第12話 現場へ
昼前。
教会の前へ、一頭の黒馬が静かに歩みを止めた。
馬上の男は手綱を引くと、慣れた動きで地面へ降り立つ。
濃紺の騎士服。
銀色の肩当て。
腰には一本の長剣。
深い紺色の髪と、短く整えられた髭。
青灰色の瞳は穏やかだったが、その奥には、目の前にあるものを一つも見落とすまいとする鋭い光が宿っていた。
教会の扉が開く。
神父が外へ出ると、静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました、シリル様」
シリルは軽くうなずく。
「手紙は読んだ」
短い一言だった。
けれど、それを聞いた神父の表情が、わずかに和らいだ。
「急なお呼び立てにもかかわらず、お越しいただき、ありがとうございます」
「気にするな」
シリルは黒馬の首を軽くなでた。
「少し待っていてくれ」
黒馬が小さく鼻を鳴らす。
シリルは近くにいたシスターへ手綱を差し出した。
「頼む」
「はい。お預かりいたします」
シスターは丁寧に一礼し、黒馬を教会の裏手へ連れていった。
その姿を見送ると、シリルは神父へ向き直る。
「子どもたちは?」
「食堂におります」
神父は声を少し落とした。
「手紙へ記した以上のことは、まだ私にも分かっておりません」
シリルは静かにうなずく。
「そうか」
「なら、本人たちに会おう」
「こちらです」
二人は並んで教会の中へ入った。
窓から差し込む昼前の光が、白い石の床を明るく照らしている。
礼拝堂からは、蝋燭のかすかな香りが漂っていた。
しばらく歩いたところで、神父が静かに口を開く。
「……まだ、幼い子どもたちです」
シリルは前を向いたまま答えた。
「だから来た」
それだけだった。
神父はシリルの横顔を見つめ、小さくうなずいた。
やがて、二人は食堂の前へ着いた。
扉の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
シリルは、扉へ手を掛けようとした神父の隣で、一瞬だけ足を止めた。
「元気そうだな」
「はい」
神父は穏やかに微笑んだ。
「つらい出来事があったとは思えないほど、よく笑う子たちです」
少しだけ誇らしそうに続ける。
「……強い子たちです」
シリルは静かに首を横へ振った。
「違う」
神父が顔を上げる。
「子どもは、安心できる場所があれば笑う」
扉の向こうから、また小さな笑い声が聞こえた。
「守ってくれる大人がいるなら、なおさらだ」
神父は少しだけ目を見開いた。
それから、何も言わずに扉を開いた。
シリルは静かに、その向こうへ足を踏み入れる。
二人の子どもと、一匹の神獣が、一斉にこちらを振り向いた。
アリアは、パンを両手で持ったまま目を丸くした。
「だれ?」
隣にいたルカは、椅子から立ち上がる。
その足元では、マルルが長い耳をぴくりと動かしていた。
シリルは三人の前まで歩いてくると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
目線の高さが、三人と同じになる。
青灰色の瞳が、アリア。
ルカ。
そしてマルルを、順番に見つめた。
「俺はシリル」
「西方騎士団の団長をしている」
低く、落ち着いた声だった。
「神父から話は聞いた」
三人は黙って、シリルを見つめている。
シリルは少しだけ目元を和らげた。
「怖かっただろう」
その一言に、アリアの肩がわずかに揺れた。
昨夜から、たくさん笑った。
女神さまに会えた。
お父さんとお母さんが生きていると分かった。
進む道も見つかった。
それでも。
家も村も消えてしまった時の怖さまで、なくなったわけではなかった。
アリアは手の中のパンへ目を落とし、小さくうなずいた。
「……うん」
ルカも静かに目を伏せる。
「急に、何もなくなって」
