第42話 トカゲさんではない
リン。
澄んだ音が、崩れた道の向こうからもう一度聞こえた。
さっきまでコルだけが追い続けていた、小さな鈴のような音が、今度は森の静けさの中にはっきりと響いた。
その瞬間、足元にいたマルルの丸い尻尾が、ぴんと伸びた。
「カケラなの!」
マルルが声を上げるのとほとんど同時に、首元のチョーカーについていた小さなコンパクトがひとりでに開いた。
中から伸びた青い光が、崩れた斜面を越えていく。
「……あ」
アリアはその先を目で追った。
向こう側に立っている、大きな生き物。
青い光は迷うことなく、その腹のあたりを指している。
「トカゲさんのおなか」
「カケラ、あそこなの!」
マルルの尻尾も、まっすぐ同じ場所を示していた。
大きな生き物も気づいたらしい。
黄土色の頭がゆっくり下がり、自分の腹へ伸びている青い光を見たあと、もう一度こちらを見る。
探していたものが、とうとう目の前にある。
そう分かった途端、アリアの胸が一気に高鳴った。
けれど、大きな生き物は待ってくれなかった。
太い前脚が森の方へ向き、ゆっくり歩き始める。
「あっ」
一歩。
もう一歩。
「行っちゃう!」
気づいた時には、アリアはマルルを抱き上げていた。
「アリア、待って」
ルカの手が伸びる。
振り返れば届いたかもしれない。
けれど、アリアの背中にはもう光が集まり始めていた。
いつもの小さな白い羽が光に包まれ、大きく広がる。
「見てくる!」
「見るだけにして!」
ルカの声を背中に受けながら、アリアは地面を蹴った。
「アリア!」
エッダとノルンの声まで重なった。
けれど、一度飛び出した身体は、もう崩れた斜面の上にいる。
下を見れば、さっきまで道だった場所が深く崩れ、その底には土と岩が積み重なっていた。
アリアはマルルを胸へしっかり抱き直す。
いつも飛ぶ時より、腕へ少しだけ力が入った。
「マルル、落ちないでね」
「アリアもなの!」
「うん!」
白い光の羽を大きく動かし、崩れた場所を越える。
ほんの短い距離なのに、下に何もないと思うと、いつもの空を飛ぶ時とはずいぶん違って感じた。
やがて向こう側の地面へ足をつけると、背中いっぱいに広がっていた光の羽もゆっくり小さくなり、いつもの小さな白い羽へ戻っていった。
アリアは一度だけ息を吐く。
けれど、安心している暇はない。
大きな生き物は、もう森へ入ろうとしていた。
「待って、トカゲさん!」
声を張った途端、太い尻尾がぴたりと止まった。
「止まった」
「聞こえたなの」
大きな頭が、ゆっくりこちらへ向く。
金色の目が、マルルを抱いて立っているアリアを見た。
「……誰を呼んでいる」
低い声が響いた。
耳へ届くというより、森全体が一緒に鳴ったような声だった。
アリアの足の裏にまで、その低い震えが伝わってくる。
けれど。
驚いたのは、それだけではなかった。
「しゃべった」
「しゃべったなの」
マルルも目を丸くしている。
崩れた道の向こうでは、ルカたちまで声を失ったようにこちらを見ていた。
「誰を呼んでいると聞いている」
「あ」
アリアは慌てて、大きな生き物を指さした。
「トカゲさん」
「我は、トカゲではない」
「え?」
アリアはもう一度、頭から尻尾まで見る。
黄土色の鱗。
四本の太い脚。
長い尻尾。
少なくとも、アリアが今まで知っているものの中では、一番近いのはやっぱりトカゲだった。
「でも、トカゲさんに見えるよ?」
「見た目の話をしているのではない」
大きな頭が少し持ち上がった。
「我は大地より生まれ、土と岩のあいだを巡るもの。大地の精霊だ」
「大地の精霊さん?」
「そうだ」
「そっか」
それなら分かった。
アリアは素直に頷いた。
「大地の精霊のトカゲさんだね」
「なぜトカゲを残す」
低い声が、少しだけ重くなった。
アリアの腕の中から、マルルも大きな顔を覗き込む。
「ものすごく大きなトカゲさんなの」
「増やすな」
「わっ」
声の大きさに驚いたマルルの長い耳が、ぺたりと伏せた。
アリアはそんなマルルを抱き直し、その場で大地の精霊を見上げる。
「アリア! それ以上近づかないで!」
向こう側から、ルカの声が飛んできた。
