第56話 巡りて、目覚める
リン……。
アリアが光の途切れている場所へ一歩近づくと、腕の中のマルルのコンパクトが、さっきよりもはっきりと青く輝いた。それに応えるように、大地の精霊の身体の奥でも二つ目の欠片が淡く光っている。
前へ近づけば、コンパクトの光は強くなる。そして向こうにある欠片も、それを待っていたように返事をする。
アリアは二つの光を見比べながら、さっき自分で口にしたことをもう一度思い出していた。
届かないなら、届くところまで近づけばいい。
どうしてここに境ができているのかも、人や大地の精霊は通れるのに、なぜ魔力だけが越えられないのかも分からない。けれど今、コンパクトは明らかに何かをしようとしている。
「マルル」
「なの?」
「もうちょっと近づけてみよう」
マルルも自分の胸元を見下ろしたあと、こくんとうなずいた。
「大精霊さん、起こすなの」
「うん」
アリアはその場へしゃがみ込み、マルルを落とさないよう腕でしっかり支えながら、青く光るコンパクトを伝導路の光が止まっている場所へゆっくり近づけていった。
近づくほど、リン……と響く澄んだ音がはっきりしていく。
ルカもノルンも、もう何も言わなかった。少し離れたところにいるシリルだけが、何か起きればすぐ手を伸ばせるようアリアを見守っている。
あと少し。
コンパクトが伝導路へ近づいた、その時だった。
「あっ!」
ルカの声に、アリアも息を呑んだ。
ずっと同じ場所で揺れるばかりだったグラナの魔力が、初めて動いたのだ。
淡い光が伝導路の端から細い糸のように伸び、ゆっくりとコンパクトへ近づいてくる。地上から第一層、第二層、第三層まで、たくさんの人たちが少しずつ分けてくれた魔力。それが今、自分たちの目の前で止まっていた場所を離れ、マルルの胸元へ引き寄せられている。
「来てる……」
アリアは息を止めたまま動かなかった。
もう少し。
ほんの少し。
やがて、グラナのみんながつないできた光がコンパクトへ触れた。
チカッ。
「わっ」
腕の中から青い光が大きく広がり、アリアは眩しさに目を細めた。それでも見逃したくなくて、すぐにコンパクトへ目を戻す。
さっきまで、どれだけ待っても進まなかった魔力が、今はここまで来ている。
「来た……!」
嬉しくなって顔を上げたものの、そこでアリアは気づいた。
まだ終わっていない。
光はコンパクトまで来たところで、もう一度止まっている。大精霊のところへは、まだ届いていなかった。
「ここまでは来たのに……」
アリアが大地の精霊を見ると、その身体の奥にある欠片が、今までで一番強く光った。
ぽう、と巨体の内側から漏れる輝きを見た途端、アリアには次にすることが分かった気がした。
「トカゲさん、もうちょっとこっち来て!」
「承知した」
大地の精霊は迷うことなく巨大な身体を動かし、ズン、と太い前足を地面へ置いた。その震えがアリアの膝まで伝わり、しかも予想していたよりずっと近くへ大きな頭が迫ってきたものだから、アリアは思わず身体を引いた。
「わっ! トカゲさん、近すぎ!」
「む?」
「こっちって言ったけど、そんなに一気に来ると思わなかったの!」
「アリア、今それやってる場合じゃないだろ」
「だってびっくりしたんだもん」
ルカの呆れた声に、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、そのやり取りをしている間にも変化は始まっていた。
「見てください」
ノルンの声に全員が黙る。
大地の精霊の身体の奥にある欠片から、一本の細い光が伸びていた。
向かっている先は、マルルのコンパクト。
「来るなの……」
マルルの長い耳がぴんと持ち上がる。
