第4話 私のお部屋
朝。
小鳥たちの楽しげなさえずりに誘われるように、アリアはゆっくりと目を開けた。
「……ん」
目の前にあったのは、白くてふわふわの毛だった。
ルカは大きな猫の姿のまま、アリアのすぐそばで丸くなり、気持ちよさそうに眠っている。長いしっぽが、夢の中で誰かに返事をするように、ふわりと一度だけ揺れた。
「……ねこ」
アリアは小さく笑うと、起こさないようにそっと手を伸ばし、やわらかな毛並みをなでた。
「ふわふわ」
指先が白い毛へ沈む。
その小さな声が届いたのか、ルカの耳がぴくりと動いた。
「……おはよ」
まだ半分は夢の中にいるような、眠たげな声だった。
「おはよ」
アリアも嬉しそうに笑い返す。
昨日までは知らなかった朝。
けれど目を覚ませばルカがいて、部屋を出ればミルとレオがいる。
そんな朝の景色が、少しずつアリアの中へ馴染み始めていた。
◇ ◇ ◇
朝ご飯を食べ終えると、レオは大きな木の板を抱えて庭へ出ていった。
陽のよく当たる場所へ板をゆっくりと下ろし、そのそばへ道具を一つずつ並べていく。
木づち。
のこぎり。
のみ。
かんな。
どれもアリアには見たことのないものばかりだった。
道具が一つ、また一つと並べられていくたびに、いつもの庭が小さな工房へ姿を変えていく。
アリアはとことことレオの後ろをついていき、並んだ道具と大きな木の板を、不思議そうに見つめた。
「なにするの?」
レオは板へ片手を置き、まっすぐに伸びた木目を確かめるように、ゆっくりとなでる。
「ベッドを作る」
アリアは目を丸くした。
「……わたしの?」
「ああ」
レオは迷うことなくうなずく。
「昨日、約束したからな」
その言葉を聞いた途端、アリアの顔がぱっと明るくなった。
「わぁ!」
自分のために何かが作られる。
それがどれほど特別なことなのか、アリアにはまだうまく分からない。
それでも、嬉しいことだけは分かった。
けれど、木の板を見つめているうちに、ほんの少しだけ胸の奥が揺れた。
本当に、自分のものになるのだろうか。
ここに、自分のものを置いてもいいのだろうか。
アリアはその気持ちを口にできないまま、もう一度、木の板へ目を向けた。
◇ ◇ ◇
しばらくすると、ミルがお茶を運んできた。
「その木にしたのね」
レオは静かにうなずき、板に刻まれた木目を指先でなぞる。
「ああ。この木は、ずっと取っておいた木だ」
ルカが驚いたように顔を上げた。
「そうだったの?」
「ああ」
レオはどこか懐かしそうに目を細める。
「いつか、子どものベッドを作ろうと思ってな」
ミルがくすっと笑った。
「ルカの時は、間に合わなかったものね」
レオも少しだけ笑う。
「生まれる方が早かった」
ルカは自分のことなのに、不思議そうに首をかしげた。
「そうだったの?」
「ああ。だから、この木はそのまま残してあった」
アリアは、じっと木の板を見つめた。
ただの板に見える。
けれどレオの話を聞いていると、その木は長い間、誰かを待っていたような気がした。
「……だいじ?」
「ああ」
レオはアリアを見る。
「大事な子のための木だ」
アリアは小さく息をのんだ。
「……わたし?」
「ああ」
レオはもう一度、まっすぐにうなずく。
「アリアのベッドになる」
アリアはしばらくレオを見つめていた。
それから、まだ何の形にもなっていない木へ、そっと手を置く。
なめらかな木肌が、手のひらに触れた。
アリアは指先を離さないまま、もう一度、ゆっくりと木目をなぞった。
◇ ◇ ◇
コン。
コン。
コン。
庭に木づちの音が響き始めた。
アリアはレオの隣へちょこんと座り、作業する手元をじっと見つめる。
木が切られ、削られ、少しずつ形を変えていく。
ただの板だったものが、少しずつベッドらしい姿になっていく様子は、アリアには魔法のように見えた。
「……すごい」
思わずこぼれた声に、ルカが得意そうに胸を張る。
「パパね、家具職人なんだ」
「なんでも作れるんだよ」
レオは手を動かしたまま、苦笑した。
「木のものだけだ」
アリアはレオを見る。
作りかけのベッドを見る。
またレオを見る。
何度か見比べたあと、小さな声でつぶやいた。
「……わたしも」
ルカが首をかしげる。
「ん?」
「おてつだい」
アリアはぱっと立ち上がり、両手を前へ伸ばした。
「えっとね」
