第50話 古い井戸
翌朝。
アリアたちは、グラナの第二層にある大きな鉄扉の前に集まっていた。
昨日まで歩いていた通りから、ほんの少し外れた場所。
家々の明かりも、水路を流れる水の音もすぐ近くにあるのに、目の前の扉だけは町から切り離されているように見えた。
飾りのない灰色の鉄。
その横には、アリアの知らない文字が刻まれた小さな札が掛かっている。
「ここから下なの?」
「ああ」
ガンツが腰の鍵束を持ち上げた。
じゃらり、といくつもの鍵が鳴る。
「昨日見せた地下図、覚えてるか?」
「覚えてるよ!」
アリアは大きくうなずいた。
「ここから下が、心臓部なんだよね」
「そうだ」
ガンツが鍵を選んでいる横で、アリアはもう一度、鉄扉を見上げた。
「……普通の扉だね」
「何だと思ってたんだ?」
「もっとこう……」
アリアは両手をいっぱいに広げる。
「どーんってしてるのかと思ってた」
「どーん?」
「だって、町の心臓なんでしょう?」
ガンツが少し考えた。
「中は、まあまあどーんとしてるぞ」
「ほんと?」
「父さん、適当なこと言ってるでしょ」
後ろから声がした。
振り返ると、コルがいた。
右足はまだ添え木で固定されている。
その隣にはルルもいて、兄の服をしっかりつかんでいた。
「コル!」
「ちゃんと待ってるから」
先に言われて、ガンツが眉を上げる。
「まだ何も言ってないぞ」
「言おうとしたでしょ」
「言おうとはした」
「ほら」
コルが笑う。
「おにいちゃん、きょうルルといるの」
ルルが兄を見上げた。
「うん。約束したからね」
「だから、いかないの」
「行かないよ」
どうやら今日のコルには、とても小さな見張り番がついているらしい。
「アリア」
「なあに?」
「もし、あの音が聞こえても……」
コルはそこで一度言葉を止めた。
昨日、自分が一人で古い坑道へ入った理由。
少しずつグラナへ近づいていた、鈴のような不思議な大地の声。
「無理して追いかけないで」
「うん」
「一人で行ったら駄目だよ」
「大丈夫。みんないるよ」
アリアは隣を見た。
ルカ。
ノルン。
マルル。
それからガンツ。
「五人と一匹なの」
マルルが胸を張った。
ルカが横を見る。
「マルル、自分を一匹にしたね」
マルルの耳がぴたりと止まる。
「……六人なの」
「遅いよ」
コルが吹き出した。
「気をつけてね」
「うん。行ってきます!」
アリアが手を振る。
「いってらっしゃーい!」
ルルも両手を振った。
ガンツが鍵を差し込む。
がちん。
重い音が響いた。
ゆっくりと鉄扉が開く。
冷たい空気が、暗い向こう側から流れてきた。
アリアの銀色の髪が、ふわりと揺れる。
扉の向こうには、下へ続く石の階段があった。
壁には一定の間隔で光る石が埋め込まれている。
けれど、その光は第二層の町よりずっと弱い。
「暗いね」
「ここから先は、人が暮らす場所じゃないからな」
ガンツが先に階段へ足を踏み出した。
「俺から離れるなよ」
「はい」
アリアたちも、その後へ続いた。
◇
階段は、思っていたよりもずっと長かった。
くるり。
くるり。
岩壁に沿って何度も曲がりながら、どこまでも下へ続いている。
「まだ?」
「まだだ」
「もういっぱい下りたよ?」
「まだだ」
「あとどれくらい?」
「聞くたびに長くなるぞ」
「そんなのずるい!」
後ろから、ルカの笑う声がした。
「アリア、昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日は昇降機だったもん。今日は歩いてるもん」
アリアは何段目まで数えたのか、もう分からなくなっていた。
最初はちゃんと数えていた。
二十。
三十。
四十。
たぶん六十くらいまでは覚えている。
そのあとマルルが、
「ぼくは百まで数えられるなの」
と言い出した。
どちらが先に間違えるか競争になり。
二人とも途中で分からなくなった。
「ノルンは覚えてる?」
「はい」
「何段?」
「百八十七段目です」
「そんなに!?」
ルカまで驚いてノルンを見る。
「ずっと数えてたの?」
「何となくです」
「何となくで百八十七まで数えないよ……」
やがて。
先頭を歩いていたガンツが足を止めた。
