第66話 帰りたい場所
馬車は朝の街道を、一定の速さで進んでいた。
昨日まで乗っていた路線馬車ほど大きく揺れることはなく、車輪が石を踏んでも、厚い座席ごと身体が少し傾く程度で済んでいる。
アリアは大きな窓から流れていく景色を眺めながら、時折、自分のお尻の下にある座席を確かめるように身体を小さく揺らしていた。
「ルカ」
「なに?」
「今日、お尻痛くならないかも」
「まだ朝だよ」
「でも昨日より全然揺れないもん。昨日、途中からちょっと痛かったの」
「言ってなかったじゃん」
「言わなくても痛い時は痛いよ?」
「……それはそうだね」
妙に納得した顔で頷いたルカを見て、向かいに座っていたセレフィナが口元へ手を添えた。
「それほど違いますか?」
「全然違うよ!」
アリアはすぐに身体をセレフィナの方へ向けた。
「これなら、いっぱい乗れる!」
「ミレア湖まではまだ先ですから、存分に乗れますよ」
「ほんと?」
「ええ」
「やった!」
嬉しそうに答えて、また窓へ顔を戻す。
街道の両側には畑が続き、その向こうには小さな森が見えていた。遠くに見えていた木々が少しずつ近づき、やがて窓の横を通り過ぎて、また後ろへ遠ざかっていく。
昨日までは知らなかった景色が、今日も次々に現れては通り過ぎていく。
旅へ出てから、アリアにとってはそれがすっかり当たり前になっていた。
そんな横顔をしばらく眺めていたセレフィナが、ふと思い出したように声を掛けた。
「そういえば、アリア」
「ん?」
「昨日は聞きそびれてしまったのだけれど、あなたたちは、どうしてミレア湖へ向かっているの?」
アリアは振り返った。
「鍵の欠片を探すの!」
答えは迷うことなく返ってきた。
「鍵の欠片?」
「うん。八つあるんだよ」
「八つも?」
「今、それを一個ずつ集めてるの」
「その一つが、ミレア湖にあるの?」
「あるかもしれないの!」
まだ見つかったわけではない。それでもアリアは、そこへ行けばきっと何かがあると信じているようだった。
セレフィナは小さく頷いたあと、もう一つ浮かんだ疑問を口にした。
「それで、わざわざこんな遠くまで来たのね。でも、どうしてその鍵の欠片を集めているの?」
「帰るためだよ」
「帰る?」
「うん。おうちに」
そこで初めて、セレフィナの目が少し変わった。
「グラナではなくて?」
「違うよ。わたしのおうち」
アリアは笑いながら続けた。
「お父さんとお母さんがいるところ!」
「まあ」
それなら分かる、とでもいうように、セレフィナの表情が柔らかくなる。
「ご両親のところへ帰るための旅なのね」
「そうだよ」
「それなら普通に帰ることはできないの?」
「できないよ?」
どうしてそんなことを聞くのだろうという顔で、アリアは首を傾げた。
「だって、おうちなくなっちゃったもん」
セレフィナの表情が止まった。
「……なくなった?」
「うん。村も」
「村も……?」
「帰ってきたら、なくなってたの」
あまりにも普通に返されたせいで、セレフィナはすぐに言葉を返せなかった。
馬車の中では、それまでと変わらず車輪の音が続いている。馬の蹄が街道を叩く音も、小さな振動も何一つ変わっていない。
けれど、さっきまで気軽に交わされていた会話だけが、そこで途切れた。
セレフィナがもう一度尋ねたのは、少し時間が経ってからだった。
「村がなくなったというのは……どういうことなの?」
「そのままだよ?」
アリアは窓から視線を戻した。
「朝はあったの。いつもと同じだったよ。それで、帰ってきたらおうちがなくて、村もなくなってたの」
「お父様とお母様は?」
「いなかった」
向かいに座っていたエリオが、わずかに顔を伏せた。
セレフィナはしばらくアリアを見つめていたが、目の前の少女が冗談を言っているのではないことくらい、もう分かっていた。
「何か前触れはなかったの? 危ないことが起きそうだったとか、いつもと違うことがあったとか」
「なかったよ。普通だったもん」
アリアはそう答えてから、ほんの少しだけ視線を下げた。
「だから、わたしも分かんなかった」
「何が?」
「どうしたらいいのか」
声は、まだいつものアリアのものだった。
けれど膝の上に置かれていた小さな手が、知らず知らずのうちにワンピースの布をつまんでいた。
「おうちないし、お父さんもお母さんもいないし、誰に聞いたらいいのかも分かんなかったの」
指先が、もう少し布を握る。
「どこに行ったらいいのかも分かんなかった」
セレフィナの太い眉が、わずかに寄った。
