第53話 古い道
「まず、聞かせてくれ」
シリルはアリアたちを見ながら、静かにそう言った。
「君たちがここへ来て、何を見つけたのか」
「うん!」
アリアは大きく頷いたものの、いざ話そうとして口を開いたところで、そのまま止まってしまった。
グラナへ着いてからだけでも、本当にいろいろなことがあった。
止まってしまった昇降塔を見て、コルの案内で地下へ降りた。第一層では、光る石に照らされた町を見つけ、第二層ではコルの家族と再会し、そのさらに下では、大きな歯車や水路が複雑につながった第三層の心臓部へ入った。
そして、その奥にあった古い井戸。
大地の精霊が「主」と呼んでいた大精霊は、井戸の下で眠ったまま目を覚まさず、そのそばには、ノルンにしか読めない古い文字を刻んだ石板が残されていた。
どこから話せば全部つながるのか、アリアには分からない。
「えっとね……」
しばらく考えた末、アリアは指を一本立てた。
「まず、コルに会ったの」
「そこから?」
すぐ隣からルカの声が飛んできた。
「だって大事だもん」
「大事だけど、そこから話したらものすごく長くなるよ」
「じゃあルカが話して」
「なんで僕になるの」
いつものように始まった二人のやり取りを見て、シリルの口元がほんの少しだけ緩んだ。
王都を出てから三日。
馬を替えながら、ほとんど休むことなくグラナまで追い続けてきた。
間に合わなかったらどうする。
もう手の届かないところまで行っていたらどうする。
そんな考えが何度も頭をよぎった。
その二人が今、目の前で普段と変わらず言い合っている。マルルもその足元にいて、ノルンも変わらぬ様子でそばにいる。
それだけで、胸の奥に張りつめていたものが、ようやく少しだけほどけた。
けれど。
ゴゴゴ……。
足元から伝わってきた低い震えに、シリルの表情はすぐに戻った。
アリアも話を止め、地面へ目を落とす。
揺れそのものは大きくない。
それでも、ここへ来て何度も同じ震えを感じてきたアリアたちには、もう気のせいだと思うことはできなかった。
「場所を変えよう」
「うん」
止まった昇降塔の周りでは、今も大勢の人が動いている。整備士たちは巨大な昇降台や歯車を調べ続け、その周囲には地下へ荷物を送れず困っている商人や職人たちが集まっていた。
落ち着いて話せる場所ではない。
アリアたちはそこから少し離れ、細い水路の脇に低い石縁がある、小さな広場まで移動した。
腰を下ろすと、今度こそアリアたちは、グラナで起きたことを順番に話し始めた。
最初はアリアが思い出した順に話し、途中で話が飛びそうになるたびにルカが補う。地下の設備や、石板に刻まれていた古い言葉については、ノルンが必要なところを説明した。
大地の精霊の身体へ入り込んだ二つ目の欠片を追い、古い井戸まで行ったこと。その井戸の下に、大地の精霊たちの主である大精霊が眠っていたこと。何度呼びかけても、大精霊は目を覚まさなかったこと。
そして、井戸のそばに残されていた石板。
「満つるものは、実るものへ。実るものは、育つものへ。育つものは、芽吹くものへ。芽吹くものは、再び満つるものへ」
ノルンは、そこへ刻まれていた言葉を確かめるようにゆっくりと口にし、最後の一文まで続けた。
「流れは巡りて、眠りを覚ます」
シリルは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「それでね」
アリアが少し身を乗り出す。
「コルのお母さんが、昔のお話を知ってたの」
「大地の四つの恵み、という昔話です」
ノルンが続けた。
「芽吹く春。育つ夏。実る秋。そして、雪や水によって大地が満たされる冬。それぞれが石板に使われていた言葉と重なっていました」
「でも、並び方が反対だったんだ」
ルカは石縁の上へ指で順番をなぞっていく。
「石板は、満つる、実る、育つ、芽吹く。つまり冬から秋、秋から夏、夏から春へ戻っていく順番になってる」
「季節を逆にたどっているのか」
シリルが低く呟いた。
「うん。それでね」