「えっとね」
真剣な顔で、ぎゅっと目を閉じる。
「き」
その声に応えるように、小さな手の間へ、ふわりと光が集まり始めた。
ミルが目を丸くする。
ルカも思わず身を乗り出した。
光はやわらかく揺れながら少しずつ大きくなり、ゆっくりと形を変えていく。
やがてアリアの手の中へ、小さな木の板が現れた。
「できた!」
アリアは嬉しそうに笑った。
「すごい!」
ルカの目も、きらきらと輝いている。
アリアはその板を大事そうに抱きしめると、レオへ差し出した。
「これ」
「つかって!」
レオは驚いたように目を見開き、それでも静かに手を伸ばした。
その瞬間。
ぽしゅん。
「……あ」
小さな木の板は、光の粒になって消えてしまった。
庭が、しんと静かになる。
アリアは何もなくなった手のひらを見つめたまま、動かなかった。
やがて、ゆっくりと肩が下がる。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
レオは作業の手を止めると、ゆっくりしゃがみ込み、アリアと目の高さを合わせた。
「どうして謝る?」
アリアは困ったように眉を寄せる。
「きえちゃった」
「おてつだい」
「できなかった」
レオは少しだけ目を細め、やさしく笑った。
「いや」
「ちゃんと手伝ってくれた」
アリアが顔を上げる。
「でも」
レオは作りかけのベッドへ、そっと手を置いた。
「ベッドはな」
「これから長い間、アリアと一緒にいるものだから」
アリアは黙って聞いている。
「魔法で作った木も、きっと立派な木なんだろう」
「でも、毎日眠る場所だからな」
レオは庭の向こうに広がる森へ目を向けた。
「この森で育った木で、何年も、何年もアリアを守ってくれるものを作ってやりたいんだ」
アリアも森を見る。
風に揺れる葉。
空へ向かって伸びる幹。
木々の隙間を通り抜けてくる、やさしい木の香り。
それから、もう一度、作りかけのベッドへ目を戻した。
レオは近くに置いてあった小さな板を一枚、持ち上げる。
「代わりに、これを運んでくれるか」
アリアの顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
小さな板を、両手でしっかりと抱える。
「よいしょ」
「よいしょ」
少し重たい。
それでも腕に力を入れ、一歩ずつ歩く。
板の重さを確かめるように、アリアはゆっくり、ゆっくりとレオのところまで運んだ。
レオはそれを受け取ると、にっこりと笑う。
「ありがとう」
「これで完成に一歩近づいた」
アリアは照れくさそうに笑った。
「……えへへ」
その横で、ルカがぱちぱちと手を叩く。
「アリアも一緒に作ったね!」
アリアは嬉しそうに何度もうなずいた。
「うん!」
◇ ◇ ◇
それからも、庭には木づちの音が響き続けた。
コン。
コン。
コン。
アリアは少し待つたびに、そっとレオの顔をのぞき込む。
「……できた?」
「まだだ」
「そっか」
また待つ。
少ししてから、もう一度。
「……できた?」
「まだだ」
「そっか」
そのやり取りを何度も繰り返すうちに、ルカがとうとう吹き出した。
「あはは!」
「アリア、ずーっと見てる!」
アリアは真剣な顔のまま、こくんとうなずく。
「たのしみ」
その一言に、ミルとレオも顔を見合わせ、やさしく笑った。
庭には、木づちの音と笑い声が重なっていた。
◇ ◇ ◇
昼ご飯を食べ終えると、アリアは真っ先に庭へ戻った。
レオは変わらず、木を削り続けている。
かんなを木へ滑らせるたび、さらさらと薄い木が削れ、くるりと丸まって足元へ落ちていった。
しゃっ。
さらり。
しゃっ。
木の香りが、風に乗って庭いっぱいへ広がっていく。
アリアは足元へ落ちた木くずを一つ拾い上げ、手のひらへそっと乗せた。
「……きれい」
薄く削られた木は、光を受けると、やわらかく透けて見えた。
くるくると丸まった形を、アリアは指先でそっとつまむ。
「りぼんみたい」
隣で見ていたミルが笑った。
「ほんとね」
アリアはその小さな木のリボンを、しばらく大事そうに眺めていた。
◇ ◇ ◇
午後の陽射しが傾き、庭の空気が少しずつ金色に変わり始めたころ。
レオは小さなのみを手に取り、枕元になる板へ細かな模様を彫り始めた。
こつ。
こつ。
こつ。
