第51話 巡るもの
ゴゴゴゴ……。
低い音が、地下の奥から響いていた。
ほんの少し前までなら、水車の音に紛れて気付かなかったかもしれない。けれど一度、それが地面そのものの震えだと知ってしまうと、足の裏へ伝わるわずかな揺れまで気になった。
アリアは橋の上で立ち止まり、そっと足元を見下ろした。
石造りの橋の下では、地下河川が変わらず流れている。
水は澄んでいた。
流れも止まっていない。
さっきまでと何も変わらないように見えるのに、水面には細かな波紋がいくつも生まれ、重なり合いながら消えていった。
「……また、揺れたね」
隣にいたルカが、小さくうなずく。
「ああ」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
少し離れたところでは、ガンツたち整備士が動かなくなった歯車を囲んでいる。
「軸をもう一度見ろ!」
「第三水路の水門はどうなってる!」
「駄目です! 開閉機が反応しません!」
あちこちから声が飛び交っていた。
走る足音。
工具がぶつかる金属音。
水車の回る音。
古い井戸へ向かう前には、ここまで慌ただしくなかった。
ほんの短い間に、何かが確実に悪くなっている。
アリアは胸の前で、ぎゅっと手を握った。
古い井戸の下で眠っている、大地の精霊たちの主。
トカゲさんが何度呼んでも、大精霊さんは返事をしなかった。
そして、あの石板。
『満つるものは、実るものへ。
実るものは、育つものへ。
育つものは、芽吹くものへ。
芽吹くものは、再び満つるものへ。
流れは巡りて、眠りを覚ます』
ノルンのおかげで、文字を読むことはできた。
けれど。
何をすればいいのかは、誰にも分からない。
「アリア」
声を掛けられ、アリアは顔を上げた。
ガンツがこちらへ歩いてくる。
作業着にはさっきまでなかった黒い汚れが増え、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「すまないが、俺はここに残る」
アリアは心臓部を見回してから、もう一度ガンツを見る。
「お仕事?」
「ああ」
ガンツはうなずいた。
「今止まっているのは、さっきの歯車だけじゃない。第三水路の水門まで動かなくなった」
腰に下げた工具袋へ手を添え、険しい顔で設備を振り返る。
「このままどこまで広がるか分からん。原因が分からなくても、俺たちは少しでも設備を動かせるようにしておかないといけない」
「……そっか」
アリアは小さく唇を結んだ。
ガンツがいなくなることが怖いわけではない。
けれど、古い井戸まで一緒に来てくれた大きな背中がここに残ると聞いた途端、自分たちだけで考えなければならないことが、急に増えたような気がした。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
ガンツは少しだけ表情をやわらげると、大きな手をアリアの頭へぽんと乗せた。
「そんな顔をするな」
「だって……」
「何も、お前たちだけで答えを見つけろと言ってるわけじゃない」
アリアが顔を上げる。
「え?」
「もう古い井戸には行ってきただろう。大精霊が眠っていることも分かった。今必要なのは、あの石板が何を伝えようとしているのかを考えることだ」
ガンツはノルンを見る。
「文章は覚えているか?」
「はい」
ノルンは迷わずうなずいた。
「すべて覚えています」
「なら、一度家へ戻ってくれ」
「家に?」
ルカが聞き返した。
「ああ。コルにも聞いてみるといい」
ガンツは古い井戸のある方向へ目を向けた。
「あいつはこの地下で育った。俺たち大人が気にも留めていない昔話を、子ども同士で聞いていることもある」
それから少し考え、続ける。
「母さんも、この辺りに伝わる昔話や言い伝えなら、俺よりずっと詳しい」
「お母さんも?」
「ああ」
アリアの表情が少し明るくなった。
分からないことを、知っているかもしれない人がいる。
それだけで、真っ暗だった道の向こうに小さな灯りが見えたような気がした。
けれどガンツは、すぐに真剣な顔へ戻った。
「ただし」
低い声に、アリアの背筋がぴんと伸びる。
「何か分かったとしても、お前たちだけで勝手に井戸へ戻るな」
「……はい」
「返事が早いな」
「ちゃんと守るもん」
「そうか」
ガンツは一瞬だけアリアを見つめ、それからルカへ視線を移した。
ルカは何を言われるのか分かったらしく、小さくうなずく。
「ぼくも見てる」
「頼む」
「でも」
ルカは心臓部を見回した。
「ガンツさんは大丈夫なの?」
「俺か?」
「また揺れるかもしれない」
ガンツは少し意外そうに目を瞬かせた。
それから、静かに答えた。
「だから残るんだ」
ルカは黙った。
「ここには俺だけじゃない。何十年もこの設備を見てきた整備士がいる。俺たちが逃げたら、下の町を守る奴がいなくなる」
その言葉を聞いて、アリアはようやく分かった。
自分たちには、自分たちのやることがある。
ガンツたちにも、ガンツたちにしかできないことがある。
どちらか一つだけでは、きっと駄目なのだ。
「分かった!」
アリアはしっかりとうなずいた。
「わたしたち、石板の意味を探してくる」
「ああ」
「ガンツさんは、ここをお願いね!」
「任せろ」
今度こそ、ガンツは笑った。
その時。
ガコンッ!