「着いたぞ」
「ほんと!?」
アリアは最後の階段を駆け下りかけた。
「走るな」
「はい」
すぐに歩く。
階段の先には、もう一枚の扉があった。
ガンツが大きな取っ手を握る。
「ここからが心臓部だ」
扉が開いた。
ゴォォォォ……。
「わ……」
低い音が、足の裏から体の奥まで響いてきた。
最初に目へ飛び込んできたのは、水だった。
暗い地下を、大きな川が流れている。
その上を何本もの石橋が渡り、壁から壁へ太い水路が伸びていた。
さらに奥では、アリアの背丈の何倍もある巨大な水車が、ゆっくりと回っている。
ぎぃ。
ごとん。
ぎぃ。
ごとん。
水車につながった太い軸が回る。
いくつもの歯車がかみ合い、別の歯車を動かす。
天井近くまで伸びる管。
壁の中へ消えていく太い綱。
大きな水門につながった鎖。
昨日、机いっぱいに広げられた地下図に描かれていた線や丸が、全部、本物になって目の前に広がっていた。
「……どーん」
アリアの口から、ぽつりと声が漏れた。
ガンツが横を見る。
「言っただろ」
「ほんとに、どーんだった……」
その隣で、ルカは巨大な歯車を見上げていた。
「これ、全部つながってるの?」
「ああ」
「この水車が回ったら、あっちの歯車が回って……それから?」
「気になるのは分かるが、勝手に触るなよ」
「触らないよ」
返事はしたものの、ルカの目は歯車から歯車へ忙しく動いている。
ノルンも辺りを見回していた。
「ずいぶん古い設備ですね」
「分かるのか?」
「はい。新しいものと、古いものが混ざっています」
ノルンが壁際の石造りの水路を見る。
「こちらは、今のグラナが造られるより前からあったものではありませんか?」
ガンツが足を止めた。
「……その通りだ」
「やっぱり」
「この辺りには、グラナができる前から残っていたものがいくつかある。俺たちも、誰が造ったのかまでは分かってない」
その時。
リン。
澄んだ音が響いた。
「なの!」
マルルが胸元を見る。
コンパクトから青い光が伸びていた。
まっすぐ、心臓部の奥へ。
「こっちなの!」
マルルが駆け出そうとする。
その体を、ルカがひょいと抱き上げた。
「勝手に走らないって、昨日約束しただろ」
「走ってないなの。急いで歩こうとしたなの」
「四本足で?」
「急ぎ足なの」
「それを走るって言うんだよ」
ガンツは青い光の先を見た。
「……古い井戸の方角だ」
アリアも光の先を見る。
「トカゲさん、いるかな」
森で別れた時のことを思い出す。
いつもと違っていたトカゲさん。
主の気配が弱い。
そう言って、自分たちより先にグラナへ向かった。
「会えるといいね」
ルカが言った。
「うん」
ガンツが歩き出す。
「行くぞ」
アリアたちは、その後へ続いた。
大きな水車を横切る。
いくつもの水路を越える。
進むにつれて、人の手が入っている場所が少なくなっていった。
明かりも減っていく。
きれいに積まれていた石壁が途切れ、やがて削った岩がそのままむき出しになった通路へ変わった。
ガンツが、古びた柵の前で立ち止まる。
「ここから先だ」
柵には錆びた札が掛かっていた。
「何て書いてあるの?」
「旧水路。立入注意」
ガンツが鍵を外す。
「この先は、ほとんど使われていない」
ぎぃぃ。
柵が、長いあいだ動かしていなかったような音を立てて開いた。
その向こうは、さらに暗い。
マルルのコンパクトから伸びる青い光が、細い道の先へ続いている。
アリアは少しだけルカへ近づいた。
「怖い?」
「ちょっとだけ」
「ルカも?」
「ちょっとだけね」
アリアはルカの服の裾をつかんだ。
ルカは何も言わなかった。
ただ、少しだけアリアのそばへ寄った。
しばらく歩くと、水車の音が遠くなった。
代わりに聞こえてきたのは、
ぽちゃん。
ぽちゃん。
どこかで落ちる水滴の音。
そして。
通路が終わった。
その先に、丸い空間が広がっていた。
中央には、古い石で囲まれた井戸。
そのそばに。
大きな何かがいた。
「……何だ、あれは」
ガンツの足が止まった。
淡い土色の、大きな体。
丸みのある頭。
地面をしっかりとつかむ太い前足。
長い体は古い井戸の向こうまで続いている。
