第58話 託された欠片
大精霊の髪を覆っていた蔓の先で、小さな花が一つ、静かに開いた。
「お花……!」
アリアは思わず身を乗り出した。
古い井戸の奥には、今もゆらゆらと揺れる光の膜を隔てて、大精霊のいる場所が見えている。
目覚める前には暗闇の向こうに何があるのかさえ分からなかったのに、今は巨大な根が大地を這い、その間を細い水が流れているのが見えた。淡く輝く鉱石のそばでは、湿った土を押し上げるように小さな芽が顔を出し、その一つ一つへ光が行き渡るたび、止まっていた何かがゆっくり動き始めているように見える。
目を覚ましたのは、大精霊だけではないのかもしれない。
眠っていた大地そのものが、ようやく息を吸い始めた。
アリアには、そんなふうに感じられた。
「大精霊さんのところも、元気になってるね」
『流れが戻ったからな』
穏やかな声が、岩や土を通して身体の中へまで響いてくる。
「じゃあ、もう大丈夫?」
『ああ。この地については、もう心配はいらぬ』
「よかったぁ……」
その言葉を聞いて初めて、アリアは大きく息を吐いた。
大精霊を起こせば、本当にグラナを助けられるのか。途中で止まってしまったみんなの魔力は届くのか。光がつながってからも、ちゃんと町へ戻っていくのか。
一つ解決するたびに次の心配が出てきて、ずっと胸のどこかへ小さな石を抱えていたような気がする。
それが今、ようやくなくなった。
腕の中のマルルも同じだったらしく、ぴんと立っていた長い耳が、ふにゃりといつもの位置へ戻った。
「もう地面、ぐらぐらしないなの?」
『すぐにすべてが元へ戻るわけではない。長く滞っていた流れゆえ、落ち着くまでには少し時が必要だ』
「また揺れるの?」
『わずかにはな。だが、これまでのように崩れていくことはない』
「そっか」
それなら大丈夫。
今度こそ安心して笑ったアリアの前で、大精霊の淡い緑の瞳がゆっくりと動いた。
向けられた先にいるのは、大地の精霊だった。
『こちらへ』
「はい」
トカゲさんが一歩前へ出る。
ズン、と太い前足が地面を踏み、その大きな身体が光の膜の前まで進むと、今度は静かに身を低くした。
さっき目覚めた大精霊へ頭を下げた時と同じように、巨大な頭が地面へつきそうなほど深く沈んでいく。
『長い間、よく守ってくれた』
「もったいなきお言葉にございます」
『我が眠りについた後も、そなたはこの地を離れなかった。そして、我が力の一片も』
その言葉を聞いた途端、アリアは思わずトカゲさんを見た。
「……欠片」
身体の奥で、ぽう、と光が灯った。
あたたかな琥珀色だった。
土の奥深くで長い時間を過ごした宝石へ、初めて日の光が差し込んだような、静かで柔らかな色。
その光を見たのとほとんど同時に、アリアの腕の中から澄んだ音が響いた。
リン……。
「コンパクトなの」
マルルも自分の胸元を見下ろしている。
チョーカーについた小さなコンパクトが、欠片へ応えるように淡く明滅していた。
アリアは息を呑んだ。
二個目だ。
ずっと探していた、二つ目の鍵の欠片が、今、目の前にある。
けれど。
見つけた、と喜んですぐ手を伸ばす気にはならなかった。
一個目の欠片を見つけた時とは違う。
この欠片は、長い間ずっとトカゲさんが守っていた。
しかも、さっき大精霊自身が「我が力の一片」と言ったものだ。
自分たちが探しているからといって、もらっていいのだろうか。
欲しいから持っていっていいものではない気がした。
「アリア」
低い声に呼ばれ、顔を上げる。
「なに?」
「こちらへ来るがよい」
アリアはマルルを抱いたまま、少しだけトカゲさんのそばへ近づいた。
けれど琥珀色の光を見たまま、すぐには手を出さなかった。
「……いいの?」
「うむ」
巨大な頭が、ゆっくりアリアの前まで下りてくる。
「そなたたちは、この欠片を探しているのであろう?」
「うん。でも……」
アリアは少し迷ってから、光の奥にある小さな欠片を見た。
「それ、トカゲさんがずっと持ってたんでしょ?」
