第65話 大奥様の馬車
翌朝。
朝食を終えたアリアたちが宿を出ると、入口の前には二台の馬車が並んでいた。
「……あれ?」
昨日ここへ着いた時に見た馬車なら覚えている。街道で倒れていた御者を助けたあと、セレフィナたちと一緒に町までやって来た大きな馬車だ。
けれど今日は、その少し後ろに、ひと回り小さな馬車がもう一台止まっている。
アリアは二台を見比べてから、確かめるように昨日のことを思い返し、ぱっとルカを振り返った。
「増えてる! 昨日は一台だったよね?」
「そうだね」
ルカも見間違いではないと確認するように二台へ目を向ける。
そこへ、宿から出てきたセレフィナが声を掛けた。
「人数も荷物も増えましたもの。この町からは二台で参りましょう」
「二台で?」
「ええ。こちらには私たちが乗ります。もう一台には従者と荷物を」
「わあ……」
アリアはもう一度、目の前の馬車を見上げた。
昨日街道で見た時にも立派だと思ったけれど、あの時は倒れた御者のことが気になって、ゆっくり眺めている暇などなかった。こうして朝の光の中で間近に見ると、これまで乗ってきた馬車とはずいぶん違うことが分かる。
路線馬車ほど長くはないものの、濃い焦げ茶色の車体は朝の光を映すほどきれいに磨かれ、大きな窓には整えられた布が掛かっている。扉や車体についた金属の飾りにもくすみはなく、どこを見ても大切に使われていることが伝わってきた。
二台の前には、それぞれ二頭ずつ馬が並んでいる。
「これに乗るの?」
「昨日そう言われたでしょ」
ルカに言われても、アリアはまだ信じきれないように馬車を見上げた。
「ほんとに?」
「ぼくに聞かないでよ」
「だって、すごいよ?」
「すごくても馬車だよ」
「でも、今まで乗ってたのと全然違う!」
どう違うのか、もっと近くで確かめたくなったらしい。アリアは馬車の周りをぐるりと歩き始めた。
「アリア、あんまり触らない方がいいよ」
「触ってないよ。見てるだけ!」
「マルルも見てるなの!」
足元では、マルルもアリアと同じように馬車を見上げながらついて歩いている。
「ぴかぴかなの!」
「ね!」
「路線馬車より強そうなの!」
「馬車に強いとかあるの?」
ルカの呆れた声が追いかけてきたけれど、アリアとマルルは気にしていなかった。
その少し後ろでは、ノルンが自分たちの荷物を確認している。
そしてエリオは、先ほどからほとんど動いていなかった。
「エリオお兄ちゃん?」
アリアがようやく気づいて振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
返事はしたものの、エリオが見ているのはアリアではない。
馬車の扉だった。
そこには、一つの紋章が刻まれている。
昨日は御者が倒れ、その場で助けなければならない状況だった。宿へ着いてからも、自分たちの予定が変わったことで頭がいっぱいだった。だから細かなところまで確かめる余裕などなかった。
けれど今なら、はっきり見える。
エリオはゆっくり馬車へ近づいた。
昨日から胸のどこかへ引っかかっていたものが、一つずつつながっていく。
街道を走るには立派すぎる馬車。
何人もの従者。
宿場町で向けられていた人々の態度。
ミレア湖畔に別邸を持ち、毎年そこで夏を過ごすという話。
そして、目の前にある紋章。
「……グランヴェル辺境伯家」
「え?」
聞き慣れない名前に、アリアが首を傾げた。
エリオは答えなかった。
というより、答えるより早く、少し離れたところで従者と話していたセレフィナがこちらを振り返った。
「あら。何か気になるものでもありまして?」
エリオの視線が、馬車の扉からセレフィナへ移る。
「……失礼ですが」
「はい?」
「その馬車の紋章は、グランヴェル辺境伯家のものですよね」
「ええ」
あまりにもあっさり認められ、今度はエリオの方が言葉に詰まった。
「あなたは、グランヴェル家の……?」
そこでセレフィナが瞬いた。
何かを思い出したように、太い眉が少し上がる。
「あら。私、まだ名乗っていませんでした?」
「聞いてません」
先に答えたのはルカだった。
「まあ」
セレフィナは口元へ手を添え、ほんの少し困ったように笑った。
「それは失礼しました」
それから、自分の名前など今さら大したことではないと言わんばかりの調子で告げた。
「セレフィナ・グランヴェルと申します」
「…………」
エリオが固まった。
けれど、その名前がどれほどの意味を持つのか分からないアリアは、別のところに反応していた。
「セレフィナ?」
「ええ」
「おばあちゃんのお名前?」
「そうよ」
「セレフィナおばあちゃん!」
「はい」
知ったばかりの名前を、アリアはためらいもなくすぐに使った。