ガンツの腕が、とっさにアリアたちの前へ伸びた。
「下がれ」
「あっ!」
アリアの目が大きくなる。
見間違えるはずがなかった。
「トカゲさん!」
「……トカゲ?」
ガンツが聞き返した。
大きな頭が、ゆっくりと持ち上がる。
つぶらな黒い瞳が、こちらを向いた。
「……来たか」
「よかったぁ……!」
アリアの肩から力が抜けた。
「ちゃんと着いてたんだね」
一歩近づこうとすると、まだガンツの腕が前をふさいでいる。
「待て。知り合いなのか?」
「うん」
アリアはガンツを見上げた。
「昨日お話した、大地の精霊さんだよ」
「……これが?」
ガンツがもう一度、大地の精霊を見上げる。
昨日、話は聞いていた。
アリアたちと一緒に旅をしていた大地の精霊。
古い井戸へ案内すると約束し、自分たちより先にグラナへ向かった存在。
だが。
ガンツは、その大きさまでは聞いていなかった。
「ずいぶん……大きいんだな」
「うん。大きいよ」
アリアはトカゲさんを見た。
「でも、やさしいよ」
「我はトカゲではない」
「うん。知ってる」
「では、なぜそう呼ぶ」
「だって、トカゲさんだもん」
「……」
しばらく沈黙があった。
「それは、もうよい」
「諦めたなの」
マルルが言う。
ルカが小さく笑った。
ガンツは大地の精霊とアリアたちを交互に見てから、ようやく前へ出していた腕を下ろした。
「本当に知り合いなんだな……」
その声には、まだ少し驚きが残っていた。
アリアはトカゲさんへ近づいた。
「そうだ、トカゲさん」
「何だ」
「主さんのところに行くって言ってたよね」
「ああ」
「会えた?」
トカゲさんは答えなかった。
大きな頭が、ゆっくりと古い井戸へ向く。
その様子に、アリアも井戸を見る。
「……どうしたの?」
「主は、眠っている」
「眠ってるの?」
「ああ」
「ここに?」
「この下だ」
アリアは思わず、古い井戸をのぞき込もうとした。
「近づきすぎるな」
ガンツに肩をつかまれ、ぴたりと止まる。
「はーい」
少し離れたところから、もう一度井戸を見る。
「主さん、寝てるだけなの?」
大地の精霊はしばらく黙っていた。
「呼びかけても、応えぬ」
「……起きないの?」
「起きぬ」
アリアの表情から、再会を喜んでいた笑みが少しずつ消えていった。
森で見たトカゲさんの様子を思い出す。
主の気配が弱い。
だから、自分たちを置いて先へ行った。
その主を見つけたのに。
「どうしたら起きるの?」
「分からぬ」
「トカゲさんにも?」
「ああ」
トカゲさんが古い井戸の縁へ太い前足を置いた。
「だが、ここには古きものが残されている」
「古きもの?」
ノルンが反応した。
大地の精霊の視線が、井戸の向こうへ向く。
そこには、岩壁と同じ色をした石板があった。
長い年月のあいだに土と埃をかぶり、遠目には壁の一部にしか見えない。
「主が眠りより戻らぬ時」
トカゲさんが言った。
「ここへ来よと、古くより伝えられている」
「誰に?」
「主に仕える者へ」
アリアは石板を見る。
「じゃあ、そこに起こす方法が書いてあるの?」
「我には読めぬ」
「トカゲさん、読めないの?」
「ああ」
すると、ノルンが静かに石板へ近づいた。
「少し、見せてください」
ガンツが先に足元を確かめる。
「そこなら大丈夫だ。だが井戸の縁には寄るな」
「はい」
ノルンは石板の前へ立った。
積もっていた埃を、手のひらでそっと払う。
その下から、細い文字が現れた。
アリアには読めない。
ガンツも眉を寄せる。
「これは……グラナの古い文字じゃないな」
「はい」
ノルンの指が、刻まれた文字をゆっくりとなぞった。
「もっと古いものです」
「読める?」
アリアが尋ねる。
ノルンはしばらく黙って文字を追った。
やがて。
「……読めます」
「ほんと!?」
「はい。でも……」
ノルンの表情が曇る。
「意味が、少し分かりません」
「読めるのに?」
「言葉は分かるんです」
ノルンはもう一度、石板へ目を向けた。
そして、ゆっくりと読み上げる。
「満つるものは、実るものへ」
「実るものは、育つものへ」
「育つものは、芽吹くものへ」
「芽吹くものは、再び満つるものへ」
最後の一行で、ノルンの指が止まる。
