第72話 古い友達と古い歌
昼を過ぎた頃になると、街道の両側に続いていた畑が少しずつ途切れ、代わりに背の高い木々や長い石垣が目立つようになってきた。
石垣の向こうにはきれいに刈り込まれた草地が広がり、ときどき生垣や木々の隙間から、大きな屋根がちらりと見える。さっきまで道沿いにはいくつも家が並んでいたのに、今は一軒見つけても、その次の家まではずいぶん遠かった。
アリアは窓へ顔を寄せながら、しばらく外を眺めていた。
「あれ? ここ、お家少ないね」
「この辺りは、一軒一軒のお屋敷が大きいのですよ」
隣に座っていたセレフィナも、アリアと同じように窓の外へ目を向ける。
「お庭も広いですから、家と家の間も離れているの」
「おっきなお家?」
「ええ」
「どのくらい?」
「もうすぐ見えますよ」
その言葉を聞くと、アリアはますます窓から離れられなくなった。
「セレフィナおばあちゃんのお家?」
「私の家ではありません」
「じゃあ誰のお家?」
セレフィナは、ほんの少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「古い友人の家です」
「お友達!」
アリアはすぐに振り返った。
「ずっとお友達なの?」
「そうねえ。アリアより、もう少し大きかった頃からかしら」
「そんなに前から?」
「ええ。ずいぶん長いわね」
「ずっと?」
「ずっと」
それを聞いたアリアは、膝の上へ両手を出して指を折り始めた。
「六歳でしょ。七歳でしょ……」
「アリア」
「なに?」
「それ、全部数えるつもり?」
隣からルカに言われ、アリアは自分の両手を見た。
「……十個しかない」
「そうだね」
「足の指も使う?」
「そこまでしなくてもいいと思うよ」
セレフィナが楽しそうに笑った。
「数えなくても大丈夫ですよ。とても長い、と覚えておけば十分です」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ、そうする!」
アリアはあっさり両手を閉じたものの、頭の中ではまだ、セレフィナの言った「ずっと」という言葉が残っていた。
自分が生まれるよりもずっと前から友達で、今でもこうして会いに行く人がいる。
アリアには、それがどのくらい長い時間なのかはよく分からない。それでも、これから会う人はきっと、セレフィナのことを自分たちの知らない頃から知っているのだと思うと、少しだけ不思議で、会ってみるのが楽しみになった。
◇
しばらくすると、馬車がゆっくりと速度を落とし始めた。
「あっ!」
アリアは窓へ身を寄せる。
道の先に、大きな黒い鉄の門が見えた。
門の向こうには長い石畳がまっすぐ伸び、その両側には色とりどりの花が植えられている。さらに奥には大きな木々が並び、その隙間から白い壁と立派な屋根を持つ屋敷が見えていた。
「おっきい!」
「だから言ったでしょ」
ルカも窓から外を見ていたが、さすがに少し驚いたらしく、猫耳が前を向いている。
「でも、本当に大きいね」
「セレフィナおばあちゃんのお家と、どっちが大きい?」
「比べなくてよろしいのですよ」
「なんで?」
「友人の家を、大きさで競ったことはありませんから」
「そっか」
アリアは素直に納得した。
馬車が門をくぐると、それまで遠くに見えていた庭が少しずつ近づいてくる。窓のすぐ外を花壇が流れ、風に揺れる花の色までよく見えるようになった。
「お花いっぱい!」
「マルルも見るなの!」
足元にいたマルルも窓の外が見たくなったらしい。
ぴょん、と跳ねる。
けれど届かない。
もう一度跳ねると、今度は垂れた長い耳の先だけが、窓枠の上へひょこっと出た。
「マルル、耳しか出てないよ」
「でも見えたなの!」
「ほんと?」
「お花いっぱいなの!」
どうやって見えたのかは少し怪しかったが、マルルが満足そうなので、アリアもそれ以上は言わなかった。
やがて馬車が屋敷の正面へ回り込み、ゆっくりと止まった。
「着きましたよ」
セレフィナが言う。
「今日は、こちらで一晩お世話になります」
「泊まるの?」
「ええ」
