↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
74/110

第70話 さらさらの夜


 夕食を終えて部屋へ戻るころには、宿の廊下から昼間の賑わいもすっかり消え、壁に並んだランプの明かりだけが、磨かれた床へ細長く揺れていた。


 アリアはルカの隣を歩きながら、さっきから何度目になるのか分からないくらい、少し前を歩くエリオを見上げていた。


「エリオお兄ちゃん、騎士なんだよね」


「……そうだよ」


「ほんとに?」


「さっきから何回聞くんだよ」


「だって、騎士なんだよ?」


 アリアにとって、それは何度確かめても不思議なことだった。


 騎士といえば、剣を持って馬に乗り、人を守るために戦う人だと思っていた。教会で出会ったシリルもそうだったし、町で見かけた騎士たちも、どこか普通の人とは違って見えた。


 それなのに、その騎士がずっと自分たちの近くにいた。


 木の陰からついてきたり、ちょっと頼りないお兄さんみたいな顔をしたり、一緒にごはんを食べたり、困った時にはさりげなく助けてくれたりした、あのエリオだった。


 昨日までと何も変わっていないはずなのに、腰に下げている剣まで、今夜は少し違って見える。


「明日、剣見せて!」


「駄目」


「ええっ」


「遊ぶもんじゃないからな」


 あまりにも早く断られ、アリアは口を尖らせた。


「見るだけだよ?」


「見るだけでも駄目」


「ちょっとだけ」


「駄目」


「けち」


「騎士だからな」


「騎士ってけちなの?」


「そこにつなげるなよ」


 隣でルカがとうとう吹き出した。


「騎士だって分かっても、結局いつものエリオだね」


「当たり前だろ」


 エリオはそう答えながら頭を掻いた。


 アリアも少し考えてみたけれど、やっぱりそうだった。


 騎士だと分かったからといって、急に遠い人になったわけではない。明日もきっと「エリオお兄ちゃん」と呼べば振り返るし、困ったことがあればいつものように話を聞いてくれる。


 そう思うと、騎士という言葉のすごさと、いつものエリオが少しずつ同じところへ重なっていった。


「アリア様」


 廊下の先で待っていた侍女が、近づいてきた一行へにこやかに頭を下げた。


「お湯の準備が整っております」


「おゆ?」


「お風呂ですよ」


「お風呂!」


 途端にアリアの顔が明るくなり、今までエリオへ向いていた興味がきれいにそちらへ移った。


「ノルン、一緒に行こう!」


「はい」


「マルルも!」


「マルルもなの?」


 マルルは自分の白い胸元へ視線を落とし、少し考えるように長い耳を揺らした。


「マルルは、もうきれいなの」


「ほんとだ」


「なの」


「では、マルル様はこちらでお預かりいたしますね」


 別の侍女が両腕を差し出すと、マルルは一度その顔を見上げた。


「おやつはあるなの?」


「ございますよ」


「行ってくるなの」


 迷いは一瞬で消えた。


「マルル、お風呂よりそっちなんだ……」


 ルカが呆れた声を出すと、侍女の腕へ収まったマルルは、なぜか得意そうに耳を揺らした。


 アリアは笑いながら、ノルンと一緒に浴室へ向かった。


     ◇


 案内された扉が開くと、温かな空気がふわりと頬を包んだ。


「わあ……」


 思わず立ち止まる。


 白い湯気の向こうには、これまで旅の途中で入ったどのお風呂よりも大きな湯船があり、床にはつるりとした石が敷かれていた。壁際には布や小さな瓶がきちんと並び、お湯の流れる音まで広い室内へ柔らかく響いている。


「おっきい……」


 自分の声が少しだけ返ってきた。


「走ってはいけませんよ」


「はぁい」


 言われる前に一歩踏み出しかけていたアリアは、そっと足を戻した。


 その様子を見ていたノルンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 服を脱ぎ、いつもの低い位置で結んでいた二つの髪をほどいてもらうと、水色の髪が肩から背中へさらりと落ちた。


