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森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


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第73話 また会う日まで


 夜。


 エルヴァレイン伯爵家の浴室には白い湯気がゆるやかに漂い、広い湯船の水面には、壁際に置かれた灯りがぼんやりと揺れていた。


 アリアは肩までお湯につかると、身体の中に残っていた力を全部吐き出すように、ふうっと長く息をついた。


「あったかい……」


 今日は、旅の途中のように長い山道を歩いたわけでも、馬車を降りて何かを手伝い続けたわけでもない。


 それなのに、身体の奥には不思議な疲れが残っていた。


 大きなお屋敷へ着いて、初めてエレノアとアルベルトに会った。セレフィナとエレノアが小さかった頃の話を聞き、二人が何十年も友達でいることを知った。


 そして最後には、これから向かうミレア湖にまつわる不思議な話まで聞いた。


 楽しいことも、驚いたことも、気になることも、一日の中へたくさん入りすぎていたらしい。


 温かなお湯へ身体を預けていると、それらが少しずつ頭の中でほどけていくようだった。


「ふぅー……」


 アリアは湯船の縁へ両腕を乗せ、頬まで赤くしながら目を細めた。


 濡れた水色の髪が肩へ張りつき、小さな白い羽も湯気の中でしっとりと揺れている。


「アリア」


「ねてないよ」


「まだ何も言っていません」


 隣にいたノルンが静かに答えた。


 アリアはゆっくり顔を上げる。


「……ほんと?」


「はい」


 ノルンはいつもと変わらない顔をしている。


 アリアは少しだけ笑うと、また湯船の水面へ目を落とした。


 指先をそっとお湯へつけて動かすと、小さな輪が広がっていく。


 その輪を見ているうちに、夕食のあとに聞いた言葉が、また頭の中へ戻ってきた。


 月影の浮かぶ水鏡。


 求むる者は辿り着けず。


 忘れられし空の子のみ。


 その門を見る。


 意味は、まだ分からない。


 けれど「空の子」という言葉だけは、聞いた時からずっと胸のどこかに残っていた。


 アリアは肩越しに、自分の小さな羽をちらりと見る。


「ノルン」


「はい?」


「空の子って、なんだろうね」


 ノルンの手がわずかに止まった。


「先ほどの歌ですか?」


「うん」


 アリアはもう一度、水面へ指を滑らせた。


「わたし、空から落ちてきたでしょ?」


「そうですね」


「だから、ちょっと似てるなって思ったの」


 自分が天使だから。


 天界から人間界へ落ちたから。


 ただそれだけなら、偶然かもしれない。


 それでも、あの言葉を聞いた時に胸の奥が少しだけ動いたことを、アリアは忘れられなかった。


「気になりますか?」


 ノルンに聞かれ、アリアはすぐには答えなかった。


「うーん……」


 水面へできた輪が湯船の縁まで届き、いつの間にか消えていく。


「まだ分かんない」


「そうですね」


「ミレア湖に行ったら、分かるかな?」


「分かるかもしれません」


「そっか」


 今すぐ答えを見つけなくてもいい。


 あの湖には、これから向かうのだから。


 アリアはそう思うと、もう一度肩までお湯へ沈んだ。


 気になっていた言葉は消えなかったけれど、少なくとも今夜のうちに全部考えなくてもいいのだと思えると、少しだけ気持ちが軽くなった。


     ◇


 湯から上がり、身体を拭いてもらって脱衣室へ入ると、鏡台の上に小さな瓶が置かれていた。


 それを見つけた途端、さっきまで眠そうだったアリアの目が少しだけ大きくなる。


「あ!」


 侍女が笑った。


「覚えていらしたのですね」


「こうゆ!」


「はい。昨日と同じ香油ですよ」


「やった!」


 椅子へ座ると、侍女が濡れた水色の髪を柔らかな布で包み、丁寧に水気を取っていく。


 そのあと櫛で毛先を整え、掌へ落とした香油をほんの少しだけなじませると、湯上がりの温かな空気の中へ、花のような甘い香りがふわりと広がった。


