第49話 町の心臓部
リン。
マルルの胸元から伸びた青い光は、しばらく消えなかった。
食卓の端を淡く照らし、床へ落ち、そのまま家の向こうへ伸びている。
その先は、第二層のさらに下。
「まだ下なの」
マルルが耳をぴんと立てた。
アリアも手にしていたスプーンを置き、青い光を目で追う。
第一層でも。
第二層へ下りる昇降機の中でも。
そして、コルの家まで来ても。
コンパクトが示す方向は変わらない。
「トカゲさんも……この下にいるのかな」
ぽつりと口にすると、ルカも光の先へ目を向けた。
「たぶんな」
「先に行くって言ってたもんね」
「ああ」
アリアの頭に、森で別れた大地の精霊の姿が浮かんだ。
『主の気配が弱い』
いつもなら、何を聞いても短い返事ばかりだったトカゲさん。
けれど、あの時だけは明らかに様子が違っていた。
自分たちを置いて先へ行くほど、急いでいた。
それに、グラナへ着いた時に見た火の精霊たち。
赤い炉のそばで、元気なく小さくなっていた。
別々の出来事なのかもしれない。
それでも、何となく同じものにつながっているような気がして、アリアの胸には小さな引っかかりが残っていた。
「その……トカゲさんというのは?」
ガンツの声に、アリアは顔を上げた。
「大地の精霊さんだよ」
「大地の精霊?」
「うん!」
ガンツの眉が少し上がる。
隣ではカーナも料理を取り分ける手を止めていた。
アリアはすぐに説明しようとして、
「アリア」
ルカに小さく呼ばれた。
「最初から話した方がいいんじゃないか?」
「あ、そっか」
考えてみれば、ガンツたちは何も知らない。
なぜ自分たちがグラナまで来たのか。
どうしてマルルが不思議なコンパクトを持っているのか。
なぜ大地の精霊を追っているのか。
「じゃあ、ご飯食べたらお話する!」
「そうだな」
ガンツもうなずいた。
「俺も聞きたいことがある」
その言葉に。
コルの肩が、ぴくっと揺れた。
アリアはそれに気づいてコルを見る。
コルは何事もなかったようにスープを飲んでいる。
けれど、丸い耳だけが少し下がっていた。
そういえば。
さっきガンツは言っていた。
『あとで詳しく聞かせてもらう』
どうやら、忘れてはいなかったらしい。
◇
食事が終わる頃には、ルルはすっかり眠そうになっていた。
椅子の上で何度もこくり、こくりと頭が揺れている。
「ルル、もう寝る?」
コルが尋ねると、ルルは慌てて顔を上げた。
「ねない」
「でも眠そうだよ」
「ねむくないもん」
そう言った直後、大きなあくびが一つ。
アリアが思わず笑う。
「眠いよ」
「ねむくないの」
ルルは頑張って目を開けていた。
せっかく帰ってきた兄と、もう少し一緒にいたいのだろう。
コルもそれが分かっているのか、何も言わずに妹の頭をそっと撫でた。
カーナが食器を重ねながら、その様子をやさしく見つめている。
温かな食事。
家族の声。
兄へくっついて離れようとしない妹。
アリアはそんな光景を見ていると、また少しだけ森の家を思い出した。
お父さん。
お母さん。
自分たちが帰ったら、今ごろどんな顔をするのだろう。
ルカはパパに怒られると言っていた。
自分は、お母さんにぎゅっとされるらしい。
その場面を想像すると、早く帰りたい気持ちが胸の奥でふくらんだ。
けれど、そのためにも。
欠片を集めなくてはいけない。
「さて」
低い声がして、アリアは顔を上げた。
ガンツが椅子へ座り直している。
「コル」
「……はい」
さっきまでルルの頭を撫でていたコルの手が止まった。
「話してもらおうか」
「……うん」
「最初からだ」
ガンツの声は大きくなかった。
それなのに、コルは少しだけ背筋を伸ばした。
カーナも止めようとはしない。
食器を片づけながら、静かに二人を見守っていた。
「どうして、あの古い坑道へ一人で入った」
コルはすぐには答えなかった。
膝の上へ置いた大きな手を見つめる。
