第60話 グラナをあとに
教会を出ると、朝の光はもう町の建物の間まで入り込み、石畳の上へ長い影を落としていた。
昨日まで止まっていた水路には勢いよく水が流れ、その向こうでは復旧した昇降塔が、低い音を町へ響かせながらゆっくりと地下から姿を現している。
グラナは、もう眠っていなかった。
水が流れている。
歯車が回っている。
人々が荷物を運び、声を掛け合い、昨日まで止まりかけていた町が、何事もなかったようにまた一日を始めている。
アリアは教会の階段を下りながら、そんな町を一度見回したあと、嬉しそうに声を上げた。
「ミレア湖!」
隣を歩いていたルカが、ちらりとこちらを見る。
「それ、教会を出てから三回目だぞ」
「だって、忘れたら困るもん」
「行き先を忘れる奴がいるか?」
言われたアリアは、階段の途中でぴたりと足を止めた。
そして。
「……教会、忘れてた」
「自分で言うなよ」
「じゃあ、やっぱり言っといた方がいいよ!」
「何回言っても同じだろ」
「ミレア湖なの!」
腕の中からマルルまで元気よく加わり、ルカは何も言わずに前を向いた。
少し後ろを歩いていたノルンが口元を押さえて笑っている。
アリアもつられて笑った。
次はミレア湖。
教会で地図の上を走った光が示した、大きな湖。
どんな場所なのかも、三個目の欠片が湖のどこにあるのかも分からない。
それでも、次へ進む場所が分かっただけで、胸の中にはもう新しい道ができたような気がしていた。
その隣で、シリルは教会でもらった町の案内板へ目を落としていた。
「行き先を覚えるのも大事だが、その前に馬車を押さえないとな」
「今から乗るの?」
アリアがすぐに顔を上げる。
「いや。ミレア湖へ向かうなら、まず南へ下る路線に乗る。今日の長距離便にはもう間に合わないから、出るのは明日の朝だ」
「明日!」
「ああ。乗り場は南門の近くだ」
シリルが案内板を畳むより早く、アリアの足がそちらへ向いた。
「じゃあ、切符買いに行こう!」
「走るなよ」
「走ってないよ!」
そう返事をした時には、もう歩幅がさっきの倍くらいになっている。
「それを走ってるって言うんだ」
後ろから聞こえたルカの声に、アリアは少しだけ歩調を落とした。
明日。
本当に、グラナを出る。
そのことをまだ深く考えないまま、アリアは南門へ向かって歩いていった。
◇
南門近くの乗り場には、いくつもの馬車が並んでいた。
荷物をいっぱいに積んだ荷馬車の隣では、町の近くを行き来する小さな乗合馬車が客を待ち、そのさらに奥には、人を乗せるための少し大きな馬車が何台か並んでいる。
アリアはそのうちの一台の前で足を止め、下から上までじっくり眺めた。
「これに乗るの?」
「ああ。この型の馬車だ」
シリルが答える。
エッダたちの大きな馬車とは、ずいぶん違っていた。
荷台を家のように使えるほど大きくはなく、椅子を倒して寝床へすることもできそうにない。左右には窓があり、その奥には向かい合わせの長椅子が見えているだけだ。
「これ、寝るところないよ?」
「夜は宿場に泊まる」
「ごはん作るところもない」
「途中の町や宿で食べる」
アリアはしばらく考えたあと、もう一つ大事なことへ気づいた。
「じゃあ、お手伝いは?」
「必要ない。君たちは客だ」
「……お客さん?」
「ああ」
「座ってるだけ?」
「基本的にはな」
アリアはもう一度、馬車の中を覗き込んだ。
これまで馬車へ乗る時は、何かしら自分にも仕事があった。
器を並べたり、机を拭いたり、荷物を運んだりした。
野営になれば寝床を作り、食事の支度を手伝い、朝になれば片づける。
ただ座って、誰かに目的地まで運んでもらう。
そんな旅はしたことがない。
「……何もしなくていいの?」
「そのために切符を買うんだよ」
ルカに言われ、アリアは少しだけ眉を寄せた。
「ちょっとつまんなそう」
「まだ乗ってもないだろ」
ノルンが隣で小さく笑った。
その間に、シリルは乗り場の窓口へ向かい、係員と何度か話をしていた。
地図を広げ、何かを確認し、それから財布を取り出す。
アリアは少し離れた場所から、その様子をずっと見ていた。
「切符って、どんなのかな」
「紙だろ」
「それは分かるよ」
「じゃあ待ってろよ」
