第59話 3つ目の欠片への旅路
「あっ!」
食事を終えたばかりのテーブルで、突然アリアが大きな声を上げた。
すぐ隣にいたルカがびくっと肩を揺らし、何事かと振り向く。
「何だよ、急に」
「教会!」
「教会?」
「行ってない!」
アリアは椅子の上で身体ごとマルルの方へ向き直り、その首元についたコンパクトを慌てて指差した。
「グラナの教会! 欠片、二個になったのに!」
「あ」
今度はルカの動きが止まった。
少し離れたところにいたノルンも、同じことへ気づいたらしく、ぱちりと目を瞬く。
「……そうでした」
「ノルンも忘れてたの?」
「いろいろありましたから……」
少し困ったように笑うノルンを見ながら、アリアもここ数日のことを思い返した。
グラナへ着いた時には、昇降塔が止まっていた。
地下では設備が次々とおかしくなり、コルが怪我をして、大精霊が眠っていることを知った。そのあとには古い石板の意味を考え、忘れられていた設備を探し、町中を走ってみんなへ声を掛けた。
ようやく昨日、大精霊が目を覚まし、グラナの流れが戻った。
その一つ一つに夢中になっているうちに、この町へ来た本来の目的の一つだった教会のことが、きれいに頭から抜け落ちていたらしい。
「じゃあ、明日行こう!」
思いついたまま言うと、ルカがすぐに待ったをかけた。
「明日の朝、エッダたちが出るんだろ?」
「……あ」
アリアは顔を上げ、向かいにいるエッダを見た。
エッダは腕を組んだまま、いかにも呆れたという顔でこちらを見ている。
「何だい、その顔は。今度は私たちのことを忘れてたのかい?」
「忘れてないよ!」
「本当かねぇ」
「ほんと!」
アリアはぶんぶんと首を横へ振った。
教会のことを思い出した瞬間、一緒にそちらへ気持ちまで走ってしまっただけだ。
けれど明日の朝には、エッダたちがグラナを出る。
そう思い出した途端、昨日聞いた時と同じ小さな寂しさが胸の奥へ戻ってきた。
「エッダたちを見送って、それから教会に行く」
「それでいいさ」
エッダは少し笑った。
「教会は朝になったからって逃げやしないよ」
「うん!」
元気よく頷いたものの、アリアはもう一度エッダたちの顔を見た。
明日の朝。
本当に、一緒に旅をしてきたみんながいなくなる。
まだそこにいるのに、そう考えただけで少し寂しかった。
◇
翌朝のグラナは、早い時間からたくさんの音で満ちていた。
水路には勢いよく水が流れ、復旧した昇降塔が地上と地下を何度も行き来している。荷物を積んだ籠が上がってくるたび、待っていた商人や職人たちが集まり、次々と荷物を運び出していった。
昨日アリアが感じた「町の音」は、朝になるとさらに大きくなっていた。
その一角で、エッダたちの商隊も出発の支度をしている。
「そっちの箱は後ろ! 横にするんじゃないよ!」
「エッダ、これは?」
「それは前!」
「こっちは?」
「後ろ!」
アリアは両腕で箱を抱えたまま、右を見て、それから左を見た。
「……どっち?」
「貸しな!」
エッダが箱を取り上げる。
「アリアはもう手伝わなくていいよ」
「なんで!?」
「さっきから荷物を右から左へ動かしてるだけじゃないか」
「いい場所を探してるの!」
「そんなことしてたら、朝までかかるよ!」
近くで荷造りをしていた商隊のみんなが一斉に笑った。
アリアもつられて笑う。
旅の途中でも、いつもこうだった。
町を出る朝になると、エッダが大きな声で指示を出し、ロザたちが荷物を積み、ヴァンが馬を見て、誰かが縄を締め直す。
何度も見てきた出発の風景だった。
ただ一つだけ違う。
今日は、その馬車へアリアたちは乗らない。
「マルルもお手伝いするなの!」
マルルが元気よく前足を上げると、商隊の一人が小さな包みを差し出した。
「じゃあ、こいつを頼む」
「なんなの?」
「焼き菓子だ。道中で食べな」
「マルルが守るなの!」
「それはアリアたちへの餞別だぞ」
「守りながら食べるなの」
「食べるのかよ」
ルカの呆れた声に、また笑いが広がった。
アリアも笑っていた。
笑っている間だけは、いつもの朝と何も変わらないような気がした。
やがて最後の荷物が積み込まれ、馬がつながれた。
御者が手綱を確かめ、車輪の周りに残っていた道具も片づけられていく。
少しずつ、「準備」が「出発」に変わっていく。
さっきまで一緒に笑っていたアリアは、いつの間にか黙ってその様子を見ていた。
本当に行ってしまうんだ。
「アリア」