 アリアはその匂いを吸い込みながら、鏡の中の自分を見る。


 櫛が上から下へゆっくり通るたび、絡まりのほどけた髪がするんと背中へ落ちていった。


 待ちきれなくなったアリアも、自分で毛先へ指を入れる。


「さらさらー」


 もう一度。


「さらさらー」


 指の間を髪がするりと抜けていく。


「昨日も何度もしていましたね」


「だって、さらさらなんだもん」


 アリアは髪を両手ですくい上げると、ぱっと離した。


 水色の髪がさらりと元の場所へ戻る。


「ほら!」


「はい。きれいですね」


「ね!」


 嬉しくなってノルンの方へ振り向こうとしたところで、大きな欠伸が出た。


「ふぁ……」


 慌てて口を押さえる。


「そろそろ寝た方がよさそうですね」


「まだだいじょうぶ」


「本当に?」


「うん」


 そう答えて椅子から降りたものの、寝室へ向かう途中でもう一度欠伸が出た。


 今度は自分でも少しだけおかしくなって笑う。


「……まだだいじょうぶ」


「そういうことにしておきましょう」


 ノルンが後ろからついてくる。


 ベッドへ入る頃には、アリアの目はもう半分ほどしか開いていなかった。


 柔らかな寝具へ身体を沈め、毛布を胸元まで引き上げてもらう。


「おやすみ、ノルン」


「おやすみなさい、アリア」


「ルカも……マルルも……」


「隣の部屋ですよ」


「うん……」


 返事はだんだん小さくなり、そのまま聞こえなくなった。


 香油の甘い匂いを残した水色の髪が枕へ広がり、しばらくすると、部屋にはアリアの静かな寝息だけが流れ始めた。


     ◇


 その頃。


 子どもたちが眠った屋敷の別の部屋では、まだ灯りが消えていなかった。


 卓の上には、何着もの子ども服が広げられている。


 その前に立っていたセレフィナが、一着を持ち上げた。


「こちらでしょう」


「いいえ」


 向かいに立つエレノアが、ほとんど間を置かずに首を振った。


「こちらよ」


 別の服を手に取る。


 淡い色の布地に小さな飾りがあしらわれ、動けば裾が軽く揺れそうな仕立てになっていた。


 セレフィナはしばらく眺めたあと、静かに首を振る。


「可愛いとは思いますけれど」


「あら。では決まりね」


「まだ何も決まっていません」


「可愛いのでしょう?」


「旅をするのですよ」


「だから?」


「動きやすさも必要でしょう」


「それくらい考えているわ」


 エレノアは袖を持ち上げ、布の薄さや縫い目まで見せる。


「ここは軽い布にしてあるし、裾も長すぎないわ」


「それなら、こちらの方が」


「セレフィナ」


「何です?」


 エレノアが服を卓へ戻し、じっとセレフィナを見る。


「あなた、昨日まで一人で楽しんでいたでしょう」


 セレフィナの手が止まった。


「何のことでしょう」


「アリアの髪に香油をつけて、服まで選んで」


「たまたまです」


「ずるいわ」


「…………」


 セレフィナが顔を上げる。


 エレノアも真っ直ぐ見返していた。


 少し離れた椅子では、アルベルトが何も聞こえていないような顔で紅茶を飲んでいる。


「アルベルト」


 エレノアに呼ばれ、カップを持つ手が止まった。


「何だね」


「あなたなら、どちらがいいと思う?」


 セレフィナもアルベルトを見る。


 二人分の視線を受けたアルベルトは、卓の上の服を見た。


 次にエレノア。


 それからセレフィナ。


 そして、もう一度紅茶へ口をつけた。


「どちらも似合うだろう」


「そういう答えはいりません」


「そうです」


 二人の声がぴたりと重なる。


 アルベルトは小さく息を吐いた。


「では、私は何も言わない方がよさそうだな」


 それ以上は関わらないことに決めたらしく、そのまま紅茶へ戻った。


 エレノアも追いかけず、卓の端に置かれていたもう一着へ手を伸ばした。


「では、これは?」


 今度は淡い緑色のワンピースだった。


 前身頃には鮮やかな青が細い線のように入り、袖口にも同じ色が使われている。裾には小さな飾りが並んでいるものの、長さは歩く邪魔にならない程度に抑えられていた。


 セレフィナが黙って見つめる。


「……悪くありません」