朝には当たり前にあったはずの家も、村も、そこにいるはずの家族も、帰った時にはすべて消えていた。
何が起こったのかも分からないまま、その場所に立っていたのだ。
「……怖かったでしょう」
「うん」
それまでと同じように答えたはずなのに、今度の声だけは少し小さかった。
「怖かったよ。だって、何にも分かんなかったもん。誰に助けてって言ったらいいのかも分かんなかった」
あの時のことを話しているうちに、アリアの目はいつの間にか膝の上へ落ちていた。
けれど、そのまま長く沈んでいることはなかった。
「でもね」
顔を上げる。
「ルカがいたの!」
「……ルカ?」
「うん!」
さっきまでの小さな声が嘘だったように弾んだ。
アリアはすぐ隣に座っているルカを見る。
「ルカが一緒にいてくれたの」
セレフィナの視線も、自然とルカへ移った。
「あなたが?」
「まあ……うん」
急に話の中心へ出され、ルカは少し困ったような顔をした。
「ルカがいっぱい考えてくれたんだよ」
「アリア」
「だってそうでしょ?」
「僕だけじゃないよ」
「でも最初はルカだよ? わたし、何したらいいか全然分かんなかったもん」
ルカは何も言えなくなった。
アリアはそんなルカを気にすることなく、セレフィナへ話し続ける。
「どうしたらいいか一緒に考えてくれたし、ずっとそばにいてくれたの」
「そう……」
昨日から何度も見てきた二人の姿を思い返しながら、セレフィナは改めてルカを見た。
アリアがどこかへ行こうとすれば声を掛け、危なければ止め、何かを始めれば呆れながらも結局一緒についていく。
その距離の近さは感じていた。
「あなたたちは、ずいぶん昔から一緒なの?」
「うん!」
アリアが笑った。
「ルカはわたしのお兄ちゃんだよ!」
「……お兄様?」
ここへ来て初めて、セレフィナがはっきりと驚いた。
「あなたの?」
「そうだよ?」
なぜ驚くのか分からないアリアの代わりに、ルカが少し慌てて口を挟む。
「ほんとの兄妹じゃないよ」
すると今度は、アリアがルカを見た。
「でもお兄ちゃんだよ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ、お兄ちゃんだよ」
「……うん」
あまりにも真っすぐ言われて、ルカが折れた。
「僕はアリアと血が繋がってるわけじゃないんだ。でも、ずっと一緒にいるし……」
一度言葉を止めたあと、ルカは少しだけ視線を逸らした。
「僕はアリアのお兄ちゃんだから」
「うん!」
アリアが嬉しそうに頷いた。
「ルカ、お兄ちゃんだよ!」
「二回言わなくていいよ」
そのやり取りを見ながら、セレフィナの中で昨日から見てきたものが、ようやく一つにつながった。
今朝の飛行練習でもそうだった。
アリアが空を飛べば、ルカはその下を走っていた。危なければすぐに声を掛け、無茶をしそうになれば止める。
ただ一緒に旅をしている少年ではなかったのだ。
「だからね」
アリアは笑ったまま言った。
「わたし、一人じゃなかったよ。ルカがいたから」
ルカが横を見る。
「ルカがいなかったら、わたし、たぶん旅に出られなかったと思う」
「アリア……」
「ほんとだよ?」
「……うん」
「だから、よかった!」
そこでアリアは、ますます嬉しそうに笑った。
「ルカがお兄ちゃんで!」
ルカは何も返さず、ぷいと窓の方へ顔を向けた。
「ルカ?」
「なんでもない」
「顔赤いよ?」
「なんでもないって!」
その向かいで、セレフィナだけは笑わなかった。
照れている八歳の少年を、静かに見つめていた。
「ルカ」
「なに?」
「あなたは、立派なお兄様なのね」
「…………」
今度こそ逃げ場がなくなったらしい。
ルカはますます困った顔をした。
「別に……普通だよ」
「普通?」
「だって、お兄ちゃんだから」
特別なことをしているつもりなど、本当にないのだろう。
セレフィナはほんの少しだけ目を細めた。
「……そう」
それ以上は何も言わなかった。
◇
「それでね!」
自分の話が一段落したと思ったのか、アリアはまた旅の続きを話し始めた。
「女神さまが教えてくれたの!」
「……女神様?」
またしても予想していなかった言葉が出てきて、セレフィナが瞬く。
「うん! お父さんとお母さん、生きてるんだよ!」
今度は、本当に息を止めた。
「ご無事なの?」
「うん! ちゃんと生きてるって。無事だって教えてくれたの!」
「……そう」
セレフィナの肩から、わずかに力が抜けた。
「それは……本当によかったわ」
「うん!」
あれほど重い話を聞いたあとだったからこそ、両親が生きているという一言は何より嬉しかった。
