第62話 初めての宿屋
午後の路線馬車は、朝よりもずっと静かだった。
昼の休憩所を出てしばらくすると、それまで話をしていた乗客たちも少しずつ口数が減り、窓へ頭を預けて眠る人まで出てきた。アリアの膝の上でも、串焼きを食べて満足したマルルが身体を丸くし、馬車の揺れに合わせて長い耳をゆらゆらと動かしている。
「すぅ……なの……」
小さな寝息が聞こえてきて、アリアは思わず笑った。
「マルル、寝てる」
「寝てないなの……」
「寝てるよ」
目を閉じたまま答えるものだから、余計におかしい。
起こさないように背中をそっと撫でながら、アリアは窓の外へ目を向けた。
ごとごと、ごとごと。
朝にはずっと気になっていた車輪の音にも、半日乗っているうちに少し慣れてきた。エッダたちの馬車とは揺れ方も音も違うけれど、同じ調子がずっと続いていると、いつの間にかそれも旅の音の一つになっている。
ただ、慣れてきたのは馬車だけだった。
この先のことは、まだ分からないことだらけだ。
「ねえ、ルカ」
隣に座っていたルカが顔を向ける。
「なに?」
「今日泊まるところ、まだ?」
「まだだよ」
「あとどのくらい?」
「僕に聞かれても分からないよ」
「そっか」
一度は納得したものの、分からないままというのも落ち着かない。
アリアは少し考えてから、今度は斜め向かいへ視線を移した。
「エリオお兄ちゃん」
「今度は俺に聞くのか」
「うん!」
使い込まれた革鞄を足元へ置いていたエリオが、苦笑しながら身体を起こした。
「夕方には着くよ」
「夕方」
「ああ。暗くなる前には宿場へ入れる」
その答えを聞いて、アリアはほっとした。
けれど、それとほとんど同時に、昼間の馬車の中で教えてもらったことを思い出す。
宿へ着いたら、まず部屋が空いているか聞く。
いっぱいだったら別の宿へ行く。
そこもいっぱいだったら、また次を探す。
そう考えているうちに、さっきまで安心していたはずなのに、胸の中へ新しい心配がむくむくと膨らんできた。
「……空いてるかな」
「何が?」
「お部屋」
エリオが一瞬きょとんとしてから笑った。
「今からそれを心配してるのか?」
「だって、いっぱいだったら別のお宿でしょ? そこもいっぱいだったら、また別のお宿に行って、それでもいっぱいだったら……」
「昼にも同じところまで考えてただろ」
「だから心配なの」
アリアとしては真剣だった。
これまでの旅では、眠る場所を自分たちだけで探したことがほとんどない。教会ならお願いすれば泊めてもらえたし、エッダたちと一緒だった時には、夕方になれば馬車そのものが家になった。
けれど今日は違う。
知らない町へ着いたら、自分たちで今夜眠る場所を見つけなければならない。
それを考えると、町へ着く前から少しだけどきどきした。
「この時期なら、そこまで心配しなくていいよ」
エリオがそう言うと、アリアはすぐ顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ。よほど大きな祭りでもなければ、どこも全部埋まってるなんてことは滅多にない」
「じゃあ大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
しばらくエリオの顔を見つめてから、アリアはようやく安心して背もたれへ身体を預けた。
「エリオお兄ちゃんが言うなら大丈夫そう」
「ずいぶん信用されたな」
「だって旅のこといっぱい知ってるもん」
何の疑いもなく言われて、エリオは少しだけ言葉に詰まった。
それから何かを隠すように窓の外へ顔を向け、小さく笑った。
◇
夕方が近づくにつれて、窓の外を流れていた景色にも少しずつ家が増え始めた。
畑の向こうに屋根が見え、道を行き交う人や荷車も多くなってくる。
そのたびに、アリアは身体を起こした。
「着いた?」
「まだ」
しばらくして馬車の速度が少し落ちると、また顔を上げる。
「今度こそ着いた?」
「たぶんね」
「お宿!」
「まだ馬車からも降りてないだろ」
