第3話 やさしい夜
ご飯を食べ終える頃には、窓の外はすっかり夕暮れの色へ変わっていた。
ミルは空になった皿を重ねながら、食卓を囲んでいる皆の顔を見回した。森で拾われたばかりのアリアも、最初こそ少し緊張していたものの、最後にはパンもスープもきれいに食べている。
「今日はたくさん頑張ったものね」
そう言ってから、ミルはアリアへやさしく目を向けた。
「お風呂に入りましょうか」
聞き慣れない言葉だったらしく、アリアが小さく首を傾げる。
「……おふろ?」
その隣で、ルカの顔がぱっと明るくなった。
「きもちいいよ! ぽかぽかになるんだ!」
あまりにも嬉しそうに言うものだから、ミルもくすっと笑った。
「それなら一緒に入りましょう」
◇
しばらくして、湯気が白く立ちのぼる浴室へ連れてこられたアリアは、浴槽の前でしばらく動かなかった。
雲の上にも水はあったけれど、こんなふうに大きな箱いっぱいへ温かな水をため、その中へ身体ごと入ることなど知らない。
ルカはもう平気な顔で肩まで浸かっている。
「はいっていいの?」
「いいんだよ」
そう言われても、いきなり全部入る勇気はなかった。
アリアは浴槽の縁へ手をつき、まず片方のつま先だけを、そっとお湯へ入れてみた。
「……!」
触れた瞬間、青い瞳がぱっと丸くなる。
「あったかい!」
「でしょ!」
ルカが得意そうに笑った。
それなら大丈夫らしい。
アリアも嬉しくなり、今度はゆっくり足を入れ、身体を少しずつ沈めていった。
足からお腹へ、そして胸のあたりまで温かなお湯に包まれると、森を歩いている間に身体のどこかへ残っていた疲れまで、一緒にほどけていくようだった。
「ふぅ……」
思わず小さな息がこぼれる。
その顔がおかしかったのか、ルカが両手でお湯をすくい、
ぱしゃっ。
と小さなしぶきを飛ばした。
「あっ」
アリアがルカを見る。
ルカも見る。
二人はしばらく顔を見合わせたあと、どちらからともなくくすくす笑い始めた。
「こらこら」
止めるミルまで笑っている。
アリアの水色の髪へ少しずつお湯をかけ、森でついた葉や細い枝、それに転んだ時の土を丁寧に洗い流していった。
最後には、背中にある小さな白い羽も一枚ずつやさしく洗ってもらう。
「きれいな羽ね」
アリアは褒められた羽を振り返ろうとして、身体を少しひねった。
「……ふわふわ?」
「ええ、とっても」
ミルが微笑みながら残った泡を流すと、濡れた羽が小さく震えた。
知らない森へ落ちてきた時には草や土がたくさんついていた身体も、湯船から上がる頃にはすっかりきれいになっていた。
◇
お風呂から上がると、今度は着るものが必要だった。
ミルは棚の中を何度か覗き込みながら、奥へしまわれている服を一枚ずつ確かめていく。
「どこだったかしら……」
やがて一番奥から、小さな寝間着を取り出した。
「あった。これなら着られそうね」
それを見たルカが、すぐに声を上げる。
「あ! ぼくのだ!」
ミルも懐かしそうに笑った。
「ルカが四歳くらいの頃に着ていたのよ」
アリアは、きれいに畳まれた寝間着をじっと見た。
自分の服ではない。
それでも、自分のためにわざわざ探してくれたものだということは分かった。
「……いいの?」
「もちろん」
ミルは当たり前のことのように頷いた。
「新しいお洋服はちゃんと作ってあげるから、それまではこれを貸してあげるね」
着せてもらうと、同じ四歳頃の服でも、やはり少しだけ大きかった。
袖はそのままだと指の先まで隠れそうになり、裾も少し長い。
ミルはそれを見て、袖を一度折り返し、裾もくるりと整えた。
「これでぴったり」
アリアは自分の身体を見下ろした。
さっきまで着ていた土のついた服とは違い、柔らかな布が身体を包んでいる。
確かめるように、その場でくるりと一回転すると、寝間着の裾がふわりと揺れた。
「かわいい」
ルカが素直に言った。
「……」
アリアは一瞬きょとんとしたあと、その意味が分かったらしく、頬をほんのり赤くした。
「……えへへ」
その小さな笑顔を見て、ミルも嬉しそうに目を細めた。
◇
夜が深くなってくると、今度は眠る場所を決めなければならなかった。
ミルは寝室の方へ目を向け、少しだけ困ったように首を傾げる。
「困ったわ。まだアリアちゃんのベッドがないのよね」
すると、それまで黙っていたレオが、何でもないことのように言った。
「明日作ろう」
たった一言だった。
けれどそこには、少しの迷いもなかった。
アリアは目を丸くしてレオを見る。
「……わたしの?」
「ああ」
レオが頷く。
「アリアのベッドだ」
アリアはしばらく何も言えなかった。
森で会ったばかり。
自分がいつまでここにいるのかさえ分からない。
それなのに、明日には自分のためのベッドを作ってくれるという。
ミルも、そんなことは当然だというように笑っている。
「楽しみね」
その隣から、待ってましたと言わんばかりにルカが勢いよく手を挙げた。
「今日はぼくと寝る! ぼくのベッド広いよ!」
レオも小さく笑った。
「それがいい」
◇
ルカの部屋は、木の香りがする小さくて落ち着いた部屋だった。
二人で並んでベッドへ入ると、アリアの隣でルカの身体がふわりと白い光に包まれた。
もう一度見る変身だったけれど、アリアは今度もじっと目を離さなかった。
