第4話 私のお部屋
朝。
小鳥たちの楽しげなさえずりに誘われるように、アリアはゆっくりと目を開けた。
「……ん」
最初に見えたのは、目の前いっぱいに広がる白くてふわふわした毛だった。
昨夜、一緒のベッドへ入ったルカは、大きな猫の姿のままアリアのすぐそばで丸くなっている。まだ眠りは深いらしく、胸の辺りがゆっくりと上下し、そのたびに柔らかな毛もわずかに揺れていた。
長い尻尾が、夢の中で誰かに返事でもしているように、ふわりと一度だけ動く。
「……ねこ」
アリアは小さく笑った。
昨日なら、男の子だったルカが大きな猫になっていることを不思議がっていたかもしれない。
けれど今朝はもう、そこにいるのがルカだと分かっている。
起こさないようにそっと手を伸ばし、白い毛を撫でてみる。
「ふわふわ……」
指先が柔らかな毛の中へ沈んでいった。
その小さな声が届いたらしく、ルカの猫耳がぴくりと動く。
「……おはよ」
まだ半分は夢の中にいるような、眠たげな声だった。
「おはよ」
アリアも嬉しそうに笑い返した。
目を覚ませば隣にルカがいる。
部屋を出れば、ミルとレオもいる。
昨日初めて来たばかりの家なのに、そんな朝の景色が、ほんの少しだけ当たり前のものになったような気がした。
◇
朝ご飯を食べ終えると、レオは大きな木の板を抱えて庭へ出ていった。
陽のよく当たる場所へ板をゆっくり下ろし、そのそばへ作業に使う道具を一つずつ並べていく。
木づちに、のこぎり。
のみや、かんな。
どれもアリアには初めて見るものばかりだった。
道具が一つ置かれるたび、いつもの庭が少しずつ何かを作る場所へ変わっていく。
アリアはとことことレオの後ろをついていき、並んだ道具と大きな木の板を交互に眺めた。
「なにするの?」
レオは板へ片手を置き、まっすぐ伸びた木目を確かめるようにゆっくり撫でた。
「ベッドを作る」
アリアの目が丸くなる。
「……わたしの?」
「ああ」
昨日の夜にも聞いた話だった。
それでも、本当に朝になって木が運ばれ、目の前で何かが始まろうとしているのを見ると、もう一度確かめずにはいられなかった。
「ほんとに?」
「昨日、約束したからな」
レオは当たり前のことのように答えた。
その言葉を聞いた途端、アリアの顔がぱっと明るくなる。
「わぁ!」
自分のために何かを作ってもらう。
それがどれほど特別なことなのか、四歳のアリアにはまだうまく説明できなかった。
嬉しい。
それだけなら、すぐに分かる。
けれど目の前の大きな木を見ているうちに、胸の奥には、それとは少し違う気持ちも生まれてきた。
この家へ来たのは昨日だ。
先生が迎えに来れば、自分はきっと帰る。
それなのに、この家の中へ、自分のためのベッドを置いてもいいのだろうか。
そこまでを言葉にすることはできず、アリアはただ、まだ何の形にもなっていない木の板をじっと見つめた。
◇
しばらくすると、ミルがお茶を運んできた。
「その木にしたのね」
レオは頷き、板に刻まれている木目を指先でゆっくりとなぞった。
「ああ。この木は、ずっと取っておいたんだ」
近くにいたルカが驚いたように顔を上げる。
「そうだったの?」
「いつか、子どものベッドを作る時に使おうと思ってな」
ミルが懐かしそうに笑った。
「ルカの時は間に合わなかったものね」
「生まれる方が早かった」
「そうだったの?」
本人だけが知らなかったらしく、ルカは不思議そうに父親を見ている。
レオはそんな息子へ小さく笑うと、もう一度木へ目を落とした。
「だから、そのまま残してあった」
アリアも木の板を見た。
さっきまでなら、ただの大きな板にしか見えなかった。
けれど話を聞いたあとでは、少しだけ違って見える。
ずっと使われずに、大切に置かれていた木。
それが今日、自分のベッドになるために庭へ運ばれてきた。
「……だいじ?」
「大事に取っておいた木だ」
レオはそう答えたあと、アリアを見る。
「今日から、アリアのベッドになる」
「……わたしの」
「ああ」
アリアはしばらくレオの顔を見ていた。
それから、おそるおそる木へ手を伸ばす。