「預かっていたのだ」
「預かってた?」
「うむ。失われぬように。そしていつの日か、再び必要とされる時まで」
その答えを聞いて、アリアは首を傾げた。
必要とされる時まで。
それなら。
「じゃあ、その時が来たの?」
トカゲさんはすぐには答えなかった。
代わりに、光の向こうから大精霊の声が届いた。
『それを決めるのは、我ではない』
「え?」
『欠片でもない。そなたたち自身だ』
「わたしたち?」
『何のために欠片を集めるのか。集めた先で何を望み、何を選ぶのか。それを決めるのは、そなたたちだ』
アリアは何も言えなくなった。
欠片を集める。
ずっと、それが自分たちのすることだと思っていた。
欠片を全部見つければ、きっと村へ帰るための道が見つかる。お父さんとお母さんにも会える。
だから探してきた。
けれど、八つの欠片を全部集めたあと、自分が何をするのか。
その先に何が待っているのか。
そこまで考えたことはなかった。
「……分かんない」
少しだけ迷って、それでもアリアは正直に答えた。
隣でルカがちらりとこちらを見る。
けれど、大精霊は怒らなかった。
『それでよい』
「いいの?」
『分からぬものを、分かったふりをする必要はない。そなたはまだ、道の途中にいる』
淡い緑の瞳が、ほんの少しやわらいだ。
『歩きながら見つければよい』
アリアはしばらく、その大きな瞳を見つめていた。
分からなくてもいい。
今すぐ答えを持っていなくてもいい。
まだ途中なのだから、これから見つければいい。
そう言われると、さっきまで少し重たく感じていた「八つ全部集めたあと」というものが、遠くへ続く道のように思えてきた。
「うん。わたし、探す」
『ああ』
「欠片も。その先にあるものも」
何があるのかは、まだ分からない。
それでも今は、それでよかった。
トカゲさんが静かに目を閉じる。
すると、その身体の奥にあった琥珀色の光が、少しずつ外へ浮かび上がってきた。
「わぁ……」
光は巨体の中を抜けるように胸元へ集まり、やがて身体を離れて空中へ浮かんだ。
その中心に、小さな欠片がある。
一個目とは形が違っている。
けれど、見た瞬間にどこか似ていると感じた。
リン。
マルルのコンパクトが、もう一度澄んだ音を鳴らした。
「来るなの」
琥珀色の光に包まれた欠片が、ゆっくりとマルルへ近づいてくる。
「マルル、大丈夫?」
「大丈夫なの」
マルルは小さな前足をコンパクトへ添え、近づいてくる欠片をじっと見つめた。
やがて欠片は、コンパクトのすぐ前で止まった。
その周囲を覆っていた琥珀色の光がふわりと広がり、アリアは目を細める。
その時だった。
「あ……」
広がった光の中心にある、欠片そのものの輝きが見えた。
周りを包んでいる琥珀色とは違う。
一個目の欠片で見たのと同じ光だった。
形は違う。
ここまで宿していた力も違う。
けれど、その奥にあるものは同じだった。
「ノルン、見て!」
「はい」
ノルンも気づいていたらしく、欠片から目を離さない。
「周囲を包んでいる力は違います。でも、欠片そのものの輝きは同じです」
「やっぱり、同じものだったんだね」
「ええ。もともとは一つだったのでしょう」
やがて琥珀色の光が、長い間守ってきたものを送り出すのを惜しむように、少しずつほどけていった。
最後に残った欠片だけが、ゆっくりとコンパクトへ近づいていく。
そして触れた瞬間。
リン――。
澄んだ音が、古い井戸の奥まで響いた。
光が静かに収まり、二個目の欠片がコンパクトの中へ納まった。
「……入った」
アリアはしばらく瞬きもせずに見つめていた。
ちゃんとある。
一個目の隣に。
自分たちがここまで来て見つけた、二個目の欠片がある。
「二個目!」
「二個目なの!」
アリアとマルルの声が重なった。
「やったね、マルル!」
「やったなの!」
嬉しくなったマルルが腕の中で跳ねようとし、身体は抱えられているせいで動けず、代わりに長い耳だけがぴょこんと跳ねた。