アリアは自分の膝に置いた手を見ながら、ここまで何度も考えてきたことを思い出した。
「何を反対に巡らせるのかなって、ずっと考えたの」
最初は水かもしれないと思った。
石板には「流れ」と書かれているし、グラナの地下にはたくさんの水が流れている。
けれど、水は実らない。
育たない。
芽吹くこともない。
なら、流れるものは水そのものではないのかもしれない。
大地から受け取ったものを、今度は逆に大地へ返していく。
そんなふうに考えていった時、一つだけ思いついたものがあった。
「たぶん……魔力なんじゃないかなって」
シリルの目が、わずかに細くなった。
「魔力?」
「はい」
ノルンが頷く。
「地下河川の水そのものは流れています。昇降塔や心臓部の設備にも、これほど大きな異常を起こす破損は見つかっていません。それでも、グラナでは魔道具や設備が次々に正常に働かなくなっています」
「地上の火の精霊さんたちも、元気なかったの」
アリアは、グラナへ入った時に見た小さな火の精霊たちを思い出した。
いつもなら炎のそばで楽しそうに動いているはずなのに、あの日はみんな火へ寄り添うように身体を小さくしていた。
「だから、大精霊さんがずっと眠ったままで、大地を巡ってた魔力がちゃんと流れなくなってるんじゃないかなって思ったの」
言い終えると、アリアは少しだけ不安そうにシリルを見た。
ここまで自分たちで考えてきた。
けれど、本当に合っているのかは分からない。
シリルはすぐには答えなかった。
王都でアルディオンから聞いた、大精霊についての話を思い返している。
グラナの地下を巡る魔力と水脈。
大地そのものの安定。
そして、それを長い時間をかけて整えている大精霊。
王から聞いた話と、アリアたちが実際に見てきた異変を一つずつ重ねていくと、やがてシリルはゆっくり頷いた。
「その考えは、おそらく合っている」
「ほんと!?」
アリアの顔が一気に明るくなる。
「ああ。王から聞いた話では、大地の大精霊は、ただ土や岩を守るだけの存在ではないそうだ。地下を巡る水や、大地に満ちる魔力、それに地盤そのものまで、長い時間をかけて均衡を保っていると伝えられている」
「やっぱり……」
ノルンが小さく息を吐いた。
自分たちだけでは仮説でしかなかったものへ、王家に残る話が重なった。
「じゃあ」
アリアは嬉しさのまま立ち上がりかけた。
「魔力をちゃんと巡らせたら、大精霊さんを起こせるかもしれない!」
「可能性はある」
「やった!」
「ただし」
その一言で、喜びかけたアリアの動きが止まる。
シリルは足元へ目を向けた。
この下には第一層があり、そのさらに下には第二層、第三層が続き、もっと深いところには大精霊が眠っている。
「問題は、どうやってそこまで魔力を届けるかだ」
「……だよねぇ」
アリアの肩が、また少し下がった。
地上からそのまま魔力を投げれば届くような距離ではないし、ただ地面へ流し込めばいいとも思えない。
けれど、今度はルカが顔を上げた。
「でも、だから僕たち、ここまで戻ってきたんじゃない?」
「あっ」
アリアも思い出した。
白いポシェットへ手を入れ、中から折り畳んだ紙を取り出す。
「これ!」
開いた紙には、ガンツが描いてくれた簡単な地図があった。
「ガンツさんが教えてくれたの。地上に、ものすごく昔から残ってる設備があるって」
シリルも地図をのぞき込む。
「設備?」
「今も使ってるんだけど、本当は何のために作られたのか、もうよく分からないくらい昔からあるんだって」
アリアは地図の一点を指さした。
「ここ!」
◇
地図を頼りに町を進み、大通りから外れて岩山の斜面へ近づいていくと、工房から響いていた金槌の音や人々の声が少しずつ遠くなっていった。
代わりに耳へ届くようになったのは、あちこちの水路を流れる水の音だった。
岩山に沿って作られた石の水路を、澄んだ水が絶えず流れている。
「こっちだよね」
アリアは何度も地図と周囲を見比べながら進み、やがていくつもの水路が集まる場所へ出たところで足を止めた。
「あれ?」