しばらくして戻ってきたシリルの手には、何枚かの厚い紙が重ねられていた。
「ほら」
「わぁ!」
アリアは差し出された一枚を、両手で受け取った。
紙の表にはたくさんの文字や数字が並び、端には小さな印まで押されている。
「これが切符?」
「ああ。明日の朝、これを見せて馬車に乗る」
「これ持ってたら、南に行けるの?」
「途中までだ。ミレア湖までは何度か乗り継ぐことになる」
アリアは表を見て、裏も見て、もう一度表へ戻った。
この小さな紙があれば、明日、自分たちはグラナを出て新しい道へ進める。
そう思うと、ただの紙なのに少し特別なものに見えた。
「なくさないようにしなきゃ」
「そうだな」
「ポシェットに入れよう!」
肩から下げた白いポシェットへ手を伸ばしたところで、シリルが止めた。
「待て」
「なに?」
「それはルカに預けておこう」
アリアの眉がぴくりと動いた。
「なんで?」
「なくすと困るからだ」
「なくさないもん!」
「昨日まで、グラナの教会へ行くことを忘れていた人間の言葉とは思えないな」
「教会と切符は違うよ!」
「どう違う?」
アリアはすぐに答えようとして、口を開いたまま止まった。
「……紙?」
「そこじゃないだろ」
横からルカが手を伸ばした。
「僕が持つよ。乗る時に返すから」
「絶対?」
「ああ」
「わたしの切符だよ?」
「知ってる」
「なくさない?」
「お前よりはな」
「むぅ……」
納得しているような、していないような顔のまま、アリアは切符を渡した。
ルカは自分たちの分をまとめ、折れないよう地図の間へ挟んでから荷物の中へしまう。
アリアは、その切符が完全に見えなくなるまでじっと見届けた。
明日の朝には、ちゃんと返してもらう。
そう決めてから、ようやく歩き出した。
◇
コルの家へ戻ると、丸い木の扉を開けるより早く、中からルルの明るい声が聞こえてきた。
「おかえり!」
「ただいまー!」
アリアが中へ入ると、ルルがぱたぱたと駆け寄ってくる。
机のそばでは、コルが右足を台へ乗せたまま顔を上げた。
「教会、行けた?」
「うん!」
靴を脱ぐなり、アリアはコルの前まで行った。
「次の欠片の場所、分かったよ!」
「本当?」
「ミレア湖!」
アリアの声と一緒に、マルルの長い耳までぴんと立つ。
「景色がすっごく綺麗なところなの!」
「マルル、それ今朝聞いたばっかりだろ」
ルカが言うと、マルルは胸を張った。
「もう知ってるなの」
「覚えるの早いな」
コルが笑った。
「ミレア湖なら、名前は聞いたことあるよ。グラナからかなり南じゃなかったっけ」
「そうなの?」
アリアがシリルを見る。
「かなり遠い」
「でも馬車に乗るよ!」
「へえ」
コルは少しだけ身を乗り出した。
「じゃあ、いつ出るの?」
「明日の朝!」
元気よく答えたあとで。
アリアは、コルの顔がほんの少し変わったことに気づいた。
「……明日?」
「うん」
さっきまで笑っていたルルも、今度は黙ってアリアを見上げている。
「アリア、いなくなるの?」
その声が思ったより小さくて、アリアはすぐにルルの前へしゃがんだ。
「うん。でも、また来るよ」
「いつ?」
「えっと……」
すぐには答えられなかった。
次の欠片はミレア湖にある。
その次がどこなのかは分からない。
全部見つけたあと、自分たちがどこへ向かうのかもまだ分からない。
グラナへ戻ってくる日なんて、もっと分からない。
「明日?」
「明日は出る日だよ」
「じゃあ、明後日?」
「まだ馬車に乗ってると思う」
「その次?」
「うーん……」
困ったアリアがルカを見ると、ルカはすぐに視線を逸らした。
「自分で言えよ」
「ルカぁ」
「分からないものは分からないだろ」
するとコルが笑った。
「いいよ、ルル。アリアたちは旅してるんだから」
「でも……」
「またグラナに来ることだってあるだろ?」
「うん!」
今度は迷わず頷いた。
「また来たい!」
グラナには、知っている人が増えた。
コルも、ルルも、ガンツもいる。
大精霊も、大地の精霊もいる。
最初に町へ来た時には知らなかった場所なのに、今では「また来たい」と思える場所になっていた。
「それなら待ってる」
コルの言葉に、ルルもようやく小さく頷いた。