心臓部の奥から、大きな音が響いた。
「!」
全員が振り返る。
「第四水路、流量が落ちています!」
「何だと!?」
整備士の声が飛ぶ。
ガンツの表情が一瞬で変わった。
「行け」
短い言葉だった。
アリアも、もう聞き返さなかった。
「うん!」
ルカとノルンも走り出す。
マルルがアリアの腕の中から後ろを振り返った。
けれど、ガンツはすでにこちらを見ていない。
「水門を手動で開けるぞ!」
「補助軸を回せ!」
工具を手に、仲間たちのもとへ駆けていく。
その大きな声を背中に聞きながら、アリアたちは心臓部をあとにした。
◇
長い階段を上りながら、誰もほとんど話さなかった。
来る時には階段の数を数えていたアリアも、今はそんなことをする余裕はなかった。
一段。
また一段。
石段を上るたび、心臓部の音が少しずつ遠くなっていく。
けれど静かになればなるほど、アリアの頭の中では、あの石板の言葉が大きくなった。
満つるものは、実るものへ。
実るものは、育つものへ。
育つものは、芽吹くものへ。
芽吹くものは、再び満つるものへ。
流れは巡りて、眠りを覚ます。
「……分かんない」
とうとうアリアがつぶやいた。
前を歩いていたルカが振り返る。
「何が?」
「全部」
アリアは困ったように眉を下げた。
「お水だったら、流れるって分かるの」
「うん」
「でも、お水って実る?」
「……実らないな」
「育つ?」
「育たない」
「芽も出ないよ?」
「出ない」
アリアは、むむむ、と眉間へ力を入れた。
「じゃあ、お水じゃない」
前を歩いていたノルンが、その様子を見て小さく笑った。
「でも、一つ分かりましたね」
「え?」
「『流れ』と書いてあるからといって、水とは限らない、ということです」
アリアは足を止めた。
「……そっか」
ルカも立ち止まり、ノルンを見る。
「じゃあ、何が流れるんだ?」
「それを、これから探すんです」
ノルンはそう答えながらも、どこか考え込んでいた。
読める。
言葉の意味も分かる。
なのに、答えへ届かない。
それが、ひどくもどかしかった。
あの文字を知っている。
あの言葉も知っている。
自分の中のどこかには、もっと多くのことが眠っている気さえする。
それなのに、手を伸ばそうとすると、霧の向こうへ隠れてしまう。
古い木箱の中で目覚めるより前。
自分は何を知っていたのだろう。
どこで、あの文字を覚えたのだろう。
「ノルン?」
アリアの声で、ノルンは我に返った。
「どうしたの?」
「……いいえ」
ノルンは小さく首を振る。
「少し、考えていただけです」
「何か思い出した?」
期待するようなアリアの顔に、ノルンは少しだけ困ったように笑った。
「残念ながら、まだ」
「そっかぁ」
「でも、諦めませんよ」
「うん!」
アリアはすぐに笑った。
その顔を見て、ノルンもわずかに頬を緩める。
再び階段を上り始めると、やがて頭上に第二層の灯りが見えてきた。
◇
「ただいまー!」
丸い木の扉を開けると、温かな匂いがアリアたちを迎えた。
「あら、おかえりなさい」
台所にいたコルのお母さんが振り返る。
机のそばでは、コルが椅子に座り、包帯の巻かれた右足を台の上へ乗せていた。その隣では妹のルルが、木でできた小さな人形を並べて遊んでいる。
「おかえり!」
ルルが元気よく手を振った。
「ただいま!」
アリアも手を振り返す。
けれど、コルはすぐに気付いた。
「父さんは?」
「まだ下にいるよ」
ルカが答える。
「設備の調子が、また悪くなったんだ」
コルの顔から笑みが消えた。
「また?」
「うん」
アリアはコルの向かいへ座った。
「動かないところが増えてるの」
コルのお母さんも、台所からゆっくりこちらへ歩いてくる。
「ガンツは?」
「整備士のみんなと残りました」
ノルンが答えた。
「第三水路の水門に続いて、第四水路にも異常が出ています」
