第57話 大地の声
目が、開いた。
アリアは息をすることも忘れたまま、光の向こうを見つめていた。
最初に見えたのは、二つの瞳だった。
淡い緑色の奥で、金色の光がゆっくり揺れている。
ただ、それが誰かの瞳なのだと分かった次の瞬間、アリアは思わず首を上へ傾けた。
「……おっきい」
小さな声が、勝手にこぼれた。
古い井戸の奥には、大精霊が横たわっているのだと思っていた。
けれど、そこに見えているものは、そんな想像とはまるで違っていた。
さっきまで暗い岩肌しかなかったはずの場所が、水面のようにゆらゆらと揺らぎ、その向こう側へ別の景色が広がっている。
どこまで続いているのか分からない大地。
地面を這う巨大な木の根の間を、幾筋もの水が流れ、岩の隙間では青や緑に輝く鉱石が淡い光を放っている。
そして、そのすべてに包まれるようにして、一人の女性がいた。
人の姿によく似ている。
けれど、どう見ても人ではなかった。
肌は岩のようでもあり、湿った土のようにも見え、肩には柔らかな苔が広がっている。長い髪のように身体へ垂れているものを目で追えば、それは細い根や蔓で、その間からは小さな葉が芽吹いていた。
ところどころには透き通った鉱石が花のように顔を出し、身体の表面には細い水の流れさえ見える。
アリアには、それが一人の女性を見ているというよりも。
山も。
森も。
川も。
土の中に眠っている石も。
大地そのものが、人の姿を借りて目の前へ現れたように思えた。
「……きれい」
思わず呟いた、その声が届いたのだろうか。
大精霊の淡い緑の瞳が、ゆっくりと動いた。
そして。
アリアを見る。
「ひゃっ」
自分より何倍も大きな瞳と目が合った途端、アリアは反射的にマルルをぎゅっと抱きしめていた。
「アリア、苦しいなの」
「あ、ごめん」
慌てて腕を緩める。
けれど、目だけは大精霊から離せなかった。
顔だけでも、アリアよりずっと大きい。
もし本当にこの洞窟の中へ同じ大きさで横たわっていたなら、とても収まりそうにはない。
だからきっと、今自分たちが見ているのは、井戸の奥にいる大精霊そのものとは少し違うのだろう。
それでも不思議なことに、遠くにいるようには思えなかった。
薄い光の膜一枚を挟んで、すぐ向こう側からこちらを見ている。
そんな気さえした。
その時、隣でズンッと重い音が響いた。
「わっ!」
驚いて振り返ったアリアは、今度は別の意味で目を丸くした。
トカゲさんが、その巨大な身体を低く伏せていた。
大きな頭を、地面へつきそうなほど深く下げている。
「大精霊様……」
いつも低く落ち着いていた声が、震えていた。
アリアは思わずトカゲさんを見つめた。
こんな声を聞いたのは初めてだった。
「大精霊様!」
もう一度呼びかける声には、長い間そこへ溜めていたものが一気にあふれ出したような響きがあった。
「お目覚めになられたのですね!」
大精霊の瞳が、ゆっくりとトカゲさんへ向く。
『……聞こえている』
声がした。
アリアは思わず辺りを見回した。
「え?」
耳の横から聞こえてきたのとは違う。
足元の大地から。
洞窟の壁から。
どこかを流れている水から。
そして自分の身体の中からまで。
いろいろな場所から同時に声が届いたような、不思議な感覚だった。
『何度も……呼んでいたな』
「はい!」
トカゲさんが顔を上げる。
「幾度も! 幾度もお呼びいたしました!」
『そうか』
大精霊はゆっくりと瞬きをした。
『すまなかった』
「そのような!」
トカゲさんは勢いよく首を横へ振った。
「お目覚めくださった! それだけで……!」
そこで言葉が途切れた。
大きな口元が、わずかに震えている。
アリアはトカゲさんの横顔を見上げた。
大精霊を起こそうとして、何度も何度も呼び続けていた。
それでも返事はなく、ずっと一人でここにいた。
どれくらい長い間だったのか、アリアには分からない。
けれど。
「トカゲさん」
「……何だ」
「うれしい?」
尋ねると、ほんの少しだけ間があった。
「うむ」
いつもの短い返事だった。
けれど、その声はまだ震えている。
「とても、嬉しい」
それを聞いた途端、アリアの顔にも自然と笑みが広がった。