「……音がしてたから」
「音?」
ガンツの眉がわずかに動く。
「何日か前から聞こえてた、変な音」
「石が動く音とも、水の音とも違うやつ」
コルは指先で、自分の手のひらを軽く叩いた。
こつ。
こつ。
「小さな何かが、土の中から叩いてるみたいな音だった」
ガンツは何も言わない。
コルは少し迷ってから続けた。
「父さんと一緒に調べるはずだった」
「ああ」
「でも、里の水路が壊れて……父さん、そっちへ行ったから」
「それで俺は何と言った?」
コルの耳が、ぺたりと伏せた。
「……明日まで待てって」
「そうだ」
ガンツの声が低くなる。
「言ったな」
「うん……」
「なら、どうして待たなかった」
コルはうつむいた。
「前の日より、音が小さくなってたんだ」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「消えちゃうかもしれないって思って……」
「どこから聞こえるのかだけ確かめて、すぐ戻るつもりだった」
「すぐ戻るつもりだった?」
「……うん」
ガンツの視線が、コルの右足へ落ちた。
添え木で固定された足。
「それで?」
コルは何も言えなくなる。
「戻ってきたか?」
「……」
「一人で?」
「……ごめんなさい」
コルの声が小さくなる。
家の中が静かになった。
いつの間にか、ルルも眠そうな目で兄と父を交互に見ている。
「コル」
ガンツはまっすぐ息子を見る。
「お前には、大地の声を聞く力がある」
「父さんも、それを大事にしろと言ってきた」
「……うん」
「だがな」
ガンツの大きな手が、机の上へ置かれた。
「聞こえるからって、一人で何でもできるわけじゃない」
その言葉に、コルの手が少しだけ握られる。
「崩れた坑道へ一人で入って、木材に足を挟まれて、動けなくなったんだろう」
「……うん」
「もし、この子たちが見つけてくれなかったら?」
コルは答えられなかった。
ガンツの声は怒っている。
けれど。
アリアには、それだけではないように聞こえた。
昼間、帰ってきたコルを抱きしめた時。
ガンツの声は震えていた。
今も、机へ置かれた大きな手には、ほんの少し力が入っている。
「父さんはな」
ガンツは一度、大きく息を吐いた。
「音が何だったか分からなくてもいい」
「明日になったら消えていたって構わない」
コルが顔を上げる。
「でも、お前が帰ってこないのは駄目だ」
「……父さん」
「分かるな?」
コルの目が少し揺れた。
やがて、しっかりとうなずく。
「うん」
「ごめんなさい」
「もう一人で行かない」
その言葉を聞いて、ガンツはしばらくコルを見つめていた。
やがて、大きな手を伸ばす。
ぽん。
コルの頭へ乗せた。
「それならいい」
怒っていた声が、少しだけやわらかくなる。
「失敗したことより、次に同じことをしない方が大事だ」
「うん」
コルはもう一度うなずいた。
その横で、ルルが椅子から身を乗り出す。
「おにいちゃん、もういかない?」
「一人では行かないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
ルルは安心したように笑うと、コルの腕へぎゅっと抱きついた。
その姿を見て、アリアの胸も少しだけやわらかくなった。
叱られるのは、きっと怖い。
でも。
帰ってきてほしいから怒ることもあるのだと、少しだけ分かった気がした。
「ところで」
ガンツの表情が変わった。
父親の顔から、何かを調べる整備士の顔へ。
「その音だ」
コルが顔を上げる。
「坑道へ入る前、どっちへ向かっていた?」
「グラナの方」
「里へ近づいていたのか?」
「うん」
コルは手のひらを机へ当てた。
「最初に聞いた時はもっと遠かった」
「でも、日がたつたびに少しずつ近くなってた」
「石より軽くて、水より澄んでて……」
少し考える。
「遠くで、小さな鈴が鳴ってるみたいな音」