「でしょう?」


「裾も邪魔にならない」


「でしょう?」


「袖も動きやすそうです」


「でしょう?」


 エレノアの口元が少しずつ上がっていった。


「ただし」


「何?」


「髪は、下ろしたままではありません」


「分かっているわ」


 エレノアは別に用意してあった青いリボンを取り上げる。


「半分だけ上げて、後ろでこれを」


 セレフィナの眉がわずかに上がった。


「……それなら」


「決まりね」


「まだ私が」


「今、頷いたでしょう」


「頷いていません」


「頷いたわ」


「頷いていません」


 少し離れたところで、アルベルトはますます何も聞こえない顔になっていた。


     ◇


「ルカはこちらね」


 しばらくして、エレノアがもう一着を手に取った。


 今度は濃い紺色の服だった。


 上着と膝丈のズボンは動きやすく作られ、アリアの服と同じ鮮やかな青が細い線になって縁を走っている。


 ただし、こちらには蝶結びのような飾りはなく、全体がすっきりとしていた。


 セレフィナは一目見るなり頷いた。


「ええ。それがいいでしょう」


 エレノアが止まる。


「……そこは反対しないの?」


「似合うものを反対する必要がありますか?」


「ないけれど」


 二人で濃紺の服を見る。


 その横には、アリアの淡い緑色の服が置かれている。


 色も形も違うのに、同じ青い線が入っているだけで、どこか一緒のものに見えた。


「兄妹みたいね」


 エレノアがぽつりと呟く。


「そう見えるかもしれませんね」


 セレフィナの声も、少しだけ柔らかくなった。


 二人はもう一度、並べた服を眺めた。


     ◇


 翌朝。


 アリアは大きな鏡の前で、自分の姿をじっと見ていた。


「わあ……!」


 淡い緑色のワンピース。


 袖口や胸元には鮮やかな青が入り、裾にも同じ色が細く続いている。


 水色の髪は半分だけ後ろへまとめられ、そこには大きな青いリボンが結ばれていた。


 鏡の中の自分が、昨日までとは少し違って見える。


 アリアは身体を右へ向ける。


 今度は左。


 それから裾をそっと持ち上げた。


「かわいい!」


「よかったですね」


 後ろにいたノルンが笑う。


「見て!」


「見ていますよ」


「こっちも!」


 アリアは袖口を見せた。


「青いの!」


「本当ですね」


「こっちも!」


 今度は背中を向け、髪のリボンまで見せようとする。


「アリア」


 後ろからルカの声がした。


「何回見せるの?」


 アリアが振り返った。


「ルカ!」


 そして、そのまま目を丸くする。


「おそろい!」


「……完全には違うよ」


 ルカは少し居心地が悪そうに、自分の上着を見下ろした。


 濃紺の服に、アリアと同じ鮮やかな青い線が入っている。


 膝丈のズボンも動きやすそうで、首元まできちんと整えられていた。


「でも青いの一緒!」


「まあ、それは」


「おそろい!」


「……そうだね」


 ルカは少しだけ横を向いた。


 猫耳の先が、わずかに外側へ動く。


「ルカ、かわいい!」


「僕は別にかわいくなくていいから」


「かっこいい!」


「……それならいい」


 すぐに返ってきた返事が少しだけ嬉しそうに聞こえて、アリアは笑った。


「ふふっ」


「何?」


「なんでもない」


 そこへ扉が開き、セレフィナとエレノアが並んで入ってきた。


 二人とも、部屋へ入ったところで足を止める。


 まずアリア。


 次にルカ。


 それから、もう一度二人を並べて見た。


「どう?」


 アリアは待ちきれず、両手で裾を少し広げた。


「かわいい?」


 エレノアの顔がゆっくりほころぶ。


「ええ」


 一歩近づいた。


「とても」


「やった!」


 アリアの顔がぱっと明るくなる。


 その横では、セレフィナがルカの襟元を確認してから少し離れ、二人をもう一度眺めていた。


「よく似合っていますよ」


「ほんと?」


「ええ」


 エレノアは今度はアリアの周りを一度歩き、背中の羽が服へ引っ掛かっていないことや、髪を留めたリボンまで確かめた。


挿絵(By みてみん)