ルカに笑われても、気になって仕方がない。
やがて馬車は大きな通りへ入り、何度か曲がったあと、とうとうゆっくりと止まった。
御者が今日の運行はここまでだと告げた途端、アリアは膝の上で眠っていたマルルを抱き上げる。
「ルカ、お宿!」
「分かってるって」
「早めに行くんだよ!」
「それも覚えてる」
「マルルも行くなの!」
さっきまで眠っていたとは思えない声でマルルまで張り切り始めた。
馬車を降りると、朝から一緒だった乗客たちは、それぞれ自分の荷物を持って別々の方向へ歩き出していく。
アリアはマルルを抱いたまま、その様子を少し不思議な気持ちで見送った。
「みんな一緒じゃないんだね」
「そりゃそうだよ」
「同じ馬車だったのに」
「馬車を降りたら、ここからはそれぞれなんだよ」
「そっか……」
今朝までは名前すら知らなかった人たちだった。
けれど同じ馬車に揺られ、途中で話をして、同じ休憩所で昼を食べた。
明日の馬車でまた顔を合わせる人もいるだろうし、もう二度と会わない人もいるのかもしれない。
エッダたちとの旅では、朝から夜までずっと同じ人たちと過ごしていた。
路線馬車の旅では、乗るたびに誰かと出会い、途中で別れて、また知らない誰かが乗ってくる。
そういう旅もあるらしい。
まだ上手く言葉にはできなかったけれど、アリアは少しずつ、その違いを感じ始めていた。
「アリア」
「ん?」
「本当に置いてくよ」
「あっ、待って!」
考え込んでいるうちにルカたちが先へ進んでいて、アリアは慌ててそのあとを追った。
◇
「ここなら大丈夫だろ」
少し歩いたところで、エリオが一軒の建物の前に立ち止まった。
アリアも足を止めて、見上げる。
「ここ?」
「ああ」
「お宿?」
「そうだよ」
二階建ての木造の建物で、入口の上には大きな看板が下がっていた。荷物を持った旅人が中へ入り、入れ違いに別の人が出てくる。
たぶん、宿屋としては何も珍しい建物ではないのだろう。
けれどアリアにとっては違った。
知らない町の、知らない建物。
今夜は、この中で眠るらしい。
「……入るの?」
「そのために来たんだろ」
「そうだけど……」
アリアは扉をじっと見た。
教会なら分かる。
女神様のことも知っているし、旅を始めてから何度も泊めてもらった。エッダたちの馬車なら、どこに何があるのかまで知っていたし、野宿だってもう経験している。
けれど今からすることは、そのどれとも違う。
知らない人が営んでいる建物へ自分から入り、今夜ここで眠らせてください、とお願いするのだ。
そう考えると、ほんの一枚の扉なのに、少しだけ向こう側が遠く感じた。
「アリア?」
先に入ろうとしていたルカが振り返る。
「行かないの?」
「行く!」
置いていかれる方が嫌だった。
アリアはすぐに追いつき、一緒に扉をくぐった。
中へ入ると、外とは違う匂いがした。
煮込んだ料理の匂いに、古い木の匂いが混じり、その奥から食器の触れ合う音や人々の話し声が聞こえてくる。
入口のすぐ近くには受付があり、その向こうにいた男がアリアたちへ顔を向けた。
「いらっしゃい」
声を掛けられた途端、アリアはぴたりと止まった。
ルカを見る。
ノルンを見る。
最後にエリオを見る。
けれどエリオは助け舟を出すでもなく、少しだけ笑いながらこちらを見ていた。
自分で聞いてみろ、ということらしい。
アリアは昼間教えてもらったことを思い出した。
宿へ着いたら、まず部屋が空いているか聞く。
それだけだ。
アリアは少しだけ背筋を伸ばした。
「あの!」
「はいよ」
「お部屋、空いてますか?」
「ああ。空いてるよ」
「……!」
返事を聞いた瞬間、アリアの顔がぱっと明るくなった。
すぐ後ろを振り返る。
「ルカ! 空いてた!」
「聞いてたよ」
「よかった!」
胸の中でずっと心配していた「全部いっぱいだったらどうしよう」が、一瞬で消えていった。
一軒目で見つかった。
ちゃんと今夜眠れる。
それだけで、少し大きなことをやり遂げたような気さえした。
「何人だい?」