ルカも笑いながら、二人のそばへ寄ってくる。
「やっと二個か」
「やっとじゃないよ。二個も、だよ!」
「でも、まだ全部じゃないだろ?」
「これから集めるの!」
「分かってるよ」
ノルンも二人を見ながら小さく笑い、少し離れたところではシリルが穏やかな表情でこちらを見ていた。
そこでアリアは、ふと気づいた。
嬉しさに夢中で、もう一人のことを忘れかけていた。
「トカゲさん」
「何だ?」
「大丈夫?」
「何がだ?」
「欠片、なくなっちゃったから」
トカゲさんは一度、自分の胸元へ目を落とした。
「……少し軽くなった気はする」
「えっ!」
「気がするだけだ」
「どっち!?」
「分からぬ」
「もう!」
アリアが頬を膨らませる。
本人が大丈夫と言うなら大丈夫なのかもしれないけれど、長い間身体の中にあったものがなくなったのだ。やっぱり少し心配になる。
すると、その様子を見ていた大精霊の声が響いた。
『心配はいらぬ。あれはもともと、この者の命を支えるものではない』
「ほんと?」
『ああ』
「よかったぁ」
アリアは心から胸を撫で下ろした。
「トカゲさんが小さくなっちゃったらどうしようって思った」
「なぜ小さくなるのだ」
「欠片がなくなるから?」
「ならぬ」
「じゃあ大丈夫!」
「……それで納得するのか?」
ルカの声に、今度はノルンまで笑った。
◇
大精霊と別れ、古い井戸をあとにして第三層へ戻り始めてから間もなく、アリアは自分たちが歩いてきた時とは何かが違うことに気づいた。
最初は、何が変わったのか分からなかった。
けれど少し歩くうちに、それが音なのだと気づく。
水路を流れていく水の音に、遠くで歯車が噛み合う低い響きが重なっている。さらに奥からは金属を打つ音や、人々が呼び交わす声まで聞こえてきた。
昨日までだって、グラナにはたくさんの音があった。
けれど、それは壊れかけた設備を何とか動かそうとする音だったり、止まったものを前に誰かが走り回る音だった。
今聞こえているのは、それとは違う。
「……町の音がする」
「町の音?」
ルカが聞き返した。
「うん。いっぱい」
うまく説明できなかった。
でも、アリアにはそう聞こえた。
水が流れて。
歯車が回って。
人が声を掛け合っている。
グラナが、自分たちが来る前まで続いていたいつもの暮らしへ戻ろうとしている音だった。
それが嬉しくて、アリアの足は自然と少し速くなった。
第三層へ戻ると、そこでは相変わらず整備士たちが走り回っていた。
けれど、その顔は昨日とはまるで違う。
「水路の流れ、戻ってます!」
「主軸も安定したぞ!」
「こっちも問題なし!」
慌ただしいのに、声が明るい。
その向こうから、聞き慣れた大きな笑い声まで聞こえてきた。
「アリア!」
「ガンツさん!」
振り返ったガンツは、相変わらず顔にも服にも油と煤をつけて真っ黒だった。
けれど、今はそれを気にする人など誰もいない。
「見ろ! 動いたぞ!」
ガンツが指差した先では、大きな歯車がゆっくりと回り、その隣の軸も規則正しく動いている。水路には勢いを取り戻した水が流れ、それまで止まっていた設備へ次々と力を伝えていた。
「止まってたところも戻った。主軸も補助軸も今のところ問題なしだ!」
「うん!」
アリアが元気よく頷くと、ガンツは少しだけ目を細めた。
「……お前、どれが何だか分かってるか?」
「分かんない!」
「だろうな!」
豪快な笑い声が上がり、周りの整備士たちまで一緒になって笑った。
アリアも笑いながら、もう一度辺りへ耳を澄ませた。
「でもね、ガンツさん」
「ん?」
「音がするよ」
「音?」
「町の音」
アリアは水路の方へ顔を向けた。
「お水も、歯車も、人の声も。いっぱい聞こえる」
ガンツは一瞬だけ黙った。
それから、大きな手をアリアの頭へ乗せる。
「ああ」
水色の髪がくしゃりとなるほど撫でながら、ガンツも動き始めた設備を見た。
「やっと戻ってきた」
◇
そしてその日、アリアたちは初めて、動いている昇降塔へ乗った。