「お友達のお家に?」
「そうです」
「わあ!」
アリアはすぐに扉の方へ身体を向けた。
けれど、まだ開かない。
「まだ?」
「もう少しですよ」
「はぁい」
外では従者たちが馬車の位置を確かめ、踏み台を整えているらしい。
以前なら待ちきれずに立ち上がっていたかもしれないが、最近は馬車から降りる時にも順番があることを覚えた。アリアは膝の上へ両手を置いて待ち、やがて扉が開くと、ぱっと顔を明るくした。
「お降りいただけます」
「うん!」
一番に立ち上がる。
「アリア、足元」
「分かってるよ」
ルカに言われる前から一度下を見て、踏み台の位置を確かめる。
一段。
もう一段。
最後は少しだけ勢いをつけて地面へ降りた。
◇
顔を上げたところで、アリアの足が止まった。
屋敷の前に、二人の人物が待っていた。
一人は、銀色の髪を後ろへ流した老紳士だった。
濃い色の上着をきちんと着込み、背筋をまっすぐ伸ばしている。穏やかな顔をしているのに、立っているだけでどこか落ち着いた雰囲気があった。
その隣には、金色の髪に白いものが混じった女性が立っている。
深い緑色のドレスに、上品にまとめられた髪。胸元には緑色の石が光っていた。
その女性が、馬車から降りてきたセレフィナを見た。
「セレフィナ」
「エレノア」
二人とも、それだけだった。
駆け寄るわけでもなく、大げさに手を広げるわけでもない。ただ互いの顔をじっと見ているので、アリアもつられて二人を見比べた。
これが、ずっと昔から友達だった人たちの挨拶なのだろうか。
そう思ったところで、エレノアが口を開いた。
「遅かったじゃない」
「予定より一日遅れただけですよ」
「一日もよ」
「あなたは昔から大げさなの」
「あなたが適当すぎるの」
「着いたのだからいいでしょう?」
「よくありません」
「では帰りましょうか?」
「それはもっと駄目!」
「どちらなの?」
アリアは目をぱちぱちさせた。
てっきり再会を喜ぶのかと思っていたのに、会った途端に言い合いが始まった。
隣を見ると、ルカも黙って二人を見ている。
「セレフィナ様と……お友達なんだよね?」
「そう聞いたけど」
「喧嘩してる?」
「……分からない」
二人で小声になっていると、銀髪の老紳士が静かに笑った。
「いつものことだ」
「いつもの?」
「ああ」
彼はアリアたちへ穏やかに目を向けた。
「私はアルベルト・エルヴァレインだ。ようこそ、我が家へ」
「あるべると?」
「そうだ」
「わたし、アリア!」
「ああ。聞いているよ」
「知ってるの?」
「妻が、君たちが来るのをずいぶん楽しみにしていてね」
「アルベルト」
すぐにエレノアが振り返った。
「余計なことを言わなくてもよろしいでしょう」
「君が窓から外を見に行くのを、三度目までは数えていたんだがね」
「…………」
その瞬間、セレフィナの口元がゆっくり上がった。
「エレノア。ずいぶん楽しみにしていたのね」
「あなたではありません」
エレノアはアリアたちへ目を向けた。
「まあ」
「その子たちです」
「それは残念」
「あなたには毎年会っていますもの」
「ひどいわ」
言葉だけ聞けば、やっぱり仲が悪いようにも聞こえる。
けれど。
二人とも笑っている。
アリアはそっとルカの袖を引いた。
「ねえ」
「なに?」
「仲良し?」
「……たぶん」
「喧嘩してない?」
「たぶんしてない」
「難しいね」
「大人だからね」
「そこ、聞こえていますよ」
セレフィナが言った。
「聞こえてた!」
「普通に喋ってたからね」
ルカが小さく息を吐いた。
◇
屋敷へ入ると、アリアはまた足を止めた。
「ひろーい!」
天井が高く、大きな階段が左右へ分かれて伸びている。その間には花の飾られた卓が置かれ、窓から入る午後の光が磨かれた床の上へ長く伸びていた。
どこを見ても、さっきまで乗っていた馬車よりずっと広い。
思わず奥まで走ってみたくなったところで。
「走らないでね」
エレノアが言った。
「はぁい」
アリアはちゃんと返事をした。
一歩。
二歩。
三歩。
広い床を見ると、ほんの少し足が速くなる。