宿の主人に尋ねられ、アリアは改めて自分たちを見回した。
「えっと……わたしと、ルカと、ノルンと、マルルと……」
そこでエリオを見る。
「エリオお兄ちゃん!」
「俺は別だ」
「一緒に泊まらないの?」
「同じ宿には泊まるよ。部屋は別にする」
「なんで?」
「なんでって……」
エリオが返事に困っていると、ルカが小さな声で割って入った。
「エリオお兄ちゃんは大人だから、別のお部屋でいいんじゃない?」
「大人だと別なの?」
「……たぶん」
アリアがじっとルカを見る。
「ルカも分かってないじゃん」
「アリアよりは分かってるよ!」
そのやり取りを聞いていた宿の主人が笑った。
「じゃあ、子ども三人と、その白いのが一匹だな」
「マルルなの!」
すかさずマルルが訂正する。
「名前があるのか。そりゃ悪かった」
「マルルなの!」
「分かった、分かった。マルルな」
帳面をめくった主人は、少し確認してから顔を上げた。
「四人なら一部屋で大丈夫だぞ」
「みんな一緒?」
「ああ」
アリアはすぐにルカとノルンを見た。
「そこがいい!」
ルカが宿代を確認し、シリルから預かった旅費の中から必要な分を支払う。
アリアはすぐ横から、その一連のやり取りをじっと見ていた。
ルカがお金を渡す。
主人が金額を確かめる。
そして最後に。
ことん。
小さな鍵が、受付の上へ置かれた。
「二階の奥の部屋だ。これが鍵」
ルカが受け取った鍵を、アリアはじっと見つめた。
「……それ、なに?」
「今言っただろ。部屋の鍵だよ」
「わたしたちのお部屋の?」
「今夜はね」
「これが?」
「うん」
手のひらに収まってしまうほど小さな鍵だった。
けれどアリアには、それがとても不思議なものに見えた。
少し前まで、この町には自分たちの眠る場所などどこにもなかった。
どんな部屋へ泊まるのかも知らなかったし、そもそも泊まれるのかどうかさえ心配していた。
それが、自分で扉をくぐって、部屋が空いているか聞いて、お金を払ったら。
今夜眠る場所ができた。
「……泊まれるんだ」
「そうだよ」
「わたしたちだけで?」
「うん」
ルカの返事を聞いて、アリアはもう一度鍵を見た。
旅に出たことなら、とっくに知っている。
教会へ泊まったこともあるし、エッダたちの馬車で何日も旅をした。
それなのに、この小さな鍵を見ていると、今までとは少し違う実感が胸の中へ広がってきた。
誰かに泊めてもらうのではなく。
誰かの旅へ一緒に乗せてもらうのでもなく。
自分たちで今夜の居場所を見つけた。
本当に自分たちだけで旅をしているのだと、今になって初めて少し分かったような気がした。
◇
二階の奥まで進み、ルカが鍵を差し込んで扉を開けた。
「ここ?」
アリアは入口から中を覗き込んだ。
部屋には何台かの寝台と、小さな机や椅子、荷物を置くための棚がある。特別に広いわけでも、豪華なわけでもない。
それでも、ここがさっき鍵をもらった自分たちの部屋なのだと思うと、入る時の気持ちはどこか違った。
「ここで寝るんだ……」
アリアはゆっくり中へ入り、きょろきょろと周囲を見回した。
知らない場所へ泊まること自体は、初めてではない。
けれど教会へ泊めてもらった時とは、やはり何かが違う。
「ねえ、ルカ」
「なに?」
「ここ、夜のお祈りしなくていいの?」
「しなくてもいいんじゃない?」
「じゃあ、ごはん食べたあと、お手伝いは?」
「たぶんないよ」
「朝のお祈りは?」
「それもない」
「お掃除は?」
「宿の人がやってくれると思う」
尋ねるたびに「しなくていい」が増えていく。
アリアはだんだん不思議そうな顔になった。
教会へ泊めてもらった夜は、ほんの一晩だけでも、そこにいる人たちの暮らしへ混ぜてもらうような感じだった。食事を一緒にし、お祈りをして、朝になればみんなと同じように一日が始まる。
けれど宿では、その家の暮らしへ入るわけではないらしい。
今夜この部屋を借りて。
夕食を食べて。
ここで眠って。
朝になったら、また旅へ出る。
「……宿って、旅する人のためのおうちみたいだね」