岩壁を背にして、古びた石造りの設備が一つ残っている。
アリアが想像していたものとは、ずいぶん違った。
「これ?」
地図を見る。
目の前を見る。
もう一度地図へ戻る。
「……これだと思う」
ルカも紙を横からのぞき込んだ。
「でも」
アリアは少し不満そうに首を傾げた。
「普通だね」
「何を期待してたの?」
「もっと、こう……どーんってしてるの」
両手をいっぱいに広げるアリアを見て、ルカはますます分からないという顔をした。
そこにあったのは、大きな石造りの水受けだった。
高さは大人の胸ほどあり、中央には大きな器のような窪みがある。その底へは地下から伸びた太い管がつながり、そこから澄んだ水が絶えず送り込まれていた。
「湧いてる?」
アリアがのぞき込む。
「いいえ。下から管を通して送られてきています」
ノルンも隣へ来て、中を確かめた。
地下から届いた水は一度大きな石の器へ集まり、いっぱいになると、その縁近くに作られたいくつもの溝から別々の水路へ流れ出していく。
「地下河川の水を、ここで一度受けているのでしょう。それから町の各所へ分けているようですね」
「お水のお皿なの!」
マルルが嬉しそうに言った。
「大きすぎるよ」
「いっぱい飲めるなの」
「飲んじゃ駄目だからね」
アリアは笑った。
けれど、そのまま水の流れを眺めているうちに、笑顔が少しずつ消えていった。
下から届いた水が、器へ入ってくる。
少しずつ。
少しずつ水面が上がり。
やがていっぱいになった水が、いくつもの溝を通って町へ流れ出していく。
「……いっぱいになる」
「え?」
ルカが振り返った。
アリアは水面から目を離さない。
「ここ、お水が満つるところだ」
その言葉に、ノルンの表情が変わった。
「アリア。少し待ってください」
ノルンは水受けの側面へ近づき、長い間水にさらされてきた石へそっと手を触れた。
何度も修繕され、角が削れ、ところどころ色まで変わっている。
けれど、その表面を指でなぞっていたノルンの手が途中で止まった。
「……あります」
「なにが?」
「模様です」
アリアとルカもすぐに近寄った。
初めは、ただの細かな傷にしか見えなかった。
けれど、表面の汚れを払い、見る角度を変えると、その下から薄い彫刻が少しずつ浮かび上がってくる。
幾重にも広がる波紋。
上から落ちる小さな雫。
そして、その周囲には雪の結晶にも見える細かな模様が残されていた。
「これ……冬?」
アリアは傷つけないよう、指先でそっと線をたどった。
「そう見えます」
ノルンが答える。
シリルも設備全体を見回した。
「満つるもの……か」
その一言で、誰もすぐには話さなくなった。
さらさらと水だけが流れている。
地下から地上へ届いた水は、ここで一度器を満たし、そのあと町の中へ分かれていく。
今まで誰も気に留めなかったほど当たり前に。
おそらく、ずっと昔から。
「これが……石板の最初の場所なの?」
アリアが石造りの水受けを見つめながら尋ねた。
「まだ断定はできません」
ノルンは慎重に答えたものの、その声にはこれまでになかった手応えがあった。
「ですが、石板の『満つるもの』という言葉と、この場所の役割、それに冬を思わせる模様まで重なっています。偶然とは考えにくいですね」
ルカもしゃがみ込み、設備の下や水を送っている管を確かめた。
「でも、魔力を巡らせるなら……どこから入れるんだろう」
その問いには、誰も答えられなかった。
水を送る管はある。
町へ分ける水路もある。
けれど、魔力を送り込むための場所らしいものは見当たらない。
「ここかな」
アリアが水受けへ両手を置こうとする。
「待て、アリア」
すぐにシリルの声が飛んだ。
「まだ何もしてないよ?」
「今からしようとしていただろう」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとをやめなさい」
「むぅ」
口を尖らせた、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……!
