第54話 巡る光
夕暮れの町で、アリアは「満つるもの」の前に立っていた。
空を染めていた陽はすでに山の向こうへ半分ほど沈み、昼間には古びた石の一部にしか見えなかった彫刻が、傾いた光の中ではかえってはっきりと浮かび上がって見える。
雪。
そこから落ちる雫。
そして、その水を受け止める大きな器。
何百年もの間、町の中にありながら、本当の役目を忘れられていたものだった。
けれど今は、その周りだけではなく、そこから町へ伸びていく石造りの水路に沿って、大勢の人が並んでいる。
水路の脇には、古びた金属が長く続いていた。
これまでなら、補強のために付けられたものだと誰も疑わなかった古い金属板。その下に、町中から魔力を集め、「満つるもの」へ運ぶための道が隠されていた。
「ここでいいの?」
一人の女性が、水路の縁へ手を置きながら尋ねた。
「ああ」
少し離れたところに立っていたシリルが答える。
「水路の縁か、そこを走っている古い金属部分へ触れてくれ。無理に魔力を出す必要はない。ほんの少しずつでいい」
「少しって、どのくらい?」
「疲れたと感じる前に止めていい」
「それなら、俺にもできそうだな」
「わたしもやるよ」
同じような声が、あちらこちらから聞こえてくる。
アリアは「満つるもの」から少し離れ、水路の向こうを見た。
人がいる。
その先にも。
もっと向こうにも。
昼間、アリアたちが町の中を走り回り、一人ずつ声を掛けた人たちだった。その人たちが今度は家族や知り合いへ声を掛け、さらに別の誰かが誰かを呼んでくれた。
気づけば、水路の先が見えなくなるほど遠くまで、人が並んでいる。
「……いっぱい」
思わず声がこぼれた。
「アリアたちが集めたんですよ」
隣にいたノルンが言う。
けれどアリアは、すぐに首を横へ振った。
「わたしたちだけじゃないよ。みんなが、みんなを呼んでくれたんだもん」
「そうですね」
ノルンが微笑む。
最初は、どうしたら大精霊を起こせるのかさえ分からなかった。
古い石板の意味を考え、忘れられていた設備を探し出し、それでも自分たちだけでは魔力が足りないと分かった。
だから町の人たちへ頼んだ。
その頼みが、本当にこんなにたくさんの人へ届いたのだ。
少し離れたところでは、ルカが水路のそばを行ったり来たりしながら、人の位置を確かめていた。
「そこ、ちょっと詰めすぎ! もう少し向こう!」
「坊主、ここでいいか?」
「うん! その金属につながってれば大丈夫!」
「ルカ!」
「何だよ!」
「がんばってー!」
「お前もな!」
返ってきた声に、アリアは思わず笑った。
「マルルもがんばるなの!」
足元を見ると、マルルまで水路の石縁へ小さな前足をぺたりと置いている。
「マルル、出しすぎちゃ駄目だよ?」
「ちょっとだけなの!」
「うん!」
人の位置も整い、みんなが水路へ手を添えた。
いよいよ始められる。
そう思った、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
地面の下から、低い音が響いた。
アリアの笑顔が消える。
足の裏へ伝わってきた震えに、水路の水面が細かく揺れた。町の人たちも話すのをやめ、それぞれが足元へ目を向けている。
まただ。
しかも、さっきより少し大きい。
「……急ごう」
誰かがぽつりと言った。
もう、それに反対する者はいなかった。
シリルがアリアを見る。
「始めよう」
「うん」
アリアは「満つるもの」へ向き直り、ひやりとした古い石へ両手を置いた。
少し離れた水路では、ルカとノルンもそれぞれ手を添えている。マルルも小さな身体を水路へ寄せたまま、じっとしていた。
アリアは一度だけ目を閉じた。
怖くないわけではない。
本当に石板の意味がこれで合っているのかも、自分たちが見つけた古い道が大精霊まで続いているのかも、確かなことは何もない。
それでも、ここまで一つずつ来た。
古い井戸を見つけた。
その下で大精霊が眠っていることを知った。
ノルンが石板の言葉を読み、みんなで意味を考えた。
