第1話 ここどこ?
なんだか、くすぐったい。
頬をやさしくなでる風と、草の葉が触れる感触に誘われるように、アリアはゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がっていたのは、どこまでも青い空だった。
頭の上では木々の葉が風に揺れ、その隙間から白い雲がゆっくりと流れていく。さっきまでいた雲の上は、もうずっと遠く、高い空の向こうにあった。
「……?」
アリアは体を起こし、服についた草をぱんぱんと払う。
ふわふわした草の匂い。
土のあたたかな匂い。
見たこともない景色が、ぐるりと周りに広がっていた。
「……ここ、どこ?」
小さくつぶやいてみても、返事はない。
聞こえてくるのは、風が木の葉を揺らすやさしい音と、小鳥たちのさえずりだけだった。
その時、アリアははっと顔を上げる。
「……せんせ?」
慌てて立ち上がると、きょろきょろと辺りを見回した。
大きな木。
揺れる草。
花の咲く茂み。
どこを見ても、エルシアの姿は見当たらない。
「せんせー?」
今度は少しだけ大きな声で呼んでみる。
けれど返ってきたのは、森を吹き抜ける風の音だけだった。
「……いない」
ぽつりと漏れたその一言に、胸の奥が小さくきゅっと縮む。
どうしていいのか分からない。
でも、泣きたくなるほど怖いわけでもなかった。
先生なら、きっと迎えに来てくれる。
四歳のアリアは、そんなふうに信じていた。
だから、とりあえず歩いてみることにした。
小さな靴で草を踏みしめながら、とことこと森の中を進んでいく。
すると――。
近くの茂みが、がさりと音を立てた。
アリアはぴたりと足を止める。
「……?」
もう一度。
がさっ。
葉っぱが大きく揺れ、その奥から白い影がゆっくりと姿を現した。
大きな猫だった。
胸元は雪のように白く、ふわふわの毛並みは木漏れ日を浴びてやわらかく輝いている。
澄んだ青い瞳が、じっとアリアを見つめていた。
アリアより、ずっと大きい。
「……おっきい、ねこ」
思わず見上げると、猫は不思議そうに首をかしげた。
「おきた?」
アリアはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……」
もう一度。
ぱち。
ぱち。
「……しゃべった」
「しゃべるよ」
猫は当たり前のように答える。
「きみも、しゃべってるでしょ?」
言われて、アリアは少しだけ考えた。
たしかに、自分もしゃべっている。
「……そっか」
ひとりで納得すると、猫はまた首をかしげた。
「きみ、だれ?」
「……ありあ」
「ぼく、ルカ」
その名前を、アリアは心の中でそっと繰り返す。
ルカ。
やさしい響きの名前だった。
「……るか」
「うん」
二人の間に、森の風だけが静かに流れる。
ルカはアリアの小さな羽を見つめ、それから土で汚れた服や靴へ視線を移した。
「……まいご?」
アリアはもう一度辺りを見回す。
やっぱり先生はいない。
「せんせ、いない」
その一言だけで十分だった。
ルカはそれ以上何も聞かなかった。
くるりと向きを変えると、大きな体を少しかがめて背中を見せる。
「のって」
「……?」
「おうち、いこ」
アリアは首をかしげたまま、ふわふわの背中を見つめる。
「……のれるの?」
「うん」
その返事は、とても自然だった。
まるで最初からそうするつもりだったみたいに。
アリアはおそるおそる前足へ手を添え、小さな体で一生懸命よじ登っていく。
「よいしょ……」
何とか背中へ座ると、思わず顔がぱっと明るくなった。
「わあ……」
想像していたより、ずっとふわふわだった。
思わず両手で毛並みをぎゅっと抱きしめる。
「ふわふわ」
その一言に、ルカの耳がぴくりと動いた。
「つかまって」
「うん!」
元気よく返事をすると、ルカはゆっくりと歩き始める。
木漏れ日が二人の上で揺れ、やさしい風が森の匂いを運んでくる。
さっきまで胸の奥にあった不安は、不思議なくらい少しずつ小さくなっていた。
ふわふわの背中は、あたたかくて。
そのぬくもりが、大丈夫だよ、と言ってくれているような気がした。
森の中を吹き抜ける風が、ルカのふわふわの毛をやさしく揺らしていく。
アリアは落ちないように両手でしっかりとつかまりながら、そのあたたかな背中へ頬を寄せた。
「……あったかい」
思わずこぼれた小さな声に、ルカの耳がぴくりと動く。
「そう?」
「うん」
アリアは嬉しそうにもう一度毛並みをなでた。
「ふわふわ」
「ありがとう」
思いがけない返事に、アリアはきょとんとする。
「ふわふわっていうと、ありがとうなの?」
ルカは少し照れくさそうに笑った。
「うれしいから」
「……そっか」
その答えがなんだかうれしくて、アリアもつられるように笑う。