大地が、それまでより大きく揺れた。
「わっ!」
水受けの水面が一気に波立ち、縁を越えた水が石の上へあふれ出す。
アリアは慌てて一歩下がり、ルカがすぐに腕へ手を伸ばした。
「アリア!」
「大丈夫!」
足元を確かめながら答える。
岩山からは小さな石がぱらぱらと落ち、町の方からも驚いた人々の声が聞こえてきた。
今までより明らかに強い。
やがて揺れは収まったものの、誰もすぐに安心することはできなかった。
「急いだ方がいい」
シリルの低い声に、アリアも黙って頷いた。
◇
同じ頃。
地下第三層では、ガンツたち整備士が止まり始めた設備の間を走り回っていた。
巨大な歯車、水車、水路、それらをつなぐ軸。
普段なら一つの仕組みとして動いているものが、どこか一つではなく、あちらこちらで少しずつ噛み合わなくなり始めている。
「こっちを止めろ! 圧が逃げてる!」
「止めています!」
「まだ落ちてるぞ!」
「水門は閉じています!」
飛び交う声の中で、ガンツは額の汗を腕で拭い、目の前の設備を睨んだ。
おかしい。
朝から何度、その言葉を頭の中で繰り返したか分からない。
一つを調べている間に、別の場所がおかしくなる。直ったと思った場所でも、その先へ力が伝わらない。
設備そのものが壊れているようには見えない。
水も流れている。
それなのに、グラナという大きな町を動かしていた何かだけが、少しずつ抜け落ちていくようだった。
「ガンツ!」
呼ばれて振り返ると、仲間の整備士が古い水路の脇で手を振っていた。
「こっちを見てくれ!」
ガンツが駆け寄ると、整備士は水路の側面へ取り付けられた細長い金属板を指した。
黒ずみ、ところどころ錆の浮いた古い板だ。
「これがどうした?」
「俺たち、ずっと補強板だと思ってただろ」
「ああ」
「でも見ろ」
指された先を見ると、金属板と石壁との間に、ごく細い隙間がある。
「……浮いてる?」
「ああ。腐食かと思ったんだが、向こうも、その先も同じだ」
水路に沿って並ぶ金属板は、どれも石へ密着して補強しているようには見えない。
「最初から、この形だったのか……?」
「たぶんな。それだけじゃない」
整備士は板の表面へ付いた泥を布で拭き取った。
その下から現れたのは、ただの傷ではなかった。
細い線が一本。
その隣にもう一本。
さらにいくつもの線が、一定の規則を持って金属板の表面を走っている。
「……何だ、これ」
「分からん。それで古い図面を持ってこさせた」
ほどなくして別の整備士が紙束を抱えて走ってきた。
「ありました!」
床へ広げられた図面を、ガンツたちは膝をついてのぞき込んだ。
現在使われている図面。
その元になった古い写し。
さらにその前の、長い年月で端が傷んだ図面。
「ここだ」
水路に沿って、今の図面にはほとんど意味を持たないような細い線が描かれている。
「第一層にもある」
「第二層にも……」
ガンツは図面をめくりながら、その線を追った。
それぞれの階層でいくつかに枝分かれしながらも、線は必ず古い石柱へ集まっている。
「第三層は、この柱か」
「ああ」
「第二層も同じだ」
「第一層も……」
ガンツの指がそこで止まった。
ずっと地下都市を支えるための柱だと思っていた古い石柱。
そのすべてへ、水路脇の金属板から続く細い線が集まっている。
「補強板じゃない……」
誰かが呟いた。
ガンツは答えず、さらに図面の先を追った。
第三層から第二層へ。
第二層から第一層へ。
そして。
「待て」
「どうした?」
「この線……まだ上へ続いてる」
古い図面の端は傷み、ところどころ消えかかっている。
それでも線は、第一層で終わらず、その先まで伸びていた。
地上へ。
そして、一つの場所へ。
ガンツの目が大きくなる。
そこには見覚えがあった。
今朝。
アリアたちへ地図を書き、教えたばかりの場所。
「……地上の配水設備」
◇
「くしゅん!」