アリアが思い出す。
荷馬車の中で、コルが教えてくれた。
馬の足音も。
車輪が石を踏む音も。
水の流れも。
地面は全部、少しずつ違う揺れ方をするのだと。
「大地の声……」
アリアがつぶやいた。
「ああ」
ガンツがうなずく。
「俺たちはそう呼んでいる」
「土の下で暮らしていれば、足元から伝わるものは多い」
「コルは、その違いを聞き分けるのが昔から得意だった」
コルは少し照れたように耳を動かした。
「その音、今も聞こえる?」
ルカが尋ねる。
コルはしばらく床へ目を落とした。
「分からない」
「ここに帰ってきてから、まだちゃんと聞いてない」
「足も痛かったし……みんなにいっぱい話しかけられたから」
「そりゃそうだ」
ルカが小さく笑った。
コルは椅子から少し体をずらすと、片手を床へ伸ばした。
ぺたり。
大きな手のひらを石の床へ当てる。
目を閉じる。
誰も声を出さなかった。
窓の外では、水路を流れる水の音が聞こえている。
さらさら。
遠くで、小さな水車が回る。
コルの指先が、わずかに動いた。
「……水」
ぽつりと言う。
「近くの水路」
しばらく待つ。
「向こうを誰か歩いてる」
また少し間が空いた。
けれど。
コルは首をかしげた。
「……聞こえない」
「例の音か?」
「うん」
ガンツは腕を組んだ。
「消えたか」
「分からない」
コルは手を離す。
「もっと下に行ったら、ここまでは届かないかもしれない」
「もっと下……」
アリアは思わず、床へ視線を落とした。
その時。
リン。
マルルのコンパクトが、静かに鳴った。
淡い青い光が、再び床の向こうへ伸びる。
「……下なの」
マルルが言った。
ガンツの視線が、コンパクトへ向く。
「さっきから、それは何を示している?」
今度こそ。
アリアたちは、自分たちの旅について話し始めた。
◇
村へ帰ったら、家も村もなくなっていたこと。
女神ルミエラに出会ったこと。
村はなくなったのではなく、別の場所へ流されてしまったと教えられたこと。
世界をつなぐ鍵が八つに分かれ、その欠片を集めれば、もう一度帰る道をつなげられるかもしれないこと。
マルルがコンパクトを開く。
八つ並んだくぼみ。
その一つには、すでに見つけた青い欠片が収まっている。
「これが、世界をつなぐ鍵なの」
「女神様にもらったなの」
ガンツは黙ってコンパクトを見つめていた。
カーナも、いつの間にか片づけの手を止めている。
「女神様から……」
カーナが小さくつぶやく。
「うん」
アリアはうなずいた。
「欠片を全部集めたら、お父さんとお母さんのところに帰れるかもしれないの」
ルカも静かに続ける。
「ぼくたちの村ごと、別の場所へ移ったそうです」
「パパとママも、生きてるって女神様が教えてくれました」
ガンツの表情が少しやわらいだ。
「そうか」
「なら、帰らないとな」
「うん!」
アリアは大きくうなずく。
「マルルも一緒に!」
「なの!」
マルルが胸を張る。
「マルルも家族なの」
「そうか」
ガンツが小さく笑った。
「それなら、みんなで帰らないとな」
その一言がうれしくて、アリアも笑った。
「それでね」
アリアはコンパクトを指差す。
「二つ目の欠片は、大地の精霊さんが持ってるの」
「さっき言ってたトカゲさんか」
「うん」
「お腹のところにあるんだけど、今は出せないんだって」
「古い井戸まで案内すると言っていました」
ノルンが続ける。
ガンツの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「……古い井戸?」
コルも顔を上げる。
「父さん、知ってるの?」
「ああ」
「行ったことある?」
「近くまではな」
その答えに、アリアの胸が弾んだ。
「じゃあ、場所分かるの?」
「分かる」
「やった!」
思わず身を乗り出したアリアだったが。
ガンツは笑わなかった。
「ただし、簡単に行ける場所じゃない」