なめらかな木肌が、小さな手のひらへ触れた。
ここから本当に、自分のベッドができる。
そう思いながら、アリアは指先で木目をゆっくりとなぞった。
◇
コン。
コン。
庭へ木づちの音が響き始めた。
アリアはレオの邪魔にならないところへちょこんと座り、作業する大きな手を飽きることなく見つめていた。
木を測って。
切って。
削って。
また組み合わせる。
さっきまで一枚の板だったものが、レオの手の中で少しずつ別の形へ変わっていく。
「……すごい」
思わずこぼれた声を聞き、隣にいたルカがなぜか本人より得意そうに胸を張った。
「パパね、家具職人なんだ。なんでも作れるんだよ」
「木のものだけだ」
レオは手を動かしたまま苦笑した。
アリアはレオを見る。
作りかけのベッドを見る。
それから、もう一度レオを見る。
みんなが、自分のために何かをしてくれている。
それなのに、自分だけが座って見ている。
そう思った途端、アリアにも何かしたくなった。
「……わたしも」
ルカが首を傾げる。
「ん?」
「おてつだい」
アリアはぱっと立ち上がると、両手を胸の前へ伸ばした。
「えっとね……」
眉を寄せ、今までよりずっと真剣な顔になる。
頭の中で、目の前にある木を思い浮かべているらしい。
「……き」
その声に応えるように、小さな手の間へふわりと光が集まり始めた。
「わぁ……」
ルカが身を乗り出し、ミルも驚いたように目を丸くする。
光はアリアの手の中で柔らかく揺れながら少しずつ形を作り、やがて小さな木の板へ変わった。
「できた!」
アリアの顔が一気に明るくなる。
「すごい!」
ルカも目を輝かせた。
自分もベッドを作る手伝いができた。
そのことが嬉しくてたまらないらしく、アリアは出来上がった小さな板を両手で大切そうに抱え、レオのところまで持っていった。
「これ、つかって!」
レオが驚いたように目を見開いた。
それでも、アリアの気持ちごと受け取るように手を差し出す。
その瞬間。
ぽしゅん。
「……あ」
小さな木の板は、レオの手へ届くより先に光の粒へ戻り、そのまま消えてしまった。
アリアは何もなくなった自分の両手を見つめた。
さっきまで、ちゃんとあった。
作れたと思った。
お手伝いができると思った。
それなのに。
小さな肩が、少しずつ下がっていく。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。
レオはすぐに作業の手を止めた。
そのままアリアの前へしゃがみ込み、目の高さを合わせる。
「どうして謝る?」
「きえちゃった」
アリアはまだ、自分の両手を見ていた。
「おてつだい、できなかった」
「いや」
レオの返事は早かった。
「手伝おうとしてくれただろう。それで十分だ」
アリアが顔を上げる。
「でも……」
レオは作りかけのベッドへ片手を置いた。
「これは、これからアリアが眠るものだからな」
アリアは黙って聞いている。
「魔法で作った木が悪いわけじゃない。でも、毎日使うものなら、何年たっても残る木で作ってやりたい」
そう言って、レオは庭の向こうに広がる森へ目を向けた。
「この森で長い時間をかけて育った木で、丈夫なものを作る。それが俺の仕事だ」
アリアもつられるように森を見た。
風に揺れる葉。
空へ向かって伸びている幹。
長い時間をかけて育った木が切られ、ずっと大事にしまわれ、今は目の前で自分のベッドになろうとしている。
さっき作った木の板は消えてしまった。
けれど、手伝いたいと思った気持ちまで消えたわけではない。
レオは近くに置いてあった小さな板を一枚持ち上げた。
「代わりに、これを運んでくれるか」
アリアの顔が、ぱっと明るくなった。
「うん!」
差し出された板を、両手でしっかり抱える。
「よいしょ」
思っていたより少し重い。
けれど今度は、消えない。
両腕にちゃんと重さがあって、一歩歩けば、そのぶんだけ板も一緒に動いていく。
「よいしょ……」
ゆっくり。
もう一歩。
一生懸命運んできた板をレオが受け取ると、大きな手でしっかり持って頷いた。
「ありがとう。これで完成に一歩近づいた」
