第71話 同じ湖を見て
馬車は朝の街道を、ゆったりと南へ進んでいた。
昨日までいた宿場町はもう遠く、窓の外には低い丘と畑が続いている。街道を行き交う人の姿も少なくなり、たまにすれ違う荷車や旅人だけが、馬車の進む先と反対の方向へゆっくり流れていった。
アリアはしばらく窓へ頬を寄せるようにして外を眺めていたが、ふと思い出したように身体を戻した。
「ねえ、セレフィナおばあちゃん」
「なあに?」
「ミレア湖って、どんなところ?」
向かいに座っていたセレフィナは、すぐには答えず、少しだけ考えるように窓の外へ目を向けた。
「そうねえ。とても大きな湖ですよ」
「どのくらい?」
「向こう岸が、遠く霞んで見えるくらい」
「そんなに?」
アリアの目が丸くなる。
湖と聞いて想像していたものより、ずっと大きいらしい。
「おっきいね!」
「ええ」
「お水、いっぱい?」
「湖ですからね」
「海みたい?」
「海を見たことがあるの?」
「ない!」
アリアはなぜか胸を張って答えた。
隣のルカが小さく笑う。
「じゃあ比べられないじゃん」
「でも、お水いっぱいなんでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ海みたい!」
「もう好きにしなよ」
ルカは呆れたように言ったけれど、アリアはすっかり納得したらしい。
「お船もある?」
「ありますよ。漁に出る舟もありますし、湖を渡るための舟もあります」
「おさかな!」
足元で丸くなっていたマルルの耳が、ぴんと跳ね上がった。
「お魚いるなの!?」
「ええ。たくさん」
それまで眠たそうにしていたマルルが、むくりと起き上がる。
アリアはその様子を見て笑った。
「マルル、起きた」
「起きてたなの」
「さっき寝てたよ?」
「お魚のお話は起きて聞くなの」
「どのくらいいるなの?」
今度はセレフィナへ身体ごと向き直る。
「マルル」
ルカが横から言った。
「湖なんだから数えられないでしょ」
「いっぱいなの?」
「いっぱいでしょうね」
セレフィナも笑いながら答える。
「春から夏にかけて、よく獲れる魚もありますよ」
「食べるなの?」
「もちろん」
「どうやってなの?」
「焼いたり、煮込んだり。香草と一緒に焼く料理もありますね」
マルルの耳が、ぴんと立ったまま動かなくなった。
「……マルル?」
アリアが顔を覗き込む。
「聞いてるなの」
「何を?」
「大事なお話なの」
「お魚の話だけだよ?」
「だから大事なの」
「そっか」
「納得するんだ……」
ルカが窓の方を向いた。
肩が少し揺れている。
セレフィナも口元へ手を添えていた。
「湖のそばには、お家もある?」
今度はアリアの興味が先へ進む。
「ええ。漁をする人たちが暮らす小さな集落もありますし、旅人が泊まる宿もありますよ」
「お店は?」
「あります」
「お菓子は?」
「ありますよ」
「行きたい!」
「最初から行く予定でしょ」
「もっと行きたくなったの!」
アリアはそう言って、もう一度窓の外へ顔を向けた。
けれど、そこに見えるのはまだ畑と街道だけで、湖らしいものはどこにもない。
「まだ見えないね」
「まだまだ先ですよ」
「明日?」
「もっと先です」
「明後日?」
「それより先」
「その次?」
「もう少しかかりますね」
アリアの肩が、少しだけ落ちた。
「遠い……」
「だから、しばらくこの馬車ですよ」
その言葉を聞いた途端。
落ちていた肩が戻った。
「ふかふか!」
「そっちで元気になるんだ」
ルカが呆れる。
「だって、お尻痛くないもん」
「まだそれ言ってるの?」
「大事だよ?」
「マルルも大事なの」
「マルルは寝てるだけでしょ」
「寝るのも旅なの」
「違うと思う」
馬車の中に笑い声が広がった。
窓の外では、景色が少しずつ変わり始めていた。
畑の間には低い石垣が増え、その向こうでは細い水路が朝の光を受けてきらりと光る。道端には荷籠を背負った人が歩き、ときどき野菜や果物を積んだ小さな荷車ともすれ違った。
アリアはそのたびに窓へ顔を寄せた。
グラナへ向かっていた時にも、知らない場所をたくさん通った。
けれど、今度の道はまた違う。
見たことのない町を離れ、その先の、さらに知らない場所へ向かっている。
少し前までなら、知らないというだけで不安になったかもしれない。
今は、その先に何があるのか知りたい気持ちの方が少し大きかった。