朝から響いていた木づちよりも、ずっと小さく、やわらかな音だった。
アリアは背伸びをして、レオの手元をのぞき込む。
「なにしてるの?」
レオは少しだけ笑った。
「もう少し」
「できてからのお楽しみだ」
「うん」
アリアは素直にうなずき、その場へちょこんと座った。
じっと。
じっと待つ。
ときどき背伸びをしてのぞき込みそうになり、そのたびに小さな体を元へ戻す。
こつ。
こつ。
こつ。
木を削る音だけが、穏やかに続いていく。
やがてレオはのみを置き、布で木肌を丁寧に磨き始めた。
何度も。
何度も。
布を滑らせるたび、木の表面がなめらかになり、夕暮れの光を受けて、やさしく輝いていく。
最後に全体を見渡すと、レオは大きく息をついた。
「……できた」
◇ ◇ ◇
その言葉を聞くと、アリアはとことこと駆け寄った。
「わぁ……」
そこには、小さな木のベッドがあった。
すべすべに磨かれた木肌。
やさしい木の香り。
そして枕元には、小さなお花が彫られている。
その両側には、アリアを包み込むように広がる一対の羽。
羽の先にも、小さな花が一輪ずつ咲いていた。
アリアは息をのんだまま、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、木へ触れる。
つるつる。
すべすべ。
「……おはな」
もう片方の手で、羽の彫刻をなぞる。
「はね」
レオは少し照れくさそうに頭をかいた。
「アリアのベッドだからな」
アリアは自分の背中の羽を振り返る。
それから、もう一度ベッドを見た。
「……おんなじ」
「ああ」
レオは静かにうなずく。
「世界に一つだけのベッドだ」
アリアはしばらく彫刻を見つめていた。
やがて振り返り、勢いよくレオへ抱きつく。
「ありがとう!」
レオは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにやさしく笑い、大きな手でアリアの頭をなでた。
「気に入ってくれたか」
アリアは何度も、何度もうなずく。
「うん!」
ミルはその様子を見ながら、目を細めた。
「よかったわね」
ルカも嬉しそうにベッドをのぞき込む。
「いいなぁ」
「かわいい!」
アリアはベッドを見る。
ルカを見る。
ミルを見る。
レオを見る。
それから、もう一度にこっと笑った。
レオはベッドをそっと持ち上げる。
「運ぶぞ」
ルカがぱっと立ち上がった。
「ぼくも手伝う!」
二人は息を合わせるようにベッドを抱え、ゆっくりと家の中へ運び始める。
アリアも、その後ろを嬉しそうに、とことことついていった。
◇ ◇ ◇
部屋の扉が静かに開いた。
小さな窓から差し込む夕暮れの光が、木の床をやさしく照らしている。
白いカーテンが風を受け、ふわりと揺れた。
壁には小さな棚が一つだけ。
まだほとんど何も置かれていない、小さな部屋だった。
レオは部屋の真ん中まで進むと、ベッドをそっと床へ下ろした。
ことん。
静かな音が、部屋の中へ響く。
ミルは新しいシーツを広げた。
ふわり。
白い布が風を受けてやさしく膨らみ、そのままベッドへ落ちる。
枕を置き、毛布のしわを丁寧に伸ばすと、一歩下がって微笑んだ。
「できたわ」
アリアは部屋の入口に立ったまま、動かなかった。
窓を見る。
白いカーテンを見る。
ベッドを見る。
もう一度、ベッドを見る。
「……いいの?」
小さな声だった。
ミルはやさしく微笑む。
「もちろん」
レオも静かにうなずいた。
「ああ」
「今日から、アリアの部屋だ」
アリアは、その言葉を聞いたまま、しばらく立ち尽くしていた。
今日から。
アリアの部屋。
やがて、一歩を踏み出す。
もう一歩。
ゆっくりとベッドへ近づき、そっと腰を下ろした。
ぽすん。
小さな体が、やわらかく沈む。
アリアは枕元へ手を伸ばし、羽の彫刻をそっとなでた。
つるつる。
すべすべ。
それから、部屋を見回す。
窓。
白いカーテン。
自分のベッド。
ミル。
レオ。
ルカ。
みんなが笑っていた。
アリアも、小さく笑う。
「……すき」
誰も何も言わなかった。
ただ、三人とも嬉しそうに笑っていた。
アリアはもう一度だけ、羽の彫刻へ触れる。
つるつる。
すべすべ。
「……えへへ」
小さく笑う声が、夕暮れの部屋へやさしく溶けていった。
その夜から、アリアには帰る部屋ができた。