「よかったね!」
「うむ!」
今度の返事は、洞窟の中へ響くほど大きかった。
「よかったなの!」
マルルまで嬉しそうに耳を立てる。
「うむ!」
「トカゲさん、すごく嬉しそうだな」
ルカが笑う。
「うむ!」
「それしか言わなくなってるぞ」
「今はよい!」
「いいんだ……」
アリアはとうとう声を立てて笑った。
大精霊が目覚めるまで張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけていく。
けれど、その空気も長くは続かなかった。
『そなたたちか』
大精霊の声に、全員が顔を上げた。
淡い緑の瞳が、今度はアリアたちへ向けられている。
『止まっていた流れを、再び巡らせたのは』
アリアは一瞬、自分たちのことだと思った。
けれどすぐに、首を横へ振った。
「わたしたちだけじゃないよ」
大精霊は何も言わず、続きを待っている。
「町のみんな」
アリアは胸の前のマルルを抱き直した。
「みんなが、ちょっとずつ魔力をくれたの」
地上の人たち。
第一層の人たち。
第二層にも。
第三層にも。
水路へ手を置いてくれた人がいて、ほかの人へ声を掛けてくれた人もいた。
ガンツたちは古い道を見つけ、シリルも一緒に動いてくれた。
それを一つずつ説明しようとしたら、アリアの頭の中へ今日一日の出来事が一気に戻ってきた。
「地上の人も、第一層の人も、第二層の人も、第三層の人もいてね。ガンツさんたちが道を見つけてくれて、シリルも来てくれて、それで……」
途中で、自分でもどこまで話せばいいのか分からなくなった。
でも。
伝えたいことは、もっと簡単だった。
「みんなでやったの!」
大精霊は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その大きな目元がほんの少しだけ柔らかくなった。
『そうか』
その一言と同時に、大精霊の肩へ生えていた小さな草が、ふわりと揺れた。
『人は、まだ巡ることを忘れていなかったか』
「巡ること?」
アリアが首を傾げる。
けれど大精霊はすぐには答えず、ゆっくりと目を閉じた。
すると古い井戸の周囲を満たしていた光が、少しだけ強くなる。
ドクン。
足元から伝わる震えに、もうアリアは身構えなかった。
さっきまで町を揺らしていた地震とは違う。
これは、大地が動き始めた音だ。
『長く眠っていた』
大精霊の声が、また身体の内側まで響いてくる。
『あまりにも長く』
アリアは何も言わず、じっと聞いた。
『かつて、この地には多くの流れがあった』
大精霊の向こう側で、巨大な根の間を光が走った。
『水が巡り、命が巡り、魔力が巡った。我は、その流れを整えていた』
光を宿した水が岩の間を抜け、そのそばでは小さな芽が開き、さらに奥では鉱石が淡い輝きを放つ。
どれか一つではなく、全部が同じ大地の中でつながっている。
アリアがぼんやりそう感じていると、ノルンが静かに口を開いた。
「では、グラナに残されていた古い設備は、大精霊様の力を町へ運ぶためのものだったのですか?」
『少し違う』
「違う……?」
ノルンが目を瞬く。
『我から人へ、一方的に与えていたのではない』
大精霊の声とともに、光の中に大地の景色が広がっていく。
『大地は人へ、水を与える。実りを与え、鉱石を与え、住まう場所を与える』
アリアは、グラナの町を思い浮かべた。
地下を流れる水。
鉱山。
町の人たちが暮らしている大きな空間。
どれも、この大地からもらっているものだった。
『そして人もまた、大地へ返す』
「返す……?」
『使われなかった魔力。人の営みの中で大地へ戻る力。精霊たちが運ぶもの。それらは巡り、再び大地を満たす』
その言葉を聞いた瞬間、アリアの中で、さっき見た光の道がもう一度つながった。
地上から第一層へ。
第一層から第二層。
第二層から第三層。
そこから大精霊へ。
そして、大精霊からまた町へ。
「じゃあ……さっきやったのと同じ?」
『そうだ』
大精霊がゆっくりとうなずいた。
『本来は、それが絶えることなく続いていた』
「だから……」
ノルンが息を呑む。
「『流れは巡りて』」