「おうち?」
ルカが首を傾げる。
「だって、寝るところもあるし、ごはんも食べられるでしょ? でも明日になったら、また出ていくの」
「まあ……そんな感じかもね」
「今夜だけのおうち」
そう口にしてみると、何となくしっくりきた。
アリアは少し嬉しくなり、すぐ近くにあった寝台へ手を伸ばした。
指でそっと押す。
柔らかな寝具が、ふわりと沈んだ。
「……やわらかい」
もう一度押すと、やっぱりふわっと戻ってくる。
「アリア」
「なに?」
「飛び込まないでよ」
「しないよ!」
「ほんと?」
「ほんと!」
言いながら、アリアは寝台を見る。
やわらかそうだ。
もう一度見る。
少しくらいなら。
「……たぶん」
「やっぱり!」
ルカが声を上げた、その瞬間。
ぽすん。
「ふかふかなのー!」
腕の中にいたはずのマルルが、一足先に寝台へ飛び込んでいた。
「あっ!」
アリアが目を丸くする。
「……先にやられた」
「やっぱりアリアもやるつもりだったんじゃん!」
「やらないよ!」
「今、先にやられたって言った!」
「言ってない!」
「マルルはふかふかなの!」
寝台の上で満足そうに身体を沈めているマルルを見て、ノルンまで口元を押さえて笑った。
知らない部屋だったはずなのに。
いつの間にか、さっき扉の前で感じた緊張はなくなっていた。
◇
夕食は、一階の食堂で取ることになった。
大きな部屋にはいくつもの卓が並び、旅人らしい人や商人、家族連れなどがそれぞれ食事をしている。
アリアは席へ着いてからも、料理が来るまで周囲を何度も見回した。
「ここに泊まってる人、みんなここで食べるの?」
「食事を頼んでる人はね」
ルカの答えを聞いて、もう一度周囲を見る。
ほとんどが知らない人だ。
今日初めてこの町へ来て、今夜だけ同じ建物で眠り、明日になればまたそれぞれ違う場所へ向かっていく。
路線馬車と少し似ている。
知らない人たちと、ほんの少しだけ同じ時間を過ごす。
そんなことを考えていると、入口から見覚えのある青年が入ってきた。
「あっ、エリオお兄ちゃん!」
「聞こえてるよ」
「こっち!」
「分かってるって」
同じ宿へ泊まるエリオも、夕食はアリアたちと一緒に取ることになっていた。
やがて温かいスープやパン、焼いた肉、野菜の煮込みが卓へ並び始めると、アリアの意識はすぐにそちらへ移った。
「これも宿のごはん?」
「ああ」
「お金は?」
「部屋を取る時に夕食込みで払ってる」
「じゃあ、全部食べていいの?」
「そのために出てきたんだよ」
「すごいね、お宿」
「もう気に入ったのか?」
「うん!」
アリアはすぐにスープをひと口飲み、温かさが喉を通っていくのを感じると、さらに嬉しそうに笑った。
「これ、おいしい」
朝はグラナにいた。
昼には街道の途中で馬車を降り、自分で初めて串焼きを買った。
そして夜には、今朝まで名前すら知らなかった町の宿で、こうしてみんなと食事をしている。
一日しか経っていないのに、ずいぶん遠くまで来たような気がした。
「ねえ、エリオお兄ちゃん」
「ん?」
「エリオお兄ちゃんは、いつもこういう旅してるの?」
「こういう旅?」
「路線馬車に乗って、途中でごはん食べて、知らない町でお宿を探して、そこで寝て。また次の日に馬車に乗るの」
「ああ。仕事で遠くへ行く時は、大体そんな感じだな」
「毎回?」
「まあな」
「すごいね」
「慣れれば普通だよ」
「普通……」
アリアはパンをちぎりながら、その言葉を考えた。
自分にとって今日あったことは、ほとんど全部が初めてだった。
決まった時間に走る馬車へ乗ることも、知らない人と一緒に揺られることも、休憩所で食べ物を買うことも、自分たちで宿へ入って部屋を取ることも。
それがエリオにとっては、もう普通になっている。
「わたしも、そのうち普通になる?」
「たぶんな」
「お宿に入っても、どきどきしなくなる?」
「何度も泊まってればな」
アリアは少しだけ考え、それからスープの器を見つめた。
「……でも、初めての方が楽しいかも」