「そんな……」
お母さんの表情が曇った。
コルも膝の上で手を握る。
自分も何かしたい。
そんな顔だった。
けれど右足へ目を落とすと、悔しそうに唇を噛んだ。
アリアはそれに気付いたが、何も言わなかった。
代わりに椅子を少し近づける。
「それでね、コル」
「うん?」
「聞きたいことがあるの」
アリアはノルンを見る。
ノルンがうなずき、机の上に紙を広げた。
「古い井戸のそばで、石板を見つけました」
「石板?」
「はい。とても古い文字で文章が刻まれていました」
ノルンは紙へゆっくりと文字を書いていく。
石板に刻まれていた古い文字ではなく、今の人々が読める文字で。
満つるものは、実るものへ。
実るものは、育つものへ。
育つものは、芽吹くものへ。
芽吹くものは、再び満つるものへ。
流れは巡りて、眠りを覚ます。
コルは身を乗り出した。
「これが書いてあったの?」
「うん」
アリアもうなずく。
「大精霊さん、ずっと寝たままなの。トカゲさんが呼んでも起きなかった」
「大精霊……」
コルのお母さんが小さくつぶやいた。
「それでね」
アリアは紙を指差す。
「これをしたら、大精霊さんが起きるのかなって思ったんだけど……」
指が文字の上を行ったり来たりする。
「何をしたらいいのか、分かんない」
「ガンツさんが、お母さんなら昔の言い伝えを知っているかもしれないと」
ノルンが続ける。
「この言葉に、何か心当たりはありませんか?」
「そうねぇ……」
お母さんは椅子を引き、机の前へ座った。
紙を手に取る。
「満つるものは、実るものへ……」
ゆっくりと読む。
「実るものは、育つものへ。育つものは、芽吹くものへ……」
そこで一度、首をかしげた。
「聞いたことある?」
アリアが尋ねる。
「ううん。この文章そのものは知らないわ」
「そっか……」
アリアの肩が少し下がる。
「でも」
お母さんはまだ紙を見ていた。
「なんだか、懐かしい言い回しなのよね」
アリアの肩がぴくっと上がった。
「懐かしい?」
「ええ」
お母さんは目を閉じた。
何かを思い出そうとしているようだった。
「満つる……実る……育つ……芽吹く……」
一つずつ、確かめるように口にする。
コルも横から紙をのぞき込んだ。
「ぼくは知らないなぁ」
「あなたは、あまり昔話を聞かなかったものね」
「だって長いんだもん」
「途中で寝てたものね」
「……うん」
コルが少し気まずそうに答える。
アリアは思わず笑いそうになったが、今はそれどころではない。
お母さんはしばらく考えていた。
やがて。
「……あ」
小さな声が漏れた。
「なに?」
アリアが身を乗り出す。
「昔、おばあちゃんから聞いた話かもしれない」
「おばあちゃん?」
「私のおばあちゃん。グラナでずっと暮らしていた人よ」
お母さんは懐かしそうに目を細めた。
「まだ私がルルくらいだった頃、寝る前によく昔話をしてくれたの」
ルルが自分の名前を呼ばれ、遊んでいた人形から顔を上げる。
「ルル?」
「あなたくらい小さかった頃のお話」
「ちいさい!」
「そうね」
お母さんは笑ってから、もう一度紙へ目を落とした。
「確か……大地の四つの恵みのお話だったわ」
「四つの恵み?」
アリアが首をかしげる。
「ええ」
お母さんは、記憶をたどるようにゆっくり話し始めた。
「寒い冬が終わると、大地から小さな芽が顔を出す」
アリアの頭の中に、土からちょこんと顔を出す緑の芽が浮かんだ。
「春だ」
ルカが言う。
「そう。春ね」
お母さんはうなずいた。
「芽吹いた命は、お日様の光をいっぱい浴びて、夏の間に大きく育つ」
「それから?」
アリアが尋ねる。
「秋になれば、たくさんの実りを迎える。木には実がなって、畑では作物が採れるわ」
「おいしい季節なの」
マルルがぽつりと言った。
コルが吹き出す。
「マルル、それ食べ物の話じゃないよ」
「実るなら食べ物なの」