アリアは一歩進みかけていた足を止めた。
大地の精霊を見る。
それから、崩れた斜面の向こうにいるルカを見る。
「ここでお話する!」
「そこから動かないで!」
「はぁい!」
返事をすると、ルカの肩から少しだけ力が抜けた。
アリアも約束した場所から動かず、改めて目の前の大きな姿を見上げた。
近くで見ると、やっぱり大きい。
鼻先だけでも、アリアの身体よりずっと大きく見える。黄土色の鱗にはあちこち土がこびりつき、頭の上には小さな草まで載っていた。
「草ついてるよ」
「だから何だ」
「教えただけ」
「そうか」
金色の目が、じっとアリアへ向く。
「天使族か。珍しいな」
「うん」
「我が恐ろしくはないのか」
聞かれて、アリアは少しだけ考えた。
さっき地面を割って大きな頭が現れた時には、窓枠を握った手が動かなくなるくらい驚いた。
「びっくりしたよ」
「ならば、なぜ近づく」
「お話できるから」
答えると、大地の精霊がわずかに目を細めた。
「言葉を持つものが、すべておとなしいとは限らぬ」
「うん」
それは、アリアにも分かる。
話せる人でも、怖い人はいる。
アリアは目の前の大きな口を一度見てから、もう一度金色の目へ戻った。
「でも、トカゲさん、わたしたちを食べようとしなかったでしょう?」
「トカゲではない」
「うん。食べないんだよね?」
「……食べぬ」
「よかった」
その返事を聞いて、アリアの肩から少しだけ力が抜けた。
向こう側でも、ヴァンが大きく息を吐いたのが見える。
フィンもまだ警戒はしているものの、今にも襲いかかってくる相手ではないと分かったらしい。
その時。
リン。
もう一度、澄んだ音が聞こえた。
「あ」
アリアは大きな腹へ目を向けた。
コンパクトから伸びた青い光も、ずっと同じ場所を指したままだ。
「ねえ、おなか痛くない?」
「腹?」
「さっきから、リンって鳴ってるよ」
大地の精霊も首を曲げ、自分の腹を見下ろした。
また。
リン。
今度は、大きな身体の中から響いているのがアリアにも分かった。
大地の精霊の右前脚が、土の上を少しだけこする。
「……陽が三度昇る前だった」
「三日前?」
「そうだ」
大地の精霊は少し考えるように目を伏せた。
「地の底を巡っていた我の内へ、青い光が入り込んだ」
「食べたの?」
「食べてはおらぬ」
「お口から入った?」
「違う」
「じゃあ、お鼻?」
「話を聞け」
「あ」
また怒られた。
アリアが口を閉じると、今度はマルルがそっと顔を出した。
「土の中から入ったなの?」
「そうだ」
大地の精霊の声が、少しだけ穏やかになる。
「あれは地の流れに紛れ、我の内へ潜り込んだ。それから、あちらへ、こちらへと動き続けている」
アリアは、コルが話してくれたことを思い出した。
日ごとに少しずつ場所を変えながら、古い坑道へ近づいてきた、小さな鈴のような振動。
「コルが聞いてたの、それだったんだ」
「おそらくな」
「痛いなの?」
マルルが尋ねる。
「痛みはない」
その返事のあとで。
リン。
大地の精霊の右前脚が、また土を少しこすった。
「ただ、落ち着かぬ」
「くすぐったいの?」
「そうは言っておらぬ」
「おなかがくすぐったいトカゲさんなの」
「トカゲではない」
さっきまで伏せていたマルルの耳が、少しずつ元へ戻っていく。
アリアも、いつの間にか大きな生き物への怖さがずいぶん薄れていることに気づいた。
とても大きい。
声も低くて、身体に響く。
けれど話してみれば、アリアの質問にも一つずつ答えてくれる。
「ねえ」
アリアはコンパクトから伸びている青い光を指さした。
「その青いの、わたしたちが探してるカケラかもしれないの」
「欠片」
大地の精霊の目が、マルルのチョーカーへ向いた。
開いたコンパクトの中には、すでに見つけた一つ目の欠片が収まっている。
「それは、空の鍵を収める器か」
「知ってるの?」
「我の内へ入ったものから、空の気配を感じた」
金色の目が、今度はアリアへ移った。
「そして、お前からも同じ気配がする」
アリアは自分の袖を鼻へ近づけた。
「わたし、空の匂いがする?」
「鼻で嗅ぐものではない」
「マルル、分かる?」
「かいでみるなの」
マルルがアリアの袖へ鼻を寄せる。