「アリア」
「走ってないよ!」
「まだ何も言ってないよ」
ルカに言われ、アリアはそっと速度を戻した。
その様子を見ていたエレノアが、口元を押さえている。
「かわいいでしょう?」
セレフィナが言った。
「……ええ」
返事が少し遅かった。
「だから連れてきたの?」
「たまたまです」
「本当に?」
「本当ですよ」
エレノアはアリアを見る。
次にルカ。
その少し後ろにいるノルン。
マルル。
そしてエリオ。
一人ずつ見てから、ふっと表情を緩めた。
「まあ、いいわ。今日はゆっくりしていきなさい」
「うん!」
「お菓子もありますよ」
「ほんと?」
「お魚はあるなの?」
「マルル!」
アリアが振り返る。
エレノアも、今の声がどこから聞こえたのか確かめるように視線を下げた。
「……あなたが聞いたの?」
「そうなの!」
エレノアの目が少し丸くなる。
「本当にお話しするのね」
「するなの!」
「まあ。お魚ならございますよ」
「あるなの!」
エレノアは腰を屈め、マルルと目の高さを近づけた。
「初めまして。エレノアよ」
「マルルなの!」
「よろしくね」
「お魚よろしくなの!」
「それが先なのね」
「大事なの」
エレノアはとうとう声を上げて笑った。
その笑い声を聞いて、アリアもつられて笑う。
「エレノアおばあちゃん、お魚あるんだって!」
「ええ。ありますよ」
「マルル、よかったね」
「よかったなの!」
初めて会ったばかりなのに、さっきまで少し遠く見えていたエレノアが、急に近くなったような気がした。
◇
夕食を終えたあと、アリアたちは庭に面した小さな居間へ移った。
窓の外では、昼間あれほど鮮やかだった花々が夕暮れの色へ少しずつ溶けている。卓には大人たちの紅茶と、アリアたちのための温かい果実の飲み物、それから小さなお菓子が並べられていた。
アリアはお菓子を一つ食べ終えると、昼間からずっと気になっていたことを思い出した。
「ねえ、エレノアおばあちゃん」
「なあに?」
「セレフィナおばあちゃんと、ずっとお友達なの?」
「そうよ」
「ずーっと?」
「ずーっと」
「喧嘩しないの?」
「するわよ」
あまりにも早い返事だったので、アリアはすぐにセレフィナを見る。
「するの?」
「しますよ」
「今日もしてた?」
「していません」
「していたわ」
エレノアが言った。
「していません」
「門の前で」
「あれは会話です」
「昔からそう言うのよ」
アリアは二人を交互に見た。
やっぱり、昼間に見たものは喧嘩だったのだろうか。
「……難しい」
ルカが飲み物へ口をつける。
「大人だからね」
「また聞こえていますよ」
セレフィナが言うと、ルカは今度は平然と返した。
「今度はわざとです、セレフィナ様」
「ルカ」
「なに?」
「強くなったわね」
「誰のせいですか」
その返事にセレフィナが楽しそうに笑い、エレノアまでつられて笑った。
アリアも一緒に笑いながら、二人を見た。
喧嘩もする。
意見が違うこともある。
それでも、ずっと友達でいられるらしい。
アリアには何十年先のことなんてまだ想像できなかったけれど、もし自分とルカやマルルやノルンも、ずっと先まで一緒にいられたなら、こんなふうに昔のことを話して笑うようになるのだろうか。
そう思うと、さっきまでただ長いだけだった「ずっと」という言葉が、ほんの少しだけ違って感じられた。
◇
「二人は、どうやってお友達になったの?」
アリアが尋ねると、エレノアとセレフィナは顔を見合わせた。
「どうだったかしら」
「覚えていないわ」
「小さかったものね」
「そうね」
「じゃあ、最初からずっと?」
「そういうことになりますね」
「すごい!」
アリアはさらに身を乗り出した。
「冒険もした?」
「アリア」
ルカが呆れたように言う。
「なんで友達だと冒険することになるの」
「だって楽しそうだもん」
「しましたよ」
セレフィナが何でもないことのように答えた。
「したの!?」
今度はルカまで顔を上げた。
エレノアが静かにカップを置く。
「セレフィナ」
「何?」
「どの話をするつもり?」
「どれがいいかしら」
