第2話 はじめてのごはん
家の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりとあたたかな匂いがアリアを包み込んだ。
「わぁ……」
思わず足を止める。
木の床はやさしい飴色に磨かれ、丸いテーブルの上には小さな花が飾られている。
窓から差し込む夕方の光が部屋をやわらかく照らし、どこを見ても、ほっとするようなあたたかい色で満ちていた。
さっきまでいた森とはまるで違う。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
「こっちへいらっしゃい」
ミルが椅子をそっと引いてくれる。
アリアは小さくうなずきながら、ちょこんと腰を下ろした。
まだ体が小さいから、足は床まで届かない。
ぶらん。
ぶらん。
小さな靴が楽しそうに揺れる。
「はい、どうぞ」
ことん、と目の前へ湯気の立つお皿が置かれた。
野菜がたっぷり入ったスープ。
こんがり焼けたパン。
みずみずしいサラダ。
やさしい匂いがふわりと広がって、お腹がきゅるると小さく鳴いた。
ルカとミル、それにレオが静かに手を合わせる。
「いただきます」
アリアはきょとんとして三人を見つめた。
「……?」
ルカが笑いながら、自分の手を見せる。
「こうするんだよ」
両手を合わせる。
アリアも真似をして、小さな手を胸の前で合わせた。
「……いただきます」
「上手ね」
ミルがやさしく微笑む。
その笑顔がうれしくて、アリアも少しだけ照れ笑いを浮かべながらスプーンを持った。
湯気をふうっと吹いて、そっと一口。
「……!」
ぱっと目が丸くなる。
やさしい野菜の甘みが口いっぱいに広がり、冷えていた体の奥までじんわりとあたたかくなっていく。
「あったかい……」
思わずつぶやくと、もう一口。
それからもう一口。
夢中になってスプーンを動かし始める。
その様子を見て、ミルはうれしそうに目を細めた。
「おいしい?」
アリアは何度も何度もうなずく。
「おいしい」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
ミルもレオも顔を見合わせ、ほっとしたように笑う。
しばらく穏やかな時間が流れたあと、パパがやさしく口を開いた。
「アリアちゃん」
「どうして、森にいたのかな?」
アリアはスプーンをお皿へ置くと、小さな眉を寄せながら考え込む。
「……えっとね」
頭の中で一生懸命思い出しているらしい。
そして次の瞬間、ぴょこんと椅子から飛び降りた。
「そら!」
両手をいっぱいに広げる。
「それからね!」
「びゅーん!って」
部屋の中を元気よく走り回りながら、小さな羽をぱたぱたと動かした。
「れんしゅうしてた!」
「せんせと!」
くるり、とその場で一回転。
「えいっ!ってしたら」
羽をばたばた。
「くるくる、とまんなくて」
もう一回くるりと回って――
「きゃっ」
ぺたん、とその場へしりもちをついた。
ルカが思わず笑い声をあげる。
「落ちたんだ」
「うん!」
アリアは元気いっぱいにうなずくと、今度は両手をばたばた動かしながら大きな声を出した。
「うわぁぁぁぁー!」
部屋の中は、思わず笑ってしまうような小さな劇場になっていた。
ルカの言葉に、アリアは元気よくうなずいた。
「うん!」
そう言うと、ぴょこんと立ち上がり、今度は天井を見上げるように両手をいっぱい伸ばした。
「せんせ!」
その声は、さっきまでより少しだけ甘えているようにも聞こえる。
「せんせーー!」
小さな指先を懸命に空へ伸ばしてみる。
でも、その手は誰にも届かなかった。
アリアは少しだけ困ったように眉を寄せると、今度は片手を前へ突き出した。
「ぴかー」
もう片方の手で、その見えない光をそっと包み込む。