「どうしたらいいのか、分からなかった」
「そうか」
シリルは、それ以上聞かなかった。
大丈夫だったのかとも。
泣かなかったのかとも聞かない。
ただ、二人の言葉をそのまま受け止めるように、静かにうなずいた。
そのことが、ルカには少しだけ不思議だった。
町へ来るまで。
誰かに話しても、信じてもらえないのではないかと思っていた。
村が消えたなんて。
家族が別の場所へ流されてしまったなんて。
自分でも、何度も夢ではないかと思った。
けれど。
目の前の男は、笑わなかった。
驚いて騒ぐことも。
疑うような目を向けることもしなかった。
シリルは三人をもう一度見回した。
「一つ頼みがあるんだが、村まで案内してくれるか」
ルカは迷わずうなずいた。
「うん」
「案内する」
アリアも椅子から立ち上がる。
「行こう!」
マルルも長い耳をぴんと立てた。
「ぼくも行くなの」
三人の返事を聞くと、シリルは静かに立ち上がった。
神父へ視線を向ける。
「出発する」
「はい」
神父は穏やかにうなずいた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
シリルは小さくうなずき、再び三人へ目を向ける。
「慌てなくていい」
「支度ができたら、教会の前へ来てくれ」
「俺は外で待っている」
そう言い残し、食堂をあとにした。
扉が閉まると、神父が三人へ微笑む。
「それでは、支度をしてきてください」
「はい!」
アリアは元気よく返事をすると、ルカとマルルを連れて部屋へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ると、アリアはベッドの上に置かれていた白いマントを持ち上げた。
「これも持っていかなきゃ」
ふわりと柔らかな布が、腕の中へ広がる。
けれど、窓から差し込む日差しはすでに強く、今から羽織って歩くには少し暑そうだった。
アリアはマントを抱えたまま、自分のポシェットへ目を落とした。
「……入らないよね」
どう見ても、ポシェットの方がずっと小さい。
マントを畳んでも、とても収まりそうにはなかった。
「持って歩けば?」
ルカが言う。
「うん……」
アリアはマントを小さく畳み、ポシェットの口へ押し込もうとした。
ほんの少しだけでも入らないだろうか。
そんな軽い気持ちだった。
その瞬間。
ふわり。
マントの周りへ淡い光が広がった。
「え?」
アリアが目を丸くする。
白い布は、風に溶けるように細くなり、そのままポシェットの中へ吸い込まれていった。
腕の中から、重みが消える。
「……ええっ?」
アリアは慌ててポシェットを両手で持ち上げた。
「マントがない!」
「え?」
ルカも駆け寄り、一緒に中をのぞき込む。
ポシェットの中は暗く、小さな底しか見えなかった。
白いマントの姿は、どこにもない。
「消えちゃった……」
アリアの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「女神さまにもらったのに」
「どうしよう……」
泣きそうになったアリアのそばで、マルルが首をかしげた。
「手を入れてみるなの」
「手?」
「うんなの」
アリアは恐る恐るポシェットの中へ手を入れた。
底へ触れるはずだった指先が、そのまま奥へ沈んでいく。
「……あれ?」
腕が、肘の近くまで入った。
けれど、ポシェットの形は何も変わらない。
さらに手を探ると。
「あっ」
指先へ、柔らかな布が触れた。
アリアはそれをつかみ、ゆっくり引き上げる。
すると。
小さなポシェットの中から、さっきの白いマントがするりと姿を現した。
「戻ってきた!」
アリアはマントを胸へ抱きしめた。
ほっとした途端、目の端へ浮かんでいた涙が笑顔に変わる。
「すごい!」
ルカも驚いたように、ポシェットとマントを見比べた。