四つの言葉が季節を表していることに気づき、忘れられていた古い道を見つけた。
そして今、その道へ流す力まで、町のみんなが集めてくれた。
だったら。
「大精霊さん」
アリアは目を閉じたまま、小さく呼びかけた。
「今、届けるからね」
それから目を開き、水路に沿って並ぶ人々を振り返った。
「みんな!」
いくつもの顔が、こちらを見る。
アリアは大きく息を吸った。
「いくよ!」
両手へ意識を集める。
「せーの!」
魔力を流した。
けれど。
すぐには何も起こらなかった。
「…………」
アリアは両手を置いたまま、「満つるもの」を見つめた。
雪の彫刻も。
雫も。
その下の大きな器も。
何も光っていない。
「……あれ?」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
やっぱり違ったのだろうか。
石板の意味を、どこかで間違えたのだろうか。
そう思いかけた、その時。
「あっ!」
水路のずっと向こうから声が上がった。
「光った!」
アリアが勢いよく振り返る。
遠くで、一人の職人が手を置いている古い金属板に、小さな光が生まれていた。
チリッ。
その隣にも。
さらに向こうにも。
「こっちもだ!」
「俺のところも光ってる!」
「見ろ!」
次々に声が上がり、それと一緒に、水路のあちらこちらで小さな光が生まれていく。
アリアは目を見開いた。
一人の手元に生まれた小さな光が、古い金属へ吸い込まれる。
もう一人の光も。
その向こうの光も。
そして、それぞれ違う場所で生まれたはずの光が、水路に寄り添うようにこちらへ向かって走り始めた。
「来る……」
ルカの声が聞こえた。
細いもの。
小さなもの。
淡く白いものもあれば、少し色の違うものもある。
強さも一つずつ違っている。
それでも、その全部が同じ道を走り、途中で別の光と出会うたびに重なって、少しずつ大きくなっていった。
「すごい……」
アリアには、それしか言えなかった。
昼間、自分が声を掛けた人の魔力がある。
その人が呼んでくれた誰かの魔力もある。
名前も知らない人のものだって、きっとたくさん混ざっている。
みんながほんの少しずつ分けてくれた力が、本当に一つの場所へ集まってくる。
そして、最初の光が「満つるもの」へ飛び込んだ。
チカッ。
雪の彫刻の一部が、淡く光った。
「!」
続いて、もう一筋。
また一筋。
水路から届いた魔力が流れ込むたび、雪の模様から雫へ、雫から大きな器へと、古い彫刻の溝が少しずつ光で満たされていく。
「もうちょっと……!」
アリアは石へ手を置いたまま、夢中でその変化を見つめた。
器の底へ、光が溜まっていく。
少しずつ。
少しずつ。
本当に、水が注がれているようだった。
町のどこかから届いた光が一つ加わるたび、器の中の輝きがほんの少し高くなる。
そして。
最後の一筋が、器へ流れ込んだ。
カァッ!
「わっ!」
眩しさに、アリアが思わず目を細める。
次の瞬間、「満つるもの」全体が柔らかな光に包まれていた。
「満ちた……!」
ノルンの声まで弾んでいた。
アリアの胸にも、同じ言葉が浮かぶ。
本当に満ちた。
何百年も眠っていたものが、みんなの力で、今もう一度満たされたのだ。
その直後。
ゴウン……。
足元から、今まで聞いたことのない低い音が響いた。
さっきまでの地鳴りとは違う。
もっと深く、けれど規則正しい。
長い間止まっていた大きな何かが、ようやく動き出した時のような音だった。
アリアが息を呑んだ、その目の前で。
「満つるもの」の下から、一筋の光が地下へ向かって走った。
「行った!」
思わず声を上げる。
「第一層に!」
ところが、光を送り出したあとも、「満つるもの」は暗くならなかった。
雪も、雫も、いっぱいになった器も。
どれも淡く輝き続けている。
ここへ集まったみんなの魔力を、まだその中へ抱えているようだった。
「……消えてない」
シリルが呟く。
アリアも、地下へ消えた光と、今も輝いている彫刻を見比べた。
「次へ行ったのに?」
「ああ」
シリルはしばらく古い設備を見つめてから答えた。