呼ばれて顔を上げると、エッダが目の前に立っていた。
「ずいぶん世話になったね」
「え?」
思っていなかった言葉を言われて、アリアは目を丸くした。
「わたしたちが?」
「ああ」
「でも、馬車に乗せてもらったの、わたしたちだよ?」
「それは商売」
「ごはんも食べたよ?」
「それも仕事のうち」
「じゃあ、わたしたち何かした?」
エッダはしばらくアリアを見つめていたが、やがて盛大に息を吐いた。
「町一つ助けておいて、それを言うのかい」
「あ」
「まったく」
大きな手が伸びてきて、アリアの水色の髪を遠慮なくくしゃくしゃにする。
「一緒に旅ができて楽しかったよ」
その言葉を聞いた途端、アリアの中へ、馬車で過ごしたいくつもの時間が戻ってきた。
初めて大きな荷馬車へ乗せてもらった日。
道の途中でみんなの仕事を手伝ったこと。
野営の時には、椅子を寝床へ変えてもらった。
モーリの料理を食べて、ヴァンと馬を見て、トアにいろいろ教えてもらった。
夜になれば、布屋根の下でみんなの声を聞きながら眠った。
山も越えた。
大地の精霊にも出会った。
笑ったことも、叱られたことも、思い返せばいくつもある。
「……わたしも」
アリアは、少しだけ鼻の奥がつんとするのを感じながらエッダを見上げた。
「楽しかった」
「ああ」
「また会える?」
今度は、すぐに返事が返ってこなかった。
けれどエッダは困った顔をするのではなく、いつものように笑った。
「商人ってのは、あちこちの道を走り回るもんさ。あんたたちも旅を続けるんだろ?」
「うん」
「なら、どこかでまた会うこともあるさ」
「ほんと?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「道の先なんて、誰にも分からないよ」
アリアは少し考えた。
必ず会える、とは言ってくれなかった。
けれど、もう会えないとも言わなかった。
エッダたちにはエッダたちの道があり、自分たちには自分たちの道がある。
その先が分からないなら。
「じゃあ、また会った時にびっくりするね!」
「そうだね」
エッダが笑った。
その時、商隊の一人から声が掛かった。
「そろそろだよ!」
みんなが次々と馬車へ乗り込み、エッダも最後に御者台へ上がる。
「元気でね!」
「エッダも!」
手綱が動き、馬たちがゆっくり歩き始めた。
車輪が石畳を転がる。
「またねー!」
アリアは両手を大きく振った。
「またなのー!」
腕の中ではマルルも前足を振り、ルカとノルンも、その隣から静かに手を振っている。
馬車の上のみんなが何度も振り返した。
少しずつ離れていく。
声が届かなくなる。
姿が小さくなる。
それでもアリアは手を下ろさなかった。
馬車が町の門を抜け、その向こうの道を進み、やがて本当に見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「……行っちゃったね」
「ああ」
ルカが隣で答える。
「寂しいなの」
マルルの長い耳も、少しだけ下がっていた。
「うん」
アリアも、しばらく馬車が消えた道を見ていた。
寂しい。
昨日より、今の方がずっと寂しかった。
けれど、それは一緒にいた時間が楽しかったからなのだと思う。
エッダたちにも、これから向かう道がある。
自分たちにもある。
もしその道が、いつかどこかで重なったなら。
本当に、また会えるかもしれない。
アリアはそこでようやく前を向いた。
「よし」
「何だよ」
「教会、行こう」
声はいつものアリアに戻っていたけれど、さっきまでの寂しさが消えたわけではなかった。
それも一緒に胸の中へ入れたまま。
次へ進むのだ。
「次の欠片、探さなきゃ」
ルカはそんなアリアを一度見てから、小さく笑って歩き出した。
「そうだな」
◇
グラナの教会は、地上の町の外れにあった。
灰白色の石で造られた小さな教会へ入り、扉が閉まると、さっきまで外に満ちていた人の声や昇降塔の音が少しだけ遠くなる。
高い窓から差し込む朝の光が、並んだ長椅子と石の床を静かに照らしていた。
アリアたちは教会の人へ事情を話し、祭壇の前まで案内してもらった。
ここへ来るのは初めてなのに、教会へ入ると少しだけ懐かしい気持ちになる。
旅へ出てから何度も、知らない町の教会に助けてもらった。
そして、次の欠片を探す時にも、いつもこうして地図を広げてきた。
「地図、持ってきた?」
「ある」
ルカが荷物の中から、何度も使ってきた折り畳みの地図を取り出した。
