で包んだ。
「集めたら、おうちに帰れるんだって。みんなにも、また会えるんだって」
神父は、目の前に座っている三人を順番に見た。
昨日までは家族と暮らし、森で遊び、遠くへ旅をすることなど考えたこともなかったであろう子どもたちだった。
それなのに今、この幼い三人が八つの鍵の欠片を探しに行こうとしている。
神父はしばらく何も言わず、やがて席を立つと窓の近くまで歩いていった。
「私は、皆さんのお話を疑ってはいません」
三人が顔を上げる。
「ですが、村が一つ消えたという出来事を、教会だけで抱えておくわけにはいきません」
神父は振り返り、三人へ向き直った。
「騎士団へも知らせる必要があります」
その言葉を聞いた途端、アリアの表情に少しだけ不安が浮かんだ。
「怒られる?」
「いいえ」
神父はすぐに首を振った。
「皆さんを疑うためではありません」
アリアの目を見て、それからルカ、マルルへ順番に視線を移す。
「消えた村を調べることも、これから旅へ出ようとしている皆さんを守ることも、教会だけではできないことがあります」
その言葉を聞いた時、ルカは自分でも気づかないうちに入っていた肩の力が、少し抜けるのを感じた。
また、自分たちで何とかしなければならないのだと思っていた。
欠片を探すのも。
旅へ出る方法を考えるのも。
どこへ行けばいいのか決めるのも。
女神さまから役目をもらった以上、自分たちで全部やらなければいけないような気がしていた。
けれど、そうではないらしい。
困ったことがあれば大人へ話していい。
できないことは助けてもらっていい。
昨夜シスターから「一緒に考えましょう」と言われた時と同じだった。
神父はそんなルカの様子に気づいたのか、少しだけ表情を和らげた。
「騎士団へ連絡する間に、皆さんは朝食を召し上がってください。食事が終わりましたら、旅の準備について一緒に考えましょう」
「……うん」
アリアは皿の上に残っているパンを見て、それから神父を見上げた。
「ちゃんと食べる」
「ええ」
神父はやさしく頷いた。
「それも、大切な準備の一つです」
その答えにアリアは納得したように頷き、神父はそのまま食堂をあとにした。
ルカは遠ざかっていく背中を見送りながら、もう一度胸元のチョーカーへ触れた。
これから先、自分たちだけでは決められないことが、きっとたくさん出てくる。
知らないことも、できないこともあり、これから先またどうすればいいのかわからなくなることもあるだろう。
それでも、全部を自分一人で背負う必要はなく、自分たちの話を最後まで聞き、必要なら別の誰かへ助けを求めてくれる大人がいる。
そのことが、今のルカには何より心強かった。
◇ ◇ ◇
神父は食堂を出ると、そのまま廊下の奥にある小さな執務室へ向かった。
机へ腰を下ろし、一枚の便箋を広げる。
何を書くべきかを考える必要はなかった。
先ほど子どもたちから聞いた話を、できるだけそのまま伝えなければならない。
羽ペンをインクへ浸し、神父はゆっくり文字を書き始めた。
森の近くにあったという村が、跡形もなく消えたこと。
そこから幼い子どもたちが町まで歩いてきたこと。
夜の礼拝堂へ女神が現れたこと。
言葉を話せなかった神獣が、人の言葉を話し始めたこと。
そして、世界をつないでいた鍵が壊れ、八つの欠片となって国じゅうへ散らばっているという話。
書き進めながら、神父は何度か筆を止めた。
どれも、普通ならすぐには信じられない話ばかりだった。
けれど、だからといって書かずに済ませることはできない。
目の前でマルルは言葉を話した。
アリアたちは女神から受け取ったという品を持っている。
そして何より、村が消えたという出来事そのものは、確かめなければならない。
最後の一行を書き終えると、神父は便箋を封筒へ入れ、赤い封蝋の上へ教会の印章を押した。
出来上がった封書をしばらく見つめる。
「……どうか」
昨日、何をすればいいのか分からないままこの教会へ来た幼い二人と一匹の姿が浮かんだ。
「この子たちの言葉を、聞いてくださる方へ届きますように」
その時、執務室の扉が軽く叩かれた。