けれど安心したのも束の間、次に尋ねた言葉への答えで、その表情はまた変わった。
「では、今どこにいるのかも分かっているの?」
「分かんない」
「……え?」
「どこにいるかは分かんないよ」
「連絡は?」
「できないよ?」
「声を聞くことも?」
「できない」
セレフィナは言葉を失った。
そんな自分とは対照的に、アリアはにっこり笑っている。
「でも大丈夫!」
また、その言葉だった。
「生きてるもん!」
父も母も生きている。
無事でいる。
確かに、それは何より大切なことだった。
けれど、この子は二人がどこにいるのか知らない。
声を届けることもできない。
向こうから声を聞くこともできない。
それでも、生きていると分かっただけで「大丈夫」と笑っている。
「女神様が、その鍵の欠片のことも教えてくださったの?」
「うん!」
「八つ集めれば?」
「帰れるの!」
アリアは胸を張った。
「だから集めてるんだよ。一個ずつ集めたら、いつか八つになるでしょ?」
「ええ」
「だから大丈夫!」
迷いのない声だった。
セレフィナは返事をしようとして、できなかった。
その時、アリアが突然、少し離れたところへ顔を向けた。
「……エリオお兄ちゃん?」
「ん?」
返事がおかしい。
アリアは怪訝そうにエリオを見る。
「どうしたの?」
「なんでもない」
そう答えるエリオの目は、明らかに赤くなっていた。
アリアはじっと見つめる。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるよ?」
「泣いてないって」
「でも目、びしょびしょだよ?」
「…………」
言い逃れられなくなったエリオは窓の方を向いた。
「風だよ」
「風?」
「ああ」
アリアも窓を見る。
きちんと閉まっていた。
「窓、閉まってるよ?」
「…………」
隣でルカが顔を伏せた。
肩が少し震えている。
「ルカ?」
「僕に聞かないで」
「なんで?」
「今は聞かないであげて」
「?」
ますます分からなくなり、アリアはまたエリオを見る。
「どこか痛いの?」
「違う」
「悲しいの?」
「……違うよ」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
エリオはしばらく答えなかった。
目元を手で拭い、何度か息を整えてから、ようやく口を開く。
「お前が……そんな顔で大丈夫って言うからだよ」
「わたし?」
アリアはますます不思議そうにした。
「だって大丈夫だよ? お父さんもお母さんも生きてるよ?」
「ああ」
「ルカもいるよ?」
「ああ」
「ノルンもマルルもいるよ?」
「そうだな」
「エリオお兄ちゃんもいるよ?」
「…………」
そこでエリオは、もう一度顔を覆った。
「エリオお兄ちゃん?」
「ちょっと待ってくれ」
「なんで?」
「今は……ちょっと待ってくれ」
「???」
アリアには最後まで分からなかった。
けれど向かいに座るセレフィナには、エリオがどうして泣いているのか、もう痛いほど分かっていた。
◇
しばらくすると、馬車の中にも少しずついつもの空気が戻ってきた。
アリアは再び窓の外へ顔を向け、流れていく畑を眺めていたが、やがて何かを思い出すようにぽつりと口を開いた。
「わたしね、お母さんのお料理、食べたいな」
「何がお好きなの?」
セレフィナが静かに尋ねる。
「いっぱい!」
「一番は?」
「うーん……」
アリアは本気で考え始めた。
あれも好き。
これも好き。
思い出すほど一つに決められなくなったらしい。
「いっぱいあるから分かんない」
「それでは一番ではありませんね」
「でも、お母さんが作ったのはだいたい好き!」
「そう」
「お父さんともお話したい」
「何をお話しするの?」
「いっぱい!」
「またいっぱい?」
「うん!」
アリアは笑った。
けれど、しばらく窓の外を眺めたあと。
「……会いたいな」
小さな声が落ちた。
さっきまでの「大丈夫」とは違う。
誰かへ聞かせようとして出した声ではなかった。
「お母さんに」
窓の向こうを見たまま続ける。
「お父さんにも」
膝の上で、小さな手が重なった。
「ぎゅってしてほしい。お母さん、ぎゅってしてくれるから。お父さんも」
セレフィナは何も言わなかった。
アリアの言葉が出てくるのを、ただ待った。
「また家族みんなで、ごはん食べたい」
少し俯く。
「また一緒にいたい」
それだけだった。
家が消えたことを話していた時にも泣かなかった。
父と母の居場所が分からないと言いながら、大丈夫だと笑っていた。