エリオがふっと笑った。
「じゃあ、今のうちに楽しんどけ」
「うん!」
アリアは素直に大きく頷いた。
「明日も分からないことがあったら聞くね!」
「そこは少しずつ覚えてくれよ」
「覚えるよ!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんなの!」
パンを食べていたマルルまで同じ言葉を続け、食卓へ笑い声が広がった。
◇
その夜、明かりを消すと部屋は思っていたよりも静かになった。
昼間ずっと身体へ響いていた馬車の音もなく、窓の外からは知らない町の夜の音がかすかに聞こえているだけだ。
アリアは毛布へ身体を包みながら、ぼんやり暗い天井を見ていた。
寝台は柔らかい。
部屋も暖かい。
危ないことなど何もない。
それでも、目を閉じた途端に、ここがグラナでも教会でも、エッダたちの馬車でもないことを思い出す。
ほんの少しだけ落ち着かなくなって、アリアは暗闇へ向かって声を掛けた。
「……ルカ」
「なに?」
すぐ隣の寝台から返事が来た。
「起きてた?」
「アリアがまだ起きてるからね」
「そっか」
声が返ってくるだけで、胸の中にあった小さな落ち着かなさが少し薄くなる。
「今日、いっぱい初めてだったね」
「うん」
「路線馬車も、串焼き買ったのも、お宿も」
「そうだね」
「明日も、初めてあるかな」
「たぶんあるんじゃない?」
「そっか」
アリアは毛布を少しだけ顎の方へ引き上げた。
知らない天井の下にいても、すぐそばにはルカがいる。
少し向こうの寝台にはノルンもいて、マルルはもう寝具の中へ半分埋もれながら、小さな寝息を立てている。
部屋そのものは知らない場所でも。
一緒にいる人たちは、いつものみんなだ。
それに気づくと、急にここも今夜だけの自分たちの場所になった気がした。
「おやすみ、ルカ」
「おやすみ」
「ノルンも」
「おやすみなさい、アリア」
「マルルも」
「すぴー……なの……」
「もう寝てる」
小さく笑ってから、アリアは今度こそ目を閉じた。
初めての宿の夜は。
思っていたよりも、ずっと安心して眠れそうだった。
◇
翌朝、アリアが目を開けた時。
最初の一瞬だけ、どこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井を見上げたまま瞬きをし、寝返りを打ったところで、隣の寝台にいるルカが目へ入る。
「あ」
昨日のことが一気に戻ってきた。
「お宿だ」
自分たちで部屋を取って、鍵をもらって、初めて泊まった宿。
窓の向こうはすでに少しずつ明るくなっていて、朝の光が薄いカーテンを透かしている。
ノルンはもう起きていた。
「おはようございます」
「おはよう、ノルン」
アリアは寝台の上へ起き上がり、まだ少し眠い目をこすった。
「今、何時?」
「六時を少し過ぎたところです」
「馬車は?」
「八時ですよ」
「八時……」
あと二時間近くある。
朝食を食べても、まだ少し時間が残る。
アリアは窓の外へ目を向けた。
知らない町の屋根が並んでいる。
その向こうには朝の空があり、風に揺れる木々も見えた。
しばらく眺めているうちに、アリアの顔が少しずつ明るくなる。
「……飛べるね」
ノルンも窓の外を見て、すぐに意味を理解した。
「はい。朝食を済ませれば、少し練習できますね」
「やった!」
旅先でも、朝は朝だ。
場所が変わったからといって、昨日まで続けていたことまでなくなるわけではない。
そのことが、アリアには何となく嬉しかった。
◇
朝食を済ませたあと、アリアたちは宿場町の外れまで歩いた。
まだ朝の早い時間で、人通りの多い街道から少し離れると、周囲には十分な広さがある。
「ほんとに旅先でもやるんだね……」
ルカがまだ少し眠そうな声で言った。
「毎日やるって決めたもん」
「そうだけどさ」
「飛べるようになっただけで、まだ上手になったわけじゃないし」
アリアにとって飛行訓練は、もう特別な日にだけするものではなくなり始めていた。