森の景色は少しずつ変わり始めていた。
高い木々の間から細い道が伸び、その向こうには白い煙が空へ向かってゆっくり立ちのぼっている。
「おうち」
ルカが前を向いたまま言う。
木立を抜けた先で、森がふっと開けた。
そこには、小さな木の家が静かに建っていた。
屋根には緑のつる草がやさしく絡まり、窓辺には赤や黄色の花が咲いている。
煙突から立ちのぼる白い煙は、青空へ溶けるように流れ、お日さまの匂いがするあたたかな風を運んできた。
「わぁ……」
アリアは思わず目を輝かせる。
「かわいい、おうち」
その言葉がうれしかったのか、ルカは少しだけ胸を張った。
「ぼくのおうち」
玄関の前まで来ると、ルカはゆっくり足を止める。
「おりられる?」
「うん」
アリアはもぞもぞと体を動かしながら慎重に降りようとする。
「よいしょ……」
ぺたん、と草の上へ飛び降りた、その瞬間だった。
ふわり、と白い光がルカの体を包み込む。
「!」
アリアは思わず息をのんだ。
光は春の日差しのようにやさしく揺れながら、あっという間に消えていく。
そこに立っていたのは、大きな猫ではなかった。
猫耳とふさふさのしっぽを揺らす、小さな男の子だった。
アリアはぽかんと口を開けたまま、その姿を見つめる。
ルカも不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「……ちっちゃくなった」
ルカは自分の体を見下ろす。
「あ」
「へんしんした」
「……へんしん」
アリアは何度もうなずきながら、さっきまでいた大きな猫を探すように辺りを見回した。
「ねこ、どこいった?」
ルカはくすっと笑う。
「ぼくだよ」
「……?」
「ねこのぼくも、ぼく。」
「いまのぼくも、ぼく。」
アリアはしばらく真剣に考えていたが、やがて困ったような顔で首をかしげた。
「……へんなの」
その一言がおかしくて、ルカは声を立てて笑った。
「よくいわれる」
そう言うと玄関へ向き直り、大きな声で呼びかける。
「ただいまー!」
その声が終わるより早く、家の中から明るい返事が返ってきた。
「ルカー、おかえりー!」
軽やかな足音が近づき、勢いよく扉が開く。
「今日は早かったわね……って」
言葉の途中で、女性は目を丸くした。
ルカの後ろには、小さな羽の生えた女の子が、おそるおそるこちらを見つめている。
「まあ……」
一拍置いて、その顔がぱっと花のようにほころんだ。
「まあまあまあ!」
「なんてかわいい子なの!」
女性はアリアの前まで来ると、目線を合わせるようにゆっくりしゃがみ込み、にこにこと優しく微笑んだ。
「こんにちは」
アリアは少しだけルカの後ろへ隠れる。
知らない人だったから。
ルカは振り返って、安心させるように笑う。
「だいじょうぶ。」
「ぼくのママだから」
その一言に、女性もふっと笑みをこぼした。
「そうね。怖くないわ」
やさしく手を差し出す。
「私はミル。」
「ルカのお母さんよ」
その声は、春の日差しみたいにあたたかかった。
「あなたのお名前は?」
アリアは差し出された手とミルの笑顔を何度も見比べる。
少しだけ迷ってから、小さな声で答えた。
「……ありあ」
「アリアちゃん」
ミルはその名前を大切そうに繰り返し、ふんわりと微笑んだ。
「いらっしゃい。」
「お腹、すいているでしょう?」
「まずはご飯にしましょうね」
その時、家の奥からゆっくりとした足音が近づいてきた。
「どうした?」
背の高い男性が姿を見せる。
ルカは振り返り、いつものように一言だけ言った。
「パパ。」
「ひろった」
男性はアリアを見る。
小さな羽。
土で汚れた服。
不安そうな空色の瞳。
そしてルカへ視線を戻した。
「……迷子か」
ルカは静かにうなずく。
男性もそれ以上は何も聞かなかった。
「そうか」
穏やかに笑うと、家の中へ向かって言う。
「じゃあ、一人分増やそう」
その言葉に、ミルがくすりと笑う。
「もう。」
「あなたって人は」
二人はまるで、ずっと前からそう決めていたかのように自然だった。
アリアはそんな二人を見上げる。
知らない人。
知らない家。
知らない森。
それなのに、誰一人困った顔をしていない。
迷惑そうな顔も、嫌そうな顔も。
誰もしていなかった。
「おいで」
ミルがもう一度やさしく手を差し出す。
アリアは少しだけ迷い、小さな手をそっと重ねた。
その手は、とてもあたたかかった。
もう一度だけ家を見上げる。
煙突から立ちのぼる白い煙が、青空へゆっくり溶けていく。
パンを焼くような、お日さまみたいな匂いが風に乗って流れてきた。
さっきまで知らない場所だった森が、ほんの少しだけやさしく見える。
アリアはミルの手をぎゅっと握り返し、小さく笑った。
「……あったかい」