「道全体に魔力を満たしていく仕組みなのかもしれない」
「じゃあ、みんなの魔力、まだここにいるの?」
「ああ。道の中に残りながら、次へつながっていくんだろう」
アリアはもう一度、「満つるもの」へ手を置いた。
その向こうに、さっきまでとは違うものがあるように思えた。
今までただの古い水路だったものが、町の下へ続く一本の道になっている。
そして、その道の中を、自分たちが集めた光が進んでいる。
◇
その頃、第一層でも、人々が水路に沿って光を待っていた。
古い柱に刻まれているのは、たわわに実った果実と、頭を垂れる麦の穂。
「実るもの」。
「まだか?」
「もうすぐ来るはずだ」
誰もが水路の脇を走る古い金属へ目を向けている。
やがて、遠くの暗がりで小さな光が瞬いた。
チカッ。
「……来た」
誰かが息を呑む。
次の瞬間、その光は水路に沿ってこちらへ向かって走り始めた。
「来たぞ!」
声が広がる。
地上から届けられた光が第一層へ入り、そのまま「実るもの」へ飛び込んだ。
果実の一つが、淡く輝く。
「今だ!」
その合図に合わせ、人々が水路へ魔力を流し始めた。
第一層のあちらこちらでも、小さな光が生まれる。
その光は、地上から届いたものと同じ道を走り、「実るもの」へ集まっていった。
地上の人々から届いた光へ、第一層の人々の光が加わる。
果実が一つずつ輝き、麦の穂へも光が広がっていく。
やがて柱全体が淡い光に包まれると、そこへ満ちた光は消えることなく残り、その一部だけがさらに下へ向かって走り始めた。
◇
第二層でも、待っていた人々の間に声が上がった。
「来たぞ!」
地上から第一層へ。
第一層から、さらに下へ。
つながってきた光が、とうとう第二層へ届いたのだ。
そこにあるのは、大きく伸びた枝と、太陽へ向かって広がる葉を刻んだ「育つもの」。
地上と第一層から届いた光がそこへ触れたのを合図に、第二層の人々も魔力を流し始める。
水路のあちらこちらから新しい光が生まれ、先に届いていた光へ重なっていった。
枝が輝く。
葉へ光が広がる。
古びていたはずの彫刻が、内側から少しずつ命を取り戻していくようだった。
その時。
ゴゴゴゴゴゴ……!
「うわっ!」
大きな揺れが第二層を襲った。
水路の水が跳ね、天井から砂や小石が落ちる。
「頭を守れ!」
「気をつけろ!」
驚いた声や悲鳴が響き、人々が身体を支える。
それでも、「育つもの」に灯った光は消えなかった。
揺れの中でも、そこまでつながってきた光は確かに残っている。
「あと少しだ!」
誰かが叫んだ。
「止めるな!」
周囲の人々が、もう一度水路へ手を添える。
残っていた最後の光が古い道を走り、「育つもの」へ飛び込んだ。
カッ!
柱全体が明るく輝く。
そして、その光をその場へ残したまま、新たな一筋が第三層へ向かって走り出した。
◇
第三層では、ガンツたちがその光を待っていた。
「来るぞ!」
声が響く。
整備士と住民たちが集まっているのは、小さな芽や若葉、蕾を刻んだ「芽吹くもの」の周囲だった。
その向こう、水路の脇を走る古い金属の中を、光が近づいてくる。
ガンツは目を離せなかった。
何十年も、この町の設備を見てきた。
水路も。
歯車も。
この古い金属板だって、何度となく点検したことがある。
錆を落としたこともあった。
それなのに、その下にこんな道が隠されていることを、一度も知らなかった。
今、その場所を。
何百年もの時を越えて、魔力が走っている。
「……ったく」
ガンツの口元が、わずかに緩んだ。
「こんなもん隠してやがったのか」
光が「芽吹くもの」へ届いた。
小さな芽が、一つ輝く。
「よし!」
ガンツは水路へ手を置いた。
「俺たちも送るぞ!」
「おう!」
第三層の人々が一斉に魔力を流す。
あちらこちらで光が生まれ、それまで三つの層を巡ってきた光へ加わっていった。
小さな芽へ。
若葉へ。
そして蕾へ。
一つずつ光が宿っていく。
ガンツは息を詰めて見守った。
あと少し。
最後の一筋が水路を走り、そのまま柱へ飛び込む。
最後まで暗かった蕾へ光が届いた。
カァァッ!