コンパクトからも、欠片へ向かう青い光が伸び始めていた。
今、マルルの胸元にはグラナ中から集められた魔力がある。その光を受け止めたコンパクトが大地の欠片を呼び、向こう側にある欠片もまた、それへ応えるようにこちらへ光を伸ばしている。
アリアは瞬きもせず、少しずつ近づいていく二つの光を見つめた。
また、あと少しだった。
けれど今度は、その距離を見ても胸が苦しくならない。
さっきは何をしても届かなかった。けれど今は、グラナのみんなの光がコンパクトまで来てくれたし、欠片の方からもこちらへ伸びてきている。
だったら、もう少しだけ近づけばいい。
「もうちょっと……」
アリアはマルルを抱いた腕を、そっと前へ伸ばした。
「アリア」
後ろから聞こえたシリルの声には心配が滲んでいたけれど、アリアは二つの光から目を離さなかった。
「大丈夫。届きそうなの」
マルルも腕の中から身体を少し前へ伸ばした。
コンパクトから伸びた青い光と、大地の欠片から伸びてきた光が、少しずつ距離を縮めていく。
そして、二つの光が触れた。
リン――。
長く澄んだ音が、古い井戸の奥まで響き渡った。
アリアは息をすることも忘れて、その光を見つめた。
マルルのコンパクトと、大地の精霊の中にある欠片。離れていた二つを結ぶ光は、もう途切れていない。細いけれど確かな一本の道になっている。
「……つながった」
その言葉がこぼれた直後、足元から低い音が響いた。
ドクン。
シリルの手がすぐにアリアの肩へ伸び、アリアも反射的に身体を固くした。また大きな揺れが来ると思ったのだ。
けれど石は軋まず、何かが崩れる音も聞こえてこない。
もう一度。
ドクン。
今度は、足元の伝導路そのものが光に合わせて脈打った。
「これ……地鳴りではありません」
ノルンの声を聞きながら、アリアは伝導路へ目を落とした。
それまで止まっていた魔力が動いている。
グラナ中から集められた光がマルルのコンパクトへ流れ込み、青い輝きの中を抜けて大地の欠片へ渡り、そこからさらに、今まで一度も進むことのできなかった伝導路の先へ流れ始めていた。
「あ……」
暗かった古い道へ、一筋の光が灯る。
その光は止まらず、少しずつ先を満たしながら古い井戸へ向かって進んでいった。
「行ってる」
隣でルカが呟く。
「うん……」
もう少し先へ。
さらに奥へ。
さっきまで目の前で止まっていた光が、本当に大精霊の方へ向かっている。
「行ってるよ……!」
ようやく声に嬉しさが戻った。
みんながつないでくれた光は古い井戸の中へ入り、そのまま暗闇の向こうへ消えていく。
「大精霊さん!」
アリアは思わず身を乗り出した。
「届いたよ!」
◇
その変化は、古い井戸の前だけで起きていたわけではなかった。
第三層では「芽吹くもの」を満たしていた光が、それまでより強く脈打ち、小さな芽から若葉へ、若葉から膨らんだ蕾へと一気に駆け抜けていた。
「親方!」
整備士の声にガンツが振り返る。
そこへ留まっていた魔力まで動き始めているのを見て、すぐに光が止まっていた場所へ駆け寄った。
「先を見ろ!」
何度調べても壊れていなかった伝導路。金属板も続いているのに、なぜか魔力だけが越えられなかった場所を、今、一筋の光が通り抜けていく。
「……通った」
誰かの声が震えた。
ガンツも、しばらく言葉を失っていた。
間違いなく通っている。
何百年も使われていなかった古い道の先へ、グラナ中から集めた魔力が流れている。
「通ったぞ!」
握った拳と一緒に上がった大きな声が、第三層へ響き渡った。
そして、その動きは第三層だけでは終わらなかった。