広げられた地図には、自分たちが歩いた道も、まだ行ったことのない場所も、同じ一枚の中へ描かれている。
アリアはその前へ座り、マルルを抱き上げた。
「マルル、お願い」
「はいなの」
首元についたコンパクトを、広げた地図へ近づける。
リン……。
澄んだ音とともに、淡い光が灯った。
「あっ」
コンパクトの中で、一つの欠片が光る。
その隣で、もう一つも。
「二つとも光ってるなの」
「うん……」
アリアはじっと見つめた。
一個だった欠片が、今は二個並んでいる。
その光がゆっくりと強くなり、やがてコンパクトから細い筋となって地図の上へ落ちた。
小さな光は、しばらくグラナの位置で揺れたあと、ゆっくり動き始める。
「動いた!」
アリアが思わず身を乗り出した。
光はグラナを離れた。
南へ進む。
そのまま止まらず、さらに南へ。
「まだ行くの?」
「ずいぶん遠いな」
ルカも地図へ顔を寄せ、光の進む先を追っている。
アリアは、自分たちがこれまで歩いてきた場所から光がどんどん遠ざかっていくのを見ていた。
知らない土地だ。
行ったことのない町。
まだ見たこともない道。
地図の上だけなら指一本で越えられるのに、実際にそこまで行くには何日もかかる。
その光がようやく止まった。
アリアは示された場所へ目を凝らす。
そこには、大きな湖が描かれていた。
「……湖?」
町でも、山でもない。
地図の上に広がる大きな水の中で、淡い光が静かに揺れている。
「ここにあるの?」
「そうみたいなの」
「湖のどこ?」
マルルのコンパクトを少し動かしてみても、示される場所は変わらない。
「分かんない……」
「この地図では、そこまで細かい場所までは分からないのかもしれません」
ノルンが地図へ顔を寄せた。
アリアもさらに近づく。
「名前、書いてある?」
「あります」
ノルンが文字を追おうとした、その時だった。
「ミレア湖だ」
後ろからシリルの声がした。
「シリル、知ってるの?」
「ああ。行ったことはないが、名前くらいはな」
シリルはアリアたちのそばへしゃがみ込み、地図の上を指した。
「レネア地方にある大きな湖だ。王国でも有名な景勝地だよ」
「けいしょうち?」
聞いたことのない言葉に、アリアがすぐノルンを見る。
「景色が特に美しい場所のことです」
「遊びに行くところ?」
「観光や保養に訪れる人も多いな」
シリルの答えを聞いた途端、アリアの目が少し輝いた。
「遊びに行くところに欠片があるの!?」
「欠片が遊びに行ったわけじゃないだろ」
ルカがすぐに言う。
「でも、楽しそう!」
グラナへ来た時とは、ずいぶん違って聞こえた。
今度は大きな湖。
しかも、遠くからわざわざ人が訪れるほど綺麗な場所らしい。
アリアの中には、もう見たことのない大きな水面が広がり始めていた。
「じゃあ、次はここ!」
「簡単に言うな」
シリルが地図の上を指でたどっていく。
「グラナからはかなり遠いぞ」
「どのくらい?」
「君たちの足で歩けば、一か月以上は見ておいた方がいい」
「……いっかげつ?」
アリアの顔が固まった。
「一か月なの!?」
腕の中では、マルルの耳までぴんと立っている。
「毎日歩くの?」
「だから、歩いて行く必要はない」
「え?」
顔を上げる。
「ミレア湖は有名な保養地でもある。各地から人が訪れるから、そこへつながる路線馬車がある」
「馬車!」
それだけで、さっきまで一か月という言葉に固まっていた顔が一気に明るくなった。
「グラナから直接行けるわけではないが、南へ向かう路線をいくつか乗り継げばいい。順調なら二週間ほどだろう」
「二週間……」
一か月よりは短い。
でも、これまでの旅から考えても、十分に長い。
アリアはもう一度地図を見た。
グラナからずっと南へ。
自分たちが歩いてきた場所を離れ、知らない土地をいくつも越えた先にミレア湖がある。
「遠いね」
「ああ」
「でも、行けるよね?」
今度は、少しだけ確かめるように尋ねた。
シリルは迷わなかった。
「行ける」
その一言を聞いて、アリアは安心した。
遠い。
知らない。
でも、行けないわけではない。
それなら、今までと同じだ。
一つずつ道を進めばいい。
「ただし」
シリルが続ける。
「レネア地方は西方騎士団の管轄ではない。街道や主要な町についてなら俺も知っているが、現地の細かな事情までは分からない」
「シリルでも知らないの?」
「俺だって何でも知っているわけじゃない」
「そっかぁ」
アリアはなぜか少し嬉しくなった。