「中が、外よりずっと広いのかな」
「分かんない」
アリアはもう一度、ポシェットをのぞき込む。
やはり中は、小さな袋にしか見えない。
「もー」
アリアは頬を膨らませた。
「女神さま、言ってくれればよかったのに」
ルカが吹き出す。
「また説明するの、忘れたのかも」
マルルも耳を揺らした。
「女神さまらしいなの」
三人は顔を見合わせ、くすくす笑った。
昨夜までなら、不思議なことが起きるたびに不安になっていた。
けれど今は。
女神さまの忘れ物や説明不足さえ、どこか懐かしく感じられる。
アリアは今度こそ安心して、白いマントをポシェットへ近づけた。
マントは再び淡い光へ包まれ、何事もなかったように吸い込まれていく。
ポシェットは重くならなかった。
膨らみもしない。
「これなら、ずっと持って歩けるね」
アリアは嬉しそうに肩へ掛けた。
胸元では、女神さまからもらった羽のネックレスが、小さく揺れている。
三人はもう一度、部屋の中を見回した。
ベッド。
小さな机。
窓辺で揺れる白いカーテン。
たった一晩を過ごしただけの部屋だった。
それでも。
家も村もなくした三人を、初めて安心して眠らせてくれた場所だった。
アリアはベッドの前へ立つと、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
ルカも部屋を見回す。
昨夜。
アリアとマルルの寝息を聞きながら、なかなか眠れなかった。
それでも、ここなら二人を守れると思えた。
「助かったね」
「うん」
マルルも、長い耳をゆっくり揺らした。
「みんな、やさしかったなの」
三人は部屋をあとにした。
◇ ◇ ◇
教会の外へ出ると、夏の風が頬をなでた。
青い空には、白い雲がゆっくりと流れている。
町では、昨日と変わらない時間が続いていた。
荷車を引いていく人。
店先で品物を並べる人。
パン屋から漂ってくる香ばしい匂い。
誰かの笑い声。
アリアは、その景色を不思議そうに眺めた。
自分たちの家は、消えてしまったのに。
この町では、昨日と同じように一日が始まっている。
みんなの世界は、ちゃんと続いている。
自分たちの村だけが。
世界からぽつんと取り残されてしまったような気がした。
「アリア?」
ルカが声を掛ける。
アリアは、はっとして振り向いた。
「なあに?」
「行こう」
「うん」
教会の前では、シリルが静かに待っていた。
黒馬は教会の裏手へ預けたままらしく、今は一人だった。
三人の姿を見ると、小さくうなずく。
「準備はいいか」
「うん!」
アリアが答えた。
「いつでも」
ルカも続く。
マルルは胸元の小さなコンパクトを前足で押さえた。
「ぼくも大丈夫なの」
シリルは三人を順番に見た。
小さな体。
細い足。
それでも、その表情に迷いはなかった。
「よし」
短く答える。
シリルが歩き出すと、三人もそのあとへ続いた。
石畳の道を進み、町の門を抜ける。
やがて道は土へ変わり、両側に広がる草が風に揺れ始めた。
アリアは一度だけ後ろを振り返る。
教会の高い鐘楼が、町の屋根の向こうへ見えていた。
帰る場所が、そこにある。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
◇ ◇ ◇
森へ入ると、空気がひんやりと変わった。
木漏れ日が地面へまだら模様を描いている。
風が吹くたび、木々の葉がさらさらと音を立てた。
「この道だよ」
アリアは迷いなく歩いていく。
「いつも、おうちに帰る時に通ってたの」
ルカも周囲を見回しながらうなずいた。
「向こうからも村へ行けるけど、こっちの方が近いんだ」
シリルは少し後ろを歩きながら、二人の話を聞いていた。
目は、道の両側へ静かに動いている。
踏み固められた地面。
浅く残った荷車の轍。
木の幹に刻まれた、小さな傷。