第三層が一瞬、昼間のように明るく照らされた。
「やった!」
「満ちたぞ!」
歓声が上がる。
「芽吹くもの」は輝いている。
その光は消えない。
第一層の「実るもの」も。
第二層の「育つもの」も。
そして地上の「満つるもの」も。
四つすべてが光を抱いたまま、地上から第三層までを一本の古い道でつないでいた。
◇
「……きれい」
アリアは「満つるもの」へ触れたまま、そう呟いた。
いつの間にか、夕暮れは夜へ変わり始めている。
その薄暗さの中で、古い設備だけが柔らかな光を放っていた。
水路にも、細い光が残っている。
地面の下へ続いているため、ここから先を見ることはできない。
それでも、アリアには分かる気がした。
この光の先に第一層がある。
その下に第二層があり、もっと下には第三層がある。
今はきっと、そのすべての場所で同じように古い彫刻が光っている。
「全部、つながったんだね」
「ああ」
隣でルカも光る水路を見つめていた。
いつもならすぐにアリアへ何か言うルカも、この時ばかりは珍しく目を輝かせている。
「ほんとに、つながった」
「みんなの魔力なの」
マルルが嬉しそうに言った。
「うん」
アリアは大きく頷いた。
「みんなのだよ」
胸の奥が、じんと熱くなる。
一人ではできなかった。
自分たちだけでも届かなかった。
町の人たちが、一人ずつほんの少し分けてくれたもの。
誰か一人なら小さかった光が、別の誰かの光と重なり、それがまた次とつながって、とうとう町の地上から第三層までを一本につないだ。
その全部が、今このグラナの中で輝いている。
「あとは……」
アリアは足元へ目を落とした。
光の道は、その先へ続いているはずだ。
「大精霊さんに届けばいいんだよね?」
「ああ」
シリルが静かに答えた。
アリアは待った。
第三層まで届いたのなら、きっと次は古い井戸だ。
そこからさらに下へ。
眠っている大精霊のところへ、みんなの光が届く。
そうすれば、大精霊が目を覚ます。
アリアは、そう信じて足元を見つめたまま待った。
けれど、何も起こらない。
「……?」
地面は静かなままだった。
止まった昇降塔が動き始めることもない。
町へ来た時に見た、元気をなくしていた火の精霊たちにも、何かが戻ったような気配はない。
「シリル?」
アリアは不安になって顔を上げた。
「まだなのかな?」
シリルはすぐには答えなかった。
「満つるもの」は今も輝いている。
水路の中にも光が残っている。
集めた魔力は失われていない。
それなのに、大精霊へ何かが届いたような変化だけがない。
さっきまで胸の中いっぱいに広がっていた嬉しさの隙間へ、別のものが入り込んできた。
どうして。
全部、つながったはずなのに。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
「!」
今までよりはるかに強い揺れが、町全体を襲った。
「きゃっ!」
身体を取られたアリアの腕を、ルカがすぐにつかんだ。
「アリア!」
石畳が大きく震え、昇降塔の太い綱が左右へ揺れる。どこか遠くからは、石の崩れる重い音まで聞こえてきた。
アリアはルカの腕へつかまりながら、必死に身体を支えた。
それでも、目の前の「満つるもの」は光っている。
水路の光も消えていない。
町のみんなが集めてくれた魔力は、ちゃんとそこにある。
やがて揺れが収まった。
アリアは乱れた息を整えながら顔を上げた。
光はある。
道もつながっている。
それなのに。
「……どうして?」
小さな声だけが、夜へ変わり始めた町に落ちた。
◇
第三層では、揺れが収まるのとほとんど同時に、整備士の声が響いた。
「親方!」
ガンツが振り返る。
「こっちです!」
声のした方へ走る。
「芽吹くもの」は今も明るく輝き、その先へ続く古い伝導路にも光が残っていた。
整備士の一人が、水路の脇へ膝をついている。
「ここです」
ガンツもその隣へしゃがみ込んだ。
「芽吹くもの」から伸びた光は、確かに先へ続いている。
十歩、二十歩。
さらにその向こうまで。
だが。
「……何だ、これ」
ガンツの顔から、さっきまでの喜びが消えた。
古い金属板そのものは、さらに奥へ続いている。
道は途切れていない。
なのに光だけが、ある場所でぴたりと止まっていた。
まるで、そこに見えない壁でも立っているように。
ガンツは後ろを振り返った。
「芽吹くもの」は光っている。
その向こうには第二層があり、さらに第一層、地上へと道は続いている。
町中から集められた魔力は失われていない。
全部、古い道の中で待っている。
なのに、ここから先だけが暗い。
「図面!」
「はい!」
すぐに古い図面が広げられた。
ガンツはランプを引き寄せ、指で線を追っていく。
第三層。
「芽吹くもの」。
そこから古い井戸へ。
さらに、その下へ。
線は間違いなく続いている。
「道はある……」
低く呟く。
図面の上では、確かにつながっている。
実際の古い金属板も、そこで終わってはいない。
それなのに、魔力だけが先へ行かない。
ガンツは暗くなった先を見つめた。
「だったら、何で通らねえ」
答える者はいなかった。
その先には古い井戸がある。
さらにその下には、眠ったままの大精霊がいる。
町中の人々が力を集めた。
地上から第三層まで、四つの場所もすべてつながった。
本当に、あと少しなのに。
グラナ中から集められた光は、大精霊へ続く最後の道を前にして、そこで止まっていた。