大きなくしゃみをしたアリアに、ルカが呆れたような顔を向けた。
「水かぶったからだよ」
「ちょっとだけだもん」
「ちょっとでも濡れたら冷えるでしょう」
「もう乾いてきたよ」
そう言いながら服の裾をつまむと、ぽた、と小さな水滴が落ちた。
「乾いてないね」
「むぅ」
結局、地上の古い設備が、石板に刻まれていた「満つるもの」である可能性はかなり高くなった。
けれど、肝心のその先が分からない。
魔力をどこへ入れるのか。
どうすれば、はるか地下に眠っている大精霊まで届けられるのか。
ノルンは水受けの周囲を歩きながら、何度も石の表面や地面を確かめていた。
「どこかに、続いているものがあるはずです。水ではなく、魔力を運ぶための何かが」
「管?」
「その可能性もあります」
「でも見えないね」
「地下へ埋まっているのかもしれません」
シリルも、岩山とその先の町を見渡した。
この地上の下には、第一層、第二層、第三層と巨大な地下都市が広がっている。
もし本当に、ここから大精霊の近くまで何かを運ぶ仕組みが昔から作られていたのだとすれば、それは一つの魔道具というより、グラナという町そのものを使った巨大な仕組みになる。
「これだけの規模なら、一人や二人のために使うものではないのかもしれない」
シリルの言葉に、アリアが振り返る。
「いっぱい必要?」
「分からない。ただ、町全体へ魔力を巡らせるためのものだとすれば……」
そこで。
「おーい!」
遠くから声がした。
全員が振り返る。
坂道を、作業着姿の男が息を切らしながら駆け上がってきていた。
「ガンツさんから!」
アリアたちの前まで来ると、男は膝へ手をついて何度か大きく息をし、それから脇へ抱えていた図面を広げた。
「第三層から伝言だ。古い水路の横にある金属板、あれは補強材じゃない!」
「え?」
「第一層も、第二層も、第三層も、全部つながってる!」
ノルンとシリルがすぐに図面をのぞき込む。
「この線だ」
整備士の指が図面の上を走った。
「各階層にある古い柱へ集まって、それから上まで続いてる」
「上?」
ルカも横から線を追った。
第三層から第二層へ。
第二層から第一層へ。
そのまま、さらに地上まで。
「あ……」
アリアの目がゆっくりと大きくなった。
図面の線が終わっている場所。
そこは。
「ここ……」
アリアが指を置いた。
「ここだ」
ルカも気づいた。
全員の視線が、一斉に石造りの水受けへ向く。
地下から届く水を受け。
一度その中を満たし。
いくつもの水路へ分けて、町へ送り出している古い設備。
「つながってる……」
アリアが小さく呟いた。
ノルンは図面を持ったまま水受けへ近づき、もう一度そこに刻まれた模様へ手を触れた。
水。
雫。
雪。
そして、水で満たされる器。
けれど図面には、水路とは別に、この場所から地下の深いところまで伸びていくもう一本の経路が描かれている。
「この設備から第三層まで、水路とは別の道が通っています」
「でも、何のためのものなんだ?」
整備士が尋ねる。
ノルンはすぐには答えなかった。
地上から地下へ。
満つるものから。
実るものへ。
育つものへ。
そして、芽吹くものへ。
「……魔力」
小さな声だった。
けれど、アリアにははっきり聞こえた。
「これが、魔力を巡らせるための道なのではないでしょうか」
「これが?」
整備士が図面を見つめる。
「じゃあ俺たちは何百年も……魔力を通す道を、補強板だと思ってたのか」
誰も笑わなかった。
あり得ない話には思えなかった。
あまりにも古い。
最初に使い方を知っていた者たちは、もう誰もいない。
けれど設備そのものは必要なものとして残され、壊れれば直され、意味を知らないまま使われ続けてきたのだろう。
水路として。
地下を支える柱として。
そして、その奥に隠された本当の役割を忘れたまま。
「じゃあ……」
アリアの声が少し震えた。
怖かったわけではない。