 それから、満足そうにセレフィナを見る。


「やはり、これでしたわね」


「髪型まで含めて、でしょう」


「服を選んだのは私よ」


「髪を決めたのは私です」


「でも服が先でしょう」


「髪が合わなければ完成しません」


 ルカが小さく息を吐いた。


「始まった」


 アリアは二人を見比べる。


 昨日から何度も見ているので、もう少しだけ分かってきた。


 たぶん、これは本気の喧嘩ではない。


「でも、二人で決めたんでしょ?」


「…………」


「…………」


 二人とも黙った。


「じゃあ二人とも勝ち!」


 アリアがにっこり笑う。


 セレフィナとエレノアはしばらく顔を見合わせていたが、先に笑ったのはエレノアだった。


「そうね」


「今回は、そういうことにしておきましょうか」


「今回は?」


「次がありますから」


 セレフィナがさらりと言った。


「また選ぶ気なの?」


 ルカが思わず聞く。


 二人から同時に視線が向いた。


「もちろん」


「当然でしょう」


「…………」


 ルカは何も言わず、そっと視線を逸らした。


 アリアには、ルカが何をそんなに心配しているのか、まだよく分からなかった。


     ◇


 朝食を終える頃には、庭では出発の準備がほとんど整っていた。


 二台の馬車の前では、朝露の残る空気の中で馬たちが静かに鼻を鳴らし、従者たちが最後の荷物を確かめている。


 アリアは玄関の前へ出ると、振り返って大きな屋敷を見上げた。


 昨日来たばかりだった。


 それなのに、もう帰る時間になっている。


 大きな窓も、花の咲く庭も、昨日までは知らなかった場所だった。


 そして、そこに住んでいるエレノアとアルベルトも、昨日までは知らない人だった。


 今はもう、そうではない。


「もう行くの?」


「ええ」


 隣でセレフィナが手袋を整えながら答える。


「まだ先がありますから」


「そっか」


 自分たちはミレア湖へ向かっている途中なのだ。


 ここでずっと過ごすわけにはいかない。


 分かっていても、楽しかった場所を離れる時には、少しだけ名残惜しい。


 そんなアリアの前へ、エレノアが歩いてきた。


「またいらっしゃい」


「うん!」


「今度はもう少しゆっくりね」


「うん!」


「ルカも」


「ありがとうございます、エレノア様」


「ノルンも」


「はい」


「マルルも」


 足元にいたマルルが、すぐに顔を上げた。


「お魚あるなの?」


「もちろん」


「来るなの!」


 迷いのない返事に、エレノアが笑った。


「それなら忘れられる心配はなさそうね」


 少し後ろに立っていたアルベルトも、アリアたちへ穏やかに目を向ける。


「旅の続きを楽しんでおいで」


「うん!」


 アリアが元気よく答えた。


 その隣では、セレフィナとエレノアが向き合っていた。


「では」


「ええ」


「また来年」


「また来年」


 二人が交わしたのは、それだけだった。


 アリアは思わず二人の顔を交互に見る。


 昨日、あんなに昔の話をしていた。


 小さかった頃からずっと一緒で、何十年も友達でいる。


 それなのに。


「ねえ」


「なあに?」


 エレノアがアリアを見る。


「一年も会わないの?」


「そうね」


「寂しくない?」


 エレノアは少しだけセレフィナへ目を向けた。


「寂しいわよ」


「じゃあ……大丈夫なの?」


「大丈夫よ」


「なんで?」


 アリアには分からなかった。


 寂しいのなら、もっと一緒にいればいいような気がする。


 けれどエレノアは少し考えただけで、何でもないことのように答えた。


「また会うもの」


「絶対?」


「ええ」


「約束してるの?」


