第41話 旧街道
荷馬車が分かれ道へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
崩れた斜面に塞がれた街道を避けるには、ここから山裾を回る旧街道へ入るしかない。
木々の間には、二本の轍が奥まで続いている。
広い街道ほどきれいに整えられてはいないが、路面には新しい馬の足跡も残っていた。今も旅人や近くの村の者が、ときどき使っているらしい。
ただ、四頭立ての大きな荷馬車が通れるかどうかは、ここから見ただけでは分からなかった。
「私たちが先に見てくるよ」
ロザが馬上から旧街道の奥を見渡した。
「本来の街道へ戻るところまで確かめてくる」
「道が狭くなっているところがあれば、目印を付けておく」
ヴァンも馬首を旧街道へ向ける。
「気を付けるんだよ」
エッダの声に、二人は片手を上げた。
蹄が落ち葉を踏み、ロザとヴァンの姿が木々の向こうへ遠ざかっていく。
二人が戻るまで、馬たちも休ませることになった。
御者が四頭を道の端へ寄せると、フィンが水の入った桶を並べていく。トアは馬の首筋をなで、汗で湿った毛を布で拭き始めた。
「わたしもする」
アリアが布を一枚受け取る。
「急に後ろへ回ると驚くから、見えるところから触ってね」
「うん」
アリアは馬の横顔をのぞき込んだ。
「今から、ここを拭くね」
馬は返事の代わりに、ふうっと鼻から息を吐いた。
アリアが首筋へ布を当てると、濃い毛の色が少しずつ元へ戻っていく。
ルカとノルンは、フィンが運んできた水を桶へ移した。マルルも手伝おうと、小さな器をくわえて歩きだしたが、中の水が揺れるたびに足を止めている。
「まだ着かないなの」
「マルルが止まってるからね」
ルカが器を受け取る。
「ぼくが運んでたなの」
「うん。半分くらいは」
足元には、マルルが歩いてきた形に細い水の跡が続いていた。
マルルはそれを振り返り、長い耳をゆっくり下ろす。
「お水が逃げたなの」
荷馬車の中から、コルの笑う声が聞こえた。
窓際の長椅子では、固定された足を伸ばしたコルが、毛布を掛けられたまま外を見ている。
エッダは水差しを持って中へ入ると、コルの足元へしゃがんだ。
「痛みはどうだい?」
「さっきより少し楽」
「だからといって、歩いていいわけじゃないよ」
「分かってる」
コルは先に答え、伸ばしかけた手を膝の上へ戻した。
それから一時間ほどたった頃、旧街道の奥から二頭の馬が姿を現した。
「戻ってきた!」
トアが立ち上がる。
ロザとヴァンは馬をゆっくり歩かせながら、分かれ道まで戻ってきた。馬の脚には土がついていたが、二人に変わった様子はない。
「どうだった?」
エッダが尋ねる。
「この先で、本来の街道へ戻れるよ」
ロザが馬から降りた。
「道幅も足りている。荷馬車なら一時間ほど掛かると思うけど、通れない場所はなかった」
「途中に雨で削られたところが二つある」
ヴァンが続ける。
「右へ寄れば問題なく通れるよう、枝に布を結んでおいた。大きな石も道の端へ動かしてある」
「それなら、明るいうちに抜けられそうだね」
「ああ。ただし、広い街道と同じ速さでは走れない。ゆっくり行こう」
休んでいた馬たちへ馬具が戻され、荷馬車は旧街道へ向きを変えた。
ロザが先頭を進み、その後ろを四頭立ての荷馬車が続く。ヴァンは最後尾から、車輪の通った跡を確かめながら進んでいった。
大きな車輪が落ち葉を踏み、木々の間へ入っていく。
道は曲がりながら、緩やかに山裾を上っていた。
ところどころ地面から石がのぞき、荷馬車がその上を通るたび、窓や食器が小さく鳴る。
アリアは長椅子の端をつかみながら、窓の外を見回した。
「さっきの道より、がたがたするね」
「ちゃんと座ってないと、落ちるよ」
ルカがアリアの服を引く。
「座ってるよ」
「半分しか座ってない」
アリアは窓から出ていた体を戻し、今度は長椅子の真ん中へ座り直した。
向かい側では、コルが床へ手のひらをつけている。
「何か聞こえる?」
ノルンが声を掛けた。
「今は、馬と車輪の音ばかり」
コルの指先が、荷馬車の揺れに合わせてわずかに動く。
「でも、さっきより地面が硬い。石が多いんだと思う」
少し先で、ロザが手を上げた。
「右へ寄るよ」
御者が手綱を動かす。
道の左側には、雨に削られた深い溝が走っていた。右側の枝には、ヴァンが結んだ赤い布が揺れている。
四頭の馬が一頭ずつ溝を避け、そのあとを車輪がゆっくりと通り過ぎた。
「抜けたよ」
トアの声に、アリアが息を吐く。
「ちゃんと通れた」
「ロザたちが見てきてくれたからね」
ノルンが赤い布を振り返る。