枝を払った跡。
確かに。
この道は、一人や二人が偶然通ったものではない。
人が繰り返し歩き、荷車が行き来し、長い間使われてきた道だった。
アリアが道の脇を指す。
「ここで、マルルを見つけたの」
そこには、木の根が土から大きく張り出していた。
「マルル、ちっちゃかったんだよ」
「今も小さいなの」
マルルが答える。
ルカが笑った。
「今よりもっと小さかったんだよ」
「アリアの手の中へ、すっぽり入ってた」
マルルは少し考えるように首をかしげた。
「そうだったなの?」
「そうだよ」
アリアが両手をお椀のように丸める。
「このくらい」
「ほんとに?」
「ほんと!」
三人の声が、森の中へ小さく広がる。
シリルはそのやり取りを聞きながら、わずかに目元を和らげた。
手紙に書かれていたのは。
消えた村。
女神。
世界をつなぐ鍵。
どれも、にわかには信じがたい話ばかりだった。
けれど。
今、目の前を歩く三人の言葉には、作り話をしている者の迷いがない。
アリアは見つけた場所を迷わず指し。
ルカは道の曲がり方を知り。
マルルは二人と過ごした日々を、当たり前のものとして語っている。
この子たちは、本当にここで暮らしていた。
少なくとも。
そのことだけは、疑う理由がなかった。
やがて、木々の間から明るい光が見えてきた。
「もうすぐだよ」
アリアが少しだけ歩調を速める。
森の出口。
そこを抜ければ、家が見える。
庭に干された洗濯物。
レオが木を削る音。
ミルが昼ごはんの支度をする匂い。
昨日まで、そこにあったもの。
もうないと分かっているのに。
森を抜ける瞬間だけ。
アリアの胸には、家が戻っているかもしれないという小さな期待が灯った。
「お父さん……」
ほとんど声にならない言葉が、口からこぼれる。
そのまま森を抜けた。
明るい日差しが、視界いっぱいに広がる。
アリアの足が止まった。
「……」
目の前には、夏草の揺れる広い草原があった。
青い空。
遠くの山。
風に波打つ緑。
それだけだった。
家はない。
畑も。
井戸も。
村の人たちが行き交っていた道もない。
森の中から続いてきた土の道は、草原へ出たところで、突然途切れていた。
アリアは何も言えなかった。
戻っているかもしれない。
ほんの少しだけ胸に抱いていた期待が、音もなく消えていく。
「……やっぱり」
声が震えた。
「ない」
ルカも、アリアの隣で立ち尽くしていた。
昨日も見た景色だった。
一晩眠って。
女神さまから、村はなくなったのではないと聞いて。
少しだけ気持ちを立て直したつもりだった。
けれど、もう一度目の前にすると。
胸の奥へ押し込めた痛みが、またゆっくりと広がっていく。
「ここです」
ルカは、草原から目を離せないまま言った。
「ここに、村がありました」
指を差す。
「あの辺りに、ぼくたちの家があって」
「向こうには畑がありました」
「井戸は……」
一度言葉に詰まる。
「井戸は、あっちです」
何もない場所を指している。
それでも、ルカには見えていた。
石を積んだ井戸。
家の壁。
作業場。
レオの大きな背中。
ミルの笑顔。
アリアも、ゆっくりと一歩前へ出た。
「ここに、おうちがあったの」
草原の一角を指す。
「お父さんが作った、おっきい机があって」
「窓のところに、お母さんのお花があったの」
声が少しずつ小さくなる。
「わたしのベッドも」
「ルカのベッドも」
「マルルの……」
最後まで言えなかった。
マルルは二人の足元で、静かに耳を伏せている。
シリルは何も言わなかった。
三人の横を通り過ぎ、道が途切れている場所まで歩いていく。
しゃがみ込み、地面へ手を触れた。
森側の土は硬い。
人や荷車が、長い間行き来していた証拠だった。
けれど。
そのすぐ先。
草原側の地面は、まるで何年も誰も通っていないように、草の根が隙間なく張っている。
