第13話 子どもたちの旅
教会の門をくぐる頃には、昼を少し過ぎていた。
町の石畳へ戻ると、森の中では遠くに聞こえていた人々の声が、急に近くなる。
行き交う荷車の車輪。
店先から聞こえる呼び込み。
どこかの家から漂う、昼食の匂い。
けれど。
ルカの背中で眠るアリアは、目を覚まさなかった。
首元の柔らかな毛へ頬を埋めたまま、ゆっくりと寝息を立てている。
頭の上に乗っていたマルルは、教会の鐘楼を見上げた。
「帰ってきたなの」
「ああ」
ルカが小さな声で答える。
教会の前では、黒馬の世話をしていたシスターが、こちらに気づいて顔を上げた。
「まあ……」
大きな猫の姿を見た途端、その手が止まる。
青い瞳。
白く豊かな毛並み。
その背中には、眠ったアリアが乗っている。
頭の上には、長い耳を垂らしたマルル。
後ろからは、騎士団長であるシリルが歩いてくる。
あまりにも不思議な一行だった。
シスターは何度か目を瞬いた。
「ルカ……さん、ですか?」
「うん」
ルカが答えると、シスターはさらに目を丸くした。
「お話しできるのですね」
「いつもできるよ」
「そ、そうなのですね」
シスターは驚きながらも、すぐに表情を和らげた。
「アリアさんは?」
「寝ちゃった」
「今日は、たくさん歩いたから」
「そうでしたか」
シスターはアリアの寝顔を見つめる。
頬には、乾いた涙の跡が薄く残っていた。
「お部屋へお連れしましょうか」
「ぼくが運ぶよ」
ルカはゆっくりと教会の中へ入った。
廊下では、すれ違う者が一様に足を止めた。
けれど。
ルカは気にせず、アリアを起こさないよう静かに歩いていく。
部屋へ着くと、ベッドのそばへ体を寄せた。
マルルが先に床へ飛び降りる。
「アリア、着いたなの」
「起こさなくていいよ」
ルカは背中を低くした。
シスターが眠っているアリアの体へ腕を回し、そっと持ち上げる。
背中から温かな毛が離れると、アリアの眉がわずかに動いた。
「……ルカ」
目は閉じたままだった。
「いるよ」
ルカが答える。
その声を聞くと、アリアの顔から力が抜けた。
シスターはアリアをベッドへ横たえ、白い布を胸元まで掛ける。
アリアは枕へ頬を寄せると、再び静かな寝息を立て始めた。
ルカは、その姿を確かめてから目を閉じた。
淡い光が体を包む。
大きなラグドールの輪郭が揺らぎ、少しずつ人の姿へ戻っていく。
光が消えた時。
そこには、茶色い髪と猫の耳を持つ少年が立っていた。
首元には、青い木で作られたチョーカーがある。
シスターは驚いたまま、しばらく言葉を失っていた。
「……本当に、ルカさんなのですね」
「うん」
「びっくりした?」
「少しだけ」
シスターは胸へ手を当てた。
「いえ」
「かなり、びっくりいたしました」
ルカが小さく笑う。
その笑顔を見て、シスターもようやく笑った。
「アリアさんのことは、私が見ています」
「神父様とシリル様がお待ちですので、ルカさんも食堂へ行ってください」
ルカはベッドへ目を向ける。
「でも」
「大丈夫です」
シスターは穏やかに微笑んだ。
「目を覚ましたら、すぐに呼びに行きます」
「……分かった」
ルカはうなずいた。
「お願いします」
「はい」
ルカとマルルは、眠るアリアを部屋へ残し、静かに扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
食堂へ戻ると。
神父とシリルは、窓辺の机を挟んで向かい合っていた。
机の上には、町の周辺を描いた地図が広げられている。
シリルは、森の中を通る道へ指を置いていた。
「ここから入った」
「そして、この辺りで道が途切れている」
神父が地図をのぞき込む。
「この地図には、村が描かれておりませんね」
「ああ」
「だが、道はある」
シリルは地図の線を指でなぞる。
町から森へ。
森の中を曲がりながら進み。
途中で細くなった線は、草原の手前で終わっていた。
「古い地図を確認する必要がある」
