幕間「グラナの水色の天使?」
グラナの町に、夜が訪れていた。
ほんの数日前まで、夜になれば町のあちこちから聞こえてきたのは、不安を押し殺すような人々の声だった。
また地面が揺れるかもしれない。
明日は昇降塔が動くのか。
水路は、あとどれくらい持つのか。
止まった設備をいつ直せるのか。
誰かと顔を合わせれば、そんな話ばかりしていた。
けれど、今夜は違う。
石造りの水路を流れていく水の音がある。
地下のどこかでは、再び動き始めた大きな歯車が低い音を響かせ、ときおり町の奥からは、昇降塔が上下する重たい駆動音まで聞こえてくる。
少し前までなら、誰も気に留めなかった音ばかりだった。
水が流れる。
歯車が回る。
人と荷物が地上と地下を行き来する。
それが当たり前だったからだ。
けれど、一度その当たり前を失った今は、遠くからゴウン、と昇降塔の音が届くだけでも、それを聞いた誰かの顔が少し緩んだ。
そして今夜。
そんな戻ってきた町の音を肴にして、酒場ではいつもよりずっと大きな声が飛び交っていた。
「かんぱーい!」
あちこちで木の杯がぶつかり、酒が揺れる。
「いやぁ、今日は飲むぞ!」
「お前、昨日も飲んでただろ」
「昨日は不安だったから飲んだ。今日は嬉しいから飲む。全然違う」
「飲む理由が違うだけじゃねえか」
どっと笑いが起こった。
仕事を終えた職人や整備士たちで、酒場はいつも以上に賑わっている。
もちろん、すべてが元通りになったわけではない。
壊れた場所は残っているし、長く止まっていた設備を一つずつ確認していかなければならない。水路も歯車も、当分はいつも以上に気を配って見ておく必要がある。
明日になれば、また仕事だ。
それでも今は、町がこのまま壊れていくのではないかと怯えながら夜を迎える必要はなかった。
その違いだけでも、十分に酒を飲む理由になった。
「しっかし……」
ひとしきり笑ったあと、一人の職人が杯を机へ戻した。
「結局、何だったんだ?」
「何が?」
「今回の騒ぎだよ。地面は揺れるわ、設備は止まるわ、しまいには昇降塔まで動かなくなっただろ。それが急に全部戻ったじゃねえか」
「急にじゃねえよ」
向かいにいた整備士がすぐに言い返した。
「こっちは何日寝てないと思ってんだ。死ぬほど働いたぞ」
「それは知ってる」
「だったら急にとか言うな」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
職人は声を少し落とした。
「聞いたんだよ。大精霊がどうとか」
それまで別の話をしていた近くの席まで、ぴたりと静かになった。
「俺も聞いた」
「古い井戸の奥にいたんだろ?」
「眠ってたって話だぞ」
「そもそも、本当に大精霊なんていたのか?」
「親方に聞いたけど、何も教えてくれなかった」
「俺も聞いた」
「何て言われた?」
「仕事しろって」
一瞬の沈黙のあと、全員が納得したように頷いた。
「ああ」
「いつもの親方だな」
「それなら本物だ」
「何が本物なんだよ」
また小さな笑いが起こる。
けれど、その中で一人がふと思い出したように口を開いた。
「でも、あの子たちが何かしたのは間違いないだろ」
「あの子たち?」
「ほら」
男は自分の頭の横へ手をやった。
「水色の髪の」
「ああ!」
「あのちっこい嬢ちゃんか」
「いたいた」
「白いの抱いてた子だろ?」
すると少し離れた席から、すぐに声が飛んできた。
「白いのじゃないぞ」
「ん?」
「マルルちゃんだ」
一瞬。
酒場のあちこちから視線が集まった。
「……お前」
「何だよ」
「名前知ってんのか」
「本人が言ってた」
「話したのか!?」
「うちの工房に来たんだよ」
その言葉だけで、周りの者たちが一斉に身を乗り出した。
「何しに?」
「魔力を貸してほしいってさ」
「ああ!」
「うちにも来たぞ」
「俺んところにも来た」
「待て待て」
最初に話していた職人が周囲を見回す。