「ちょっと待ってください、セレフィナ様」
ルカが眉を寄せる。
「どれ、って何ですか?」
「いくつかありますから」
「いくつか?」
「まあ」
エレノアが少し遠くを見るように目を細めた。
「若かったのよ」
「その言い方、絶対何かあるでしょ」
エリオが小さく呟いた。
「聞きたい!」
アリアが両手を上げる。
「マルルもなの!」
「では」
セレフィナが微笑んだ。
「誘拐事件のお話でも」
「誘拐!?」
アリアとルカの声が重なる。
「されたの!?」
「されたわ」
エレノアが答える。
「されていません」
セレフィナが答える。
ルカの眉がさらに寄った。
「もう話が合ってない」
◇
二人が十五歳だった頃。
王都で、大きな武術大会が開かれることになったという。
「ぶじゅつ大会!」
その言葉を聞いた途端、アリアの目が輝いた。
「出たの!?」
「出ようとしたの」
エレノアが答えた。
「セレフィナが」
「あなたもでしょう?」
「私は付き添いよ」
「馬を二頭用意した人が?」
エレノアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「…………」
「付き添い?」
ルカが聞く。
エレノアは何事もなかったように紅茶を飲んだ。
「付き添いです」
「今、間がありましたよ、エレノア様」
「気のせいよ」
どうやら、二人とも行く気だったらしい。
アリアの中では、十五歳だったセレフィナとエレノアが馬に乗っている姿が少しずつ浮かび始めていた。
「父には反対されました」
セレフィナが続ける。
「当たり前じゃないですか?」
エリオがすぐに反応した。
「十五歳だったんですよね?」
「十五歳でした」
「二人だけで王都まで?」
「ええ」
「馬で?」
「ええ」
「夜に?」
「そうです」
「止められて当然ですよね!?」
とうとうエリオが声を上げた。
アルベルトは、そんなやり取りを聞きながら静かに紅茶を飲んでいる。
「私も、そう思う」
「ですよね!」
「だが、私が知った時には三十年ほど経っていたからな」
「遅かった!」
ルカが吹き出した。
アリアはすっかり話の中へ入り込み、続きを待っている。
「それで?」
「夜に屋敷を抜け出しました」
「ぬけ出した!」
「馬で王都へ向かいました」
「おうと!」
聞くたびに話が大きくなっていく。
アリアの頭の中では、若い二人が夜の街道を馬で走る姿が、もうすっかり出来上がっていた。
「ところが翌朝」
今度はエレノアが続きを引き取る。
「私の父が、セレフィナに誘拐されたと騒ぎ始めたの」
「なんで!?」
「私がいなくなったからでしょうね」
「一緒に行ったんでしょ?」
「そう説明したわ」
「でも?」
「聞かなかったの」
ルカが額を押さえた。
「娘が勝手に夜逃げしたって認めたくなかったんじゃないですか?」
エレノアが少し考える。
「たぶん、それね」
「それで誘拐にしたの!?」
「ええ」
アリアは慌ててセレフィナを見る。
「セレフィナおばあちゃん、悪い人になったの?」
「一晩だけ」
「一晩だけ!?」
「翌日には王国騎士団に見つかりましたから」
「早っ!」
「若い女の子二人が、目立つ馬で街道を走っていたもの」
エレノアが笑った。
「しかもセレフィナは、騎士に向かって」
「それは言わなくていいでしょう」
「何て言ったの?」
アリアがさらに身を乗り出す。
「『大会が終わってから捕まえてください』って」
「セレフィナ!」
エリオがとうとう額を押さえた。
「駄目だろ、それ!」
「昔の話です」
「昔でも駄目です!」
ルカはもう笑いを堪えられなくなっていた。
「それでどうなったの?」
「連れ戻されました」
「大会は?」
「出られませんでした」
「あー……」
アリアの肩が落ちた。
「残念」
「そこを残念がるの?」
ルカが笑いながら聞いた。
「だって、セレフィナおばあちゃん出たかったんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ残念だよ」
「……まあ、そうだけど」
ルカも少しだけ納得したらしい。