境目は、あまりにもはっきりしていた。
道だけが。
刃物で切り落とされたように、突然終わっている。
シリルは草をかき分け、土の表面を確かめた。
建物を壊した跡はない。
焼けた痕跡も。
地面を掘り返した跡もない。
家や柵を撤去したのなら、何かが残る。
木片。
石。
杭を抜いた穴。
人の足跡。
けれど。
何もなかった。
あまりにも自然な草原。
だからこそ、異様だった。
シリルは立ち上がり、森の端へ沿って歩き始めた。
ほどなくして、小さく積まれた石が目に入る。
その横には、一本の枝が地面へ立てられていた。
枝の先は、町の方角へ向けられている。
近くの木へ、小さな木片が結びつけられていた。
シリルは足を止める。
木片には、震えた不揃いな文字が刻まれていた。
町へいく。
短い言葉だった。
けれど。
森の中で迷わないように。
戻ってくる人が、自分たちの行き先を知ることができるように。
幼い手で、懸命に残したものだと分かった。
シリルは木片へ触れず、じっと見つめた。
「これは、誰が?」
ルカが近づいてくる。
「ぼくです」
「パパとママが戻ってきた時に、分かるように」
ルカは一度、草原へ目を向けた。
「町に行くって、残しておこうと思って」
シリルは積まれた石を見る。
枝の向き。
文字の位置。
雨や風で簡単には落ちないよう、結ばれた紐。
全部、幼いなりに考えられていた。
「一人でやったのか」
「アリアとマルルも手伝ってくれました」
アリアが小さくうなずく。
「石、集めたの」
「ぼくは枝を見つけたなの」
シリルは三人を見つめた。
手紙の内容だけなら。
子どもたちが森で迷い、別の場所を村だと思い込んだ可能性もあった。
けれど。
道は確かにここまで続いている。
人が暮らしていた痕跡も、森の中には残っている。
そして三人は。
この場所を見つけたあと、ただ泣いていたのではない。
帰ってくる家族のために。
自分たちの行き先を残していた。
作り話のために、こんなものを用意する理由はない。
シリルは草原へ目を向けた。
「……分かった」
低い声だった。
ルカが顔を上げる。
「何が?」
シリルはゆっくりと振り返った。
「君たちは、嘘をついていない」
その言葉を聞いた瞬間。
ルカの胸の奥で、何かがほどけた。
神父も。
シスターも。
話を信じてくれた。
女神さまも、村は消えていないと教えてくれた。
それでも。
現場を見た騎士団長から、はっきりとそう言ってもらえたことは、少し違っていた。
自分たちが見たもの。
自分たちが歩いた道。
自分たちが暮らしていた村。
全部が本当だったのだと。
ようやく、誰かが確かめてくれたような気がした。
「……よかった」
ルカの口から、小さな声がこぼれる。
アリアもシリルを見上げた。
「信じてくれるの?」
「ああ」
シリルは迷わずうなずいた。
「ここに何が起きたのかは、まだ分からない」
「だが」
「村があったという君たちの言葉は信じる」
アリアは目を伏せ、胸元のネックレスを両手で包んだ。
「女神さまも、なくなってないって言ってたの」
「違う場所に行っちゃっただけなんだって」
「そうか」
シリルは草原を見渡した。
風が夏草を揺らしている。
目に見える景色だけなら。
ここには、初めから何もなかったようにしか見えない。
けれど。
見えないからといって、存在しなかったことにはならない。
「この場所は、騎士団でも調べる」
ルカの顔が上がる。
「本当に?」
「ああ」
「人も出す」
「古い地図や記録も確認する」
「何か分かったら、必ず知らせる」
ルカは何度もうなずいた。
「ありがとう」
シリルは短くうなずく。
それから、アリアへ目を向けた。
アリアは草原の一点を見つめたまま、動かなかった。
きっと。
彼女の目には、まだ家が見えているのだろう。