「騎士団の保管庫だけでは足りないだろう」
「領主の館や、王都の記録院にも照会を出す」
ルカは机へ近づいた。
「村は、地図にないの?」
シリルが顔を上げる。
「ああ」
「少なくとも、この地図にはない」
「そんなはずないよ」
ルカの声が強くなる。
「村には、ずっと人が住んでた」
「お父さんも、お母さんも」
「近所のおじさんも、おばさんも」
「みんな、あそこで暮らしてたんだ」
「分かっている」
シリルは静かに答えた。
「地図へ描かれていないからといって、なかったとは考えていない」
ルカは口を閉じた。
「地図が間違っていることもある」
「意図的に記録から消された可能性も」
「何らかの力で、人々の記憶や記録へ影響が出ている可能性もある」
神父がゆっくりとシリルを見る。
「そのようなことが、本当に可能なのでしょうか」
「分からない」
シリルは正直に答えた。
「だが」
「村そのものが消えるよりは、地図から消える方が、まだ理解しやすい」
神父は小さく息をついた。
確かに。
今起きていることは、これまでの知識や常識だけで測れるものではなかった。
マルルが椅子の上へ飛び乗る。
その胸元では、小さなコンパクトが揺れていた。
「女神さまは、場所がずれたって言ってたなの」
シリルの目が、コンパクトへ向く。
「それが、鍵か」
「うんなの」
マルルは前足でコンパクトを押さえた。
「でも、今は開かないなの」
シリルは椅子へ腰を下ろした。
「詳しく聞かせてくれるか」
ルカとマルルは顔を見合わせた。
それから。
昨夜、礼拝堂で起きたことを話し始めた。
水色の光。
突然現れた女神。
村は消滅したのではなく、別の場所へ流されていること。
世界と世界をつなぐ鍵。
その鍵が八つの欠片に分かれ、各地へ散らばってしまったこと。
すべての欠片を集めれば。
村と、そこにいる家族を取り戻せるかもしれないこと。
神父は一度聞いている話だったが、何も言わず耳を傾けていた。
シリルも、途中で遮らなかった。
ルカが話し終えると。
食堂に、しばらく沈黙が流れた。
窓の外から、町を行き交う人々の声が聞こえてくる。
「つまり」
シリルが静かに口を開く。
「君たちは、その欠片を探しに行くつもりなのか」
「うん」
ルカは迷わず答えた。
「アリアも行くって言ってる」
「マルルも行くなの」
シリルは腕を組んだ。
「どこにあるのかも、分からないのだろう」
「コンパクトが教えてくれるって」
「まだ教えてくれていない」
ルカは言葉に詰まった。
「それは……」
「女神さまが、使い方を説明し忘れたなの」
マルルが申し訳なさそうに耳を伏せる。
神父が額へ手を当てた。
「やはり、そこもお忘れになったのですね」
「女神さまだから」
ルカが答える。
なぜか、三人の間には少しだけ納得したような空気が流れた。
シリルだけが、理解できない顔をしている。
「……女神とは、そういうものなのか」
「たぶん、あの女神さまだけなの」
マルルが答える。
「そうか」
シリルは短くうなずいた。
理解はできなかったが。
これ以上考えても答えは出ないと判断したらしい。
「それで」
シリルはルカを見た。
「いつ出発するつもりだ」
「準備ができたら」
「準備とは?」
「食べ物と、着替えと」
ルカは指を折る。
「地図もいると思う」
「あとは……」
「野宿するなら、毛布もいるなの」
マルルが続けた。
「雨が降った時のものも必要なの」
「うん」
「それから、お金も」
二人は真剣な表情で考えている。
シリルは黙って、その様子を見つめていた。
「却下だ」
低い声が落ちる。
ルカの動きが止まった。
「え?」
「子どもだけで旅へ出すことはできない」
シリルの言葉に迷いはなかった。
ルカは椅子から立ち上がった。
「でも」
「ぼくたちが行かなきゃ」
「なぜ、君たちでなければならない」
「女神さまに頼まれたから」
「女神に頼まれたとしてもだ」
シリルはまっすぐルカを見る。
「森の外には、魔物もいる」
「盗賊も」