「戻ったあとが大変だったのよ」
エレノアが言う。
「怒られた?」
「ええ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「どのくらい?」
「三日」
セレフィナが答えた。
「五日よ」
エレノアが言う。
「三日です」
「五日だったわ」
「三日です」
「五日よ」
二人とも、さっきまで笑っていたのに、そこだけは本気で譲るつもりがないらしい。
アリアは二人を見比べ、それからルカへ顔を寄せた。
「また喧嘩?」
「これはたぶん喧嘩」
「四十年以上経っても、ここだけは譲らないのよ」
エレノアが呆れたように言う。
「あなたが間違えているからです」
「ほら」
エレノアがセレフィナを見る。
セレフィナも負けじと見返した。
けれど、そのまま数秒も経たないうちに、二人とも同時に笑い出した。
「おばあちゃんたち、面白い!」
「面白いなの!」
「褒めてるのかな」
ルカが言う。
「たぶん違うと思うぞ」
エリオが答えた。
アリアには、やっぱり大人の友情というものは少し難しかった。
それでも、昔に失敗したことも、怒られたことも、今では二人で笑える思い出になっている。
もし「ずっと友達」というものが、こんなふうに昔の出来事まで一緒に覚えていられることなのだとしたら。
それは、少し素敵なことなのかもしれない。
◇
笑い声が落ち着いた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
庭に置かれた小さな灯りだけが、花壇や石の縁を淡く照らしている。
アリアは果実の飲み物を少しずつ飲みながら、さっきまで聞いていた二人の昔話を頭の中でもう一度思い返していた。
そんな時。
「そういえば」
エレノアがカップへ手を添えた。
「あなたたちは、ミレア湖に向かっているのよね?」
「うん!」
「そう……」
それまで楽しそうに昔話をしていたエレノアが、窓の外へ目を向けた。
ほんの少しだけ、その表情が変わる。
「懐かしいわね」
「エレノアおばあちゃんも行ったことあるの?」
「何度も」
「いっぱい?」
「ええ」
アリアの中で、セレフィナから聞いていたまだ見ぬ湖と、目の前にいるエレノアの昔が少しだけつながった。
「ミレア湖へ行くなら、一つだけ覚えておいてもいいかもしれないわ」
「なぁに?」
「昔から、不思議な湖として知られているの」
「不思議?」
アリアが瞬き、隣にいたルカも顔を上げた。
「何があるんですか、エレノア様?」
「満月の夜」
エレノアの声が、さっきまでより少し静かになる。
「湖の真ん中に、何かが現れることがあるそうよ」
「何か?」
「それが、誰にも分からないの」
「見た人いないの?」
「いるわ」
「じゃあ分かるでしょ?」
「それが分からないのよ」
見たのに分からない。
最初から話が変だった。
アリアは少し眉を寄せる。
「なんで?」
「人によって、見えるものが違うから」
「違う?」
「人影だったと言う人もいるし、大きな光だったと言う人もいる。月の欠片が、水の上に浮いているようだったと話した人もいるわ」
「月の欠片……」
アリアは、まだ見たことのない湖の上へ、白い月のようなものが浮かんでいるところを想像した。
その横では、ノルンが静かに話を聞いていた。
「同じ場所に現れるのですか?」
「湖の中心だと言われているわ」
「舟で行けばいいんじゃないですか?」
ルカが尋ねる。
「みんな、そう考えたの」
「行ったの?」
「ええ。漁師や冒険者に魔法使い、それに湖に宝があると考えた貴族まで」
「見つけた?」
アリアは知らず知らずのうちに、椅子の端まで身体を寄せていた。
エレノアはゆっくり首を振る。
「誰も辿り着けなかったの」
「え?」
アリアの顔から、さっきまでの笑いが消えた。
「でも、見えるんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、どうして?」
「舟で近づくでしょう?」
「うん」
「近づいたと思っても、気づけば、また同じだけ離れているそうよ」