旧街道を半分ほど進んだ頃には、木々の隙間から傾き始めた日が差し込んでいた。
このまま行けば、暗くなる前に本来の街道へ戻れる。
ロザが確かめてきた二つ目の傷んだ場所も無事に越え、道は少しずつ下り始めた。
そのときだった。
コルの手が、床の上で止まった。
「……待って」
小さな声だったが、すぐそばにいたノルンが振り返った。
「どうしたの?」
コルは答えず、もう片方の手も床へつけた。
荷馬車の揺れに耳を澄ませるように、体を動かさなくなる。
「止めて」
今度の声は、はっきりしていた。
「荷馬車を止めて!」
ノルンが窓から身を乗り出す。
「止まってください!」
エッダもすぐに御者台の屋根をたたいた。
「止めるよ!」
手綱が引かれ、四頭の馬が速度を落とす。
車輪が重い音を立てながら止まると、森の中から荷馬車の音が消えた。
コルは床へ手をつけたまま、目を閉じている。
「鈴の音?」
アリアが尋ねた。
「うん。でも……」
コルは何度か手の位置を変えた。
「前にいる」
「前?」
「近づいてくる」
その声とほとんど同時に、荷馬車のそばを歩いていたフィンが足を止めた。
長い耳がぴんと立ち、道の先へ向く。
「待って」
フィンは腰を落とし、じっと耳を澄ませた。
「石を引っかくような音がする。道の下だ」
マルルも床へ耳をつける。
垂れた耳の先が、かすかに震えた。
「何か、ごそごそしてるなの」
「こっちへ来てる」
フィンの声が低くなる。
ロザが馬を戻し、御者台の横で止まった。
「どうしたんだい?」
「道の下に何かいる」
コルが床へ両手を押し当てたまま顔を上げる。
「だんだん近づいてる」
ヴァンも最後尾から駆けてきた。
フィンは道の先から目を離さず、長い耳を立てたまま身構えている。
みんなが息を潜めた。
初めは、何も聞こえなかった。
やがて、道の先から、ざり、と石のこすれる音がした。
馬たちが一斉に耳を動かす。
ざり。
今度はもっと近い。
路面に転がっていた小石が、一つ、二つと跳ねた。
「馬を下げて!」
ヴァンが叫ぶ。
御者がすぐに手綱を引き、四頭の馬を後ろへ下がらせる。ロザも馬首を返し、荷馬車の脇へ寄った。
その直後、少し先の地面が盛り上がった。
「土が動いてる!」
アリアが窓枠をつかむ。
落ち葉の下から、太い何かがゆっくりと持ち上がる。
土の塊に見えたものが崩れ、その下から黄土色の鱗が現れた。
「トカゲ……?」
ルカが目を見開く。
大きな頭が地面を割って出てきた。
荷馬車を引く馬ほどの高さがある。
丸い金色の目が一度だけ瞬き、土をかぶった鼻先が左右へ動いた。
「おっきなトカゲさん……」
アリアの声に応えるように、トカゲが口を開く。
低い鳴き声が地面を震わせた。
コルが長椅子の端をつかむ。
「この音だ」
「鈴の音なの?」
「違う。鈴みたいな音は、あの中から聞こえる」
コルの視線が、トカゲの大きな体へ向いた。
その瞬間、マルルの尻尾がぴんと伸びた。
トカゲはもう一度地面をかき、土の中から体を引き抜こうとした。
前脚が路面へ掛かる。
太い爪の下で、道に亀裂が走った。
「離れて!」
エッダがアリアたちを窓から遠ざける。
大きな体が、地面の中から一気に飛び出した。
トカゲの腹が道へ乗り上げ、長い尻尾が木々の幹をなぎ払う。
ばきばきと枝が折れた。
次の瞬間、路面が大きく沈んだ。
石を積んで作られていた道の端が崩れ、土砂と一緒に斜面の下へ落ちていく。
トカゲは驚いたように四本の脚を動かしたが、そのたびに亀裂が広がった。
大きな尻尾が最後に道を打つ。
重い音とともに、残っていた地面まで崩れ落ちた。
土煙が木々の間へ舞い上がる。
四頭の馬がいななき、荷馬車が大きく揺れた。
やがて土煙が薄くなると、アリアはエッダの腕の間から、そっと顔を出した。
ついさっきまで先へ続いていた旧街道が、途中からなくなっている。
向こう側の道は見えていた。
けれど、その間には、深く崩れた斜面が口を開けている。
トカゲは崩れ始めた地面を蹴り、向こう側へ飛びついた。
太い前脚が道の端へ掛かる。
大きな体が斜面をよじ登った直後、残っていた地面まで崩れ落ちた。
土煙が木々の間へ舞い上がる。
四頭の馬がいななき、荷馬車が大きく揺れた。
やがて土煙が薄くなると、アリアはエッダの腕の間から、そっと顔を出した。
ついさっきまで先へ続いていた旧街道が、途中からなくなっている。
向こう側の道は見えていた。
けれど、その間には、深く崩れた斜面が口を開けている。
大きなトカゲは向こう側の木々の間に立ち、こちらを見ていた。
そして、その腹の奥から。
リン、と。
小さな鈴に似た音が聞こえた。