「子どもを狙う者もいる」
「道に迷うこともあれば、病気になることもある」
「食べ物が尽きることも」
「寝る場所が見つからないこともある」
ルカは唇を結んだ。
どれも。
考えていなかったわけではない。
けれど。
はっきりと言葉にされると、自分たちだけでは足りないものがあまりにも多く思えた。
「ルカ」
神父が穏やかに呼ぶ。
「シリル様は、あなたたちを止めたいのではありません」
「心配しているのです」
「でも」
ルカは拳を握った。
「待ってたら、お父さんたちがどうなるか分からない」
「女神さまは、生きてるって言った」
「でも、ずっと大丈夫だとは言ってない」
声が震える。
「寒いかもしれない」
「食べるものがないかもしれない」
「けがをしてるかもしれない」
「ぼくたちが、早く助けに行かないと」
マルルも椅子の上で立ち上がった。
「ぼくたちの家族なの」
「誰かに任せて、待ってるだけはできないなの」
シリルは二人を見つめた。
怒っているわけではなかった。
だが。
簡単にうなずく様子もない。
「気持ちは分かる」
「分かってない」
ルカの口から、強い言葉が飛び出した。
神父が息をのむ。
ルカ自身も、一瞬だけ目を見開いた。
けれど。
もう、引っ込めることはできなかった。
「シリルには、帰る家がある」
「家族がいるかどうかは知らないけど」
「少なくとも、帰る場所が消えたりしてない」
「ぼくたちは」
「何もしないで待ってたら、もう一度家族に会えるのかも分からないんだ」
ルカの目へ、涙が浮かんだ。
それでも。
こぼれないように、必死で目を開いている。
「怖くても」
「危なくても」
「行かなきゃいけないんだ」
シリルは、しばらく答えなかった。
やがて。
組んでいた腕をほどく。
「そうだな」
静かな声だった。
「君の言うとおりだ」
ルカが顔を上げる。
「俺には、君たちの気持ちをすべて分かることはできない」
「家も」
「家族も」
「一夜で失ったことはない」
シリルは目を伏せた。
「分かったつもりで話すべきではなかった」
「すまない」
ルカは驚いたように、シリルを見つめた。
騎士団長。
町の人々が名前を聞いただけで背筋を伸ばすような大人が。
自分へ頭を下げている。
「でも」
シリルは顔を上げた。
「だからといって、君たちだけで行かせることはできない」
ルカの耳が伏せる。
「俺は大人だ」
「危険を知りながら、子どもを送り出すことはできない」
「それは、騎士団長だからではない」
「今、君たちの事情を知った一人の大人としてだ」
ルカは何も言えなかった。
シリルは地図へ視線を落とす。
「だが」
「行くなと言って、教会へ閉じ込めておくつもりもない」
「……え?」
シリルは指で地図の端を軽く叩いた。
「まずは、欠片の場所を確かめる」
「旅に必要なものもそろえる」
「通る道と、町を調べる」
「君たちの力についても、知っておく必要がある」
ルカがゆっくりと瞬きをする。
「それって」
「準備が整えば、行ってもいいってこと?」
「まだ許可はしていない」
シリルは即座に答えた。
ルカの肩が落ちる。
「だが、話し合う余地はある」
シリルの目元が、わずかに緩む。
「君たちが、本当に旅を続けられるのか」
「俺が確かめる」
「分かった」
その時。
食堂の扉が、静かに開いた。
「わたしもやる」
小さな声だった。
全員が振り向く。
扉のところに、アリアが立っていた。
寝起きの髪は少し乱れ。
目元は、まだ眠そうに赤い。
その後ろでは、シスターが心配そうに見守っている。
「アリア」
ルカが駆け寄った。
「起きたの?」
「うん」
アリアは目をこすりながら、食堂の中へ入る。
「シリルとルカの声が聞こえたの」
そして。
机のそばにいるシリルを見上げた。
「わたしも、ちゃんとできるよ」
「お着替えも、一人でできるし」
「お水も運べるし」
「飛ぶ練習もしてる」
小さな指を折りながら、一つずつ並べていく。
「マントも、自分でポシェットに入れられたよ」