「アリアの匂いなの」
「嗅ぐな」
大地の精霊が、ゆっくりと目を閉じた。
向こう側では、とうとうルカが両手で顔を覆っている。
「ねえ、トカゲさん」
大地の精霊の片方の目が開いた。
「……まだそう呼ぶのか」
「そのカケラ、出せる?」
大地の精霊はしばらくアリアを見ていたが、やがて諦めたように答えた。
「出そうとはした」
「出なかった?」
「我が触れようとすると、さらに奥へ逃げる」
「逃げるんだ」
マルルの耳が動く。
「どうしたら捕まえられるなの?」
大地の精霊は森の奥へ顔を向けた。
「古い井戸へ行く」
「井戸?」
「大地の声が集まる場所だ。あそこならば、我の内へ入り込んだものを捕らえられるかもしれぬ」
「古い井戸……」
アリアには知らない場所だった。
けれど。
「グラナの下にある、古い井戸?」
崩れた道の向こうから声がした。
振り返ると、コルが荷馬車のところから顔を出している。
右足は固定されたままなので、トアに支えてもらっていた。
大地の精霊の頭が、ゆっくりそちらへ向く。
「土の下に住む者か」
「う、うん」
大きな金色の目を向けられ、コルの丸い耳が少し下がった。
それでも逃げずに、大地の精霊を見る。
「三日前から聞こえていた音は、あなたが動いていたからだったんだね」
「おそらく、そうであろう」
コルはしばらく大きな身体を見つめていた。
自分が一人で坑道へ入り、怪我をしてまで追いかけた音。
その正体が今、目の前にいる。
そして、その身体の中には、アリアたちが探している欠片まであるらしい。
そのやり取りを聞いていたフィンが、大地の精霊を見上げた。
「……あれは、地竜なのか?」
大地の精霊の金色の目が、今度はフィンへ向く。
「人の子らは、我らをそう呼ぶらしいな」
「地竜さん?」
アリアが顔を上げる。
「大地の精霊でよい」
「トカゲさんと、地竜さんならどっちがいい?」
「どちらも選ばぬ」
「じゃあ、大地の精霊さん」
「そう呼べ」
「うん!」
アリアは素直に頷いた。
大地の精霊の目が、ほんの少しだけ穏やかになる。
「ねえ、トカゲさん」
「…………」
また戻った。
向こう側で、ルカの手が顔から外れた。
口元が、少しだけ緩んでいる。
「……人の子との話は、なぜこれほど進まぬ」
低い声が森へ沈んだ。
アリアには、何が進んでいないのかよく分からなかった。
それよりも気になることがある。
「古い井戸って、コルは知ってる?」
「うん。場所は分かる」
「じゃあ、みんな同じところに行くんだ」
アリアの顔が明るくなる。
大地の精霊も、再びこちらを見た。
「お前たちも、古い井戸へ向かうのか」
「うん。まずグラナへ行くの」
「ならば来るがよい」
そう言うと、大きな身体が森の方へ向き直った。
「待って!」
アリアが慌てて呼び止める。
「まだ何かあるのか」
「道」
「道?」
アリアは崩れてしまった斜面を指さした。
「なくなっちゃった」
「見れば分かる」
「馬車は飛べないよ」
「我も飛べぬ」
「でもトカゲさんは向こうにいるよ?」
「我は大地の中を通った」
「あ」
それなら渡れるのだ。
でも、自分たちは違う。
アリアは崩れた道の向こうを見た。
二台の大きな荷馬車。
その前には、まだ大地の精霊を警戒している四頭の挽馬がいる。
右足を怪我したコルもいる。
エッダたちも、ルカもノルンもいる。
アリアとマルルだけが飛んで先へ行けばいいわけではない。
「じゃあ、みんなも通れる道、作れる?」
「なぜ我が、人の作った箱のために」
「箱じゃないよ」
「木の箱に車輪を付けたものだ」
「おうちになる馬車だよ」
「何?」
「椅子が、お布団になるの」
「それが何だというのだ」
「すごいでしょう?」
「…………」
大地の精霊の目が、ゆっくり閉じた。
「……もうよい」
太い前脚が持ち上がる。
どん、と地面を踏んだ。
その瞬間、アリアの足の裏へ強い振動が伝わってきた。
「わっ」
崩れた斜面の底で、土が動き始めた。
けれど、さっき道が崩れた時とは違う。
ばらばらと落ちていくのではなく、下から何かに持ち上げられるように、大きな岩が土の中から姿を現した。
「岩が上がってくる!」
一つ目の岩の隣へ、もう一つ。