シリルは旅の途中でも、町や道のことをいつもよく知っていた。
そのシリルにも知らない場所がある。
「何だ、その顔は」
「シリルも知らないところ、あるんだなって」
「あるに決まってるだろ」
「じゃあ、一緒に調べられるね!」
何気なく言っただけだった。
けれど、その瞬間。
シリルの表情が、ほんのわずかに止まった。
「アリア」
「なに?」
「俺は一緒には行けない」
「……え?」
アリアは瞬きをした。
さっきまでミレア湖を見ていた頭の中から、知らない湖の景色が消えていく。
「シリルも?」
「ああ」
「どこか行くの?」
「王都へ戻る」
シリルは静かに答えた。
「グラナで起きたことを、アルディオン様へ報告しなければならない」
「…………」
今朝。
エッダたちの馬車が、道の向こうへ消えていった。
やっと少し気持ちを切り替えたところだったのに。
今度は、シリルまでいなくなる。
「……そっか」
自分でも分かるくらい、声が小さくなった。
シリルには、シリルの仕事がある。
それは分かる。
エッダたちと同じだ。
分かっていることと、寂しいことは別だった。
「だが」
シリルの指が、地図の上へ置かれた。
「君たちが乗る馬車の手配まではしていく」
アリアが顔を上げる。
「ほんと?」
「ああ。乗り継ぎも調べておく。レネア地方までの馬車代も俺が出す」
「ほんとに!?」
今度は目が大きくなる。
「ああ」
「二週間分だよ?」
「分かっている」
「いっぱいお金いるよ?」
「分かってる」
「シリル、お金持ちなの?」
「そこは気にしなくていい」
隣でルカが吹き出した。
アリアはまだ少し考え、もう一つ大事なことへ気づく。
「じゃあ、ごはんは?」
「必要な旅費も渡す」
「おやつは?」
「必要な旅費と言っただろ」
「マルルのおやつは必要なの!」
「話を広げるな」
シリルが額を押さえ、ノルンがくすくすと笑った。
アリアもつられて笑う。
笑えたことに、自分で少しほっとした。
寂しい。
それはまだ残っている。
でも、エッダたちに次の仕事があったように、シリルにも戻る場所と、しなければならないことがある。
「シリル」
「ん?」
「ありがとう」
「ああ」
「ちゃんと大精霊さん起きたって、アルディオンさんに言ってね」
「もちろんだ」
「みんなで頑張ったことも!」
「それも報告する」
「ガンツさんたちも!」
「ああ」
「コルも!」
「分かった」
「トカゲさんも!」
「全部話すから安心しろ」
「全部だよ?」
「全部だ」
そこまで確認して、ようやくアリアは満足そうに頷いた。
それから、もう一度地図へ顔を戻す。
ミレア湖。
どんなところなのかは、まだ知らない。
欠片が湖のどこにあるのかも分からないし、そこで何が待っているのかも分からない。
分かっているのは。
二つの欠片が示した次の場所が、この大きな湖だということだけだった。
「次は、ミレア湖」
アリアが小さく言った。
「レネア地方なの!」
マルルが嬉しそうに続ける。
「二週間かぁ」
ルカも地図の上で南へ続く道を目で追った。
「長い旅になりますね」
ノルンの視線も、その先へ向いている。
グラナから南へ。
西方を離れ、まだ知らない土地へ。
今朝、エッダたちは自分たちとは違う道へ進んでいった。
そしてシリルも、これから王都へ戻る。
少しずつ、一緒にいた人たちと道が分かれていく。
けれどアリアたちの道が、そこで終わるわけではない。
アリアは腕の中のマルルを抱き直した。
その首元では、コンパクトの中に納まった二つの欠片が並んで淡く輝いている。
一個目を見つけた時には、次がどこにあるのかも分からなかった。
二個目を見つけるまでには、町一つを巻き込むほど大きな出来事があった。
そして今。
その二つの光の先に、まだ見たことのない大きな湖がある。
三個目の欠片が、そこで待っている。
グラナでの旅は、ここで一つの区切りを迎えた。
けれどアリアたちの旅は、まだ終わらない。
今度はもっと遠くへ。
まだ知らない南の土地へ。
新しい道が、静かに続き始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
本日はここまで。
明日からは、一日一話の更新と挿絵作成を目標に頑張ります。
次回から3個目の欠片を探す旅が始まります。その後番外編を挟んで次に進む予定です。
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