「セレフィナおばあちゃん」
「はい?」
「別邸からも、湖見える?」
「ええ。とてもよく見えますよ」
セレフィナの声が、少しだけ柔らかくなる。
「朝は、水の上に薄い霧が出ることがあります。風がない日は湖面がとても静かで、空がそのまま水の中にあるように見えるの」
「空が?」
「ええ」
アリアは窓の向こうへ目を上げた。
青い空。
白い雲。
それが、そのまま水の中にも見える。
「じゃあ、空が二つになるの?」
「そう見える日もありますね」
「見たい!」
「きっと見られますよ」
アリアの顔が明るくなる。
まだ見たことのない湖なのに、少しずつ形ができていくようだった。
大きくて。
船があって。
魚がいて。
朝には空が二つ見えることもある。
その横で。
「そのお水の中に、お魚がいるなの?」
「マルルは空より魚なんだね」
「お空は食べられないなの」
「そうだけどさ」
ルカが笑う。
馬車は、そのまま南へ続く街道を進んでいった。
◇
同じころ。
王都の城門を、一頭の黒馬がくぐった。
石畳を打つ蹄の音が、朝の通りへ硬く響く。
馬の首筋にはうっすらと汗が浮かび、鞍上の男がまとう濃紺の外套にも、長い旅の埃が残っていた。
「西方騎士団、シリル団長!」
城門を守る騎士が声を上げる。
シリルは片手を上げるだけで応え、そのまま王城へ続く坂を上っていった。
グラナを発ってから、長い道をほとんど休まず戻ってきた。
疲れていないはずはない。
それでも今は、旅装を解いて休むことより、先に済ませたいことがあった。
王城の内門を抜け、厩舎前で馬を止める。
「団長!」
駆け寄ってきた厩番へ手綱を渡すと、シリルはすぐに離れず、黒馬の鼻先を一度だけ撫でた。
「よく走ったな」
馬が小さく鼻を鳴らす。
それを確かめてから、ようやく王城へ向かった。
本来なら、まず部屋へ戻って旅の埃を落とすところだろう。
けれど、グラナで見たことも、アリアと交わした約束も、先に届けておきたかった。
長い廊下を進むと、待っていた近衛騎士がすぐに一礼した。
「陛下は?」
「お待ちです」
「もう?」
「団長が王都へ入ったと、先ほど門から知らせが届きました」
シリルの足が一度だけ止まる。
「相変わらず早いな」
「陛下ですから」
近衛騎士は、それだけ答えた。
◇
案内されたのは、広い謁見の間ではなかった。
王城の奥にある執務室。
大きな机の上には何枚もの書類が積まれ、その横には王国の地図が広げられていた。
窓から差し込む朝の光が、その地図の半分を照らしている。
「戻ったか」
机の向こうから声がした。
「はい」
シリルは進み出て、片膝をつく。
「西方騎士団長、シリル・ローウェル。ただいま戻りました」
「長旅だったな」
「問題ありません」
「顔がそう言っていない」
「……問題ありません」
アルディオンが小さく笑った。
「なら、そういうことにしておこう」
「ありがとうございます」
「立て。報告を聞こう」
シリルが立ち上がる。
アルディオンは椅子へ腰を戻し、机の上にあった一枚の紙を脇へ寄せた。
「グラナの件だな」
「はい」
その一言で、シリルの顔から旅の疲れが少しだけ消えた。
「大地の大精霊は目覚めました」
アルディオンの指が止まる。
「……そうか」
「はい」
「街は?」
「落ち着いています。地下を巡る魔力も、少しずつ安定しています」
アルディオンはゆっくり息を吐いた。
「よかった」
短い言葉だった。
けれど、それまで机の上に置かれていた手から、わずかに力が抜けた。
「詳しく聞かせてくれ」
「はい」
シリルは、グラナで起きたことを順に話していった。
地下で弱まっていた大地の大精霊のこと。
街へ少しずつ広がっていた異変。
地下へ向かったアリアたち。
そして、眠り続ける大精霊を目覚めさせるために、街中の人々が力を貸したこと。
「街の者たちが?」
「はい」
「魔力を?」
「少しずつです」
シリルは答えた。
「一人では足りない。数人でも足りない。だから、皆で」
アルディオンは何も言わなかった。
続きを待っている。
「子どもも、大人も。工房の者も、商人も。自分に出せるだけの魔力を預けました」
「…………」
「それを、大精霊へ届けた」
「アリアが?」
「アリアたちが」
シリルはすぐに言い直した。
「ルカも。マルルも。ノルンも。そして、グラナの人々も」
アルディオンが小さく頷く。