「それでね」
「ぴかーって」
「ふわぁーってなった」
胸へ大事そうに抱きしめる仕草をすると、小さく笑って言った。
「せんせ」
「まもってくれたの」
部屋の中へ静かな時間が流れる。
ミルもレオも言葉を失ったまま、アリアを見つめていた。
四歳の子どもが話すには、不思議すぎる出来事だった。
けれど、その小さな瞳は、ひとつも嘘をついているようには見えない。
ルカだけが、首をかしげながら尋ねる。
「先生が守ってくれたの?」
アリアは、にっこり笑ってうなずいた。
「うん!」
その笑顔は、ほんの一瞬だけだった。
すぐにきょろきょろと辺りを見回し、小さく首を振る。
「……せんせ」
ぽつりとつぶやく。
「いなかった」
その声は、とても小さくて。
胸の奥へしまい込んでいた寂しさが、ようやくこぼれ落ちたようだった。
ミルは何も聞かなかった。
理由も。
事情も。
帰る場所があるのかさえ。
ただ静かに近づくと、小さな頭をやさしくなでる。
「怖かったね」
その一言だけで十分だった。
アリアは唇をきゅっと結び、小さくうなずく。
「……うん」
それまで我慢していた気持ちが、その短い返事に全部詰まっていた。
ルカは椅子から降りると、アリアの隣へやって来る。
「でも」
にこっと笑って言った。
「もう一人じゃないよ」
アリアは顔を上げる。
「ぼくがいる」
その言葉に続くように、ミルも微笑んだ。
「私もいるわ」
レオも穏やかな表情でうなずく。
「今日は何も考えなくていい。」
「ゆっくり休もう」
三人の声は、どれも同じくらいあたたかかった。
アリアは順番に三人の顔を見つめる。
ルカ。
ミル。
レオ。
今日、初めて会った人たち。
名前だって、さっき知ったばかり。
それなのに胸の奥でぎゅっと固まっていたものが、少しずつ、少しずつほどけていく。
「……うん」
小さく笑うと、部屋の空気までやわらいだ気がした。
しばらく誰も話さない。
窓の外では、小鳥たちが夕暮れの歌を歌い、やわらかな風が窓辺の花を揺らしている。
その静かな時間を壊さないように、ミルはアリアの前へスープのお皿をそっと寄せた。
「冷めちゃうわ」
「あったかいうちに食べましょうね」
アリアは湯気の立つスープを見つめる。
白い湯気がゆらゆら揺れていて、まるで小さな雲みたいだった。
「……うん」
スプーンを持ち、もう一口。
今度はゆっくり味わうように口へ運ぶ。
「おいしい」
その笑顔を見て、ミルも自然と笑顔になる。
「たくさん食べてね」
隣ではパパが焼きたてのパンを半分に割り、アリアへ差し出した。
「ほら」
アリアは目を丸くする。
「……いいの?」
「もちろん」
その答えに安心したように、アリアは両手でパンを受け取った。
焼きたてのぬくもりが、小さな手いっぱいに広がる。
「あったかい」
うれしそうにほほ笑むと、小さく一口かじった。
外は少しかりっとしていて、中はふんわりやわらかい。
思わず頬までゆるんでしまう。
ルカはそんな様子を見ながら、満足そうに笑った。
「よかった」
アリアはパンを食べる。
スープを飲む。
サラダも口へ運ぶ。
どれも初めて食べる味だった。
どれも、とてもおいしかった。
そして何より、その全部があたたかかった。
パンを大事そうに両手で持ちながら顔を上げると、ルカが笑っている。
ミルも笑っている。
レオも笑っている。
その笑顔につられるように、アリアも少しだけ笑った。
先生は、まだ見つからない。
どうしてここへ来たのかも分からない。
明日どうなるのかも、何ひとつ分からなかった。
それでも今だけは。
このあたたかな家の中で、この人たちと一緒に笑っていられる。
そのことが、胸の奥をじんわりとあたためてくれる。
アリアはパンをぎゅっと抱えるように持ちながら、小さくつぶやいた。
「……あったかい」