「お前ら、どこで会った?」
「俺は第一層」
「俺は地上」
「第二層にもいたぞ」
「第三層でも見た」
「…………」
今度は、さっきより長い沈黙が落ちた。
「……町中じゃねえか」
誰も否定しなかった。
思い返せば、あの日。
水色の髪を揺らした小さな少女が、町のあちこちを走り回っていた。
その隣には猫耳の少年がいて、少し落ち着いた少女もいて、腕の中や足元には白い小さな友達がいた。
声を掛けられた時には、何をするつもりなのか分からなかった者も多かった。
魔力を少しだけ貸してほしい。
疲れるほどではなくていい。
水路へ手を置いてほしい。
それだけ言われても、それが本当に何の役に立つのか分からなかった。
それでも。
「うちに来た時なんかな」
一人の男が、思い出したように話し始めた。
「こっちは設備が止まって、それどころじゃなかったんだよ。そこへ突然やって来て、『魔力、ちょっとだけ貸してください!』だぞ」
「怪しいな」
「だろ?」
「よく貸したな」
「俺も最初は断ろうと思った」
「じゃあ、何で貸した」
「…………」
男が黙った。
「何でだよ」
「……一生懸命だったから」
向かいの男が、にやりと笑う。
「ほう」
「何だよ、その顔」
「いやぁ?」
「やめろ」
「可愛かったんだろ?」
「ちげえよ!」
「ほんとかぁ?」
「いや、まあ……」
男は逃げるように杯へ口をつけた。
「可愛かったけどよ」
「認めた!」
「しょうがねえだろ!」
また酒場に大きな笑いが広がった。
「水色の髪して、ちっこくて、必死な顔で頼んでくるんだぞ。あれで『駄目』って言い続けられるか?」
「完全に負けてんじゃねえか」
「お前だって貸したんだろ!」
「俺は町のためだ」
「本当か?」
「……町のためだ」
「目ぇ逸らすなよ」
別の整備士まで手を挙げる。
「俺なんか、『ありがとう!』って言われたぞ」
「それがどうした」
「笑ってた」
「だから?」
「…………」
「何だよ」
整備士はしばらく考えたあと、妙に真面目な顔で言った。
「可愛かったなって」
「お前もか!」
また笑いが起こった。
けれど今度は、それに同意する者の方が多かった。
「まあ、分かる」
「分かるのかよ」
「俺も見たからな」
「水路のところ走ってただろ。髪がぴょこぴょこ揺れてて」
「それ髪の感想だろ」
「でも、ずっと走ってたぞ」
「転びそうだった」
「三回くらい」
「そんなに!?」
「でも転ばなかった」
「偉い!」
「だから何の話なんだよ」
気がつけば、最初は数人だった話に、酒場のあちこちから声が飛んでくるようになっていた。
「俺は白い子の方が好きだな」
「マルルちゃんだ」
「だから何でお前は名前で呼ぶんだよ」
「本人が名乗ったんだからいいだろ」
「マルルちゃん、菓子好きだぞ」
「知ってる」
「お前も!?」
「店の前で見た。二個持ってた」
「三個だ」
別の席から声が飛んだ。
「俺は三個持ってるところ見たぞ」
「そんなに食うのか、あのちっこいの」
「一個は水色の子の分だって言ってた」
「いい子じゃねえか」
「そのあと食ってた」
「食ったのかよ!」
「可愛いからいいだろ」
「いいのか?」
「いい」
「……ならいいか」
なぜか、それには全員が納得した。
◇
「お前ら」
低い声がした。
さっきまで騒いでいた男たちが、ほとんど同時に口を閉じた。
酒場の入口に立っていたのは、仕事を終えたばかりらしいガンツだった。
「……親方」
「ずいぶん楽しそうだな」
「いや、その」
「明日の点検箇所、全部終わってるんだろうな?」
「明日の点検は明日やります!」
「当たり前だ!」
ガンツは空いていた椅子を引き、どかりと腰を下ろした。
「一杯!」
「親方も飲むんじゃないですか」
「仕事は終わった!」
「俺たちもですよ!」
「うるせえ!」
店主まで笑いながら酒を持ってくる。
ガンツがひと口飲んだところで、向かいにいた整備士が妙に楽しそうな顔をした。
「親方」