朝になったら身体を動かし、昨日よりほんの少しでも上手く飛べるように練習する。
それは、場所が変わっても続けていきたいことだった。
いつものように少し広い場所へ出ると、アリアはすぐに空を見上げた。
「じゃあ飛ぶね」
「アリア」
地面を蹴ろうとしたところで、ノルンに止められる。
「ん?」
「その前に、周りを確認しましょう」
「いつもしてるよ?」
「ここは、いつもの場所ではありません」
「あ……」
言われて初めて、アリアは周囲をゆっくり見回した。
グラナで練習していた場所とは、地面の広さも、木の位置も違う。少し離れたところには街道があり、朝早くから歩いている人もいる。
「人が来ないか見る」
「はい」
「飛ぶところに木がないかも見る」
「そうですね」
「ほかには……」
昨日までなら、それくらいで飛び始めていたかもしれない。
けれど考えている途中で、頬へ風が触れた。
水色の髪がさらりと横へ流れ、ワンピースの裾も同じ方向へわずかに揺れる。
アリアはそのまま顔を上げた。
「あ。風」
「そうです」
ノルンが微笑んだ。
「場所が変われば、風の向きも強さも変わります。いつもと同じように身体を動かしても、同じように飛べるとは限りません」
「じゃあ、今日は違うの?」
「それを飛びながら確かめてみましょう」
「うん!」
今度こそ地面を蹴る。
背中の小さな羽へ光が重なり、ふわりと身体が浮き上がった。
いつもの感覚で真っ直ぐ上へ出たつもりだった。
ところが、足が地面を離れた直後、横から吹いてきた風に身体を押され、思っていた場所より少しだけ右へ流される。
「わっ!」
慌てて身体へ力を入れると、今度は姿勢まで崩れそうになった。
何とか立て直してから下を見ると、ノルンがこちらを見上げている。
「力で戻そうとしすぎないでください。まず、風がどちらから来ているのか感じてみて」
「うん!」
アリアはその場で一度だけ深く息を吸った。
さっきは身体が流れたことに驚いて、すぐに戻そうとしてしまった。
今度は急がず、頬へ触れる空気と、髪が流れていく向きを確かめる。袖や裾にも風が当たり、身体の片側だけを少し押しているのが分かってくると、さっきまでただ邪魔をしているように感じた風にも、ちゃんと向きがあるのだと気づいた。
その流れへ逆らいすぎないよう、身体の傾きをほんの少し変える。
今度は横へ流されなかった。
「できた!」
「まだです」
「えー!」
「今のは流されずに止まれただけですよ」
けれどノルンは笑っていた。
それを見て、アリアも笑う。
「じゃあ、もう一回!」
少し高度を下げ、また上がる。
今度は最初から風を探してみる。
同じ朝の練習なのに、昨日までとは考えることが一つ増えた。
知らない場所へ来るということは、知らないものを見るだけではないらしい。
昨日できたことを、違う場所でもできるようにする。
そうやって、自分の中に増えていくものもあるのだ。
「アリアー!」
地上からルカの声が聞こえた。
「なにー?」
「七時半には宿へ戻るからね!」
「分かったー!」
「ほんとに?」
「分かってるー!」
そう答えてから、アリアは少し考えた。
昨日、休憩所で時間になったら馬車は待ってくれないと教えてもらったばかりだ。
八時の馬車へ乗り遅れたら困る。
「ルカー!」
「今度はなに?」
「七時半になったら教えてねー!」
「やっぱり僕が時間係じゃん!」
地上から返ってきた声がおかしくて、アリアの笑い声が朝の空へ広がった。
旅に出ても、毎日の練習は続いていく。
けれど飛ぶ場所が変われば、同じ空でも風は違い、昨日まで知らなかったことをまた一つ覚えられる。
そして八時になれば、また路線馬車に乗って次の町へ向かう。
そこにどんな宿があり、どんな人が馬車へ乗ってきて、今度は何を初めて知ることになるのか。まだ何も分からない。
けれどアリアは、頬を流れていく知らない土地の風を感じながら、昨日よりほんの少しだけ上手に身体の向きを変えた。
何が待っているのか分からないことさえ、今は少しだけ楽しみに思えるようになっていた。