『そう呼んだ者たちもいた』
石板の言葉が、また一つ本当の意味を持った。
アリアは嬉しくなりかけた。
けれど、その隣でルカが少し考え込むように眉を寄せている。
「でも」
ルカが大精霊を見る。
「ずっと巡ってたなら、どうして止まったんだ?」
その言葉で、アリアも気づいた。
大精霊が眠ったから、グラナの流れが止まった。
けれど。
どうして大精霊が眠ったのか。
そこは、まだ何も分かっていない。
大精霊はしばらく答えなかった。
やがて淡い緑の瞳が、ゆっくりと大地の精霊へ向いた。
けれど見ているのはその巨体ではなく、もっと奥にある二つ目の欠片だった。
『……それがあるからだ』
「え?」
アリアも同じ場所を見る。
大地の精霊の身体の内側で、欠片が淡く光った。
「欠片?」
『我が力の一部』
大地の精霊が目を伏せる。
「大精霊様……」
『よい』
その声は静かだった。
『そなたを責めているのではない。むしろ、守ってくれたのだな』
大地の精霊が、ゆっくり顔を上げた。
「……はい。失うわけには、まいりませんでした」
『礼を言う』
大地の精霊は、もう一度深く頭を下げた。
アリアは二人のやり取りを見ながら、どうしても気になることを我慢できなかった。
「ねえ」
『何だ』
「どうして欠片になったの?」
「アリア、いきなり聞くなよ」
ルカが小さな声で止める。
「だって気になるもん」
「それはそうだけど」
怒られるかもしれない。
少しだけそう思ったけれど、大精霊は怒らなかった。
ただ、遠いところを見るように瞳の光を揺らした。
『我にも、すべては分からぬ』
「大精霊さんにも?」
アリアは素直に驚いた。
何となく、大精霊ならこの大地のことを何でも知っているような気がしていた。
『ある時、大きな揺らぎがあった』
「揺らぎ?」
『この地だけではない。もっと遠く、山を越え、海を越え、我の声すら届かぬほど遠い場所で、何かが世界の流れを乱した』
今まで穏やかだった空気が、少しだけ変わった気がした。
アリアは意味を全部理解できたわけではない。
けれどノルンの表情が変わり、シリルも大精霊から目を離さなくなったことで、それがとても大きな話なのだということだけは分かった。
『その時、我が力の一部が引き剥がされた』
大地の精霊の中にある欠片が、もう一度光った。
そして大精霊の視線は、今度はゆっくりとアリアの腕の中へ動いてくる。
「なの?」
見つめられたマルルが首を傾げた。
けれど大精霊が見ていたのは、マルルではなかった。
その首元。
チョーカーについた、小さなコンパクト。
『それもまた、同じ流れの中にある』
「コンパクト?」
『その器ではない』
「え?」
『その中に宿るものだ』
その言葉を聞いた途端、アリアの表情が変わった。
欠片。
自分たちがずっと探している、八つに散らばった鍵の欠片。
「大精霊さん」
『何だ』
「欠片のこと、知ってるの?」
今までより少しだけ身を乗り出して尋ねる。
答えを待つ時間が、妙に長く感じられた。
『知っている』
「じゃあ!」
思わず声を上げたアリアへ、大精霊の言葉が重なる。
『だが、我が知ることはわずかだ』
アリアは続きを言いかけた口を閉じた。
「……そっか」
『ただ、一つ』
大精霊の声が、ほんの少し低くなった。
空気まで沈んだように感じられ、アリアも黙ってその先を待つ。
『そなたたちが集めているものは、偶然に散ったものではない』
「え……?」
今度はアリアだけではない。
ノルンも大精霊を見つめ、シリルの表情まで変わった。
「それは、どういう意味だ?」
シリルが尋ねる。
けれど大精霊は、それ以上を話さなかった。
『今は、この地を戻そう』
ゴウン……。
古い井戸の下から、重い音が響いた。
アリアが足元を見る。
大精霊から戻ってきた光が、古い伝導路へ一気に走り込んだ。
◇
それまでとは反対向きの流れが、グラナ全体へ広がっていった。
最初に変化が現れたのは、第三層だった。
「親方!」
「見えてる!」
ガンツの目の前で、「芽吹くもの」が眩しいほどの光を放つ。さっきまで町から大精霊へ向かっていた魔力とは逆に、今度は古い井戸の方から戻ってきた光が、小さな芽や若葉、蕾の彫刻を一気に満たしていった。
