プロローグ
新連載、始めます。
モフモフ×天使の組み合わせは大好物です。
今回は各話イラストを入れながら楽しく作っていきますのでよろしくお願いします(*'▽'*)
雲の上には、風の音しかなかった。
どこまでも続く青い空の下、真っ白な雲は大地のようにゆったりと連なり、その上をやさしい風が静かに吹き抜けている。
そんな穏やかな世界へ、鈴を転がしたような幼い声が響いた。
「せんせー!」
小さな両手をいっぱいに広げ、背中の白い羽を夢中でぱたぱたと動かしているのは、四歳の見習い天使アリアだった。
「みてー!」
声と一緒に、小さな身体がふわりと雲から浮かび上がる。
高さにすれば、ほんの指一本分ほどしかない。それでも昨日までのアリアには届かなかった場所だった。
「とべた!」
嬉しそうな声が空へ弾けた。
アリアは自分の足が雲から離れていることを確かめるように一度下を見て、それから少し離れたところで見守っているエルシアへ顔を向けた。
その顔には、これ以上ないほど嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
大天使エルシアも、思わず口元をほころばせた。
昨日より、ほんの少し高い。
けれど、そのほんの少しを積み重ねることが何より大切なのだと、何度も幼い天使たちへ飛び方を教えてきたエルシアはよく知っていた。
何度雲へ落ちても、アリアはそのたびに起き上がった。昨日より少し、一昨日よりもう少しと、決して早くはなくても、自分の小さな羽でちゃんと前へ進んでいる。
だからこそ、急がせたくはなかった。
「アリア」
「うん!」
「今日は何回落ちた?」
アリアはすぐに指を一本ずつ折り始めた。
顔だけは真剣そのものだ。
「いち、に、さん……」
「数えなくていい」
「えっと……にかい!」
「本当に二回か?」
「……さんかい?」
「その次だ」
「よんかい!」
「正解」
アリアは照れくさそうに笑ったかと思うと、今度は得意げに胸を張った。
「でもね! きのうはろっかい!」
さらに指を広げる。
「おとといははちかい! だから、じょうず!」
あまりにも自信たっぷりに言い切るものだから、エルシアはとうとう小さく吹き出した。
「そうだな。飛べる時間は、ちゃんと長くなっている」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」
ぽん、と小さな頭へ手を乗せると、ふわふわした水色の髪が吹き抜けた風に揺れた。
「だから焦らなくていい。飛ぶことは競争じゃない」
「うん!」
「空は逃げない。いつでも待っていてくれる」
アリアは大きく頷いた。
返事だけなら、いつだって百点満点だった。
もっとも、それをどこまで守れるかは別の話である。
「じゃあ!」
案の定、アリアが勢いよく羽を広げた。
「もういっかい!」
「待て」
エルシアが止めるより早く、小さな身体はもう風の中へ飛び出していた。
「えいっ!」
ぱたっ、と白い羽が動き、アリアの身体が雲から離れる。
今度は、先ほどよりも少し高い。
「とんでる!」
「そうだ。そのまま力を抜いて」
「できる!」
今日は風も穏やかで、羽の動きも悪くない。
まだ危なっかしさは残っているものの、昨日までとは明らかに違っていた。身体が揺れてもすぐに慌てることはなく、左右の羽も少しずつ同じ速さで動かせるようになっている。
このままなら、初めて一人で最後まで飛びきれるかもしれない。
エルシアがそう思った、その時だった。
「もっと!」
アリアの顔がぱっと明るくなった。
その表情を見た瞬間、エルシアの胸に嫌な予感が走る。
「アリア」
「もっともっと!」
「それ以上は――」
言い終わる前に、アリアの右の羽が大きく振られた。
ぶんっ、と風を切る。
けれど、左の羽がわずかに遅れた。
「あれ?」
小さな身体が傾いた。
「あれれ?」
くるりと半回転する。
「わっ」
姿勢を戻そうとしたアリアが慌てて羽を動かし、さらにもう一回転した。
「ひゃっ!?」
「羽を動かすな!」
「どれ!?」
「両方だ!」
「りょーほー!?」
慌てれば慌てるほど、左右の羽はばらばらに動いていく。
さっきまで身体を支えていた風を自分から掻き乱し、小さな身体が少しずつ安定した流れから外れていった。
「アリア、落ち着け!」
「う、うん!」
返事はした。
けれど、もう身体の方が追いついていなかった。
そして。
ふっ、と風が消えた。
「あ……」
アリアの瞳が丸くなる。
ほんの一瞬だった。
風の音も、雲の流れも、何もかもが息を止めたように感じられた、その次の瞬間。
「うわぁぁぁぁぁーーーっ!!」
小さな身体が白い雲を突き抜けた。
青空の底へ向かって、真っ逆さまに落ちていく。
「アリア!!」
エルシアは考えるより早く雲を蹴っていた。
純白の翼を一気に広げ、落ちていく小さな姿を追って空を駆ける。
この距離なら追いつける。
エルシアには、それが分かっていた。
幼いアリアと自分では、飛ぶ速さが違う。たとえ落下しているとしても、この程度の距離なら腕を伸ばせばすぐに届くはずだった。
実際、見る間に距離は縮まっていった。
あと少し。
指先ひとつぶん。
それだけだった。
エルシアは手を伸ばした。
けれど。
届かない。
「……っ!」
もう一度、翼を強く打つ。
それでも、伸ばした指先とアリアの背中との間に残ったほんのわずかな距離だけが、どうしても縮まらなかった。
目の前にいる。
今にも触れられそうなのに。
アリアの小さな身体は、同じ距離を保ったまま少しずつ遠ざかっていく。
「アリア!」
何かがおかしい。
風ではない。
飛ぶ速さでもない。
まるで二人の間に、目には見えない何かが横たわり、自分だけを押し返しているようだった。
エルシアはさらに翼へ力を込めた。
何百年という時を生き、どんな任務でも冷静さを失ったことのない大天使の胸に、今はただ一つの願いしかなかった。
どうか、生きてほしい。
それだけだった。
震えるように伸ばした指先の向こうで、突然、眩い白い光が空いっぱいへ広がった。
激しい光ではなかった。
落ちていく幼い命を、そのまま抱き止めるような、やさしい光だった。
白い輝きがアリアの身体をそっと包み込むと、激しく落ちていたはずの小さな姿が、少しずつその中へ溶けるように遠ざかっていく。
「アリア……!」
エルシアは最後まで手を伸ばした。
けれど、その指先が届くことはなかった。
遥か下には、深い森が広がっている。
その緑の中へ向かって、白い光に包まれたアリアの小さな身体は、静かに落ちていった。