「約束というほどでもないわね」


 エレノアが笑う。


「会いたくなったら、また会えばいいでしょう?」


 アリアは黙って二人を見る。


 セレフィナも笑っていた。


 きっと、この二人は何十年もそうやってきたのだ。


 一緒にいない時間があっても。


 次に会うのが一年後でも。


 それで終わりではないと知っている。


「そっか」


 アリアもようやく笑った。


「じゃあ、またねだね!」


「ええ。またね」


 その言葉は、さよならより少しだけ軽く聞こえた。


     ◇


 従者が馬車の扉を開け、アリアたちは順番に乗り込んだ。


 全員が席へ着いたことを確かめてから扉が閉まり、御者の合図とともに馬車がゆっくり動き始める。


「またねー!」


 アリアは窓から大きく手を振った。


 庭に立つエレノアとアルベルトも手を上げる。


「また来るなの!」


 マルルも座席から窓へ向かって前足を一生懸命振っていた。


「たぶん見えてないよ」


 ルカが言う。


「でも振るなの!」


「じゃあ僕も振っとこうかな」


 ルカも窓の外へ手を上げた。


 馬車が進むにつれ、大きな屋敷が少しずつ遠ざかっていく。


 花壇を過ぎ、長い石畳を進み、やがて黒い鉄の門を抜けた。


 木々の間に見えていた白い屋敷も、少しずつ隠れていく。


 それでもアリアは、もう見えなくなるぎりぎりまで窓の外を見ていた。


「また会えるね」


「そうだね」


 隣からルカの声がする。


 アリアはゆっくり窓から離れた。


「またね、って言えるのいいね」


「……うん」


 ルカの返事が、ほんの少しだけ遅れた。


 その理由が分かったのは、アリア自身も同じことを思い出してしまったからだった。


 森の家を出た、あの日。


 レオにも、ミルにも。


 アリアは「またね」と言わなかった。


 言う必要があるなんて思わなかったから。


 いつものように森へ出かけて、いつものように帰れば、家はそこにあると思っていた。


 お父さんも、お母さんもいる。


 夕ごはんの匂いがして。


 扉を開ければ「おかえり」と言ってもらえる。


 そう思っていた。


 けれど、帰った時。


 そこには、何もなかった。


 アリアの指が、胸元をそっと握った。


「アリア?」


 ルカが横を見る。


 アリアはすぐに顔を上げた。


「ううん」


 今度は窓の向こうへ続いている道を見る。


 終わってしまったとは思いたくない。


 自分たちは今、お父さんとお母さんにもう一度会うために進んでいるのだから。


「早く、次の欠片見つけようね」


 ルカは一瞬だけ黙ったあと、静かに頷いた。


「ああ」


「うん!」


 馬車は街道へ出た。


 ミレア湖へ向かって、また一日分の道が始まった。


     ◇


 その日の午後。


 王都にある騎士団の連絡所へ、一羽の大きな鳥が降り立った。


 青灰色の翼が大きく広がり、その羽ばたきで中庭の砂がさっと舞い上がる。


 普通の鷹よりひと回り大きな鳥型の魔獣は、石造りの止まり木へ慣れた様子で足を掛けると、係の騎士が近づいてくるのを待った。


 その脚には、小さな革筒が固定されていた。


 騎士は鳥を落ち着かせながら革筒を外し、表面へ刻まれた印を確かめる。


「西方からか」


 各地の騎士団や主要な連絡所を結び、急ぎの書簡だけを運ぶための高速便だった。


 一般の手紙や荷物を運ぶためのものではない。


 けれど離れた騎士団同士で報告を急ぐ時には、早馬をつないで送るよりはるかに速い。


 革筒から取り出された小さな封書は、その場ですぐに別の騎士へ渡された。


 表に記されている宛先は。


 シリル・ローウェル。


     ◇


 王城の一室では、シリルが机いっぱいに広げた書類へ目を通していた。