さらに、その隙間を埋めるように土が押し上げられ、地中から現れた太い根が岩と岩へ絡みついていく。
アリアは目を大きくしたまま、その様子を見ていた。
さっきまで深く崩れていた場所が、少しずつ埋まっていく。
向こう側と、こちら側。
離れていた二つの道が、本当につながっていく。
やがて土の動きが止まった時には、そこに新しい道ができていた。
広くはない。
けれど、二頭立ての荷馬車が一台ずつなら通れそうな幅がある。
「すごい……」
アリアは思わず新しい道へ近づきかけた。
「アリア!」
すぐにルカの声が飛ぶ。
「あ」
足を止めた。
「先に大人が見るから!」
「はぁい!」
今度はちゃんと待つ。
向こう側でも、エッダたちはすぐに荷馬車を動かそうとはしなかった。
フィンとヴァンが新しくできた道へ入り、岩の間や路肩を確かめながら、慎重にこちらへ渡ってくる。
何度か足で地面を踏み、道幅も見てから、ヴァンがようやく顔を上げた。
「これならいける」
「二台とも?」
「一台ずつならな」
「やった!」
アリアが嬉しくなって両手を上げる。
大地の精霊はそんなアリアを見たあと、鼻から長く息を吐いた。
「では、我は先に行く」
「一緒に行かないの?」
「この姿のまま馬へ近づいてみよ」
アリアは四頭の挽馬を見た。
大地の精霊が少し身体を動かしただけで、一頭の馬が落ち着かなそうに耳を伏せる。
「あ」
「お前たちの旅は、一歩も進まぬ」
「じゃあ、どうするの?」
「我は下を行く」
大地の精霊が前脚を土へ押し込む。
足元の地面が、水面のようにゆっくり揺れた。
「地の上を進むお前たちに合わせよう」
「見えなくなっちゃう?」
「大地を見ていれば分かる」
大きな身体が、少しずつ土の中へ沈み始める。
アリアは目を大きくした。
あれほど大きな身体なのに、穴を掘っているようには見えない。
土の方が道を譲っているように、黄土色の身体が静かに大地の中へ消えていく。
「トカゲさん!」
「大地の精霊だ」
頭が半分ほど沈んだところで、まだ返事が返ってきた。
「古い井戸で待っててね!」
「お前たちを待つと言った覚えはない」
「でも、一緒に行くんでしょう?」
「…………」
金色の目だけが、しばらく地上に残っていた。
やがて。
「……置いてはいかぬ」
「うん!」
アリアが笑う。
最後に長い尻尾まで土の中へ消えると、地面はゆっくり元へ戻っていった。
けれど、完全に分からなくなったわけではない。
落ち葉の積もった地面が一か所だけ、こんもりと盛り上がっている。
その膨らみは森の奥へ進まず、新しくできた道の向こう側で止まっていた。
アリアはしばらく、それをじっと見つめた。
「待ってる」
「待ってはいないって言ってたなの」
「でも、動いてないよ」
「待ってるなの」
「だよね」
アリアとマルルが顔を見合わせて笑う。
そこでようやく、アリアは崩れた道の向こうへ顔を向けた。
「みんな、渡れるよ!」
大きく手を振る。
けれど。
ルカだけは笑っていなかった。
新しくできた道を一度確認したあと、その視線がまっすぐアリアへ向く。
「アリア」
「なあに?」
「戻ってきたら、話があるからね」
「うん!」
返事だけは元気だった。
ルカの猫耳が少しだけ後ろへ向く。
「たぶん、分かってないですね」
隣でノルンが小さく息を吐いた。
「なの」
マルルまで頷く。
「え?」
何の話だろう。
アリアには、まだ分からなかった。
ただ、みんながこちらへ渡ってこられるようになったことが嬉しかった。
コルが追い続けていた音と、自分たちが探している欠片が、同じところへつながったことも嬉しかった。
アリアは腕の中のマルルを抱き直す。
マルルの丸い尻尾は、今もまっすぐ地面の一点を指していた。
そこには、姿の見えなくなった大地の精霊がいる。
そして、その身体のどこかには、探している二つ目の欠片がある。
その時。
リン。
地面の下から、澄んだ音が聞こえた。
さっきより少しだけ短く、どこか不機嫌そうな音だった。
「鳴った」
「鳴ったなの」
アリアとマルルは同時に地面を見る。
落ち葉の下の膨らみが、ほんの少しだけ動いた。
どうやら。
大地の精霊は、本当に待っているらしかった。