「何だ」
「アリアちゃん、可愛かったですよね」
ブッ。
ガンツが盛大にむせた。
「何の話だ!」
「水色の髪の子ですよ」
「名前は知ってる!」
「おや?」
「何だ、その顔は!」
「いやぁ。ちゃんと名前で呼ぶんだなと思って」
「知ってる名前を呼んで何が悪い!」
「親方、頭撫でてましたよね」
ガンツの動きが止まった。
「…………」
「見ましたよ、俺」
「俺も」
「俺も見たな」
「俺もです」
「何でそんなに見てんだ!」
整備士たちの口元が一斉に緩んだ。
「親方も、結構気に入ってたんだなって」
ガンツの眉間へ深い皺が寄る。
「ガキだぞ」
「そうですね」
「小せえガキだ」
「そうですね」
「あんな小せえのが町中走り回ってたんだぞ」
「はい」
「放っとけるか!」
それは、ほとんど怒鳴るような声だった。
けれど誰も怖がらない。
むしろ、整備士たちの顔はさらに楽しそうになっていく。
「そもそもだな!」
ガンツは杯を机へ置いた。
「お前らがもっとしっかりしてりゃ、あんな小せえのが地下まで降りてくる必要もなかったんだ!」
「それは親方も同じじゃないですか?」
「…………」
「親方?」
「仕事増やすぞ」
「すみませんでした」
返事だけは、驚くほど早かった。
◇
それからもしばらくは、いつものように笑い声が続いていた。
けれど、ふと。
「でもよ」
誰かが小さく言った。
「あの子たちが来なかったら、どうなってたんだろうな」
さっきまでの笑いが、少しずつ静まっていった。
酒場の外から、水の流れる音が届いている。
遠くで。
ゴウン。
昇降塔が動いた。
その音に、何人かが無意識に耳を傾けた。
「……さあな」
ガンツが答えた。
「親方でも分からないんですか?」
「分かるわけねえだろ」
杯を持ったまま、ガンツは少し黙った。
「だが」
今度は誰も急かさなかった。
「今、町が動いてる。それで十分だ」
その言葉を、誰も茶化さなかった。
止まった水路。
動かなくなった昇降塔。
崩れた通路。
何度も揺れた大地。
このまま地下の設備が一つずつ止まり、町そのものが立ち行かなくなったらどうなるのか。
誰も口には出さなくても、一度は考えていた。
けれど、今はもう。
その先を考えなくていい。
「俺、魔力を流した時さ」
一人の男が、自分の手を見ながら言った。
「本当に意味あるのかって思ってた」
「俺もだ」
「水路へ手ぇ置いて、ちょっと流しただけだもんな」
「俺のなんか、ほんの少しだぞ」
「俺だって」
自分一人が出した魔力など、大した量ではなかった。
疲れるほどでもなかったし、それを流した瞬間には、何かが変わったようにも見えなかった。
けれど。
その小さな力が町中から集まり。
誰かの力と重なり。
また別の誰かへつながり。
最後には、大地の奥まで届いたのだという。
外から聞こえてくる水の音も、歯車の音も。
その中には、自分が流したほんの少しの魔力も混じっているのかもしれない。
「……変な感じだな」
誰かが呟いた。
「何が?」
「俺がやったのなんか、ほんのちょっとなのにさ」
その言葉に、何人かが静かに頷いた。
「一人じゃねえよ」
ガンツが言った。
「え?」
「あの嬢ちゃん一人が町を直したわけじゃねえ。あいつらだけでもない。俺たち整備士だけでもない」
ガンツは杯を置き、酒場の中をぐるりと見回した。
「町の連中が、それぞれ自分にできることをやった。それがつながったんだ」
「ああ……」
「そうでしたね」
「誰か一人がどうにかしたんじゃねえ」
そこまで言ってから、ガンツは少しだけ鼻を鳴らした。
「もっとも」
「?」
「あの嬢ちゃんが最初に走らなきゃ、始まらなかったかもしれんがな」
整備士たちが顔を見合わせた。
ほんの一瞬。
そして。
「親方」
「何だ」
「やっぱりアリアちゃんのこと気に入ってるじゃないですか」
「仕事増やすぞ!」
「またそれだ!」
静まりかけていた酒場へ、また大きな笑いが戻った。
