第2話 あったかいごはん
家の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりと温かな匂いがアリアを包み込んだ。
「わぁ……」
思わずその場で足を止め、きょろきょろと辺りを見回す。
木の床はやさしい飴色に磨かれ、部屋の真ん中に置かれた丸いテーブルには、小さな花が飾られていた。窓から差し込む夕方の光も、さっきまでいた森の木漏れ日とは違ってどこか柔らかく、家の中はどこを見ても、ほっとするような温かな色で満ちている。
ここだって、アリアにとっては初めて見る場所のはずだった。
それなのに、玄関の外でミルの手を握った時と同じように、不思議と怖いとは思わなかった。
「こっちへいらっしゃい」
ミルが丸いテーブルのそばへ行き、椅子を一つそっと引いてくれる。
アリアは小さく頷くと、少し高い座面へ両手をつき、よいしょ、と身体を持ち上げた。四歳の小さな身体では、椅子へ座ってもまだ足が床まで届かない。
ぶらん、と片方の足を揺らし、反対側も同じように動かしてみる。
自分の靴が交互に揺れるのを眺めているうちに、目の前へ、ことん、と湯気の立つ皿が置かれた。
「はい、どうぞ」
野菜がたっぷり入った温かなスープに、こんがりと焼けたパン。それから、瑞々しい野菜を使ったサラダまで並んでいる。
家へ入った時から漂っていた香ばしい匂いが、今度はもっと近くから鼻へ届いた。
その途端。
きゅるる。
「……」
アリアは、自分のお腹を見下ろした。
どうやら匂いを嗅いだだけで、身体の方が先に「食べたい」と言い出してしまったらしい。
けれど、向かいへ座ったルカも、その隣にいるミルもレオも、すぐには食べ始めなかった。
三人は揃って胸の前で静かに手を合わせる。
「いただきます」
アリアはきょとんとして、その姿を眺めた。
気づいたルカが、合わせている自分の手を少し持ち上げてみせる。
「こうするんだよ」
アリアはルカの手と自分の手を交互に見比べてから、真似をするように胸の前へ両手を合わせた。
「……いただきます」
「上手ね」
ミルに褒めてもらうと、それだけで何か一つ新しいことができるようになった気がして、アリアの頬が少し緩んだ。
それから、ようやくスプーンを手に取る。
湯気の立つスープを少しだけすくい、熱くないよう何度か息を吹きかけてから、そっと口へ運んだ。
「……!」
青い瞳が、ぱっと大きくなる。
野菜のやさしい甘みが口いっぱいに広がり、そのまま喉を通っていくと、森の中で知らないうちに冷えていた身体の奥まで、じんわり温められていくようだった。
「あったかい……」
思わず声がこぼれた。
もう一口飲んでみる。
今度はさっきより少し大きく。
それから、もう一口。
気づけばアリアは、誰かに勧められるまでもなく、夢中になってスプーンを動かしていた。
その様子を見ながら、ミルが嬉しそうに目を細める。
「おいしい?」
アリアは口の中のものを飲み込むと、何度も頷いた。
「おいしい」
その一言だけで十分だったらしい。
ミルとレオは一度顔を見合わせ、どこかほっとしたように笑った。
しばらくは、誰も難しいことを尋ねなかった。
アリアがスープを飲み、パンを少しずつちぎって食べる間、ルカたちも同じように食事を続けている。
知らない家で、今日初めて会った人たちと食卓を囲んでいる。それなのに、みんなが同じものを食べ、同じ湯気の向こうにいるだけで、胸の奥に残っていた心細さが少しずつ小さくなっていくようだった。
やがてアリアの食べる速さが落ち着いてきた頃、レオが穏やかな声で口を開いた。
「アリア」
「なあに?」
「どうして森にいたのかな?」
その問いに、アリアのスプーンが止まった。
そっと皿へ戻し、小さな眉を寄せながら考え始める。
「……えっとね」
どうして、と聞かれても、一言ではうまく説明できない。
