第70話 さらさらの夜
夕食を終えて部屋へ戻るころには、宿の廊下から昼間の賑わいもすっかり消え、壁に並んだランプの明かりだけが、磨かれた床へ細長く揺れていた。
アリアはルカの隣を歩きながら、さっきから何度目になるのか分からないくらい、少し前を歩くエリオを見上げていた。
「エリオお兄ちゃん、騎士なんだよね」
「……そうだよ」
「ほんとに?」
「さっきから何回聞くんだよ」
「だって、騎士なんだよ?」
アリアにとって、それは何度確かめても不思議なことだった。
騎士といえば、剣を持って馬に乗り、人を守るために戦う人だと思っていた。教会で出会ったシリルもそうだったし、町で見かけた騎士たちも、どこか普通の人とは違って見えた。
それなのに、その騎士がずっと自分たちの近くにいた。
木の陰からついてきたり、ちょっと頼りないお兄さんみたいな顔をしたり、一緒にごはんを食べたり、困った時にはさりげなく助けてくれたりした、あのエリオだった。
昨日までと何も変わっていないはずなのに、腰に下げている剣まで、今夜は少し違って見える。
「明日、剣見せて!」
「駄目」
「ええっ」
「遊ぶもんじゃないからな」
あまりにも早く断られ、アリアは口を尖らせた。
「見るだけだよ?」
「見るだけでも駄目」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「けち」
「騎士だからな」
「騎士ってけちなの?」
「そこにつなげるなよ」
隣でルカがとうとう吹き出した。
「騎士だって分かっても、結局いつものエリオだね」
「当たり前だろ」
エリオはそう答えながら頭を掻いた。
アリアも少し考えてみたけれど、やっぱりそうだった。
騎士だと分かったからといって、急に遠い人になったわけではない。明日もきっと「エリオお兄ちゃん」と呼べば振り返るし、困ったことがあればいつものように話を聞いてくれる。
そう思うと、騎士という言葉のすごさと、いつものエリオが少しずつ同じところへ重なっていった。
「アリア様」
廊下の先で待っていた侍女が、近づいてきた一行へにこやかに頭を下げた。
「お湯の準備が整っております」
「おゆ?」
「お風呂ですよ」
「お風呂!」
途端にアリアの顔が明るくなり、今までエリオへ向いていた興味がきれいにそちらへ移った。
「ノルン、一緒に行こう!」
「はい」
「マルルも!」
「マルルもなの?」
マルルは自分の白い胸元へ視線を落とし、少し考えるように長い耳を揺らした。
「マルルは、もうきれいなの」
「ほんとだ」
「なの」
「では、マルル様はこちらでお預かりいたしますね」
別の侍女が両腕を差し出すと、マルルは一度その顔を見上げた。
「おやつはあるなの?」
「ございますよ」
「行ってくるなの」
迷いは一瞬で消えた。
「マルル、お風呂よりそっちなんだ……」
ルカが呆れた声を出すと、侍女の腕へ収まったマルルは、なぜか得意そうに耳を揺らした。
アリアは笑いながら、ノルンと一緒に浴室へ向かった。
◇
案内された扉が開くと、温かな空気がふわりと頬を包んだ。
「わあ……」
思わず立ち止まる。
白い湯気の向こうには、これまで旅の途中で入ったどのお風呂よりも大きな湯船があり、床にはつるりとした石が敷かれていた。壁際には布や小さな瓶がきちんと並び、お湯の流れる音まで広い室内へ柔らかく響いている。
「おっきい……」
自分の声が少しだけ返ってきた。
「走ってはいけませんよ」
「はぁい」
言われる前に一歩踏み出しかけていたアリアは、そっと足を戻した。
その様子を見ていたノルンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
服を脱ぎ、いつもの低い位置で結んでいた二つの髪をほどいてもらうと、水色の髪が肩から背中へさらりと落ちた。
侍女が櫛を通しながら、思わずというように言った。
「きれいな髪ですね。それに、ずいぶん長くなっています」
「うん。ミルお母さんも、よくとかしてくれたの」
そう答えた途端、アリアの目が、自分の膝へ少しだけ落ちた。
家にいた頃の朝が、急に近くへ戻ってきた。
椅子へ座って、後ろからミルに髪を梳いてもらったこと。
じっとしていなさいと言われたのに、気になることを見つけて途中で振り返ってしまったこと。
左右を同じ高さに結んでもらい、最後に青いリボンがつくと、それだけで支度が全部終わったような気がして、そのまま外へ飛び出していったこと。
あの頃は、それがなくなる日が来るなんて考えたこともなかった。
今いる場所は、あの家からずいぶん遠い。
それでも髪を梳かれる感触だけは、あの朝と少し似ていた。
「アリア?」
隣からノルンに呼ばれ、アリアは顔を上げた。
「なんでもない」
そう言ってから、少しだけ笑う。
「お母さん、髪とかすの上手だったなって思ったの」