「わぁぁぁ……!」
巨大な籠が低い音を立てながらゆっくり上がり始め、第三層の乗り場が少しずつ下へ遠ざかっていく。
止まった籠しか知らなかったアリアには、それだけでも新しい乗り物に乗ったような気分だった。
もっと下まで見たくなって、つい柵から身を乗り出す。
「アリア、危ない!」
すぐに後ろから服をつかまれた。
「落ちるぞ!」
「だって、動いてる!」
「動いてるから危ないんだよ!」
「あ、そっか」
アリアは言われた通り身体を戻し、今度は両手でしっかり柵を握った。
それでも視線は、どんどん遠ざかる第三層から離れない。
ゴウン、ゴウンと一定の音を響かせながら籠が上昇していく途中、下へ向かう別の籠とすれ違った。
そちらには荷物を積んだ商人や職人、家族らしい人たちが乗っている。
向こうにいた子どもがアリアに気づき、大きく手を振った。
「あっ!」
アリアも嬉しくなって、負けないくらい大きく振り返す。
「動いてるね!」
「見れば分かるだろ」
「そうじゃなくて」
アリアはルカを見た。
さっきまで自分たちがいた第三層。その上には第二層があり、さらに第一層があって、ずっと上には地上がある。
昨日までは、その間をつなぐものが止まっていた。
「町が!」
その一言で、ルカも意味が分かったらしい。
しばらく下へ続く塔を見たあと、少しだけ笑った。
「……そうだな」
「うん!」
「動いてる」
◇
地上へ戻ると、そこにはアリアたちが昨日まで見ていたのとは少し違うグラナがあった。
止まっていた水路には水が流れ、「満つるもの」の器から送り出された水が町の中へ巡っている。昇降塔の前には荷物を抱えた人々が並び、荷車が行き交い、あちらこちらから威勢のいい声が飛び交っていた。
アリアは忙しく顔を動かした。
「こんなに人いたんだ……」
「昨日までは地下へ行けなかったからな」
ルカも辺りを見回す。
商人が声を張り、荷物が運ばれ、子どもたちが水路のそばを走っていく。
町を初めて見た時には、グラナとはこういう場所なのだと思っていた。
けれど違った。
あの時見ていたのは、止まりかけたグラナだったのだ。
これが、この町のいつもの姿なのかもしれない。
アリアがそんなことを考えていた時だった。
「アリア!」
聞き覚えのある声が、人々の声の向こうから飛んできた。
振り返ると、荷馬車のそばで一人の女性が腰へ手を当てている。
「エッダ!」
考えるより先に顔が明るくなり、そのまま駆け出した。
「エッダー!」
「うわっ! ちょっと、待ちな!」
勢いよく飛びついたアリアを、エッダは一歩よろめきながらも受け止めた。
「まったく、どこまで行ってたんだい!」
「地下!」
「それは知ってるよ!」
「すっごく下まで行ったよ!」
「それも何となく聞いてる!」
身体を少し離すと、エッダはすぐにアリアを頭から足まで確認した。
「怪我は?」
「ないよ!」
「本当に?」
「うん!」
「ルカは?」
「大丈夫」
「ノルンは?」
「問題ありません」
「マルルは?」
「お腹すいたなの」
「それは元気ってことでいいね」
全員の無事を確かめて、ようやくエッダが息を吐く。
けれど、安心したのも束の間だった。
「で?」
「ん?」
「いったい何をしてたら、町中の設備が一斉に動き出すんだい?」
アリアは少しも迷わなかった。
「大精霊さん起こした!」
「……は?」
エッダの動きが止まった。
その後ろで荷物を動かしていた商隊の仲間たちまで、ぴたりと手を止める。
「大精霊?」
「うん!」
エッダは、確認するようにルカを見る。
ルカが頷く。
今度はノルン。
ノルンも静かに頷いた。
最後にシリルへ視線を向けると、シリルまで否定しない。
エッダはしばらく誰の顔も見ず、額へ手を当てた。
「私たちが荷物と格闘してる間に、この子はいったい何をやってるんだい……」
「いっぱい走った!」
「そこじゃないよ!」
商隊の仲間たちから、一斉に笑い声が上がった。
◇
その日は、久しぶりに時間がゆっくり流れた。