こんこん。
「神父様。使いの者を呼んでまいりました」
年配のシスターの声だった。
「ありがとうございます」
神父は扉を開き、出来上がった封書を両手で差し出した。
「西方騎士団へ。できるだけ急いで届けてください」
「承知いたしました」
シスターは封書を大切そうに受け取り、そのまま廊下を歩いていった。
扉が閉じると、神父は窓際へ移り、庭の向こうへ目を向けた。
食事を終えたらしい三人が、窓辺で何かを話している。
アリアが身振りを交えながら一生懸命話し、ルカがそれを聞いて笑い、そのそばではマルルの長い耳が楽しそうに揺れていた。
八つの鍵の欠片。
世界をつなぐ鍵。
あまりにも大きな話だった。
けれど、その中心にいるのは、まだあれほど幼い子どもたちだ。
「……どうか」
神父は胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
「力になってあげてください」
◇ ◇ ◇
昼前。
教会から託された封書は町の中を運ばれ、やがて中央に建つ重厚な石造りの建物へ届けられた。
西方騎士団詰所。
「教会より、至急の報告です」
受付で封書を受け取った騎士は、その表に押された印章を確認すると、すぐに二階へ向かった。
長い廊下の一番奥にある重厚な扉を叩く。
「失礼します」
「入れ」
中から返ってきたのは、低く落ち着いた声だった。
扉を開けると、一人の騎士が机へ向かっていた。
濃紺の騎士服に銀色の肩当てを身につけ、机の上には町と周辺の森を描いた大きな地図が広げられている。
「教会より、至急の報告です」
男は地図から顔を上げた。
「こちらへ」
差し出された封書を受け取り、教会の印章を確かめると、その場で封蝋を切った。
紙を開き、一行目から目を走らせていく。
森の近くにあった村が、跡形もなく消えた。
そこから幼い子どもたちが町へたどり着いた。
夜の礼拝堂へ女神が現れ、人の言葉を話せなかった神獣が話し始めた。
そして、世界をつなぐ鍵が壊れ、八つの欠片となって散らばっている。
読み進めるにつれて、青灰色の瞳がわずかに細められていった。
最後の一行まで読み終えた男は、すぐには何も言わなかった。
便箋を机の上へ置き、今度はその下に広げられている地図へ視線を落とす。
報告を持ってきた若い騎士も、何を言われるのかと黙って待っていた。
やがて男の指先が、町の外に広がる森の一角へ触れた。
「馬を用意してくれ」
若い騎士が顔を上げた。
「馬を、ですか?」
「ああ。まずは教会へ向かう」
男はそう言いながら椅子を離れ、壁際に掛けてあった外套を手に取った。
「今すぐに」
あまりにも迷いのない返事だったため、若い騎士は一瞬言葉を失った。
それでも机の上に置かれている報告書へ視線を落とすと、ためらうように口を開く。
「ですが……この報告を、本気でお調べになるのですか」
男は外套を肩へ羽織った。
腰に下げた長剣が、動きに合わせてわずかな音を立てる。
「子どもの話だからといって」
そこで初めて、若い騎士へまっすぐ視線を向けた。
「調べる前から嘘だと決めつける理由にはならない」
若い騎士は思わず口を閉じた。
男はもう一度地図へ目を落とした。
町から森へ続く一本の道。
その先で本当に村が消えているのなら、まず確かめなければならない。
子どもたちが何を見たのかも。
何が起きたのかも。
その話がどれほど信じがたいものであったとしても、報告を受けた自分が最初から答えを決めてしまえば、真実へたどり着くことはできない。
「現場を見なければ、真実は分からない」
それだけ言うと、男はもう振り返らなかった。
扉を開け、迷いのない足取りで廊下へ出ていく。
その背中を見送ってから、若い騎士も慌てて動き出した。
教会で待つ子どもたちは、まだ知らない。
自分たちの話を聞いた一人の大人が、それを別の大人へ伝え、その手紙を読んだ男が、すでにこちらへ向かおうとしていることを。
西方騎士団団長、シリル。
アリアたちの旅に深く関わることになる男との出会いは、もうすぐそこまで近づいていた。