台所から出てきたコルのお母さんが、そんな子どもたちを見ながら微笑んでいる。
「それじゃあ、今日は早く休まないとね。明日の準備はできてるの?」
「できてる!」
アリアは胸を張った。
その場にいた全員の視線が、肩から下げた白いポシェットへ集まる。
「……それだけだもんなぁ」
コルが呟いた。
「うん!」
「便利すぎない?」
「でも、服と食べ物しか入らないよ」
「それでも十分すごいよ」
アリアはポシェットを見下ろした。
確かに。
普通なら旅立ちの前には、荷物をまとめたり、忘れ物がないか確認したり、もっといろいろするのかもしれない。
けれど自分には、この白いポシェットがある。
アリアは少しだけ考えてから、にっこり笑った。
「じゃあ、やっぱり準備終わり!」
「早いなぁ」
◇
翌朝。
まだ町の空気に夜の冷たさが少し残っているうちから、アリアたちはコルの家の前へ集まっていた。
昨日までなら、朝になったらエッダたちの馬車へ向かっていた。
けれど今日は、もうあの大きな馬車はない。
代わりに、自分たちだけで次の旅へ出る。
そう思うと、いつもより少しだけ胸の中が落ち着かなかった。
「切符!」
「持ってる」
ルカが荷物を軽く叩く。
「地図!」
「ある」
「お水!」
「ポシェットに入ってる」
「おやつ!」
「マルルが持ってるなの!」
元気な声に、ルカがゆっくり振り返った。
「……どこに?」
「ここなの」
マルルが少し身体を動かすと、白い毛の下から小さな包みがころんと落ちた。
「なんで隠してるんだよ」
「大事だからなの」
「昨日もらった焼き菓子だろ?」
「旅のお供なの」
「もう一個あるだろ」
「ないなの」
ルカは何も言わず、マルルの長い耳をそっと持ち上げた。
そこから、もう一つ包みがぽとりと落ちる。
「…………」
「…………」
「マルル」
「予備なの」
「何の予備だよ」
「お腹すいた時なの!」
アリアが吹き出し、その隣ではノルンまで肩を揺らしている。
シリルは額へ手を当てた。
「朝からずいぶん賑やかだな」
「シリルは忘れ物ない?」
今度はアリアが尋ねる。
「俺が聞く側じゃないのか?」
「お金は?」
「ある」
「地図は?」
「ある」
「おやつは?」
「いらない」
するとマルルが、耳の下から見つかった包みを前足で押した。
「一個あげるなの」
「さっきまで隠していただろう」
「大事な予備を分けてあげるなの」
「気持ちだけもらっておく」
「遠慮しなくていいなの」
「遠慮ではない」
なかなか玄関から出られない一行を見て、コルのお母さんがとうとう笑った。
「そろそろ行かないと、本当に馬車が出ちゃうわよ」
「あっ!」
アリアが跳ねるように振り返った。
「行かなきゃ!」
◇
家の外まで、コルとルルも見送りに出てきた。
コルはまだ右足に包帯を巻いていて、歩く時には少し身体が傾いている。
その足を見たアリアが心配そうな顔をすると、コルの方が先に笑った。
「ここまでなら大丈夫」
「ほんと?」
「うん。次に会う時には、もう走れるよ」
「じゃあ、一緒に走ろう!」
「いいよ」
「トカゲさんのところにも行こう!」
「それはいい」
「なんで!?」
「怖いよ。あんなに大きいんだろ?」
「優しいよ?」
「大きくて優しくても、大きいものは大きいんだよ」
アリアは少し考えてみたものの、やっぱり何が違うのか分からず首を傾げた。
その横では、ルルがアリアの手をぎゅっと握っている。
「また来てね」
「うん」
「忘れない?」
「忘れないよ」
「本当に?」
「ほんと!」
そこへルカが小さく言う。
「教会は忘れてたけどな」
「ルカ!」
アリアが振り返った途端、コルとルルが一緒になって笑い出した。
「コルたちは忘れないもん!」
「なら大丈夫だな」
頬を膨らませたアリアも、結局すぐに笑った。
それから、もう一度ルルの手を握り、コルにも手を伸ばす。
「またね」
「うん。またね」
「またね!」
今度は誰も、「いつ」とは聞かなかった。
分からなくても。
また会いたいと思っていれば、それでいい。
昨日、大精霊に言われたことを、アリアはほんの少しだけ思い出していた。
まだ道の途中なのだから。
◇
南門へ近づくにつれて、通りを歩く人の数が増えていった。