エッダたちの仕事について町を回りながら、アリアたちは初めて、本当の意味で「いつものグラナ」を見ることになった。
第一層の工房へ荷物を届けに行けば、昨日まで止まっていた魔道具が動き、あちらこちらから金属を打つ音が響いている。
職人たちは忙しそうに働きながらも、アリアたちを見つけると作業の手を止めて手を振ってくれた。
炉のそばでは、町へ来た日に小さく丸まっていた火の精霊たちが、今は炎の周りを元気よく飛び回っている。
「あっ!」
アリアは思わず足を止めた。
「元気になってる!」
前に見た時には、炎のそばへいてもどこか弱々しく見えた。
今は違う。
小さな身体が炎の色に負けないくらい明るく、くるくると飛び回っている。
第二層へ行けば、水路を流れる水の勢いも戻っていた。
「昨日より元気になってる!」
今度は水路を覗き込み、流れの中へ目を凝らす。
水の中には、小さな精霊たちの姿まで見えた。
「元気そうなの!」
マルルも嬉しそうに耳を揺らす。
昨日まで閉まっていた店も少しずつ開き始め、町を歩けば食べ物の匂いや人々の話し声が次々に流れてくる。
焼き菓子の店の前を通った時には、店主がアリアたちを見つけて呼び止めた。
「ほら、持っていきな!」
「いいの?」
「町を走り回ってた子どもたちだろ? 今朝からその話ばっかりだよ」
差し出された焼き菓子を、アリアは両手で嬉しそうに受け取った。
「ありがとう!」
「マルルもありがとうなの!」
「お前さんは二つ持ってるじゃないか」
「これはアリアの分なの」
「マルル」
「……一個返すなの」
しぶしぶ一つ戻すマルルを見て、ルカが吹き出す。
そのあとアリアは、せっかくだから第三層にも行こうとしたのだけれど、出入口へ向かう前にエッダへ襟首をつかまれた。
「今日はもう地下の奥まで行かないよ」
「なんで?」
「昨日まで散々走り回ったんだろ?」
「でも、ガンツさんたちいるよ?」
「ガンツたちは仕事。あんたたちは今日は休む」
「お手伝いできるよ?」
「子どもが遊ぶのも立派な仕事さ」
アリアは少し考えた。
仕事なら、仕方ない。
「じゃあ遊ぶ!」
「切り替えが早いねぇ」
◇
コルの家にも顔を出した。
「アリア!」
「コル!」
椅子に座ったコルの右足にはまだ包帯が巻かれていたけれど、昨日までよりずっと顔色がいい。
ルルもアリアたちを見るなり嬉しそうに駆け寄ってきた。
「大精霊、起きたんだって?」
「うん!」
「本当にいたの?」
「いたよ!」
「どんなだった?」
「すっごく大きかった!」
アリアは両腕をいっぱいに広げた。
「こんな!」
けれど当然、その大きさではまるで足りない。
コルが眉を寄せる。
「それじゃ分かんないよ」
「もっと大きいの!」
「どのくらい?」
「えっと……」
アリアはしばらく考えた末、知っている中で一番比べやすそうなものを思い出した。
「トカゲさんより、ずーっと!」
「それ、古い井戸に入らないじゃん」
「入ってないよ」
「え?」
「向こうにいたの」
「向こう?」
「えっとね……光の向こうに、大きな根っことか、お水とかがあって……」
説明しながら、自分でもだんだん何をどう言えばいいのか分からなくなってきた。
アリアは困ったようにノルンを見る。
「ノルン」
「はい」
「お願い」
「やっぱり説明できないんじゃん」
「できるもん! ちょっと難しいだけ!」
コルが笑う。
その横でルルも、何がそんなに面白いのかは分かっていないのに一緒になって笑っている。
つられてアリアも笑った。
その笑い声を聞いているうちに、ふと昨日のことを思い出した。
この同じ家で、石板の意味をみんなで考えていた。
地面が揺れるたび、食器が音を立て、ルルはお母さんのそばへ駆け寄った。
コルも、アリアたちも、揺れが止まるまで黙っていた。
今は。
誰も足元を見ていない。
地面が揺れるのではないかと、顔をこわばらせる人もいない。
それが何より、グラナが戻ってきた証拠のように思えた。
◇
夜になると、みんなで一緒に食事をすることになった。