「流れは巡りて、眠りを覚ます」
誰もすぐには口を開かなかった。
ぽちゃん。
古い井戸の奥で、水滴が落ちる。
「……どういう意味?」
アリアが首をかしげた。
「分かりません」
ノルンは正直に答えた。
「文章そのものは読めます。でも、何を『満つるもの』と呼んでいるのかが分からないんです」
「実るものも?」
「はい」
「育つものと、芽吹くものも?」
「全部です」
「むぅ……」
アリアも石板を見つめた。
満つるもの。
実るもの。
育つもの。
芽吹くもの。
読めない。さっき聞いた言葉は分かる。
でも、それが何を指しているのかは分からない。
「満つるって……いっぱいってこと?」
アリアが首をかしげる。
「そういう意味にも取れます」
ノルンは石板の文字をもう一度なぞった。
「ただ、この時代の言葉では、単純に『満杯になる』という意味だけではありません。力が満ちることや、季節が巡って満ちることにも使われます」
「じゃあ、いっぱいあるものを探せばいいの?」
「それも分かりません」
「むずかしい……」
アリアは頬を膨らませた。
ルカも石板の前へ近づく。
「順番みたいには見えるけど」
「順番?」
「うん」
ルカは指を折りながら、もう一度言葉を追った。
「満つるものから実るものへ。それから育つもの、芽吹くもの……最後にまた満つるものへ戻る」
「ぐるってするの?」
「たぶん」
「流れは巡りて、って書いてありますから」
ノルンがうなずく。
けれど、そこまでだった。
何を巡らせるのか。
どこから始めればいいのか。
そもそも「満つるもの」が何なのか。
分からないことばかりが増えていく。
「トカゲさん」
アリアが振り返った。
「これ、知ってる?」
「知らぬ」
「前からここにあった?」
「あった」
「じゃあ、何に使うの?」
「知らぬ」
「ずっとあったのに?」
「知らぬものは知らぬ」
トカゲさんは、まるでそれ以上聞かれても答えは変わらないと言うように、ゆっくりと目を閉じた。
アリアは少し困った顔になる。
「トカゲさんも分からないんだ……」
「アリア」
ルカが小さくたしなめる。
「だってぇ」
マルルがトカゲさんを見上げる。
「ぼくも分からないなの」
「同じなの」
「同じにするな」
短い返事が返ってきた。
少しだけ空気がやわらぐ。
けれど、ノルンの表情はまだ石板へ向いたままだった。
「この文章だけでは、足りないのかもしれません」
「どういうこと?」
「何か別のものと合わせて読むようになっている可能性があります」
ノルンは周囲を見回した。
古い井戸。
岩壁。
崩れかけた石組み。
ところどころに残る古い溝。
けれど、どれが意味を持っているのかまでは分からない。
ガンツも腕を組み、辺りを見た。
「この辺りは、俺もほとんど来たことがない」
「整備士さんなのに?」
「今使ってない場所だからな」
「古い井戸は、昔から『触るな』って言われてきた」
「どうして?」
「それが分からん」
ガンツは苦笑した。
「分からないから触るな、ってやつだ」
「大人もそういうこと言うんだね」
「大人の方がよく言うぞ」
アリアが少し笑う。
その時だった。
ゴンッ。
遠くで、低い音が響いた。
「……?」
アリアが振り返る。
今まで聞こえていた水車の音とは違う。
重たい何かがぶつかったような音。
ガンツの表情が変わった。
「今のは……」
耳を澄ませる。
ぎぃ……。
ごとん。
ぎぃ……。
さっきまで一定だった遠くの機械音が、わずかに乱れている。
「ガンツさん?」
「ちょっと待て」
ガンツは通路の方へ数歩進んだ。
再び。
ゴンッ。
今度は少し大きい。
足元の石が、ごくわずかに震えた。
アリアの小さな羽がぴくりと動く。
「地面、揺れた?」
「ああ」
ルカも足元を見る。
ガンツはもう迷っていなかった。
「心臓部を見に戻る」
「井戸は?」
「今は設備の方が先だ」
そう言ってから、ガンツはトカゲさんを見る。
「お前はどうする」
「ここにいる」
「主のそばに?」
「ああ」
アリアは少しだけ迷った。
せっかくトカゲさんに会えた。
主さんのことも気になる。
石板の意味も知りたい。
でも、さっきの音も気になる。
昨日見た、困った顔の人たち。