 侍女が櫛を通しながら、思わずというように言った。


「きれいな髪ですね。それに、ずいぶん長くなっています」


「うん。ミルお母さんも、よくとかしてくれたの」


 そう答えた途端、アリアの目が、自分の膝へ少しだけ落ちた。


 家にいた頃の朝が、急に近くへ戻ってきた。


 椅子へ座って、後ろからミルに髪を梳いてもらったこと。


 じっとしていなさいと言われたのに、気になることを見つけて途中で振り返ってしまったこと。


 左右を同じ高さに結んでもらい、最後に青いリボンがつくと、それだけで支度が全部終わったような気がして、そのまま外へ飛び出していったこと。


 あの頃は、それがなくなる日が来るなんて考えたこともなかった。


 今いる場所は、あの家からずいぶん遠い。


 それでも髪を梳かれる感触だけは、あの朝と少し似ていた。


「アリア?」


 隣からノルンに呼ばれ、アリアは顔を上げた。


「なんでもない」


 そう言ってから、少しだけ笑う。


「お母さん、髪とかすの上手だったなって思ったの」


「そうでしたか」


「うん」


 ノルンはそれ以上尋ねなかった。


 ただ、身体を洗い終えて湯船へ入った時には、アリアのすぐ隣へ静かに腰を下ろした。


「あったかいね」


「はい」


 肩までお湯へ沈むと、身体の力がふっと抜けた。


 朝から馬車に揺られ、知らない町へ入り、セレフィナと一緒に食事をし、エリオが騎士だったことまで分かった。


 一日の中にいろいろなことが詰まりすぎていて、さっきまではどれから考えればいいのかも分からなかったのに、温かいお湯につかっていると、それらが身体の疲れと一緒にゆっくりほどけていくようだった。