少し前まで雲の上にいて、先生と飛ぶ練習をしていた。それから、もっと飛びたいと思って。
「……あ!」
何かを思い出したように声を上げたアリアは、ぴょこんと椅子から飛び降りた。
「そら!」
両手をいっぱいに広げる。
「それからね、びゅーんって!」
どうやら言葉だけで説明するより、そのままやって見せることにしたらしい。
部屋の中を少し走り、小さな白い羽をぱたぱたと動かしながら振り返る。
「れんしゅうしてたの! せんせと!」
くるりと身体の向きを変え、今度は両腕まで羽のように大きく広げた。
「それで、えいっ! ってしたらね」
背中の羽を一生懸命動かしながら身体を傾ける。
「くるくるになって、とまんなくなって……」
そのまま一回転し、もう一度回ろうとして足がもつれた。
「きゃっ」
ぺたん、と床へ尻もちをつく。
ルカが思わず笑い声を上げた。
「落ちたんだ」
「うん!」
床へ座ったまま、アリアは元気いっぱいに頷いた。
けれど、話はまだ終わっていない。
すぐに立ち上がると、今度は両手を大きく広げ、落ちていく自分を再現するように身体を揺らした。
「うわぁぁぁぁーって!」
小さな身体いっぱいを使った説明は、いつの間にか食事の部屋を小さな舞台のようにしていた。
ミルもレオも、途中までは思わず笑いながら見ている。
けれど、そこでアリアの動きが少し変わった。
さっきまで楽しそうに回っていたのに、今度は天井の向こうへ誰かを探すように顔を上げ、両手を精いっぱい伸ばした。
「せんせ!」
その声には、先ほどまでとは少し違う響きが混じっていた。
「せんせーー!」
落ちていく自分が、必死に助けを求めていた時の声だった。
小さな指先を何度伸ばしても、そこには何もない。
アリアは少し困ったように眉を寄せると、今度は片手を前へ伸ばした。
「それでね、ぴかーってしたの」
両腕を胸の前へ丸くし、何かに包まれているような格好をする。
「ぴかーって、ふわぁーってなって……」
その光を思い出したのか、アリアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「せんせ、まもってくれたの」
それまで笑っていた部屋が、静かになった。
ミルもレオも、すぐには何も言わなかった。
四歳の子どもの話としては、あまりにも不思議だった。
空で飛ぶ練習をしていた。
そこから落ちた。
先生へ手を伸ばし、白い光に包まれ、そのあと森の中で目を覚ました。
普通なら、そのすべてをそのまま信じるのは難しい。
けれど目の前のアリアには、誰かを驚かせるために作り話をしている様子など少しもなかった。
ただ自分が見たものを思い出し、それを一生懸命伝えようとしている。それだけだった。
ルカだけは、そんなことを考えるより先にアリアの話をそのまま受け取ったらしい。
「先生が守ってくれたの?」
「うん!」
アリアはにっこり笑い、大きく頷いた。
先生が助けてくれた。
だから自分はここにいる。
四歳のアリアの中では、それでちゃんと話がつながっていた。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
何かを思い出したように部屋の中を見回し、玄関の方まで目を向けたあと、小さく首を振る。
「……せんせ」
ぽつりと声が落ちた。
「いなかった」
さっきまで部屋いっぱいに響いていた声とは比べものにならないほど小さかった。
森で目を覚ました時から、ずっと胸の奥へ押し込んでいたものが、ようやくそこからこぼれたようだった。
先生なら、きっと迎えに来てくれる。
アリアはずっとそう信じていた。
だから知らない森で目を覚ましても泣かなかったし、一人で少し歩いてみることもできた。ルカに会ってからも、先生が迎えに来るまでの間だけ一緒にいればいいのだと思っていた。