 グラナから戻ったばかりだというのに、留守の間に積み上がっていた報告は少なくない。


 一枚読み終えて脇へ置き、次の紙へ手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。


「入れ」


 若い騎士が入ってくる。


「団長。高速便が届きました」


 シリルが顔を上げる。


「どこからだ?」


「西方の連絡所を経由しています」


 差し出された封書を受け取ったシリルは、表に書かれた文字を見た途端、わずかに眉を動かした。


「エリオか」


「はい」


「分かった。ありがとう」


 騎士が一礼して部屋を出ていく。


 扉が閉まると、シリルはすぐに封を切った。


 紙を開き、最初に確認したのは、やはりアリアたちのことだった。


 全員無事。


 体調にも異常なし。


 現在もミレア湖へ向けて移動中。


 そこまで読み、シリルの肩から少しだけ力が抜けた。


「……よし」


 それから、続きを読む。


 予定していた路線馬車には乗車せず。


 シリルの目が止まった。


「ん?」


 もう一度、その行を見る。


 予定していた路線馬車には乗車せず。


 見間違いではない。


 視線をその下へ移す。


 現在は、グランヴェル辺境伯家の一行と同行。


「…………」


 シリルの眉間へ、はっきりとしわが寄った。


 さらに読む。


 セレフィナ・グランヴェル夫人の馬車にて、ミレア湖へ向かっている。


「…………」


 しばらく紙を持ったまま動かなかった。


 そして、最初へ戻る。


 全員無事。


 体調にも異常なし。


 ミレア湖へ向けて移動中。


 そこだけは問題ない。


 もう一度下へ。


 グランヴェル辺境伯家の一行と同行。


 セレフィナ・グランヴェル夫人の馬車。


「どうしてそうなった」


 誰もいない部屋で、思わず声が出た。


 まだ報告は続いている。


 街道でグランヴェル家の御者が倒れているところへ遭遇。


 アリアたちが救助。


 そのため翌日の路線馬車には乗り遅れ。


 救助の礼として、ミレア湖まで同行することになった。


 シリルは一つずつ読み直した。


 事情は分かる。


 順番に追えば、何もおかしくない。


 困っている人を見つけた。


 アリアたちが助けた。


 予定していた馬車に乗れなくなった。


 代わりにグランヴェル家の馬車へ乗せてもらった。


 すべて筋は通っている。


 ただし。


 結果だけ見ると、なぜかおかしい。


「……エリオ」


 シリルは額へ手を当てた。


 見守れとは言った。


 必要がなければ手を出すなとも言った。


 そして、絶対に見失うなとも言った。


 だが。


 グランヴェル辺境伯家の一行へ加わり、セレフィナの馬車で優雅にミレア湖へ向かえとは、一度も言っていない。


「何をしてるんだ、あいつは……」


 そこまで言ってから、シリルはもう一度、紙の最初を見る。


 全員無事。


 その文字だけは、何度読んでも変わらない。


 しばらく黙って見つめたあと、ようやく小さく息を吐いた。


「まあ……」


 紙を机へ置く。


「無事ならいい」


 結局、それが一番だった。


 そのあとシリルは、報告書の最後に書かれた目的地へ目を移した。


 ミレア湖。


 昨日、アルディオンと地図の上で確認したばかりの名前だった。


 子どもたちはもう、そこへ向かって進んでいる。


 シリルはしばらくその文字を見つめていた。


★お読みいただきありがとうございます★

アリアの可愛いドレス選びの動画はこちら(*'▽'*)

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