◇
同じ頃。
グラナの別の場所でも、よく似た名前が話題になっていた。
「水色のお姉ちゃん、明日いなくなるの?」
ルルが尋ねる。
「たぶんね」
コルは椅子へ座ったまま、まだ包帯の残る右足を少し動かした。
「やだ」
「仕方ないだろ。旅してるんだから」
「また来る?」
「知らない」
「来るよ」
「なんで分かるんだよ」
ルルは不思議そうな顔をした。
「だって、またねって言ったもん」
あまりにも当然のように言われ、今度はコルが黙った。
窓の向こうでは、水路を流れる水が灯りを映している。
もっと遠くには、動き始めた昇降塔の明かりも見えた。
「……そうだな」
「また来るよ」
「うん」
コルはしばらく外を見たあと、小さく笑った。
「次に来た時はさ」
「うん」
「普通に遊べるといいな」
「遊ぶ!」
「今度は地下を走り回ったり、大精霊を起こしたりしないで」
ルルが少し考える。
「アリアお姉ちゃんなら、するかも」
「…………」
今度はコルが考えた。
「……しそうだな」
二人の笑い声が、静かな部屋へ広がった。
◇
酒場では、まだ話が終わっていなかった。
「そういや」
一人の職人が、ふと思い出したように顔を上げた。
「あの子たち、いつまでグラナにいるんだ?」
「さあ」
「次の場所が決まったって聞いたぞ」
「じゃあ、もうすぐ出るのか?」
ちょうど酒を運んできた店主が、それを聞いて何でもないことのように答えた。
「明日だよ」
「…………」
「何?」
「明日の朝、発つって聞いたけど」
数人の職人が、ゆっくり顔を見合わせた。
「明日!?」
「聞いてねえぞ!」
「何時だ!」
「どこから出る!?」
「馬車か!?」
「ちょっと待て!」
さっきまでとは別の意味で、一気に酒場が騒がしくなった。
「親方!」
「何だ!」
「明日の朝、見送りどうします?」
「何で俺に聞く!」
「行かないんですか?」
「…………」
ガンツが黙った。
整備士たちは誰も酒を飲まず、じっと親方の顔を見ている。
「親方?」
「…………朝一番の点検を終わらせろ」
「はい?」
「終わった奴から勝手に行け!」
にやり。
何人もの口元が同時に上がった。
「親方も?」
「俺は行くとは言ってねえ!」
「じゃあ、行かないんですね?」
「…………」
「親方?」
「うるせえ!」
酒場いっぱいに、また笑い声が響いた。
水色の髪をした、小さな女の子。
その隣にいた猫耳の少年。
古い文字を読んだ静かな少女。
そして、白くて丸い、不思議な友達。
ほんの少し前まで、グラナでは誰一人として名前も知らなかった旅人たちだった。
それが町へ来て。
地下へ降りて。
壊れたものを見つけて。
知らない相手にも声を掛けて。
水路に沿って町中を走った。
笑って。
驚いて。
ときどき大人たちまで困らせて。
それでも気づけば、ずいぶん多くの人が、その姿を覚えていた。
「……水色の天使、か」
誰かが、ぽつりと呟いた。
すぐに別の男が顔をしかめる。
「誰だよ、そんな恥ずかしい呼び方したの」
「お前じゃないのか?」
「俺じゃねえよ!」
「でもまあ」
杯を傾けていた男が、少し考えてから笑った。
「可愛かったよな」
「……まあな」
「ああ」
「それは認める」
「マルルちゃんもな」
「それも認める」
どうやら。
その二つだけは、今夜の酒場で満場一致だった。
外では、水路が変わらず水を運んでいる。
遠くからは、昇降塔の低い音が聞こえた。
ゴウン。
ゴウン。
明日の朝になれば。
水色の髪をした小さな天使と、その仲間たちは、また別の道へ歩き始める。
けれど、彼女たちがこの町を走り回ったことも。
あの日、ほんの少しずつ集めた力が一つにつながったことも。
たぶんグラナの人々は、しばらく忘れない。
そして、そのうち誰が最初に言い始めたのかも分からなくなった頃。
水色の髪をした、小さな天使の話だけが。
この町のどこかに、少しだけ残っているのかもしれなかった。