 アリアは鼻の下まで沈み、


「ふぅー……」


 長く息を吐いた。


「アリア、眠ってはいけませんよ」


「ねてないよ」


「目が閉じていました」


「閉じてただけ」


「それを眠りかけていると言うのでは?」


「ちがうよ」


 慌てて目をぱっちり開ける。


 けれど、お湯は温かい。


 しばらくすると、またまぶたが半分ほど下がってきた。


 それを横で見ていたノルンは、今度は何も言わず小さく笑った。


     ◇


 湯から上がったあとも、アリアにとって初めてのことが待っていた。


 椅子へ座ると、侍女が濡れた髪を布で丁寧に包み、水気を取っていく。


「少し香油を使ってもよろしいですか?」


「こうゆ?」


「髪を整えるための油です。とてもいい香りがしますよ」


 小さな瓶の蓋が開くと、花のような甘い香りがふわりと広がった。


「いいにおい!」


 思わず瓶へ鼻を近づけようとすると、侍女が笑った。


「たくさんつけるものではありません。ほんの少しだけですよ」


 手のひらへ落とした一滴を薄く伸ばし、毛先を中心に水色の髪へなじませていく。


 それから櫛が、ゆっくり髪を通った。


 一度。


 二度。


 三度。


 いつもなら途中で少し引っかかるところも、今日はするりと櫛が抜けていく。


 乾かしてもらった髪が背中へ落ちたところで、アリアは待ちきれず、一房を指でつまんだ。


「……さらさら」


 もう一度、指を通す。


 するり。


「さらさらー」


 今度は両手で毛先を持ち上げ、左右へ揺らしてみる。


「ノルン、見て!」


「見ています」


「さらさらだよ!」


「はい。とてもきれいです」


 それだけで嬉しくなり、アリアは何度も指を髪へ通した。


 するり。


 するり。


 どこにも引っかからない。


「すごい!」


「そんなに気に入りましたか?」


「うん!」


 鏡の中で、自分の水色の髪がいつもより少しだけつやつやして見える。


 髪そのものは昨日までと同じなのに、触るたびに違う。


 そんな小さな変化が、今のアリアにはとても嬉しかった。


 いつものように髪を二つへ結ぶのかと思っていると、侍女が代わりに柔らかな寝間着を差し出した。


「今夜はこちらをお召しください」


「これも?」


「セレフィナ様がご用意されました」


「セレフィナおばあちゃん?」


「はい」


 受け取ってみると、柔らかな布が腕の中へふわりと沈んだ。


「セレフィナおばあちゃん、いっぱい持ってるね」


 隣で聞いていたノルンが、一瞬だけ黙る。


「……そういう問題なのでしょうか」


 侍女が口元へ手を添えた。


 どうやら笑っているらしい。


 けれどアリアには、何がおかしかったのか分からなかった。


     ◇


 寝間着へ着替えて部屋へ戻る途中、廊下の向こうからセレフィナが歩いてきた。


「あら」


「セレフィナおばあちゃん!」


 アリアは反射的に駆け寄ろうとして、さっき浴室で「走ってはいけません」と言われたことを思い出した。


 つるりとした床へ一度目を落とし、今度はちゃんと歩いて近づく。


 セレフィナは、そんなアリアを迎えながら、いつもと違う水色の髪へ目を留めた。


「まあ。ずいぶん綺麗になりましたわね」


「さらさらなの!」


 褒められた途端、アリアは待っていましたとばかりに髪を差し出した。


「ほら!」


「本当ですわね」


 セレフィナが一房をすくい、指の間へ滑らせる。


「いいにおいもするよ」


「ええ。とてもよい香りです」


「こうゆなんだって!」


「気に入りました?」


「うん!」


 アリアが大きく頷くと、セレフィナはもう一度その髪へ触れた。


 大人の手でそっと撫でてもらう感触に、アリアは少しだけ目を細めた。


「では、明日も使ってもらいましょうね」


「ほんと?」


「ええ」


「やった!」


 髪がさらさらになる。


 いい匂いがする。


 ただそれだけなのに、嬉しくて仕方がない。


 そんなアリアを見ながら、セレフィナの表情も柔らかくなっていく。


「そうそう。明日のお洋服も用意してありますわよ」


「明日もあるの!?」


 髪から服へ。


 アリアの興味がまた一つ増えた。


「もちろんです」


 少し後ろに立っていたノルンが、静かにセレフィナを見る。


 その視線へ気づいたセレフィナは、何でもないことのように微笑んだ。


「一着だけですわ」


「……そうですか」


 ノルンの返事はいつも通りだったけれど、アリアにはなぜか、あまり信じていないように聞こえた。


     ◇


 部屋へ戻ると、ルカはすでに寝間着へ着替えていた。


 マルルはベッドの上で満足そうに丸くなり、どうやら預けられていた間のおやつにも満足したらしい。


「おかえり」


「ルカ!」


 アリアは真っ先に駆け寄った。


「見て!」


「何?」


「さらさら!」


 その場でくるりと回る。