ずっと見えなかったものが、ようやく一本の道になろうとしている。
「ここから魔力を入れたら、この道を通って第一層へ行って、それから第二層、第三層まで届くの?」
ノルンが図面と石板の言葉を見比べた。
「満つるものから実るものへ。実るものから育つものへ。そして、育つものから芽吹くものへ……」
そこで息をのむ。
「石板と同じ順番です」
アリアも、もう一度頭の中で言葉をたどった。
満つるもの。
実るもの。
育つもの。
芽吹くもの。
そして最後に、流れは巡りて眠りを覚ます。
「これだ……」
ルカの声にも、ようやく答えへ触れた手応えが混じっていた。
「これだったんだ」
アリアは胸の前で両手を握った。
「じゃあ、大精霊さんを起こせる!」
「待て」
シリルの声が、すぐにアリアを止める。
「え?」
今にも石へ触ろうとしていたアリアが振り返った。
「まだ一つ、問題がある」
「なに?」
「魔力だ」
シリルは図面へ目を落とした。
地上から第一層へ。
さらに第二層、第三層まで続く、町を縦に貫くほど大きな仕組み。
「……わたしのじゃ、足りない?」
「試していない以上、断言はできない。だが、これだけのものを六歳の君一人で動かそうとするのは駄目だ」
「僕もやる」
ルカがすぐに言う。
「わたしも」
ノルンも続いた。
「マルルもなの!」
シリルは三人と一匹を順番に見てから、首を横へ振った。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ?」
シリルは町の方へ顔を向けた。
工房。
店。
家。
止まったままの昇降塔。
その周りで、今も何とか動かそうと働いている人々。
「グラナを助けるんだろう?」
「うん」
「なら、グラナの人たちにも手伝ってもらえばいい」
「みんなに?」
「ああ」
アリアは目を瞬いた。
「でも、そんなにいっぱいの人に……」
「そのために、俺が来た」
シリルはそう答えると、伝言を持ってきた整備士へ向き直った。
「第三層へ戻れるか?」
「ああ」
「ガンツへ伝えてくれ。図面にある各階層の柱が本当にこの経路とつながっているか、すぐに確認してほしい。それから、地下の住民にも事情を伝えられる者を集めてくれ」
「分かった」
整備士は図面を丸めると、来た道を急いで戻っていった。
それを見送ったシリルは、今度はルカへ目を向ける。
「ルカ。地上の人たちへ話をする。手を貸してくれ」
「うん」
「ノルンは、今分かっている仕組みを、できるだけ分かりやすく説明できるようにしてほしい」
「やってみます」
「マルル」
「なの?」
「アリアを見ていてくれ」
「任せるなの!」
「なんで!?」
アリアが頬を膨らませた。
「わたしだって何かする!」
「だからだ」
「え?」
「君には、一番大事なことをしてもらう」
その言葉を聞いた途端、アリアの顔がぱっと戻った。
「なに?」
「みんなに頼むんだ」
「……わたしが?」
「ああ」
シリルはもう一度、町を見た。
「これは騎士団が命令してやらせることじゃない。自分たちの町を助けるために、力を貸してほしいと頼むんだ」
アリアはしばらく黙って、その先に広がるグラナを見た。
動かない昇降塔。
運べずに積み上がっていた荷物。
仕事ができず困っていた職人たち。
地下にはコルやルルがいて、コルのお母さんがいる。
さらにその下では、ガンツたちが今も町の設備を守ろうとしている。
ここには、たくさんの人が暮らしている。
「……うん」
アリアはしっかり頷いた。
「わたし、お願いする」
◇
最初に向かったのは、昇降塔の前だった。
「すみませーん!」
小さな身体から出たとは思えないくらいよく通る声に、何人もの職人が振り返った。
「お願いがあります!」
アリアはそのまま勢いよく話し始めた。
「大精霊さんが寝ちゃってて、魔力が巡らなくなって、それで冬から秋へ戻って、地下に古い道があって……」
「アリア」
ルカが肩をつかんだ。