「逆だ……!」
整備士の一人が声を上げた。
「さっきと逆に流れてる!」
その直後、長い間止まったままだった巨大な歯車が、ガコン、と大きな音を立てた。
誰もが息を呑む。
もう一度、ガコン。
続いて、ギギギ……と重い軋みが響き、次の歯車へ力が伝わっていく。
「回った……」
誰かの呆然とした声に続いて。
「回ったぞ!」
一気に歓声が上がった。
大地から戻ってきた力は、そのまま第二層へ巡っていく。
止まっていた水門が大きく震え、長い間動かなかった金具がガガガッと音を立てた。近くにいた人々が慌てて距離を取った次の瞬間、重たい水門がゆっくりと持ち上がり、せき止められていた水が勢いよく水路へ流れ込む。
「動いた!」
「水が来たぞ!」
その声と一緒に、止まっていた町の流れがまた一つ戻る。
第一層でも、暗くなっていた魔道灯が一つ灯った。
その向こうでも、また一つ。
さらに通りの奥へと順番に明かりが戻り、工房では止まっていた魔道具が低い音を立てながら再び動き始める。
そして、光はとうとう地上へ届いた。
夜のグラナで「満つるもの」が強く輝くと、その下で止まっていた水が、ごぽり、と小さく音を立てた。
もう一度。
ごぽっ。
次の瞬間には、ザァァァァッと勢いよく水があふれ出し、石造りの水路を通って町へ流れ始める。
地下から汲み上げられた水が戻り、それに呼ばれるように巨大な昇降塔の太い綱がぴんと張った。
ガコン。
一つ目の歯車が回る。
その力が次へ渡り、さらにその先の歯車へ伝わっていく。
ガコン。ガコン。
そして、長い間沈黙していた昇降塔が、低い音を町へ響かせながら、ゆっくりと動き始めた。
◇
古い井戸の前にいるアリアには、その全部を見ることはできなかった。
けれど、何かが変わったことは分かった。
水の音が違う。
足元から伝わる大地の震えも、さっきまでとはまるで違っている。
不規則に町を揺らしていた怖い振動ではなく、一定の間隔で静かに大地が脈を打っている。
「……治った?」
期待を込めて尋ねると、大精霊は穏やかに首を横へ振った。
『まだだ』
「えっ」
思わず顔が曇る。
『長く滞っていた流れだ。すべてが元へ戻るには、少し時がいる』
「そっか……」
肩を落としかけたアリアへ、大精霊は続けた。
『だが、もう止まりはしない』
その言葉が意味するものを理解するまで、ほんの一瞬だけかかった。
「ほんと!?」
『ああ』
次の瞬間には、アリアの顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
マルルを抱いたまま、その場でぴょんと跳ねる。
「マルル! やったよ!」
「やったなの!」
「ルカ!」
「ああ!」
「ノルン!」
「はい!」
アリアは次々に顔を向けた。
みんなも笑っている。
胸の奥へずっと居座っていた重たいものが、ようやくほどけていくようだった。
「シリル!」
「ああ」
シリルまで柔らかく笑っている。
最後にアリアは、すぐ隣の大地の精霊を見上げた。
「トカゲさん!」
「うむ!」
やっぱり、今日一番大きな返事だった。
その声がおかしくて、アリアはまた笑った。
そしてアリアは、その向こう、ゆらゆらと揺れる光の境の中にいる大精霊を見上げた。
「大精霊さん!」
『何だ』
「おはよう!」
一瞬。
大精霊が目を瞬いた。
大地の精霊も。
ルカも。
ノルンも。
シリルも。
みんながアリアを見る。
「だって」
アリアは不思議そうな顔をしたみんなへ、にっこり笑った。
「ずっと寝てたんでしょ?」
大精霊はしばらく何も言わず、アリアを見つめていた。
やがて。
岩と土と森でできたような大きな顔に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
『……ああ』
大地の奥から届く声が、今までよりもずっと優しく響いた。
『おはよう』
その言葉とともに。
大精霊の髪を覆っていた蔓の先で、小さな花が一つ、静かに開いた。
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