「え?」
「古い井戸は、ここよりもっと下だ」
「第二層より?」
「ああ」
アリアは床を見る。
まだ下。
第一層へ降りた時も、こんなに深い地下に町があることに驚いた。
さらに第二層まで降りた。
それなのに、この下にもまだ続いている。
「どこまであるの……?」
「見た方が早いな」
ガンツは椅子から立ち上がった。
部屋の隅に置かれた工具箱のそばへ向かい、その後ろから細長い革筒を取り出す。
「母さん、机を空けてもらえるか」
「はいはい」
カーナは空になった食器を手早く重ねていった。
ルルはもう限界らしく、椅子の上でこくり、こくりと舟をこいでいる。
「ルル」
「……ねてない」
「何も言ってないよ」
コルが笑う。
カーナがそんな娘を抱き上げた。
「少しだけお話を聞いてから寝る?」
「きく……」
ルルは母親の肩へ頬を乗せたまま答えた。
ガンツが革筒から一枚の大きな紙を取り出し、机いっぱいに広げる。
「わぁ……!」
アリアは思わず立ち上がった。
紙の上には、たくさんの線が描かれていた。
道のような線。
水が流れているらしい太い線。
丸や四角。
小さな文字もびっしり書き込まれている。
「これ、なあに?」
「グラナの地下図だ」
「これがグラナ?」
アリアは今日歩いた町を思い浮かべながら、紙を見つめる。
ぜんぜん町には見えない。
ガンツが指を置いた。
「ここが地上」
指が下へ動く。
「ここが第一層」
「あ!」
アリアの顔が明るくなる。
「きらきらのお店がいっぱいあったところ!」
「そうだ」
「じゃあ、こっちが第二層?」
ルカがその下を指す。
「正解」
「今いるところだね!」
アリアにも少しずつ地図が町に見えてきた。
「じゃあ、コルのおうちは?」
「ここ」
コルが小さな場所を指差す。
「えーっと……」
アリアも別の場所へ指を置く。
「ここ?」
「そこ、水路」
「また水路!」
コルが笑う。
アリアは頬を膨らませた。
「線がいっぱいなんだもん」
そのやり取りに、張りつめていた空気が少しだけやわらいだ。
けれど。
ガンツの指が、第二層よりさらに下へ移る。
「問題は、ここから先だ」
アリアも自然と口を閉じた。
第二層までとは、地図の描かれ方がまるで違う。
太い水路が何本も伸び、大きな円や歯車のような印が集まっている。
「ここから下は、人が暮らす場所じゃない」
「じゃあ、何があるの?」
「町を動かすための設備だ」
ガンツは一つずつ指で示していく。
「地下河川から水を引く水路」
「大きな水門」
「水車」
「工房や昇降設備へ力を送るための仕組み」
ルカが地図へ顔を近づける。
「第一層で見た水車も?」
「あれは小さいものだ」
「もっと下には、町全体を支える大きな設備がある」
ノルンも静かに地図を見つめていた。
「つまり、グラナの暮らしを支える場所なのですね」
「ああ」
ガンツがうなずく。
「俺たち整備士は、この辺りを『心臓部』って呼んでる」
「しんぞうぶ……」
アリアは自分の胸へ手を当てた。
とくん。
とくん。
手のひらに小さな鼓動が伝わる。
「人の心臓みたいなの?」
「本物の心臓じゃないぞ」
「それは分かるよぉ」
ガンツが少し笑った。
「でも、止まれば町全体が困る。だから心臓部だ」
その言葉を聞いて。
アリアは今日見たものを思い出した。
動かない大きな昇降塔。
第一層に積まれたままの木箱。
仕事ができず困っていた職人たち。
そして、炉のそばで小さく丸くなっていた火の精霊たち。
「ガンツさん」
「ん?」
「昇降塔が動かないのも、ここが関係してるの?」
ガンツは地図へ目を落とした。
「分からない」
しばらくして、そう答える。
「だが、疑ってはいる」
「昇降塔そのものは、今日一日調べた」
「歯車も、滑車も、綱も壊れていない」
「水路も詰まっていないし、水門も開く」
「水は流れる。水車も回る」
ガンツの指が、地下図の線をゆっくりとなぞる。