「それじゃ分からない」
「えぇっ」
「私から説明します」
ノルンが隣へ出て、石板に刻まれていた言葉と、地上から地下まで続いている古い経路について、できるだけ簡単に説明していった。
職人たちはしばらく黙って聞いていた。
「つまり……」
一人が確認するように言う。
「その古い仕組みへ、俺たちの魔力を流したいってことか?」
「うん!」
そこならアリアにも答えられる。
「ちょっとずつでいいの!」
それでも、すぐに全員が頷いたわけではなかった。
本当にそれで昇降塔が動くのか。
本当に大精霊が目を覚ますのか。
そもそも、自分たちが今まで知らなかった古い仕組みに魔力を流して大丈夫なのか。
迷うのは当然だった。
アリアにも、それは分かる。
絶対にできるとは言えない。
自分たちだって、ようやくここまでたどり着いたばかりだ。
だからこそ、分からないものを分かったように言うのではなく、アリアは一人ずつ職人たちの顔を見た。
「絶対できるって、まだ分かんないの」
職人たちも黙ってアリアを見る。
「でも、このままだと地下のみんなが危ないの」
コルの顔が浮かんだ。
家へ帰れて嬉しそうにしていた顔。
ルルがお兄ちゃんへ抱きついていた姿。
仕事だからと第三層へ残ったガンツ。
「だからお願いします」
アリアは深く頭を下げた。
「グラナを助けるために、力を貸してください」
しばらくの間、誰も話さなかった。
やがて、一人の職人が口を開く。
「……少しずつでいいんだな?」
アリアが勢いよく顔を上げた。
「うん!」
「なら、俺の分を使ってくれ」
「俺もだ」
「工房の連中にも声を掛けてくる」
「ほんと?」
「ああ。俺たちの町だろ」
「ありがとう!」
アリアの顔が一気に明るくなった。
そこから先は、アリアたちだけが走り回る必要はなくなっていった。
話を聞いた職人が仲間へ伝え、商人が市場へ向かい、昇降塔の前にいた人々も別の場所へ知らせに走る。
一人へ話したことが、その人から次の人へ渡され、そこからさらに別の誰かへ広がっていった。
それでもアリアは、じっとしていられない。
「次、あっち!」
ルカが人の集まっている場所を見つける。
「うん!」
「マルルも行くなの!」
アリアがお願いし、詳しい説明が必要になればノルンが補う。ルカは次に向かう場所を探し、シリルも少し離れたところで大人たちへ事情を伝えていった。
自分たちだけで始めたはずなのに、気づけば町のあちこちで、同じ話が交わされるようになっていた。
その時。
ゴゴゴゴゴ……!
また大地が大きく揺れた。
「きゃっ!」
アリアの身体が傾き、すぐにルカが腕をつかむ。
建物の壁から小さな石片が落ち、通りにいた人々も足を止めて身を低くした。
けれど、揺れが収まった時。
「急ごう!」
誰かの声が上がった。
「地下にも知らせろ!」
「俺は仲間を呼んでくる!」
「市場の方にも伝えてくれ!」
人々が一斉に動き始める。
アリアは目を大きくした。
もう、自分が一人ずつお願いして回らなくてもいい。
職人が仲間を呼び、商人が隣の店へ声を掛け、話を聞いた人がそのまた先へ伝えている。
グラナの人たち自身が、自分たちの町を守るために動き始めていた。
「アリア!」
少し先からルカが呼ぶ。
「まだ行くよ!」
「うん!」
アリアも走り出した。
大精霊はまだ眠っている。
魔力も、まだ巡っていない。
けれど、それより少し先に、この町を助けたいと思う人たちの気持ちが、グラナの中をつながり始めていた。
◇
その頃、地下でも準備が進められていた。
第一層では、整備士たちが長い間、地下都市を支えるためだけのものだと思ってきた古い柱の汚れを落としていた。
その下から現れたのは、重たげに枝を垂らすたくさんの果実だった。
石板の言葉に重ねれば、それは「実るもの」。
第二層に残された古い柱には、大地へしっかりと根を張り、葉を大きく広げた木が刻まれていた。「育つもの」を思わせる印だった。