第二層では「育つもの」に刻まれた枝と葉が一斉に明るくなり、そこへ留まっていた魔力が第三層へ向かって流れ始める。第一層でも「実るもの」の果実と麦の穂が内側から強く輝き、蓄えていた光を次の層へ送り出していく。
やがて地上でも、夜のグラナを照らすように「満つるもの」が強く輝いた。
雪から雫へ。
雫から、その下にある大きな器へ。
器に満ちていた光がゆっくり揺れ、それまで四つの場所に留まっていた力が、何かに導かれるように一つの大きな流れとなって地下へ向かい始める。
地上の「満つるもの」から第一層の「実るもの」へ。そこから第二層の「育つもの」へ進み、さらに第三層の「芽吹くもの」を通って、最後は古い井戸へ。
別々の場所に抱えられていた光が、今、初めて一本につながった。
◇
「……石板」
古い井戸へ流れ込んでいく光を見つめていたノルンが、ふいに呟いた。
「え?」
「石板に刻まれていた通りです」
その言葉を聞いた途端、アリアの頭にも何度も読み返した文章が戻ってきた。
満つるものは、実るものへ。
実るものは、育つものへ。
育つものは、芽吹くものへ。
初めて読んだ時には、何を言っているのかまるで分からなかった。四つの言葉が季節を表していると分かってからも、どうして春から夏、秋、冬ではなく反対向きに並んでいるのかが分からなかった。
けれど今は、目の前を流れていく光を見るだけで分かる。
「魔力だったんだね」
「はい。季節そのものではなく、四つの言葉はこの町にある四つの場所と、そこへ魔力を流す順番を示していたのでしょう」
ノルンの答えを聞いていたルカが、そこで何かを思い出したように顔を上げた。
「じゃあ、最後は?」
その一言で、ノルンの表情が止まった。
アリアにも分かった。
石板の言葉には、まだ続きがある。
芽吹くものは、再び満つるものへ。
今は「満つるもの」から「芽吹くもの」まで来て、その先の大精霊へ光が届いた。
けれど、まだ戻ってはいない。
その時だった。
ドクン。
古い井戸の奥から、低い音が返ってきた。
アリアたちは一斉に振り返った。
もう一度。
ドクン。
さっきまで井戸へ流れ込んでいた魔力が伝えた音とは違う。
もっと深いところ。
大地そのものの奥から、何かがこちらへ返事をしているような音だった。
大地の精霊が巨大な頭を上げた。
「……この気配」
「トカゲさん?」
呼びかけても、大地の精霊は答えなかった。
ただ井戸の奥を見つめ、何かを確かめるようにじっとしている。
アリアも同じ場所へ目を凝らした。
すると暗闇の向こうに、ぽつりと小さな光が生まれた。
「……あれ?」
それは、自分たちが送り込んだ魔力とは少し違って見えた。
もっと深いところから、土の中にずっと眠っていたものが今度はこちらへ滲み出してくるような、柔らかな光だった。
一つ生まれれば、その隣にもまた一つ。
さらに向こうにも小さな光が灯り、それらは少しずつ数を増やしながら互いに重なって、やがて一つの大きな流れへ変わっていった。
「戻ってきます」
ノルンの声が、わずかに震えた。
「え?」
「見てください」
大精霊のいる場所から生まれた光が古い伝導路へ入り、今度はアリアたちが送った時とは反対の方向へ進んでいる。
古い井戸から「芽吹くもの」へ届き、そこから「育つもの」へ、さらに「実るもの」へ戻り、そのまま地上の「満つるもの」を目指して上っていく。
行って終わりではなかった。
グラナから大精霊へ届いた力が、今度は大精霊からグラナへ返っていく。
アリアは目を見開き、その流れを頭の中で追った。
地上から始まって、ずっと下まで来た。
大精霊さんへ届いた。
そして今、また上へ戻っていく。
「一周した!」
「はい」
ノルンの顔にも、ようやく笑みが浮かんだ。