「そうか」
シリルは、ほんの一瞬だけ口を閉じた。
あの時、アリアが言った言葉を思い出す。
全部だよ。
あの子にとって、誰か一人だけが頑張った出来事ではなかったのだろう。
「現地の者にも、ずいぶん助けられました」
「誰だ?」
「ガンツという男です。地下の構造を知っていて、彼の案内がなければ大精霊のいる古井戸まで辿り着けなかったでしょう」
アルディオンが紙へ手を伸ばす。
「ガンツ」
「はい」
短く名前を書き留める。
「それから、コルという少年も」
「少年?」
「右足を怪我していました。それでも、自分にできることを考えて、アリアたちを助けた」
「そうか」
紙の上に、もう一つ名前が増えた。
「そして」
シリルが、ほんの少しだけ言い淀む。
「大地の精霊もいました」
「大地の精霊?」
「大精霊とは別の存在です」
「名は?」
「分かりません」
「では、何と呼ばれている?」
「アリアは」
シリルの眉間へ、ほんの少しだけしわが寄る。
「トカゲさん、と」
アルディオンの手が止まった。
「……トカゲ?」
「本人は否定しています」
「そうか」
「何度も」
「なるほど」
アルディオンは何事もなかったように紙へ書き加えた。
シリルは、その文字を見ないことにした。
「そして、二つ目の欠片を回収しました」
そこで、部屋の空気が少しだけ変わった。
「間違いないか?」
「はい。コンパクトに収まったところまで確認しています」
アルディオンはしばらく黙り、それから机の上の地図へ目を落とした。
「これで二つ」
「はい」
「残り六つか」
「そうなります」
窓の外で風が鳴り、薄いカーテンがわずかに揺れる。
「次の場所は?」
「ミレア湖です」
アルディオンが顔を上げた。
「ミレア湖?」
「はい。レネア地方にある湖です」
「グランヴェル領だな」
「はい」
アルディオンは机に広げられた地図へ手を伸ばした。
指が王都から南へ下り、やがて大きな湖の上で止まる。
「ここか」
「はい」
「ヴォルター・グランヴェルの領内だ」
シリルも地図へ目を落とした。
「アリアたちは、すでに向かっています」
「エリオは?」
「引き続き、見守りを任せています」
「連絡は?」
「まだありません」
アルディオンがシリルを見る。
「予定より遅いのか?」
「いえ」
シリルは首を振った。
「異変があれば報告するよう伝えています。今のところ連絡がないなら、任務を続けていると考えていいでしょう」
「そうか」
「見失うようなことはないと思います」
「ずいぶん信頼しているな」
「部下ですから」
「それだけか?」
シリルは少しだけ黙った。
「……あいつは、やる時はやります」
アルディオンが小さく笑った。
「なら、任せておこう」
「はい」
シリルは頷いた。
今ごろエリオがどこにいて、どんな顔をしながら子どもたちと旅をしているのか。
王都にいる二人には、まだ分からない。
◇
「ところで」
アルディオンが地図から手を離した。
「アリアたちの旅については、すでに各騎士団へ通達を出してある」
「……各騎士団へ?」
シリルが顔を上げる。
「東、西、南、北。各地方騎士団と、その主要な支部へ」
「いつです?」
「お前がグラナへ向かったあとだ」
「そんなに早く?」
「あの子たちが一つの地方だけで旅を終えると思っていたのか?」
「……いいえ」
「私もだ」
アルディオンは椅子へ深く腰を掛けた。
「欠片は八つ。この国のどこに散っているか分からない。ならば、いずれ西方を出る」
「だから、先に」
「ああ」
机の上から一枚の書類を取り、シリルへ差し出した。
シリルが受け取る。
そこには、騎士団へ向けた命令が簡潔に記されていた。
幼い天使と、その同行者について。
旅を妨げないこと。
保護を理由に、本人たちの意思に反して留め置かないこと。
必要な場合には、宿、道、治安に関する支援を行うこと。
鍵の欠片や使命について、むやみに聞き出さないこと。
そして、周辺で大きな異変や精霊に関わる現象を確認した場合には、速やかに王都へ報告すること。
シリルは最後まで目を通した。
「……かなり踏み込んだ通達ですね」
「そうか?」
「普通なら、六歳と八歳の子どもが旅をしていれば止めます」
「普通ならな」
アルディオンが答える。
「だが、止めてどうする」
シリルは黙る。
「王都へ連れてきて、城の中へ置いておけば安全か?」
「それは」