そして第三層。
心臓部の奥にある柱から現れたのは、硬い土を押し上げ、小さな双葉が顔を出す姿だった。
「芽吹くもの」。
地上の水受けには、水と雪、それに満ちる器の模様が残されている。
「満つるもの」。
四つの場所に。
四つの印。
そして、それぞれの間には、長い年月の中で役割を忘れられていた古い経路が確かにつながっていた。
◇
日が傾き始める頃には、地上の古い配水設備の周りへ大勢の人が集まっていた。
職人もいる。
商人も。
整備士も。
店で働いていた者や、話を聞いて家から出てきた者もいる。
ここで生まれ、ここで暮らしてきたグラナの人々が、古い石造りの設備を囲むように集まっていた。
本当にこれでうまくいくのか、誰にも分からない。
隣の者と不安そうに話している人もいるし、古い設備を何度も見上げている人もいる。
それでも、帰っていく者はいなかった。
「第一層、準備できたそうです!」
伝令が走ってくる。
少し遅れて、別の者も駆け込んできた。
「第二層も配置につきました!」
さらにしばらくして。
「第三層も準備が整った!」
その報告を聞いた瞬間、アリアの胸がどくんと大きく鳴った。
古い井戸へ行き。
石板の言葉を読んでもらい。
意味が分からなくて、みんなで考えた。
コルのお母さんから昔話を聞いて、四つの言葉が季節を表していることに気づいたのに、今度はその順番が逆だと分かって、また答えが遠くなった。
それでも諦めずに探し続け、ガンツたちが見つけてくれた古い図面と、自分たちが地上で見つけた設備がようやく一つにつながった。
ようやく、ここまで来たのだ。
隣へシリルが立つ。
「怖いか?」
聞かれて、アリアは少し考えた。
「……ちょっと」
「そうか」
「でもね」
目の前の古い設備へ目を向ける。
水は今も変わらず流れている。
地下から地上へ届き、大きな器を満たし、そこからいくつもの水路へ分かれて町の中へ進んでいく。
何百年も。
もしかしたら、それよりずっと長い間。
本当の役目を知っている人がいなくなっても、この場所はずっと残されてきた。
「やってみたい」
アリアは静かに言った。
「大精霊さん、ずっと待ってるかもしれないから」
シリルが頷く。
「ああ」
アリアは一歩、石造りの設備へ近づいた。
すると、その後ろからグラナの人々も少しずつ動き始めた。
一人。
そして、もう一人。
誰かに言われて並ぶのではなく、自分たちから古い設備のそばへ集まってくる。
ノルンはガンツたちから届いた古い図面を手にしていた。
ルカはアリアのすぐ隣へ立ち、マルルも長い耳をぴんと立てながら、満々と水をたたえた石の器を見つめている。
そして、その足元よりはるか深い地下でも。
第一層。
第二層。
第三層。
それぞれの古い柱の前で、同じようにグラナの人々が待っている。
本当に魔力が流れるのか。
第三層まで届くのか。
その先で眠っている大精霊を、目覚めさせることができるのか。
まだ誰にも分からない。
それでも、分からないから何もしないのではなく、今の自分たちにできることをやってみる。
アリアは水を満たした古い石の器へ近づくと、今度は勝手に手を伸ばさなかった。
一度シリルを見る。
それからノルンを見る。
二人が静かに頷いたのを確かめて、ようやくアリアは石へそっと手のひらを置いた。
ひんやりとした感触が、手の中へ伝わってくる。
何百年ものあいだ、水を受け続けてきた石。
その下には、今まで誰にも気づかれないまま残されていた、地下へ続く古い道がある。
アリアは一度だけ息を吸った。
「……始めよう」
長い時間の中で、本当の役目を忘れられていたグラナの古い道へ。
もう一度、大地を巡るものを返していくために。
お読みいただきありがとうございます♪
本日は少し張り切って、投稿します。
本文は出来てるので挿絵の進み具合次第ですが、グラナ編最後まで行けるかな?