「これが『巡る』ということだったんですね」
グラナから大精霊へ。
大精霊から、またグラナへ。
誰かが一方的に力を渡して終わるのではない。町から送った力が大精霊へ届き、そこからまた町へ返され、もう一度全体を巡っていく。
その流れこそが、この場所でずっと続いていた本来の姿だったのだ。
アリアは腕の中のマルルを、思わずぎゅっと抱きしめた。
「みんなの魔力、大精霊さんに届いたんだね」
「そうなの! 大精霊さんからも帰ってきたなの!」
マルルの長い耳が嬉しそうに跳ねる。
その時、突然、大地が大きく震えた。
ゴゴゴゴゴゴ……。
アリアの身体がびくっと固まり、すぐにシリルの腕が伸びてきてアリアとマルルを支えた。
また崩れる。
一瞬そう思った。
けれど、いつもの揺れとは違った。
石が軋む音はしない。どこかが崩れる重たい音も聞こえてこないし、水路の水も暴れていない。
ただ、大地のずっと奥から、一定の間隔で低い音が伝わってくる。
ドクン。
少し間を置いて、もう一度。
ドクン。
町を苦しめていた震えではない。
ずっと動いていなかった何かが、自分の鼓動を思い出したような震えだった。
それに気づいたアリアは、シリルに支えられたまま井戸の奥を見つめた。
「……大精霊さん?」
大地の精霊がゆっくり一歩前へ出た。
その巨大な身体が、わずかに震えている。
「この気配……間違いない」
低い声にも、これまでにはなかったものが混じっていた。
驚きと、長い間待ち続けたものへようやく手が届いたような響きだった。
大地の精霊は井戸の奥へ向かって大きく頭を上げる。
「大精霊様!」
その声が地下いっぱいに響き渡った。
返事はなかった。
けれど、少しして大地の奥から、もう一度はっきりと脈動が返ってきた。
ドクン。
それに合わせて井戸の奥の光がさらに大きくなり、眠っている大精霊の周囲へゆっくり集まり始める。
アリアは腕の中のマルルを抱いたまま、一歩だけ前へ出た。
今度はシリルも止めなかった。
「大精霊さん」
小さく呼びかける。
返事はない。
「起きて」
光が、ゆっくり揺れた。
地上でも、第一層でも、第二層でも、第三層でも、今もきっとたくさんの人が光の行方を待っている。
その人たちが大精霊のことを知っているわけではない。古い石板のことも、この地下深くで誰が眠っているのかも知らず、ただ自分たちの町を何とかしたくて、それぞれがほんの少しずつ力を分けてくれた。
その全部が、ちゃんとここまで届いた。
アリアはそれを長い言葉にする代わりに、ただもう一度だけ呼んだ。
「大精霊さん」
その時、地下深くにいるはずなのに、ふわりと風が吹いた。
アリアの水色の髪が頬へ触れる。
土の匂いがした。
そこへ水の匂いが混じり、さらに雨が上がったあとの草原で嗅いだような、湿った緑の匂いまで流れてきた。
怖いものではなかった。
どこか懐かしくて、胸いっぱいに息を吸いたくなる匂いだった。
アリアは小さく鼻を動かして、それからぽつりと呟いた。
「……春みたい」
その言葉に、ノルンが目を見開いた。
光の向こうで何かが動く。
ほんの少し。
それから、もう一度。
長い眠りの底から、自分の身体の動かし方をゆっくり思い出していくように。
大地の精霊が息を呑んだ。
ルカも何も言わずアリアの隣へ並び、ノルンもシリルも、ただ光の中で目覚めようとしているものを見つめていた。
誰も声を出さない静けさの中で、ノルンの唇だけが小さく動いた。
「流れは巡りて……」
グラナを巡り、大精霊へ届き、そして再び町へ返っていく光が、その身体をやさしく包んでいく。
「眠りを覚ます」
そして。
長い間閉じられていた大地の大精霊の目が、ゆっくりと開いた。