シリルは、アリアの肩に掛かった小さなポシェットを見る。
「その中に、物が入るのか」
「うん」
アリアは胸を張った。
「すっごく、いっぱい入るみたい」
「でも」
少しだけ声を落とす。
「どのくらい入るかは、まだ分かんない」
シリルは小さく息を吐いた。
「なら」
「それも調べなければならないな」
アリアの目が明るくなる。
「旅に行ってもいい?」
「まだだ」
「ええー」
アリアの頬が膨らむ。
マルルが長い耳を揺らした。
「シリルは、なかなか許してくれないなの」
「当然だ」
シリルは真顔で答えた。
「君たちは、自分たちがどれだけ幼いか分かっていない」
「わたし、もう六歳だよ」
「十分幼い」
「ルカは八歳」
「幼い」
「ぼくは何歳か分からないなの」
「大きさを見る限り、幼い」
マルルは自分の体を見下ろした。
「見た目で決められたなの」
神父が耐え切れずに、ふっと笑った。
シスターも口元を押さえる。
ルカも、つられるように少しだけ笑う。
張りつめていた食堂の空気が、ほんの少し柔らかくなった。
シリルは立ち上がり、地図を畳んだ。
「今日は休め」
「調査は明日から始める」
「騎士団へ戻り、必要な者を連れてくる」
アリアが不安そうに見上げる。
「帰っちゃうの?」
「ああ」
「だが、明日の朝には戻る」
「ほんと?」
「約束する」
アリアは、しばらくシリルの顔を見つめた。
青灰色の瞳。
低く落ち着いた声。
きっと。
この人は、約束を忘れない。
女神さまとは、少し違う。
「分かった」
アリアはうなずいた。
「待ってる」
「ああ」
シリルは神父へ向き直る。
「今夜も、三人を頼む」
「もちろんです」
「明日、調査に必要な書類と道具を持ってくる」
「それから」
シリルは三人を見る。
「旅へ出たいのなら」
「明日から、俺の質問にはすべて正直に答えてもらう」
「できることも」
「できないことも」
「怖いことも」
「隠さずに話すんだ」
ルカは真剣な顔でうなずいた。
「分かった」
「わたしも」
アリアも手を上げる。
「ぼくもなの」
シリルは三人の顔を順番に見つめた。
「よし」
「では、明日だ」
食堂を出ようとして。
シリルは、ふと足を止めた。
振り返る。
「ルカ」
「なに?」
「さっきは、よく言ってくれた」
ルカは目を瞬いた。
「怒ってないの?」
「なぜ怒る」
「必要なことを、正直に話しただけだ」
「騎士団でも」
「間違っていると思った時に、黙っている者より、言葉にできる者の方が信用できる」
ルカは少し照れたように、視線を落とした。
「でも」
シリルは続ける。
「相手の話を最後まで聞くことも覚えろ」
「……はい」
今度は素直に返事をする。
シリルは満足そうに、わずかにうなずいた。
そして。
今度こそ食堂をあとにした。
教会の外から、黒馬の蹄の音が聞こえる。
やがて。
その音は石畳を進み、少しずつ遠ざかっていった。
アリアは窓へ駆け寄った。
黒馬に乗ったシリルの背中が、町の通りを進んでいく。
「明日、来るよね」
ルカも隣へ立つ。
「約束したから」
「うん」
「きっと来る」
マルルは二人の間から顔を出した。
「明日から、旅の準備なの」
アリアの目が輝いた。
「何からするのかな」
「ポシェットに、どれだけ入るか調べるんじゃない?」
「パン、いっぱい入るかな」
「食べ物だけじゃないよ」
「りんごも」
「それも食べ物だよ」
「お菓子も」
「だから、食べ物ばっかり」
アリアは少し考えた。
「じゃあ、お着替え」
「うん」
「それから、パン」
「戻った」
ルカが笑う。
アリアも声を上げて笑った。
マルルも耳をぱたぱたと揺らす。
窓の外。
シリルの姿は、もう見えなくなっていた。
けれど。
三人の胸には。
昨日までなかったものが、少しずつ増え始めていた。
帰る場所。
信じてくれる人。
助けようとしてくれる大人。
そして。
家族へ会うための旅が。
少しずつ。
本当の形になろうとしていた。