そんなアリアの口から初めて、飾りも強がりもない六歳の子どもの願いが、そのままこぼれた。
馬車の中が静かになる。
今度は誰も、その静けさを埋めようとはしなかった。
アリアも少しの間だけ俯いていたけれど、やがて顔を上げた。
「だから鍵、集めるの!」
声は、もういつものアリアへ戻っていた。
「全部集めて、帰る!」
「……ええ」
セレフィナも頷いた。
「それでね、帰ったらいっぱいお話するんだ!」
「旅のお話?」
「うん! 馬車に乗ったことも、串焼きを自分で買ったことも、初めて宿に泊まったことも!」
話し始めれば、次から次へと出てくる。
「飛ぶのもね、前より上手になったよ!」
「ご両親も、あなたが飛ぶ練習をしていたことをご存じなの?」
「知ってるよ! 毎朝やってたもん!」
「では、帰ったら上手になったところを見せないといけませんね」
「うん! もっと上手になってから見せる!」
アリアは背中の小さな羽を嬉しそうに動かした。
「今でも十分驚かれると思いますけれど」
「まだ曲がるの練習中だもん」
「それなら、もっと練習しなくてはいけませんね」
「うん!」
会いたいと言った時には小さくなっていた身体が、もう前へ向いている。
「ノルンのことも、マルルのことも話す!」
「マルルもなの!」
「旅でいっぱい助けてもらったって言うの!」
そこでアリアは、隣にいるルカを見る。
「ルカのことも!」
「僕のことは知ってるでしょ」
「知ってるけど、旅でいっぱい助けてくれたって話すの!」
「……いいよ、別に」
「話すよ?」
「なんで聞いたの」
ルカの返事にも構わず、今度は向かいへ顔を向ける。
「それからね、セレフィナおばあちゃんのことも話す!」
「……私のことも?」
「うん!」
「何を話すの?」
「ごはんいっぱいくれた!」
「そこなの?」
「馬車もすごい!」
「馬車……」
「あと強い!」
「まだそれを言うの?」
「だって強いもん!」
とうとうセレフィナが声を上げて笑った。
少し目の赤いままのエリオまで、窓際で笑っている。
「では、もう少し良いところも探しておいてくださいな」
「あるよ!」
「あら」
「いっぱいある!」
「本当に?」
「うん!」
アリアは迷いなく頷いた。
「全部、お母さんとお父さんに話す!」
その言葉に、セレフィナの笑みがほんの少しだけ揺れた。
この子にとって、家が消えた日のことは、物語の終わりではないのだ。
何も分からず立ち尽くしたことも。
今も父と母に会えないことも。
鍵の欠片を探して、知らない町を歩き続けていることも。
全部、帰るまでの途中にある。
あの日に途切れた家族との暮らしは、アリアの中では終わっていない。
ただ、その続きが少し遠くにあるだけなのだ。
だから帰ったら、話したい。
旅の途中で見たものも、出会った人も、できるようになったことも。
会えなかった時間まで全部抱えて、帰るつもりなのだろう。
セレフィナは向かいからそっと手を伸ばし、アリアの水色の髪へ触れた。
「?」
アリアが顔を上げる。
「セレフィナおばあちゃん?」
「何でもありませんよ」
「そう?」
「ええ」
柔らかな髪を、ゆっくり撫でる。
「帰ったら、たくさんお話しなさい」
「うん!」
「楽しかったことも、驚いたことも、頑張ったことも」
「全部話す!」
「ええ。きっと、お父様もお母様も喜びますよ」
「うん!」
アリアは迷いなく頷いた。
「わたしも早く会いたい!」
その一言に、セレフィナの手がほんの一瞬だけ止まった。
それから、もう一度。
今度は先ほどよりも少しだけ優しく、アリアの頭を撫でた。
「……そうね。早く会えるといいわね」
「うん!」
アリアは笑った。
その隣にはルカがいる。
少し離れたところにはノルンがいて、マルルもいる。向かいにはまだ少しだけ目の赤いエリオが座り、そして昨日までは名前さえ知らなかったセレフィナも、今は同じ馬車の中にいる。
お父さんとお母さんのところへ帰るために始まった旅だった。
けれど、離れている時間が長くなるほど、帰った時に話したいことも増えていく。
初めて歩いた道。
初めて泊まった宿。
助けてもらったこと。
できるようになったこと。
そして、新しく出会った人たち。
失ったものを取り戻すために歩き始めたはずの旅は、いつの間にか、いつか家族のもとへ持って帰りたいものを一つずつ増やしていく旅にもなっていた。
馬車は朝の街道を進んでいく。
まだ見つからない次の鍵の欠片を目指して。
その先にある、アリアが帰りたい場所へ向かって。