 結んでいない水色の髪がふわりと広がり、少し遅れて背中へ落ちた。


「ほんとだ」


「さわっていいよ!」


「なんでそんな偉そうなの」


 そう言いながらも、ルカは差し出された髪へ手を伸ばした。


 指の間を、するりと水色の髪が抜ける。


「すごいね」


「でしょ!」


「いい匂いもする」


「こうゆなの!」


「香油です」


 後ろからノルンが訂正する。


「こうゆ!」


「変わっていませんよ」


 ルカが笑い、アリアも何が違うのか分からないまま一緒に笑った。


 その時、部屋の隅に置かれた椅子へ目が止まった。


「……あれ?」


 見覚えのない服が、きれいに畳まれている。


 近づいてみると、柔らかな色の服には小さな刺繍が入り、その隣にはもう一組、どう見てもアリアには大きすぎる服が置かれていた。


「これ、なあに?」


「明日の服だって」


 ルカが答える。


「わあ!」


 アリアはすぐ、自分の服より隣へ置かれた方を見た。


「ルカのもあるよ!」


「……あるね」


「明日もおそろいみたい!」


「……そうだね」


 返事が、ほんの少しだけ遠い。


 アリアは気づかず、明日の服を嬉しそうに眺めていた。


 けれどノルンは、椅子の上の服を見つめるルカと、その横で楽しそうにしているアリアを交互に見た。


 マルルだけは、ベッドの上でころりと横になる。


「マルルのはないなの?」


「マルルはそのままで可愛いからいいんだって」


「そうなの」


 それで十分だったらしい。


 マルルは満足そうに丸くなった。


 一方、ルカはもう一度、椅子の上の服へ目を向ける。


 夕食の前に着替えさせられた時にも、少し嫌な予感はしていた。


 そして今。


 その予感は、どうやら終わるどころか、これから育っていくらしい。


     ◇


 翌朝。


「かわいい!」


 鏡の前で、アリアが両腕を広げた。


 昨日とはまた少し違う、動きやすい淡い色のワンピース。裾には小さな花の刺繍が入り、背中の小さな白い羽もきちんと外へ出るよう仕立てられている。


 昨夜つけてもらった香油のおかげなのか、朝になっても櫛は水色の髪をするりと通った。


「まださらさら!」


 アリアは朝からご機嫌だった。


 そして、その隣では。


「……なんで僕まで」


 ルカも昨日までとは違う服へ着替えさせられ、髪まできちんと整えられていた。


「似合ってるよ!」


「アリアは楽しいだろうね」


「ルカ、楽しくない?」


「……別に」


 そう言いながら、猫耳だけはどこか落ち着かなさそうに動いている。


 廊下へ出ると、待っていたセレフィナが二人を見た。


 すぐには何も言わない。


 アリアは自分の服に何かおかしなところがあるのかと思い、裾を見下ろした。


「セレフィナおばあちゃん?」


「……完璧ですわ」


「なにが?」


「何でもありません」


 優雅に笑うセレフィナを見上げながら、アリアはよく分からないまま首を傾げた。


 その横で、ルカの猫耳がぴくりと動く。


 やっぱり。


 何かが始まっている。


 そんな気がしてならなかった。


     ◇


 宿の前へ出ると、すでに馬車の出発準備は整っていた。


 荷物は積み終わり、馬たちも御者の合図を待っている。


 エリオは一足先に外へ出ていた。


「エリオお兄ちゃん!」


 アリアの声に振り返る。


「今日も騎士?」


「昨日も今日も騎士だよ」


「明日も?」


「ずっとだ」


「そっか!」


 満足したように笑う。


 昨日は何度も驚いたはずなのに、一晩眠れば、アリアの中ではもう「エリオお兄ちゃんは騎士」ということも、一緒に旅をしている日常の中へ入り始めていた。


「エリオ」


 先に馬車へ向かっていたルカが振り返る。


「行くよ」


「ああ」


 エリオもその後を追う。


 アリアは少し遅れて馬車へ乗り込み、セレフィナの隣へ腰を下ろした。


 扉が閉まり、御者が手綱を取る。


 ゆっくり車輪が回り始めると、宿の建物も町の通りも、窓の向こうを少しずつ後ろへ流れていった。


 アリアはしばらく町を見送っていたが、ふと思い出したように自分の髪へ指を通した。


 するり。


「さらさらー」


挿絵(By みてみん)


 それだけでまた嬉しくなって、もう一度指を通す。


 隣ではセレフィナが楽しそうに笑い、向かいのルカは今度は何も言わなかった。


 知らない町へ着くたびに、新しいことが増えていく。


 騎士だったエリオのことも。


 香油の甘い匂いも。


 昨日とは違う服を着ることも。


 そして、この先にはまだ見たことのないミレア湖が待っている。


 アリアは窓の向こうへ続く街道へ目を向けた。


 さらさらになった水色の髪が馬車の揺れに合わせて肩を滑り、背中の小さな羽がふわりと動く。


 馬車は町を離れ、ミレア湖へ向かう道を進み始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。