「なのに、昇降塔を動かすための力だけが、途中で消えたように届かない」
「途中で……」
ルカが小さくつぶやく。
「ああ」
「だから明日は、もっと下を調べるつもりだった」
「明日?」
アリアが顔を上げた。
「整備士たちで?」
「ああ」
そこでルカが尋ねる。
「古い井戸は、どこですか?」
ガンツの指が止まった。
「……ここだ」
心臓部の奥。
今使われている水路から外れるようにして、一つの印が描かれている。
「これ?」
アリアが覗き込んだ。
「ああ」
その瞬間。
リン。
コンパクトが鳴った。
「なの!」
マルルの耳がぴんと立つ。
青い光が、机の上へ伸びた。
第二層。
その下へ。
心臓部を通り。
古い井戸が描かれている方向へ。
「……同じところ」
アリアは息をのんだ。
ルカも地図と青い光を交互に見る。
「本当に、あっちなんだ」
「偶然とは考えにくいですね」
ノルンの声も少しだけ硬くなっていた。
ガンツは何も言わない。
ただ、地図の上を走る青い光を見つめている。
「父さん」
コルが小さく呼んだ。
「ぼくが聞いた音も……そっちへ行ったのかな」
ガンツが息子を見る。
「そうかもしれん」
その答えに、コルの耳がわずかに動いた。
「小さな鈴みたいな、大地の声」
アリアが地図へ目を落とす。
大地の精霊が急いで向かった場所。
コンパクトが示す場所。
コルが追いかけた、不思議な音。
その全部が、グラナの下へ集まっている。
そこには何があるのだろう。
「明日、行こう」
気がつくと、アリアはそう言っていた。
「古い井戸に」
「トカゲさんに会って、欠片のことを聞くの」
それから少しだけ考え、地図を見つめる。
「町がおかしくなってることも、何か分かるかもしれない」
欠片を見つけたい。
お父さんとお母さんのもとへ帰るために。
けれど、それだけではなかった。
第一層で見た人たちの困った顔。
コルが「ぼくの町」と笑った場所。
今日、自分たちを迎えてくれた人たち。
そして今いる、この温かな家。
少し前まで知らなかった町なのに。
もう、何が起きても自分たちには関係ないとは思えなかった。
「駄目だ」
「え?」
ガンツの返事は早かった。
アリアは思わず顔を上げる。
「どうして?」
「どうしても何もない」
ガンツは心臓部を指した。
「ここから下は、子どもだけで歩いていい場所じゃない」
「深い水路もある。大きな水車も動いている」
「古い通路には、今じゃほとんど使われていないところもある」
「まして、今は何が起きているのか分からん」
「でも……」
アリアは言葉に詰まった。
行かなければならない。
コンパクトは下を指している。
トカゲさんだって待っているかもしれない。
けれど。
目の前のガンツを見ていると、簡単に「大丈夫」と言ってはいけない気もした。
ついさっき。
一人で危険な場所へ入ったコルを、本気で叱ったばかりなのだ。
そんなガンツが、自分たちだけなら危険な地下へ送り出すはずがない。
「アリア」
ルカが静かに声を掛ける。
「最後まで聞こう」
「……うん」
アリアは椅子へ座り直した。
ガンツはその様子を見ると、少しだけ表情をやわらげた。
「行くなとは言ってない」
「……え?」
「俺も行く」
アリアは目をぱちぱちさせた。
「ガンツさんも?」
「ああ」
「もともと明日は心臓部を調べるつもりだった」
「そこからさらに古い井戸へ向かうなら、なおさら君たちだけでは行かせられん」
ぱっと胸が明るくなる。
「じゃあ、一緒に来てくれるの?」
「そう言ってる」
「やった!」
「ただし」
ガンツの声が低くなる。
「遊びじゃない」
「勝手に走るな」
「水路へ近づくなと言ったら近づかない」
「触るなと言ったものには触らない」
「分かったな?」
「はい!」
アリアは背筋を伸ばした。
「なの!」
マルルも前足を上げる。
ルカとノルンも静かにうなずいた。
その横から。