「そうでしたか」
「うん」
ノルンはそれ以上尋ねなかった。
ただ、身体を洗い終えて湯船へ入った時には、アリアのすぐ隣へ静かに腰を下ろした。
「あったかいね」
「はい」
肩までお湯へ沈むと、身体の力がふっと抜けた。
朝から馬車に揺られ、知らない町へ入り、セレフィナと一緒に食事をし、エリオが騎士だったことまで分かった。
一日の中にいろいろなことが詰まりすぎていて、さっきまではどれから考えればいいのかも分からなかったのに、温かいお湯につかっていると、それらが身体の疲れと一緒にゆっくりほどけていくようだった。
アリアは鼻の下まで沈み、
「ふぅー……」
長く息を吐いた。
「アリア、眠ってはいけませんよ」
「ねてないよ」
「目が閉じていました」
「閉じてただけ」
「それを眠りかけていると言うのでは?」
「ちがうよ」
慌てて目をぱっちり開ける。
けれど、お湯は温かい。
しばらくすると、またまぶたが半分ほど下がってきた。
それを横で見ていたノルンは、今度は何も言わず小さく笑った。
◇
湯から上がったあとも、アリアにとって初めてのことが待っていた。
椅子へ座ると、侍女が濡れた髪を布で丁寧に包み、水気を取っていく。
「少し香油を使ってもよろしいですか?」
「こうゆ?」
「髪を整えるための油です。とてもいい香りがしますよ」
小さな瓶の蓋が開くと、花のような甘い香りがふわりと広がった。
「いいにおい!」
思わず瓶へ鼻を近づけようとすると、侍女が笑った。
「たくさんつけるものではありません。ほんの少しだけですよ」
手のひらへ落とした一滴を薄く伸ばし、毛先を中心に水色の髪へなじませていく。
それから櫛が、ゆっくり髪を通った。
一度。
二度。
三度。
いつもなら途中で少し引っかかるところも、今日はするりと櫛が抜けていく。
乾かしてもらった髪が背中へ落ちたところで、アリアは待ちきれず、一房を指でつまんだ。
「……さらさら」
もう一度、指を通す。
するり。
「さらさらー」
今度は両手で毛先を持ち上げ、左右へ揺らしてみる。
「ノルン、見て!」
「見ています」
「さらさらだよ!」
「はい。とてもきれいです」
それだけで嬉しくなり、アリアは何度も指を髪へ通した。
するり。
するり。
どこにも引っかからない。
「すごい!」
「そんなに気に入りましたか?」
「うん!」
鏡の中で、自分の水色の髪がいつもより少しだけつやつやして見える。
髪そのものは昨日までと同じなのに、触るたびに違う。
そんな小さな変化が、今のアリアにはとても嬉しかった。
いつものように髪を二つへ結ぶのかと思っていると、侍女が代わりに柔らかな寝間着を差し出した。
「今夜はこちらをお召しください」
「これも?」
「セレフィナ様がご用意されました」
「セレフィナおばあちゃん?」
「はい」
受け取ってみると、柔らかな布が腕の中へふわりと沈んだ。
「セレフィナおばあちゃん、いっぱい持ってるね」
隣で聞いていたノルンが、一瞬だけ黙る。
「……そういう問題なのでしょうか」
侍女が口元へ手を添えた。
どうやら笑っているらしい。
けれどアリアには、何がおかしかったのか分からなかった。
◇
寝間着へ着替えて部屋へ戻る途中、廊下の向こうからセレフィナが歩いてきた。
「あら」
「セレフィナおばあちゃん!」
アリアは反射的に駆け寄ろうとして、さっき浴室で「走ってはいけません」と言われたことを思い出した。
つるりとした床へ一度目を落とし、今度はちゃんと歩いて近づく。
セレフィナは、そんなアリアを迎えながら、いつもと違う水色の髪へ目を留めた。
「まあ。ずいぶん綺麗になりましたわね」
「さらさらなの!」
褒められた途端、アリアは待っていましたとばかりに髪を差し出した。
「ほら!」
「本当ですわね」
セレフィナが一房をすくい、指の間へ滑らせる。
「いいにおいもするよ」
「ええ。とてもよい香りです」
「こうゆなんだって!」
「気に入りました?」
「うん!」
アリアが大きく頷くと、セレフィナはもう一度その髪へ触れた。
大人の手でそっと撫でてもらう感触に、アリアは少しだけ目を細めた。
「では、明日も使ってもらいましょうね」
「ほんと?」
「ええ」
「やった!」
髪がさらさらになる。
いい匂いがする。
ただそれだけなのに、嬉しくて仕方がない。
そんなアリアを見ながら、セレフィナの表情も柔らかくなっていく。
「そうそう。明日のお洋服も用意してありますわよ」
「明日もあるの!?」
髪から服へ。
アリアの興味がまた一つ増えた。
「もちろんです」
少し後ろに立っていたノルンが、静かにセレフィナを見る。
その視線へ気づいたセレフィナは、何でもないことのように微笑んだ。
「一着だけですわ」
「……そうですか」
ノルンの返事はいつも通りだったけれど、アリアにはなぜか、あまり信じていないように聞こえた。