「ほんと?」
「ああ」
今度こそ、ちゃんと手伝えた。
アリアの頬が嬉しそうに緩む。
「……えへへ」
その横では、ルカがぱちぱちと手を叩いていた。
「アリアも一緒に作ったね!」
「うん!」
アリアは何度も頷いた。
◇
それからも、庭には木づちの音が続いた。
コン、コン、と一定の音が響くたび、ベッドは少しずつ形になっていく。
けれどアリアには、どこまで進めば完成なのかが分からない。
しばらく待っては、そっとレオの顔を覗き込む。
「……できた?」
「まだだ」
「そっか」
また少し待つ。
レオが板を合わせる。
アリアも待つ。
けれど、やっぱり気になる。
「……できた?」
「まだだ」
「そっか」
三度目くらいまではルカも黙っていたけれど、それ以上になるととうとう堪えられなくなった。
「あはは! アリア、ずーっと見てる!」
笑われても、アリアは真剣な顔のまま頷く。
「たのしみ」
その一言を聞き、レオとミルも顔を見合わせて笑った。
木づちの音と笑い声が、庭の中へ一緒に響いていった。
◇
昼ご飯を食べ終えると、アリアは真っ先に庭へ戻った。
レオは朝と変わらず作業を続けている。
今度使っているのは、かんなだった。
木の表面を滑らせるたび、さらさらと薄い木が削れ、くるりと丸まりながら足元へ落ちていく。
そのたびに朝よりも濃くなった木の香りが風へ乗り、庭いっぱいへ広がった。
アリアは足元へ落ちた一つを拾い上げ、手のひらへそっと乗せる。
「……きれい」
薄く削られた木は、日の光を受けると少しだけ透けて見えた。
くるくると丸まった形を指先でつまみながら眺めているうちに、アリアは何かを思いついたように笑う。
「りぼんみたい」
隣に来たミルも覗き込んだ。
「ほんとね」
アリアはその小さな木のリボンを、壊してしまわないよう両手で包み、しばらく大切そうに眺めていた。
◇
午後の陽射しが傾き、庭の空気が少しずつ金色へ変わり始めた頃。
レオは小さなのみを手に取り、枕元になる板へ細かな模様を彫り始めた。
朝から響いていた木づちとは違う、こつ、こつ、という小さな音が続いていく。
「なにしてるの?」
気になったアリアが背伸びをして覗き込もうとすると、レオは少しだけ笑った。
「もう少し。できてからのお楽しみだ」
「うん」
アリアは素直に頷き、その場へちょこんと座った。
待つ。
けれど、やっぱり気になる。
少しすると身体が伸びていく。
けれど途中で「お楽しみ」と言われたことを思い出し、また元へ戻る。
しばらくすると、また少しだけ伸びる。
そのたびにルカが横で笑いを堪えていたが、アリア本人は真剣だった。
やがて、のみの音が止まった。
今度は布を使い、木の表面を何度も丁寧に磨いていく。
ざらりとしていた場所が少しずつ滑らかになり、夕暮れの光を受けて柔らかく輝き始める。
最後に全体へ一度目を走らせると、レオはようやく大きく息を吐いた。
「できた」
その一言を、アリアは朝からずっと待っていた。
◇
「できた!?」
すぐに立ち上がり、とことこと駆け寄る。
そこで初めて完成したものを正面から見たアリアは、そのまま足を止めた。
「わぁ……」
小さな木のベッドだった。
朝には何枚もの板でしかなかったものが、一日かけて一つにつながり、アリアが横になれるほどの立派なベッドになっている。
丁寧に磨かれた木肌はすべすべとして、近づくだけでやさしい木の香りがした。
けれど、アリアが一番目を奪われたのは枕元だった。
そこには、小さな花が彫られている。
その両側には、花を包み込むように一対の羽が広がり、さらにその先にも小さな花が一輪ずつ咲いていた。
アリアは息を呑んだまま、ゆっくり手を伸ばす。
指先で花へ触れる。
「……おはな」
もう片方の手で、羽の彫刻をなぞった。
「はね……」
何度か見比べたあと、自分の背中にある小さな白い羽まで振り返る。
「……おんなじ」
「ああ」
レオは少し照れくさそうに頭をかいた。
「アリアのベッドだからな」
そして、完成したばかりのベッドへ目を向ける。
「世界に一つだけだ」