アリアはすぐには意味が分からず、頭の中で湖の上を進む舟を思い浮かべた。
目の前には、ちゃんと何かが見えている。
舟を漕げば近づくはずなのに、いくら進んでも距離が変わらない。
「逃げるの?」
「そう見えるのかもしれないわね」
「魔法なら?」
ルカが聞く。
「駄目だったそうよ」
「飛んだら?」
今度はアリアが聞いた。
舟で近づけないなら、空から行けばいい。
自分なら、そうする。
けれどエレノアは少しだけ笑った。
「それも試した人がいたそうだけれど、同じだったとか」
アリアは黙り込んだ。
舟でも駄目。
魔法でも駄目。
空を飛んでも駄目。
それなのに、見えてはいる。
「不思議なのはね」
エレノアが続ける。
「誰も、それを見失ったとは言わないことなの」
「ずっと見えるの?」
「ええ」
「なのに行けない?」
「そう」
確かに見えているのに、どれだけ近づいても届かない。
アリアには、その感覚をうまく想像することができなかった。
「変なの」
「でしょう?」
「今も出るの?」
「時々、そんな話を聞くわね」
「満月だけ?」
「昔から、そう言われているわ」
エレノアはそこで少し考え、何かを思い出したように顔を上げた。
「そうそう。古い歌もあるのよ」
「歌?」
「ミレア湖の周りで、昔から伝わっているもの」
そう言うと、エレノアは視線を少し上へ向けた。
遠い昔に聞いたものを、記憶の中から一つずつ拾い上げるように。
そして、ゆっくりと口にした。
「月影の浮かぶ水鏡」
アリアは、それまで続けていた質問を止めた。
「求むる者は辿り着けず」
ルカの眉が、わずかに寄る。
「忘れられし空の子のみ」
その言葉が耳へ入った瞬間、アリアの背中にある小さな白い羽が、ほんのわずかに揺れた。
「その門を見る」
歌が終わっても、すぐには誰も口を開かなかった。
窓の外では、夜の風が木々を揺らし、葉の擦れる音だけがかすかに聞こえている。
アリアは、今聞いたばかりの言葉を頭の中でもう一度追いかけていた。
「……どういう意味ですか?」
先に口を開いたのはルカだった。
「さあ」
エレノアは肩をすくめる。
「エレノア様も分からないんですか?」
「何百年も前からある歌だもの」
「誰も?」
「今ではね」
「門って何?」
アリアが聞く。
「それも分からないわ」
「空の子は?」
「それも」
「全部分かんないじゃん」
「だから伝承なのよ」
エレノアが笑った。
けれどルカは、あまり納得していないようだった。
「適当だなあ」
「昔話なんて、そういうものよ」
「そうかな……」
アリアは、そのやり取りへ入らなかった。
卓の上に置かれたカップへ目を落としているものの、見ているのはそこではなかった。
「アリア?」
ルカに呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「ん?」
「どうしたの?」
「なんでもない」
「ほんと?」
「うん」
そう答えてから、アリアは少しだけ迷った。
何でもないと言ってしまったけれど、本当は何でもなくはなかった。
「ただね」
「なに?」
「最後のところ」
「最後?」
「空の子ってところ」
「うん」
どう言えばいいのか分からないまま、アリアは自分の胸へ手を当てた。
「なんか……変な感じした」
「変な感じ?」
「うん」
「どんな?」
「分かんない」
本当に、それ以上は説明できなかった。
怖いわけでもない。
嬉しいわけでもない。
ただ「空の子」という言葉だけが、ほかの言葉とは違う場所へ落ちたような気がした。
胸の奥なのか、それとももっと別のところなのか。
アリア自身にも分からない。
ルカはしばらくアリアを見ていたが、それ以上は尋ねなかった。
アリアも、もう一度カップへ目を落とした。
けれど頭の中では、さっき聞いた歌の最後だけが、何度も繰り返されていた。
忘れられし空の子のみ。
その門を見る。
意味は分からない。
何のことなのかも、まだ何一つ分からない。
それなのに、その言葉だけは夜になっても消えず、いつまでもアリアの耳の奥へ残り続けていた。