けれど、まだ来ない。
家に着いて、ご飯まで食べ始めたのに。
そのことを改めて口にすると、今まで気にしないようにしていた不安が、急に形を持ったようだった。
アリアの顔から、少しずつ元気が消えていく。
ミルは何も問いたださなかった。
空のどこから来たのかも、その先生が何者なのかも、どうして迎えに来ないのかも聞かなかった。
ただ椅子から立つと、アリアのそばへ歩み寄り、小さな頭へそっと手を置いた。
「怖かったね」
たった一言だった。
それを聞いたアリアは、唇をきゅっと結んだ。
泣かなかったのは、怖くなかったからではない。
怖いと思う前に、先生が来ると信じていただけだった。
「……うん」
少し俯きながら、小さく頷いた。
その短い返事の中へ、それまで言葉にできなかった気持ちが全部入っているようだった。
すると、椅子から降りたルカもアリアの隣へやって来た。
「でも」
アリアが顔を上げる。
ルカは森で会った時と変わらない笑顔で、当たり前のことのように言った。
「もう一人じゃないよ。ぼくがいる」
「……?」
すぐそばで、ミルも微笑んだ。
「私もいるわ」
レオも静かに頷く。
「今日は何も考えなくていい。ゆっくり休もう」
三人の声は、それぞれ違っていた。
けれど、アリアの胸へ届いた時には、どれも同じくらい温かかった。
アリアは一人ずつ顔を見る。
ルカ。
ミル。
レオ。
今日、初めて会ったばかりの人たちだった。
名前だって、ほんの少し前まで知らなかった。
それなのに、自分がどうしてここにいるのか分からなくても、帰り方を知らなくても、誰一人困った顔をせず、ここにいていいと言ってくれている。
胸の奥でぎゅっと固まっていたものが、少しずつほどけていく。
「……うん」
ようやく小さく笑うと、それまで張りつめていた部屋の空気も、一緒に柔らかくなったような気がした。
しばらくして、ミルが冷めかけていたスープの皿をアリアの前へそっと戻した。
「冷めちゃうわ。温かいうちに食べましょうね」
アリアは椅子へ戻り、皿から立ちのぼる白い湯気を見つめた。
ゆらゆらと形を変えながら昇っていくそれは、少しだけ、さっきまで自分がいた雲にも見えた。
「……うん」
もう一度スプーンを持ち、今度は急がず、ゆっくり味わうように口へ運ぶ。
「おいしい」
その表情を見て、ミルも自然と笑った。
「たくさん食べてね」
隣ではレオが焼きたてのパンを半分に割り、その一つをアリアへ差し出した。
「ほら」
アリアは目を丸くする。
「……いいの?」
「もちろん」
その返事を聞いてから、両手を差し出した。
受け取ったパンはまだ温かく、小さな手のひらいっぱいへ、焼きたてのぬくもりがじんわり広がっていく。
「あったかい」
嬉しそうに笑って、小さく一口かじる。
外は少しかりっとしているのに、中は柔らかく、噛むたびに甘く香ばしい味が口の中へ広がった。
スープも飲んだ。
野菜も食べた。
知らないものばかりだったけれど、一つ口へ入れるたびに「これもおいしい」と思えるものが増えていった。
アリアが両手でパンを大事そうに持ったまま顔を上げると、向かいではルカが笑っている。
ミルも、レオも。
その笑顔を見ていると、アリアの頬も自然と緩んだ。
先生は、まだ見つからない。
どうして自分がここへ来たのかも分からないし、明日になれば何が起こるのかも知らない。
それでも今は、この家の中にいる。
温かなご飯を食べて、今日初めて会った人たちと一緒に笑っている。
それだけで、胸の奥に残っていた寂しさが、少しずつ別のものへ変わっていくようだった。
アリアは手の中のパンをそっと包むように持ち、そのぬくもりを確かめるように呟いた。
「……あったかい」
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