その言葉を聞いたアリアは、もう一度ベッドを見た。
世界に一つ。
自分のために、朝からレオが作ってくれたもの。
途中では、自分も板を運んだ。
朝から聞いていた木づちの音も、くるくる丸まった木のリボンも、何度も「できた?」と聞いたことまで、このベッドの中へ全部入っているような気がした。
アリアはくるりと振り返ると、そのまま勢いよくレオへ抱きついた。
「ありがとう!」
「おっと」
少し驚きながらも、レオはすぐに大きな手で小さな頭を撫でた。
「気に入ってくれたか」
「うん!」
アリアは何度も、何度も頷いた。
ミルも嬉しそうに目を細め、ルカはベッドを覗き込みながら声を上げる。
「いいなぁ。かわいい!」
アリアはベッドを見て、ルカを見て、それからミルとレオを見る。
みんなが、自分のベッドを見ながら笑っている。
そのことが何だか嬉しくて、アリアもまた笑った。
レオは完成したベッドへ手を掛ける。
「じゃあ、部屋へ運ぶぞ」
「僕も手伝う!」
ルカもすぐに駆け寄った。
二人がベッドを持ち上げ、息を合わせながら家の中へ運んでいく。
アリアは、その後ろを嬉しそうにとことことついていった。
◇
部屋の扉が、静かに開いた。
小さな窓から夕暮れの光が差し込み、木の床を柔らかく照らしている。
窓辺では白いカーテンが風を受けてふわりと揺れ、壁には小さな棚が一つあるだけで、ほかにはまだほとんど何も置かれていない部屋だった。
レオはその真ん中までベッドを運ぶと、床へそっと下ろした。
ことん、と木の触れ合う音がする。
続いてミルが新しいシーツを広げた。
白い布がふわりと膨らみ、ベッドへ落ちる。
枕を置き、毛布のしわまで丁寧に伸ばし終えると、ミルは一歩下がって微笑んだ。
「できたわ」
けれどアリアは、まだ部屋の入口に立ったままだった。
窓を見る。
白いカーテンを見る。
そして、部屋の真ん中に置かれた、自分のためのベッドを見る。
「……いいの?」
それでも、もう一度聞いてしまった。
朝からずっと、自分のものだと言われている。
レオが作るところだって、最初から最後まで見ていた。
それでも、こんな場所を本当に自分が使っていいのか、まだ少しだけ信じられなかった。
ミルはそんなアリアへ、何度聞かれても同じように微笑んだ。
「もちろん」
レオも頷く。
「ああ。今日から、アリアの部屋だ」
その言葉を聞いたまま、アリアはしばらく動かなかった。
今日から。
アリアの部屋。
先生が迎えに来たら、自分は帰るのだと思っている。
昨夜だって、先生が来てくれないことが寂しくて泣いた。
帰りたい気持ちは、今もなくなっていない。
それなのに、この家には自分が眠る場所があって、自分のために作られたベッドまである。
帰りたいと思ったままでも、ここにいていい。
そんなふうに言われているような気がした。
アリアはようやく一歩、部屋の中へ入った。
それからもう一歩進み、ベッドのところまで行くと、そっと腰を下ろす。
ぽすん。
小さな身体が柔らかく沈んだ。
アリアは枕元へ手を伸ばし、朝から何度も見てきた木へもう一度触れた。
すべすべしている。
指を動かすと、その先には自分と同じ羽の彫刻がある。
それから顔を上げ、部屋を見回した。
窓。
白いカーテン。
小さな棚。
自分のベッド。
そして入口には、ルカとミルとレオがいる。
三人とも何も言わず、アリアがどうするのかを待つように笑っていた。
アリアも少しだけ笑った。
「……すき」
それだけだった。
けれど三人には十分だったらしい。
ルカの顔がぱっと明るくなり、ミルも嬉しそうに目を細め、レオも静かに笑った。
アリアはもう一度、枕元の羽へ触れる。
昨日までは、この家のことさえ知らなかった。
けれど今は、ここに自分が眠る場所がある。
先生を待っていてもいい。
帰りたいと思っていてもいい。
それでも、この部屋にいていい。
アリアは柔らかな毛布へ手を置くと、嬉しそうに小さく笑った。
「……えへへ」
その声が、夕暮れの光に満ちた小さな部屋へ柔らかく溶けていった。
その夜から。
アリアには、この家の中に、自分のための部屋ができた。