水路のそばを荷車が通り、工房へ向かう職人たちが声を掛け合っている。復旧した昇降塔から運ばれてきた荷物を抱える人も多く、朝のグラナは昨日までが嘘だったように賑わっていた。
「今日は人がいっぱいだね」
アリアはマルルを抱いたまま、忙しく左右を見回す。
「朝の便が出る時間だからじゃないか?」
ルカもそう答えた。
けれど、少し先へ進んだところで、その足が止まった。
「あれ?」
アリアも気づいた。
通りの端に立っていた男が、こちらを見つけるなり大きく手を振ったのだ。
「アリア!」
「あっ!」
見覚えのある顔だった。
「水門のおじさん!」
「誰が水門のおじさんだ!」
「だって名前知らないもん!」
「そうだったな!」
男が豪快に笑う。
その声に重なるように、別の場所からも呼ばれた。
「嬢ちゃん!」
第一層の工房で会った職人だった。
その向こうには、焼き菓子屋の店主までいる。
さらに歩けば、第三層で見た整備士たちが何人も並んでいた。
「アリアー!」
「ガンツさん!」
人混みの中でもすぐ分かる大きな身体が、片手を高く上げている。
その周りにも、アリアが知っている顔がたくさんあった。
第一層で一緒に魔力を送った人。
第二層で水路へ手を添えていた人。
市場で声を掛けた人。
それだけではない。
見覚えのない人たちまで、何人もこちらを見ていた。
アリアはだんだん歩く速度を落とした。
「……今日、何かあるの?」
シリルを見上げる。
シリルは答えず、ただ少しだけ口元を緩めた。
「あるよ」
代わりに焼き菓子屋の店主が答えた。
「なに?」
「見送りさ」
「……誰の?」
一瞬、誰も何も言わなかった。
それからガンツが、大きな頭を掻いた。
「お前たちに決まってるだろうが」
「わたしたち?」
「ああ」
アリアはもう一度、辺りを見回した。
「こんなに?」
「こんなにだ」
「なんで?」
どうしてこんなに人がいるのか、本当に分からなかった。
エッダたちを見送った昨日とは違う。
この人たちは、自分たちと一緒に旅をしていたわけではない。
町で少し話しただけの人もいる。
名前を知らない人だってたくさんいる。
するとガンツは、少し困ったような顔をして笑った。
「お前たち、町中を走り回ったんだろ?」
「うん」
「力を貸してくれって、一人一人に声を掛けた」
「うん」
「だったら今度は、俺たちが集まる番だ」
「…………」
アリアの口が、少し開いたまま止まった。
あの日のことが戻ってきた。
どうすれば大精霊を起こせるのか分からなくて。
それでも、グラナを助けたくて。
町の中を何度も走った。
一人へ頼んだ。
その人がまた誰かへ声を掛けてくれた。
気づけば、水路の向こうまでずっと人が並んでいた。
名前も知らない人たちの魔力まで一つにつながって、最後には大精霊のところまで届いた。
あの時、自分たちがお願いして集まってもらった人たちが。
今度は。
自分たちを見送るために集まっている。
「……そっか」
何を言えばいいのか分からなくなった。
嬉しい。
でも、それだけではなかった。
胸の奥がじんと熱くなって、少しだけ喉の奥まで詰まるような感じがした。
昨日までは、グラナを出れば次の旅が始まることばかり考えていた。
ミレア湖へ行く。
三個目の欠片を探す。
知らない南へ進む。
それが楽しみだった。
けれど今になって初めて。
ここを出るということは、この町の人たちとも別れることなのだと、本当の意味で分かった気がした。
「アリア」
隣でルカが静かに呼んだ。
遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。
やがて南へ向かう路線馬車が乗り場へ入り、御者が手綱を引いて馬を止めた。
「そろそろだ」
シリルが、ルカから受け取った切符を一枚取り出した。
「これは君の分だ」
アリアはそれを両手で受け取った。
昨日、初めて見た時には、新しい旅へ連れていってくれる特別な紙に見えた。
今は、それにもう一つ意味が加わっている。
これを見せれば。
本当にグラナを離れるのだ。
「……今度こそ、わたしが持ってていいの?」
「もう乗るだけだからな」
「なくさないよ!」
「それなら大丈夫だろう」
「シリル!」