その隣でルカが、そっとエリオを見る。
「エリオお兄ちゃん?」
「……ちょっと待ってくれ」
「なに?」
「今、考えてる」
「何を?」
「いろいろだよ」
エリオは額へ手を当てた。
やっぱり。
昨日から感じていた予感は、見事に当たっていた。
「元グランヴェル辺境伯夫人……ですよね」
「ええ」
「…………」
「エリオお兄ちゃん?」
アリアが心配そうに顔を覗き込む。
「知ってる人だったの?」
「知り合いじゃない」
「でも知ってるの?」
「名前はな」
「有名なの?」
「まあ……有名だよ」
それを聞いたアリアは、改めてセレフィナを見た。
昨日、一緒にごはんを食べた。
一緒に町を歩いた。
お菓子を買うところも見たし、マルルには魚までくれた。
アリアが知っているのは、そういうセレフィナだった。
「セレフィナおばあちゃん、有名なんだ」
「昔の話ですよ」
「そうなの?」
「ええ」
本人があまりにも涼しい顔をしているので、アリアも「そっか」と納得しただけだった。
エリオはそんな二人を見比べ、小さく息を吐く。
「そういう問題じゃないと思うんですけどね……」
「何か?」
「いえ」
昨日一日で、エリオも少し学んでいた。
たぶん、この人へ何を言っても、自分の思うようにはならない。
◇
「では、参りましょうか」
「うん!」
従者が大きな馬車の扉を開けた。
待っていましたとばかりにアリアは真っ先に乗り込もうとしたものの、中が見えた瞬間、その足が止まる。
「…………」
「アリア?」
後ろからルカが覗き込んだ。
「どうしたの?」
「ルカ」
「なに?」
「広い」
「え?」
「中、広い!」
今度こそ中へ入ると、そこには路線馬車とはまるで違う空間が広がっていた。
向かい合わせの座席には厚いクッションが敷かれ、壁には小さな収納まで作られている。外から見えていた窓には内側にも布が掛かり、必要なら光を遮ることもできそうだった。
自分たちの荷物を置いても、まだ十分な余裕がある。
「すごい!」
アリアはさっそく座席へ腰を下ろした。
その途端、身体がふわりと沈む。
「……やわらかい」
確かめるように、もう一度身体を上下させた。
「ふかふか!」
「ふかふかなの!」
ぽすん、とマルルまで隣へ飛び乗る。
「マルル!」
「ふかふかなの!」
「ほんとだね!」
二人で座席を楽しんでいるところへ、ルカも乗り込んできた。
「昨日の宿でも、同じようなこと言ってなかった?」
「言ってないよ」
「言ってたよ」
「宿のベッドと馬車の椅子は違うもん!」
「何が?」
アリアは少し考えた。
「……場所?」
「それだけじゃん」
ノルンまで乗り込むと、残ったのはエリオだけだった。
けれど本人は、馬車の入口に立ったまま、なかなか中へ入ってこない。
「エリオお兄ちゃん?」
「なんだ」
「乗らないの?」
「乗るよ」
「早く!」
「分かってるって」
返事をしながらも、エリオにはまだ少しだけためらいがあった。
西方騎士団の一員とはいえ、元辺境伯夫人の私用馬車へ、当然のように子どもたちと一緒に乗り込んでいいものなのか。
そんなことを考えていると、後ろから名前を呼ばれた。
「エリオさん」
「はい」
「何をしているの?」
「いや、本当に俺まで乗っていいのかと思いまして」
「昨日決めたでしょう?」
「……決めたのはあなたですよね?」
「何か問題でも?」
「ありません」
「では乗りなさい」
「はい」
今度は素直に乗り込んだエリオを見て、ルカが小さく笑った。
「エリオお兄ちゃん」
「なんだよ」
「昨日より返事が早くなったね」
「うるさい」
それを聞いたアリアまで笑い、さっきまでエリオ一人だけが感じていた緊張は、そのまま馬車の外へ置いていかれた。
◇
全員が乗り込むと従者が扉を閉め、やがて馬車はゆっくりと動き始めた。
「出た!」
窓へ寄ったアリアの目の前で、昨日泊まった宿が少しずつ遠ざかっていく。
本当なら、昨日の朝には路線馬車へ乗り、ここを出ているはずだった。
御者が倒れた馬車を見つけて。
セレフィナを助けて。
一日予定が延びて。
そして今日、自分たちは昨日まで想像もしていなかった馬車に乗って、この町をあとにしている。
旅へ出てから、予定通りにいかないことはいくつもあったけれど、今回はずいぶん大きく変わった気がした。
そんなことを考えながら窓の外を眺めていたアリアが、ふいに座席へ意識を戻す。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「揺れない」
「揺れてるよ」
「でも、昨日より揺れない!」
そう言われてみれば、確かに馬車は揺れている。
車輪が石を踏めば、ごとりと身体が動くし、道のくぼみを越えれば座席も上下する。