「まあ、間違ってはいないけど」
少しだけ、部屋の空気がやわらいだ。
お母さんも笑ってから続きを話す。
「そして冬が来る。雪が降って、水が大地へ染み込んで、土を満たす」
「満たす……」
ノルンが小さくつぶやいた。
その声に、みんなが彼女を見る。
ノルンは紙を見ていた。
「芽吹く」
指先が一つの言葉をなぞる。
「育つ」
次へ。
「実る」
そして。
「満つる」
アリアも気付いた。
「あっ!」
椅子から立ち上がりそうになる。
「同じ!」
「はい」
ノルンの声が少しだけ弾んだ。
「石板に書かれていた言葉と同じです」
コルも紙をのぞき込む。
「じゃあ、これって季節のことなの?」
「その可能性は高いと思います」
ノルンはもう一枚の紙を取り、そこへ四つの言葉を書いた。
芽吹くもの――春。
育つもの――夏。
実るもの――秋。
満つるもの――冬。
「本当だ……」
アリアは目を輝かせた。
分からなかった言葉が、初めて形になった。
真っ暗だった道に、一つ灯りがともった。
「じゃあ!」
アリアは嬉しそうに石板の文章へ指を戻す。
「春、夏、秋、冬ってすればいいんだ!」
けれど。
ルカだけが、紙を見たまま黙っていた。
「ルカ?」
「……違う」
「え?」
「違うよ、アリア」
ルカは石板の文章を指で追った。
「最初は『満つるもの』だ」
「うん」
「それから『実るもの』」
「うん」
「次が『育つもの』で、最後が『芽吹くもの』」
アリアは一つずつ指を折る。
満つる。
実る。
育つ。
芽吹く。
「……あれ?」
ノルンの表情も変わった。
もう一枚の紙に書いた四季を見る。
春。
夏。
秋。
冬。
そして石板。
冬。
秋。
夏。
春。
「逆……」
アリアがつぶやいた。
「そうだ」
ルカがうなずく。
「季節は春から夏、夏から秋、秋から冬だろ?」
「うん」
「でも石板は、冬から秋、秋から夏、夏から春って書いてある」
部屋が静かになった。
さっきまで答えが見つかったと思っていた。
けれど、違った。
四季だと分かったことで、今度はもっと大きな疑問が生まれた。
「どうして……?」
アリアは紙を見つめた。
「どうして反対なの?」
誰も答えられなかった。
お母さんも不思議そうに石板の文章を読み返している。
ノルンは二枚の紙を並べた。
普通の四季。
石板に刻まれた四季。
まるで鏡へ映したように、流れが反対になっている。
「これは……」
ノルンがゆっくりと口を開いた。
「季節の巡り方を教えている文章ではないのかもしれません」
「じゃあ、なに?」
「分かりません」
ノルンは正直に首を振った。
「ですが、四季を表す言葉を使って、別の何かを伝えようとしているのだと思います」
「別の何か……」
アリアは、もう一度最後の一文を見た。
流れは巡りて、眠りを覚ます。
流れ。
巡る。
眠り。
大精霊さん。
分かりそうなのに、まだ届かない。
指先が紙の上をゆっくりとなぞる。
「普通は、こっちに巡るのに……」
春から夏へ。
夏から秋へ。
秋から冬へ。
そして、また春へ。
「石板は、反対……」
アリアは小さくつぶやいた。
その時。
ゴゴゴゴゴ……。
さっきよりも大きな地鳴りが、家の下から響いた。
「きゃっ!」
食器棚の皿が、カタカタと震える。
ルルがお母さんへ駆け寄った。
コルも椅子の背をつかむ。
「また……!」
アリアは机へ手をつき、揺れが収まるのを待った。
長くはなかった。
けれど。
揺れが止まったあとも、誰もすぐには口を開かなかった。
時間がない。
そのことだけは、石板の意味よりずっと簡単に分かった。
アリアは机の上の二枚の紙を見つめた。
一枚には、いつもの四季。
もう一枚には、それを逆に辿る言葉。
そして最後に書かれた一文。
『流れは巡りて、眠りを覚ます』
「……何を、反対に巡らせるの?」
小さな問いに答える者は、まだ誰もいなかった。