シリルは急かさず、その場で待った。
やがてアリアは、小さく手を振った。
「また来るね」
誰に向けた言葉なのか。
シリルには聞かなかった。
風が吹く。
草原が、さらさらと音を立てて揺れた。
◇ ◇ ◇
帰りの森は、行きよりも静かだった。
木漏れ日も。
鳥の声も。
風に揺れる葉の音も、何一つ変わっていない。
けれど。
アリアには、道がずっと長くなったように感じられた。
一歩。
また一歩。
足を前へ出す。
胸の中には、草原の景色が残っていた。
もしかしたら。
朝になれば、家が戻っているかもしれない。
そんな小さな期待を、自分でも知らないうちに抱いていた。
けれど、戻ってはいなかった。
お父さんも。
お母さんも。
家も。
まだ、あの場所にはいない。
アリアは唇をきゅっと結んだ。
泣きたくなかった。
女神さまが教えてくれた。
二人は生きている。
鍵の欠片を集めれば、また会える。
だから。
ちゃんと歩かなければならないと思った。
前へ。
自分の足で。
ルカは、隣を歩くアリアを何度も見ていた。
歩幅が、少しずつ小さくなっている。
腕も、もうほとんど振れていない。
それでもアリアは、何も言わない。
いつもなら疲れたと言うはずなのに。
今日は、黙って歩いている。
ルカには分かっていた。
足だけが疲れているのではない。
アリアは、心まで疲れている。
「アリア」
「……なあに?」
返事はした。
けれど、顔を上げるまでに少し時間が掛かった。
「もういいよ」
アリアが目を瞬く。
「なにが?」
「歩かなくていい」
「でも」
アリアは慌てて首を振った。
「だいじょうぶ」
「まだ歩けるよ」
「うん」
ルカは優しくうなずいた。
「歩けるのは知ってる」
「でも、今日はもういいよ」
その言葉に。
アリアの顔が、少しだけ歪んだ。
歩けないからではない。
頑張らなくていいと言ってもらえたことが、嬉しかった。
「……ほんと?」
「うん」
ルカは小さく笑った。
「帰りは、ぼくに任せて」
そう言うと、道の脇へ少し離れた。
静かに目を閉じる。
その体を、淡い光が包み始めた。
シリルの足が止まった。
「……?」
光の中で、ルカの輪郭が揺らぐ。
少年の姿が少しずつ低くなり。
腕と足が形を変え。
髪は、長く柔らかな毛並みへ変わっていく。
光は、さらに大きく広がった。
シリルは、思わず目を見開いた。
猫獣人。
その種族については知っている。
王都にも、猫の耳や尻尾を持つ者は暮らしている。
優れた聴覚や身体能力を持ち、身軽な者が多いことも。
けれど。
人の姿から、完全な獣の姿へ変わる者など。
まして。
子どもを背中へ乗せられるほどの大きな猫へ変わる者など。
シリルは、これまで一度も見たことがなかった。
光が静かに消える。
そこに立っていたのは、一匹の大きなラグドールだった。
白く豊かな毛並み。
耳と顔の周りには、柔らかな茶色。
澄んだ青い瞳。
森の道を塞いでしまいそうな巨体ではない。
けれど、幼いアリアを背中へ乗せるには十分な大きさだった。
シリルは言葉を失ったまま、その姿を見つめた。
先ほどまで。
自分と話していた少年が。
今、四本の足で立っている。
常識では考えられない光景だった。
けれど。
当のルカは、シリルの驚きなど気にも留めず、アリアの前まで歩いていった。
背中を低くする。
「乗って」
声は、少年の時と変わらない。
アリアの目へ、少しだけ明るさが戻った。
「いいの?」
「もちろん」
「今日は、いっぱい頑張ったから」
アリアはルカの背中へ両手を置いた。
ふわふわの毛へ、指が沈む。
何度も乗ったことがある。
自分が小さかった頃から。
疲れた時も。
森で転んだ時も。
ルカは、こうして背中へ乗せてくれた。
アリアはそっと背中へまたがると、首元の毛へ腕を回した。
「……ありがとう」
「うん」
ルカは、嬉しそうに喉を鳴らした。