けれど、路線馬車に乗った時のように身体が跳ねるほどではなかった。それに何より、厚い座席が揺れを受け止めてくれる。
アリアはお尻の下のクッションを、もう一度確かめるように押した。
「すごいね!」
「そうだね」
「これなら、お尻痛くならないかも!」
「そこなんだ」
ルカが笑い、向かいに座っていたセレフィナも口元を緩めた。
「気に入っていただけた?」
「うん!」
「それはよかったわ」
「ずっとこれで行くの?」
「ええ」
「ミレア湖まで?」
「そのつもりですよ」
「やった!」
嬉しくなったアリアが両手を上げると、隣のマルルまで真似をする。
「やったなの!」
「マルルは昨日も、ほとんどアリアの膝で寝てただろ」
「今日はふかふかで寝るなの!」
「寝る気なんだ」
「旅は寝るものなの」
「誰に教わったの、それ」
「マルルなの!」
「自分じゃん」
馬車の中に笑い声が広がった。
昨日までなら、長い馬車の旅と聞けば、どのくらい揺れるのか、どのくらい座っていなければならないのかを考えていた。
けれど今日は少し違う。
柔らかな座席に座り、大きな窓から外を眺めながら進んでいく。
同じ「馬車で旅をする」でも、こんなに違うものなのだと、アリアは一つ新しいことを知った気がした。
◇
しばらく走ると、宿場町の建物はすっかり見えなくなり、窓の外には街道と遠くまで続く畑が広がるようになった。
景色を眺めていたアリアは、ふと思い出したように向かいへ顔を向けた。
「ねえ、セレフィナおばあちゃん」
「なあに?」
「辺境伯夫人ってなに?」
「アリア!」
それまで黙っていたエリオが、思わず声を上げた。
「なに?」
「いや……」
エリオは口を閉じた。
聞くのか。
本人に。
しかも、すっかり「セレフィナおばあちゃん」が定着している。
けれど、当のセレフィナは気にした様子もなく、アリアへ向き直った。
「そうね。どう説明しましょうか」
少し考えてから、六歳のアリアにも分かる言葉を選ぶ。
「私の夫が、昔、この辺りを治める辺境伯だったの」
「セレフィナおばあちゃんの旦那さん?」
「ええ」
「じゃあ、おばあちゃんも一緒にお仕事してたの?」
「そうね。いろいろと」
「今は?」
「今は、息子が辺境伯です」
「息子?」
「ええ」
アリアは一度瞬いた。
「セレフィナおばあちゃんのお兄ちゃん?」
「…………」
隣でルカが吹き出した。
「違うよ、アリア。おばあさんの子ども!」
「あ」
そこでようやく意味がつながったらしく、アリアはセレフィナを見直した。
「お母さんなの?」
「ええ。こう見えても」
「こう見えても?」
「そこは気にしなくていいのよ」
「そっか」
アリアは素直に頷いた。
辺境伯夫人が何なのかは、少しだけ分かった。
この辺りを治めていた人の奥さんで、今はその息子が同じ仕事をしている。
けれど、それを知ったからといって、アリアの中でセレフィナが急に別の人になったわけではなかった。
昨日一緒にご飯を食べて、マルルへ魚をくれて、今日こうして馬車に乗せてくれている。
それならやっぱり、アリアにとってはセレフィナおばあちゃんだった。
そんなアリアを見ていたエリオは、今度は窓の外へ目を向けた。
グランヴェル辺境伯家。
ミレア湖。
その湖畔にある別邸。
そして、現在の辺境伯。
昨日までは、ただミレア湖へ向かうために路線馬車を乗り継いでいただけだった。
それが御者を一人助けたところから、ずいぶん大きなところへ話が転がり始めている。
「……アリア」
「なに?」
「お前、すごい人に拾われたな」
「拾われてないよ?」
「似たようなもんだよ」
「助けたのはわたしたちだよ?」
「……それもそうだな」
言われてみれば、その通りだった。
エリオは思わず笑った。
偶然出会ったのは確かだけれど、最初に手を伸ばしたのはアリアたちの方だ。
本当なら、自分たちで宿を探し、路線馬車を乗り継ぎながらミレア湖へ向かっていたはずだった。
それが今は、元辺境伯夫人の馬車へ乗せてもらい、別邸まで一緒に旅をすることになっている。
予定していたものとは、もうずいぶん違う旅だ。
けれど、それを一番楽しんでいる本人は、そんな大きな変化など気にしていないらしい。
「ねえ、セレフィナおばあちゃん!」
「なあに?」
「湖まで、あと何日?」
「まだしばらくかかりますよ」
「しばらくって?」
「そうねえ」
セレフィナは、すぐには教えず楽しそうに笑った。
「それは、これからのお楽しみということにしましょうか」
「えー!」
アリアの声が馬車いっぱいに響く。
その声を乗せたまま、二台の馬車は街道を進んでいった。
昨日までとは違う旅が、本当に始まった。