「安全だろう」
アルディオンは自分で答えた。
「だが、あの子は帰れなくなる」
シリルは何も言わなかった。
アリアが旅をしている理由を、二人とも知っている。
安全だからと足を止めさせれば、あの子が一番望んでいる場所から遠ざけることになる。
「守るというのは、囲って動けなくすることではない」
アルディオンの指が、地図の上をゆっくり動く。
グラナから、南へ。
「自分で歩こうとしている者には、歩ける道を残しておく」
その指が、ミレア湖の近くで止まった。
「その道が危険なら、危険を減らせばいい」
シリルの目が少し細くなる。
「最初にエリオへ命じたことと、似ていますね」
「そうだな」
「姿を見せない」
「ああ」
「手を貸さない」
「必要がない限りは」
「見失わない」
アルディオンが笑った。
「お前たち西方騎士団のやり方は、悪くなかった」
「褒められていると思っておきます」
「そうしてくれ」
シリルは書類を机へ戻した。
「レネアにも、もう?」
「届いている」
「南方騎士団にも?」
「当然だ」
シリルは小さく息を吐いた。
「俺が戻る前に、そこまで進んでいたとは」
「お前が走っている間、こちらも仕事をしていた」
「それは失礼しました」
「分かればいい」
アルディオンは地図を見た。
「ただし」
「はい」
「余計なことをするなとも書いてある」
「余計なこと?」
「英雄扱いして囲むな。珍しい天使だからと見物するな。何でも先回りして助けるな」
シリルの口元が少し緩む。
「最後のは重要ですね」
「ああ」
「アリアなら、全部やってもらったあとで、自分でやりたかったと言いそうです」
「そうなのか?」
「そういう子です」
「なるほど」
アルディオンは少し笑った。
「では、なおさらだな」
◇
報告を終えるころには、窓から差し込んでいた光の角度が少し変わっていた。
シリルは、机の上の紙へ目を向けた。
そこには、ガンツ、コル、大地の精霊と、グラナで関わった者たちの名前が並んでいる。
「そういえば」
アルディオンが言った。
「ずいぶん細かく報告すると思ったが」
「アリアとの約束です」
「約束?」
「王都へ戻ったら、グラナであったことを陛下へ全部話してくれと」
「……全部?」
「はい」
アルディオンが紙を見る。
「だから、ガンツも」
「はい」
「コルも」
「はい」
「大地の精霊も」
「はい」
アルディオンの目が、その横に小さく書かれた文字で止まる。
「……トカゲさんも」
「それもです」
「本人には」
「言わない方がいいかと」
「覚えておこう」
シリルは今度こそ少し笑った。
「これで約束は果たしました」
「ああ」
アルディオンも小さく笑う。
「全部、聞いた」
◇
王城の地図の上で、アルディオンの指がもう一度、大きな湖へ触れた。
「ミレア湖」
「はい」
「次は、ここか」
その頃。
王都から遠く離れた街道では、アリアがまた窓へ顔を寄せていた。
「ねえ!」
振り返る。
「セレフィナおばあちゃん!」
「なあに?」
「湖に着いたら、最初に何が見える?」
「そうねえ」
セレフィナが少し考える。
「道によりますけれど、丘を越えたところから急に水面が見える場所がありますよ」
「急に?」
「ええ。それまで木々に隠れているのに、坂を上りきると、一気に」
アリアの目が輝いた。
「おっきい湖が?」
「そう」
「わあ……」
まだ見えてもいない湖を探すように、アリアは窓の向こうへ顔を戻した。
その足元では。
「お魚も急に見えるなの?」
マルルが立ち上がる。
「湖の中なんだから見えないでしょ」
ルカが言う。
「じゃあ着いたら探すなの」
「何を?」
「お魚なの」
「やっぱりそれなんだ」
アリアが笑った。
馬車の窓から入る光が、水色の髪を淡く照らしている。
王都では、アルディオンが地図の上にあるミレア湖を見ていた。
遠い街道では、アリアがまだ見たことのない同じ湖を思い描いていた。
そこへ向かう道は、まだ長い。
けれど、アリアたちが進む先を知っている者は、少しずつ増えている。
見えないところでも、旅を支える準備が始まっていた。
そしてアリアは、そんなことをまだ何も知らないまま、窓の向こうへ続く道を見ていた。
大きな湖。
空が二つになる水面。
船と、魚と、まだ知らない景色。
その全部が待っている場所へ。
二台の馬車は、今日もゆっくりと南へ進んでいった。