マルルも慣れた様子で地面を蹴る。
ぴょん。
ルカの頭の上へ飛び乗ると、長い耳を揺らした。
「しゅっぱつなの」
シリルは、まだ驚きを隠し切れずにいた。
文献にも。
騎士団の記録にも。
完全な獣化ができる猫獣人の話は、わずかに残っている。
だが、極めて珍しい。
しかも目の前のルカは、まだ幼い。
それほどの力を持ちながら。
見せびらかすことも。
誇ることもない。
ただ、疲れた妹を背負うために使った。
シリルは青灰色の瞳を細めた。
騎士団では。
力は、戦うために磨くものだ。
敵を倒し。
誰かを守り。
任務を果たすためのもの。
けれど。
ルカにとっては、もっと近く。
もっと当たり前のことなのだろう。
疲れた家族を、家まで連れて帰る。
そのために使う力。
シリルの胸へ、静かな驚きが残った。
「……すごいな」
思わず、言葉がこぼれた。
ルカが振り向く。
「なにが?」
「いや」
シリルはわずかに口元を緩めた。
「何でもない」
ルカは不思議そうに耳を動かしたが、やがて前を向いた。
「行こう」
一行は再び歩き始めた。
ルカは背中のアリアが揺れないよう、ゆっくりと足を運ぶ。
一歩。
また一歩。
ふわふわの背中は温かかった。
アリアは頬を毛並みへ寄せる。
さっきまで胸の中に残っていた冷たい草原の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
「ルカ」
「なに?」
「パパたち、帰ってくるよね」
ルカは歩きながら答えた。
「うん」
迷いのない声だった。
「絶対、帰ってくる」
「ぼくたちが、鍵を集めるから」
アリアは小さくうなずいた。
「うん」
「わたしも頑張る」
「今日はもう頑張らなくていいよ」
ルカが言う。
アリアは少しだけ笑った。
「じゃあ、今日はお休み」
「うん」
その返事を聞くと、アリアの体から少しだけ力が抜けた。
ルカの首元へ、頬をぺたりとつける。
歩くたび。
柔らかな毛が、やさしく頬をくすぐった。
目を閉じる。
聞こえるのは。
鳥の声。
木々のざわめき。
ルカの足音。
そして、すぐ近くから伝わる、家族の温もり。
後ろを歩くシリルは、その姿を静かに見つめていた。
神父の手紙には。
三人が本当の家族のように寄り添っていると書かれていた。
だが。
その言葉の意味を、今ようやく理解した気がした。
血がつながっているかどうかではない。
種族が同じかどうかでもない。
疲れた者がいれば、背負う。
怖がる者がいれば、そばにいる。
何も言わなくても、互いの痛みに気づく。
それが。
この三人にとっての家族なのだろう。
しばらく歩くうちに、アリアの呼吸がゆっくりと整っていった。
ルカの背中で、眠ってしまったらしい。
マルルは頭の上から振り返り、声を潜める。
「寝たなの」
「うん」
ルカも小さな声で答えた。
「今日は疲れたから」
シリルは歩幅を少しだけ緩めた。
急ぐ必要はない。
現場は確認した。
子どもたちの言葉にも、嘘はなかった。
今はただ。
眠っている少女を起こさず、教会まで帰る方が大切だった。
やがて木々の間から、町の屋根が見え始めた。
その向こう。
教会の鐘楼が、青い空へ高く伸びている。
帰る場所が見えた。
ルカの足取りが、ほんの少しだけ軽くなる。
シリルはその後ろを歩きながら、もう一度、胸の中で確かめていた。
村は、確かにあった。
そして。
何の痕跡も残さず、消えている。
これは、子どもたちだけへ背負わせてよい出来事ではない。
騎士団へ戻れば。
すぐに調査隊を出す。
地図を集め。
記録を調べ。
王都へも報告を送る。
できることは、すべてする。
シリルは静かに目を細めた。
前を歩く大きな猫の背中で。
アリアは、何も知らずに眠っている。
その寝顔を守れる大人でありたいと。
シリルは、そう思った。