エッダたち商隊の仲間に、仕事を終えて戻ってきたガンツ。コルとルル、その母親。そしてアリアたち。
人数が増えすぎて一つの机では足りず、別の机までつなげることになり、料理も椅子も皿も、あちらこちらから集められた。
けれど、そんな少しごちゃごちゃした食卓が、アリアにはとても楽しかった。
「マルル、それ何個目だ?」
ルカが尋ねる。
「三個目なの」
「五個目だろ」
「三なの」
「さっき二個隠しただろ」
「知らないなの」
「ほっぺた膨らんでるぞ」
「これは元からなの」
「そんなわけあるか」
みんなが一斉に笑う。
アリアもお腹を抱えるほど笑った。
その向こうから、水が流れる音が聞こえている。
遠くでは水車が回り、ときどき昇降塔の低い音まで町の中へ響いてきた。
ゴウン。
ゴウン。
昨日までは、聞こえないことが怖かった音。
止まってしまったことが、町の異変そのものだった音。
今は、それが聞こえるたびに安心する。
グラナが動いている。
ここで、みんながいつもの暮らしをしている。
アリアはふと、腕の中で焼き菓子を食べているマルルの首元を見た。
チョーカーについたコンパクト。
そこには今、二つの欠片がある。
「二個になったね」
小さく言うと、隣にいたルカが気づいた。
「欠片?」
「うん」
「そうだな」
「次は三個目だね」
「場所もまだ分かってないけどな」
「どこだろうね」
「さあ」
海かもしれない。
森かもしれない。
もっと大きな町かもしれないし、人のいない山の中かもしれない。
どこなのかは何も分からない。
それでも、まだ見たことのない場所を考えると、ほんの少しだけ胸が弾んだ。
その時だった。
「そういえば」
エッダが食事の手を止めた。
「明日の朝には、私たちはグラナを出るよ」
アリアは、すぐには意味を飲み込めなかった。
「……明日?」
「ああ。止まってた荷物も全部届けられたし、仕入れも済んだ。こっちの商人との話もまとまったからね」
「もう行っちゃうの?」
「商人だからね。荷物を届けたら、次の町へ行く。それが仕事さ」
「…………」
分かっていた。
エッダたちは、グラナへ向かう商隊だった。
グラナまで一緒に旅をする。
最初から、そういう約束だった。
ずっと一緒に旅を続けるとは、誰も言っていない。
グラナへ着いた時に別れなかったのは、町でこんなことが起きていたからだ。
だから町が戻れば、エッダたちにも次の仕事がある。
分かっているのに。
本当に別れる日が来ることだけは、どこかで考えないようにしていたのかもしれない。
「……そっか」
さっきまでより、声が少しだけ小さくなった。
エッダはそんなアリアをしばらく見てから、ふっと笑った。
「何だい、その顔は」
「どんな顔?」
「今にも『行かないで』って言いそうな顔」
「言わないもん」
「そうかい?」
「だって、エッダ、お仕事なんでしょ?」
「ああ」
「だったら、ちゃんと行かないと駄目だよ」
今度はエッダが目を瞬いた。
「ずいぶん偉そうに言うじゃないか」
「お仕事はちゃんとしないと駄目なの」
「誰に教わったんだい、それ」
「分かんない!」
「そこは覚えておきな!」
また食卓へ笑い声が広がった。
アリアも一緒に笑った。
寂しくないわけではない。
明日になったら、いつも一緒にいた大きな馬車も、エッダも、トアも、ロザも、ヴァンも、フィンも、モーリも、次の町へ向かってしまう。
けれど、だからといって止めてはいけないことも、今のアリアには少し分かる。
エッダたちには、次の場所がある。
そして自分たちにも、まだ行く場所がある。
欠片は二つになった。
次は三個目を探す。
明日は、ちゃんと笑って見送ろう。
アリアはそう思いながら、もう一度にぎやかな食卓へ目を向けた。
けれど今のアリアの頭にあるのは、明日の別れと、その先に待っている三個目の欠片のことばかりだった。
グラナを離れる前に、もう一つ行かなければならない場所があることを、この時はすっかり忘れていた。