少し頬を膨らませたものの、すぐに笑った。
「シリルも、またね」
「ああ」
「王都に帰ったら、大精霊さんが起きたってちゃんと言ってね」
「それは昨日も聞いたぞ」
「でも、忘れたら困るもん」
「忘れない」
「ガンツさんたちが頑張ったことも」
「ああ」
「コルも」
「分かった」
「トカゲさんも!」
「全部話す」
「ほんとに全部?」
「全部だ」
そこまで確認して、アリアはようやく満足そうに頷いた。
けれど馬車へ向かおうとして、一歩目でまた足が止まった。
「……シリル」
「ん?」
さっきまでは聞かないつもりだった。
エッダたちにも聞いた。
コルたちにも言った。
また会える。
そう思えばいい。
それでも、やっぱり聞きたかった。
「また会える?」
シリルは少しだけ黙った。
朝の風が、濃紺の外套の裾を揺らしている。
「会えるさ」
「ほんと?」
「ああ」
今度は迷いなく答えた。
「君たちが旅を続けていれば、どこかでまたな」
アリアは、その言葉をしばらく胸の中で確かめた。
どこかで。
いつとは分からない。
どこなのかも分からない。
でも。
「じゃあ、会えるね!」
「ああ」
アリアは大きく頷き、今度こそマルルを抱いたまま馬車へ乗り込んだ。
ルカとノルンも、そのあとに続いた。
◇
「出ますよ!」
御者の声が響いた。
馬がゆっくりと歩き始め、車輪が石畳を踏んで、からからと小さな音を立てる。
「アリアー!」
すぐに誰かの声が飛んできた。
「元気でな!」
「またグラナへ来いよ!」
「気を付けて!」
いくつもの声が重なる。
アリアはすぐに窓へ駆け寄った。
「みんなー!」
片手をいっぱいに伸ばし、大きく振る。
「ありがとうー!」
「またなのー!」
マルルも腕の中から前足を一生懸命振った。
ルカも窓際へ寄り、少し照れくさそうに手を上げる。ノルンもその隣で、柔らかく笑いながら手を振っていた。
人の列の中に、シリルがいる。
ガンツもいる。
コルのお母さんもいる。
その前には、右足をかばいながら立っているコルと、その隣で両手をいっぱいに振っているルルの姿まで見えた。
「コルー!」
「またねー!」
「ルルー!」
「アリアー! またねー!」
馬車が進むにつれて、一人一人の顔が少しずつ小さくなっていく。
けれど、たくさんの手だけは、まだ町の入口で揺れていた。
「バイバーイ!」
アリアは腕が疲れることも忘れて手を振った。
「またねー!」
やがて馬車は南門を抜けた。
建物の間から見えていた人々の姿が少しずつ隠れ、水路を流れる音も、歯車の響きも遠くなっていく。
それでもアリアは、最後の一人が見えなくなるまで窓から手を振り続けた。
そして。
町がとうとう道の向こうへ隠れたところで、ようやく腕を下ろした。
「……行っちゃったね」
「僕らが行ったんだろ」
すぐ隣からルカの声がする。
「あ」
アリアは瞬きをした。
「そっか」
ノルンが小さく笑った。
膝の上では、マルルが南へ伸びていく道を見ながら、長い耳をゆっくり揺らしている。
「次はミレア湖なの」
「うん」
アリアも窓の外へ顔を向けた。
グラナはもう見えない。
けれど、さっきまで聞こえていたたくさんの声は、まだ耳の奥に残っている。
エッダたちと一緒に走ってきた道。
コルとルルがいた家。
ガンツたちと歩いた地下。
大精霊が眠っていた古い井戸。
最初に来た時には何も知らなかった町なのに。
出ていく時には、こんなにもたくさんの人の顔を思い出す場所になっていた。
少し寂しい。
でも。
もう来られない場所ではない。
自分たちの道が、いつかまたグラナへつながることだってある。
アリアはその気持ちを胸の中へ置いたまま、前へ続く街道を見た。
朝の光の中を、見たことのない道がずっと南へ伸びている。
マルルの首元では、コンパクトに収まった二つの欠片が、揺れる馬車の中で小さく光を返していた。
「行こう」
アリアがぽつりと言った。
「三個目、探しに」
馬車の車輪が、からからと街道を転がっていく。
別れた人たちの声も。
グラナで見た景色も。
嬉しかったことも、少し寂しかったことも。
全部を置いていくのではなく、ちゃんと胸の中へ連れて。
アリアたちは、まだ知らない南の土地へ向かって走り始めた。