止まった昇降塔。
もしまた何か止まったのなら。
「わたしたちも行く」
アリアが言った。
「そうだな」
ルカもうなずく。
ノルンは石板を最後にもう一度見つめた。
「文章は、覚えました」
「全部?」
「はい」
「すごい」
「念のため、あとで書き写しましょう」
「ぼくも手伝うなの」
マルルが胸を張る。
「マルル、字書けないだろ」
「応援するなの」
「そっちね」
ガンツが先に通路へ向かう。
「急ぐぞ。ただし走るな」
「はい!」
アリアは返事をして、もう一度だけ振り返った。
古い井戸。
そのそばにいるトカゲさん。
そして、意味の分からない古い文章。
流れは巡りて、眠りを覚ます。
その意味は、まだ何も分からない。
けれど。
何か大切なことが、ここに残されている。
そんな気がした。
◇
心臓部へ戻るにつれて、水の音が少しずつ大きくなっていった。
けれど。
さっきまで聞こえていた規則正しい機械音が、どこかおかしい。
ぎぃ。
ごとん。
ぎぃ……。
ご。
途中で止まる。
「やっぱり変だ」
ガンツが足を速めた。
「何が?」
「第二水車の音だ」
「止まりそうなの?」
「分からん」
通路を抜ける。
巨大な心臓部へ戻った瞬間。
「あ……」
アリアは思わず声を漏らした。
さっきまで回っていた大きな歯車の一つが、止まっていた。
隣の歯車は動いている。
水車も回っている。
水も流れている。
それなのに。
その先だけが、ぴたりと止まっている。
「何で?」
ルカが目を見開く。
「水車は回ってるのに」
「ああ」
ガンツはすぐに歯車のそばへ向かった。
軸を見る。
継ぎ目を見る。
手袋をはめ、金属部分へ触れる。
「壊れてない……」
「また?」
「ああ」
昨日と同じだ。
壊れている場所が見つからない。
なのに、力だけが途中で消えている。
ガンツは歯を食いしばった。
「おかしい」
その時。
遠くから声が響いた。
「ガンツ!」
別の整備士が橋の向こうから走ってくる。
「第三水路の水門が止まった!」
「何だと?」
「開いたまま動かない!」
「水量は?」
「流れてる! でも動力が来ない!」
ガンツの顔から血の気が少し引いた。
「昨日より広がってる……」
アリアはその言葉を聞き逃さなかった。
「広がってるの?」
ガンツはすぐには答えなかった。
止まった歯車。
動かない水門。
それでも流れ続ける水。
しばらく見つめてから、低く言う。
「ああ」
「少しずつな」
胸の奥が、きゅっと縮む。
昨日は昇降塔だけだった。
今日は、心臓部の中まで。
「このままだと、どうなるの?」
アリアの声は、さっきより小さくなった。
ガンツは一度だけアリアを見る。
「まだ分からん」
けれど、その表情は「大丈夫」とは言っていなかった。
その直後。
ゴゴ……。
今度は、さっきよりも長い地鳴りがした。
橋の下の水面が小さく揺れる。
天井から、ぱらぱらと細かな砂が落ちた。
アリアは思わずルカへ近づく。
「……ルカ」
「うん」
ルカも天井を見上げていた。
ノルンの表情も険しくなっている。
「大地そのものが、不安定になり始めているのでしょうか」
「そうかもしれん」
ガンツは拳を握った。
その時。
アリアの頭に、古い石板の最後の言葉が浮かんだ。
流れは巡りて。
眠りを覚ます。
「……起こさなくちゃ」
小さくつぶやく。
「え?」
ルカが見る。
「主さん」
アリアは古い井戸がある方角を振り返った。
「トカゲさんの主さんを、起こさなくちゃ」
どうやって。
それは、まだ分からない。
何を巡らせればいいのかも。
満つるものが何なのかも。
何一つ分かっていない。
それでも。
この町で起きていることと、眠ったままの主さんが無関係だとは、もう思えなかった。
ガンツも、同じように古い井戸の方角を見た。
「……そうかもしれんな」
遠くで、また歯車が一つ止まった。
ごとん。
その音が、アリアにはさっきよりずっと重く聞こえた。
★お読みいただきありがとうございます★
「どーん」な心臓部はこちらの動画からどうぞ(;・∀・) 一瞬ですよ。見逃さないでね・・・
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