「じゃあ、ぼくも」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない!」
コルが思わず声を上げた。
「言おうとしただろ」
「……言おうとしたけど」
「その足で?」
ガンツの視線が右足へ落ちる。
コルも自分の添え木を見る。
「でも、ぼくも大地の声を聞けるし」
「その結果がその足だ」
「うっ」
一言で返され、コルの耳がぺたりと伏せる。
「明日は家で休め」
「……はい」
ルカが小さく笑った。
「今度はちゃんと待たないとな」
「ルカまで……」
「約束しただろ?」
コルは少しだけ口を尖らせたあと、諦めたように息を吐いた。
「……うん」
「今度は待つ」
その時。
「おにいちゃん……」
眠そうな声がした。
カーナの腕の中で、ルルが半分閉じた目をコルへ向けている。
「おにいちゃん、あした、いる?」
「うん」
コルは笑った。
「明日は家にいるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
ルルは安心したように笑った。
「じゃあ……いっしょ」
「うん。一緒にいよう」
その言葉を聞いた途端、ルルの目がとうとう閉じた。
カーナの肩へ頬を預け、すぐに小さな寝息を立て始める。
「まったく」
カーナは苦笑しながら娘を抱き直した。
「帰ってきたお兄ちゃんを、一日くらい独り占めしたいものね」
コルは少し照れくさそうに笑った。
その横顔を見て、アリアも自然と頬がゆるむ。
一人で行かない。
待つ。
誰かと一緒に行く。
さっきまでなら、ただの約束に聞こえたかもしれない。
けれど今は、その意味が少し違って聞こえた。
帰ってきてほしいと思ってくれる人がいる。
待っている人がいる。
だから、ちゃんと帰らなければいけない。
アリアは隣のルカとマルルを見る。
ノルンもいる。
そして、遠く離れた場所には、お父さんとお母さんがいる。
きっと待っている。
そう思うと、明日の地下が少し怖くても、不思議と心細くはなかった。
「さて」
カーナが眠ったルルを抱いたまま、みんなを見回した。
「明日の朝から行くんでしょう?」
「ああ」
「それなら、今日はもう休んでください」
「え、もう?」
アリアが思わず聞き返す。
「もういい時間ですよ」
地下なので外を見ても空はない。
けれど町の灯りは、いつの間にか少し落とされていた。
水路沿いの家々も、窓の明かりが一つ、また一つと消え始めている。
「あ……」
そう言われると、急に眠くなった気がした。
「明日はたくさん歩くんでしょう?」
「うん」
「なら、いっぱい寝ないと」
その言葉に、アリアは少し笑った。
「モーリと同じこと言ってる」
「モーリさん?」
「うん!」
「いっぱい食べて、いっぱい寝るのが子どものお仕事なんだって」
「まあ」
カーナが笑う。
「その人とは気が合いそうね」
「ふぁ……」
言っているそばから、アリアの口からあくびがこぼれた。
ルカが横を見る。
「眠いんじゃん」
「今のは違うの」
「何が?」
「眠くないあくび」
「そんなのあるのか?」
「あるもん」
言い返した直後。
「ふぁぁ……」
もう一度。
今度はノルンまで小さく笑った。
「どうやら、二回目も眠くないあくびのようですね」
「ノルンまでぇ」
部屋に、やわらかな笑い声が広がった。
その間に、ガンツは机の地下図をゆっくりと畳んでいた。
最後に一度。
心臓部の奥。
古い井戸が描かれた場所へ目を落とす。
その表情から、笑みが消える。
大地の声。
動かない昇降塔。
弱っている火の精霊。
古い井戸へ向かった大地の精霊。
そして、同じ場所を指す女神のコンパクト。
まだ、何が起きているのかは分からない。
けれど。
明日。
アリアたちは、グラナのさらに深い場所へ向かう。
人々が暮らす第二層の、その下。
町を支える場所。
グラナの心臓部へ。