◇
部屋へ戻ると、ルカはすでに寝間着へ着替えていた。
マルルはベッドの上で満足そうに丸くなり、どうやら預けられていた間のおやつにも満足したらしい。
「おかえり」
「ルカ!」
アリアは真っ先に駆け寄った。
「見て!」
「何?」
「さらさら!」
その場でくるりと回る。
結んでいない水色の髪がふわりと広がり、少し遅れて背中へ落ちた。
「ほんとだ」
「さわっていいよ!」
「なんでそんな偉そうなの」
そう言いながらも、ルカは差し出された髪へ手を伸ばした。
指の間を、するりと水色の髪が抜ける。
「すごいね」
「でしょ!」
「いい匂いもする」
「こうゆなの!」
「香油です」
後ろからノルンが訂正する。
「こうゆ!」
「変わっていませんよ」
ルカが笑い、アリアも何が違うのか分からないまま一緒に笑った。
その時、部屋の隅に置かれた椅子へ目が止まった。
「……あれ?」
見覚えのない服が、きれいに畳まれている。
近づいてみると、柔らかな色の服には小さな刺繍が入り、その隣にはもう一組、どう見てもアリアには大きすぎる服が置かれていた。
「これ、なあに?」
「明日の服だって」
ルカが答える。
「わあ!」
アリアはすぐ、自分の服より隣へ置かれた方を見た。
「ルカのもあるよ!」
「……あるね」
「明日もおそろいみたい!」
「……そうだね」
返事が、ほんの少しだけ遠い。
アリアは気づかず、明日の服を嬉しそうに眺めていた。
けれどノルンは、椅子の上の服を見つめるルカと、その横で楽しそうにしているアリアを交互に見た。
マルルだけは、ベッドの上でころりと横になる。
「マルルのはないなの?」
「マルルはそのままで可愛いからいいんだって」
「そうなの」
それで十分だったらしい。
マルルは満足そうに丸くなった。
一方、ルカはもう一度、椅子の上の服へ目を向ける。
夕食の前に着替えさせられた時にも、少し嫌な予感はしていた。
そして今。
その予感は、どうやら終わるどころか、これから育っていくらしい。
◇
翌朝。
「かわいい!」
鏡の前で、アリアが両腕を広げた。
昨日とはまた少し違う、動きやすい淡い色のワンピース。裾には小さな花の刺繍が入り、背中の小さな白い羽もきちんと外へ出るよう仕立てられている。
昨夜つけてもらった香油のおかげなのか、朝になっても櫛は水色の髪をするりと通った。
「まださらさら!」
アリアは朝からご機嫌だった。
そして、その隣では。
「……なんで僕まで」
ルカも昨日までとは違う服へ着替えさせられ、髪まできちんと整えられていた。
「似合ってるよ!」
「アリアは楽しいだろうね」
「ルカ、楽しくない?」
「……別に」
そう言いながら、猫耳だけはどこか落ち着かなさそうに動いている。
廊下へ出ると、待っていたセレフィナが二人を見た。
すぐには何も言わない。
アリアは自分の服に何かおかしなところがあるのかと思い、裾を見下ろした。
「セレフィナおばあちゃん?」
「……完璧ですわ」
「なにが?」
「何でもありません」
優雅に笑うセレフィナを見上げながら、アリアはよく分からないまま首を傾げた。
その横で、ルカの猫耳がぴくりと動く。
やっぱり。
何かが始まっている。
そんな気がしてならなかった。
◇
宿の前へ出ると、すでに馬車の出発準備は整っていた。
荷物は積み終わり、馬たちも御者の合図を待っている。
エリオは一足先に外へ出ていた。
「エリオお兄ちゃん!」
アリアの声に振り返る。
「今日も騎士?」
「昨日も今日も騎士だよ」
「明日も?」
「ずっとだ」
「そっか!」
満足したように笑う。
昨日は何度も驚いたはずなのに、一晩眠れば、アリアの中ではもう「エリオお兄ちゃんは騎士」ということも、一緒に旅をしている日常の中へ入り始めていた。
「エリオ」
先に馬車へ向かっていたルカが振り返る。
「行くよ」
「ああ」
エリオもその後を追う。
アリアは少し遅れて馬車へ乗り込み、セレフィナの隣へ腰を下ろした。
扉が閉まり、御者が手綱を取る。
ゆっくり車輪が回り始めると、宿の建物も町の通りも、窓の向こうを少しずつ後ろへ流れていった。
アリアはしばらく町を見送っていたが、ふと思い出したように自分の髪へ指を通した。
するり。
「さらさらー」
それだけでまた嬉しくなって、もう一度指を通す。
隣ではセレフィナが楽しそうに笑い、向かいのルカは今度は何も言わなかった。
知らない町へ着くたびに、新しいことが増えていく。
騎士だったエリオのことも。
香油の甘い匂いも。
昨日とは違う服を着ることも。
そして、この先にはまだ見たことのないミレア湖が待っている。
アリアは窓の向こうへ続く街道へ目を向けた。
さらさらになった水色の髪が馬車の揺れに合わせて肩を滑り、背中の小さな羽がふわりと動く。
馬車は町を離れ、ミレア湖へ向かう道を進み始めた。