光が静かに消える。
そこにいたのは、昼間アリアを背中へ乗せて森を歩いた、大きな白い猫だった。
「……ねこ」
アリアは嬉しそうに笑った。
もう「どこへ行ったの」とは聞かなかった。
男の子のルカも、大きな猫のルカも、どちらも同じルカなのだということは、まだ完全には分からなくても、少しだけ受け入れられるようになっていた。
アリアはふわふわの身体へ近づき、その毛の中へ顔をうずめる。
昼間、背中へ乗せてもらった時と同じぬくもりが、頬へ伝わってきた。
「あったかい」
ルカの長い尻尾が、ゆっくり揺れた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
灯りが消されると、窓の外で鳴いている虫の声が少し近くなった。
知らない森。
知らない夜。
それでも隣にはルカがいて、規則正しい寝息が静かな部屋の中へ続いている。
すう、すう、と聞こえてくるその音を聞きながら、アリアもゆっくり目を閉じた。
今日は、本当にいろいろなことがあった。
雲から落ちて。
知らない森で目を覚まして。
大きな猫に会って、その背中へ乗せてもらって。
温かなスープを食べた。
ぽかぽかのお風呂にも入った。
ルカが小さい頃に着ていた寝間着まで貸してもらい、明日になれば、自分のためのベッドを作ってもらえる。
ルカも、ミルも、レオも。
今日初めて会った人たちなのに、みんなとても優しかった。
だからなのかもしれない。
安心した途端、それまで胸の奥でずっと頑張っていたものが、ふっとほどけた。
閉じていた目の端から、一粒だけ涙が流れた。
「……せんせ」
小さく呼んでみる。
返事はない。
もう一度、さっきより少しだけ声を小さくして。
「せんせ……」
今度は反対の頬を、もう一粒の涙が伝った。
先生なら迎えに来てくれると思っていた。
森で目を覚ました時も。
ルカの家へ来た時も。
ご飯を食べている時だって。
もう少し待てば、きっと来るのだと思っていた。
けれど、もう夜になった。
それでも先生はいない。
ようやくそのことを本当に分かってしまった途端、もう涙を止めることはできなくなった。
「……さみしい」
小さな声がこぼれ、肩が震えた。
その時だった。
ふわりと、背中へ柔らかなものが触れた。
「……?」
ルカの長い尻尾だった。
もう眠っていると思っていたのに、ふわふわの尻尾がアリアの背中へそっと添えられている。
少しすると、すぐ隣から眠たそうな声が聞こえた。
「だいじょうぶ」
それから少しだけ間を置いて。
「きっと、また会えるよ」
アリアは返事をしなかった。
できなかった。
代わりに身体を少しだけルカの方へ寄せ、ふわふわの毛へ顔をうずめた。
先生とは違う。
先生の代わりでもない。
それでも、背中へ触れている尻尾と、頬へ当たるルカのぬくもりは、今のアリアを一人にはしなかった。
しばらくそうしているうちに、あふれていた涙は少しずつ止まり、乱れていた呼吸もゆっくり落ち着いていった。
「……おやすみ」
今度は、さっきより小さな声で呟いた。
「おやすみ」
ちゃんと返事が返ってきた。
その声を聞いてから、アリアはもう一度目を閉じた。
背中には、まだルカの尻尾のぬくもりがある。
一人ではない。
そう思いながら、アリアは今度こそ静かな眠りへ落ちていった。
◇
部屋の外では、ミルがそっと扉へ手を伸ばしていた。
ほんの少し前、中からアリアの小さな泣き声が聞こえたからだった。
けれど扉を開ける前に、隣に立っていたレオが静かに首を振った。
「大丈夫だ」
レオは閉じた扉へ目を向けたまま続ける。
「ルカがいる」
ミルはすぐには手を下ろさなかった。
少しだけ迷いながら、扉の向こうへ耳を澄ませる。
もう泣き声は聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、二人分の穏やかな寝息だけだった。
「……そうね」
ミルはようやく扉から手を離した。
目元には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいる。
レオはそんなミルを見てから、窓の外へ広がる夜空へ目を向けた。
「明日は忙しくなるな」
「ベッドも」
「服もね」
ミルはゆっくり頷いた。
「まずは、あの子がここにいても安心できるようにしてあげなくちゃ」
「ああ」
今日からすぐに家族になれるわけではない。
アリアには帰りたい場所があり、会いたい先生もいる。
それでいい。
迎えが来るまで。
帰れる日が来るまで。
この家にいる間だけでも、ここにいていいのだと思える場所を作ってやればいい。
レオもミルも、その先のことまではまだ知らなかった。
この小さな天使が、いつまでこの家にいることになるのかも。
ルカとどれほど長い時間を一緒に過ごすことになるのかも。
けれど家族というものは、きっと最初からそう呼ばれて始まるのではない。
同じ食卓を囲み。
眠る場所を作り。
泣いている時にはそばにいて。
そんな小さなことを、一つずつ積み重ねていくうちに、いつの間にか形になっていくものなのかもしれない。
窓の外には満天の星が広がり、そのやさしい光が、森の中の小さな家を静かに包んでいた。




