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森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


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第41話 旧街道


 二台の荷馬車が分かれ道へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 朝には何も考えず、そのまま通り過ぎた場所である。


 あの時は、この先の街道を進めばグラナへ着くと思っていた。


 けれど今は、少し先で斜面が崩れ、道そのものが塞がれている。


 アリアは荷馬車の窓から顔を出し、朝には気にも留めなかったもう一方の道を見た。


 木々の間へ続く細い道には、二本の轍が残っている。広い街道ほどきれいに整えられてはいなかったけれど、土の上にはまだ新しい馬の蹄の跡もあった。


「ここ、誰か通ってるね」


「今でも近くの人は使ってるのかもね」


 隣からルカも覗き込む。


 アリアはそのまま後ろを振り返った。


 自分たちが乗っている大きな荷馬車の後ろには、商品を積んだもう一台が停まっている。


「二台とも通れるかな」


「だから、それを先に確かめるんでしょ」


「あ」


 外では、ちょうどロザとヴァンがそれぞれ自分の馬へ跨がるところだった。


「私たちが先に見てくるよ」


 ロザが馬上から旧街道の奥へ目を向ける。


「本来の街道へ戻るところまで確認してくる。二台とも通れそうなら、そのまま戻ってくるよ」


「傷んでいる場所があれば、分かるようにしておく」


 ヴァンも手綱を取った。


「荷馬車で入ってから戻れない、なんてことになったら困るからな」


「気をつけるんだよ」


 エッダの声に二人が片手を上げると、二頭の騎乗馬は落ち葉を踏みながら旧街道へ入っていった。


 蹄の音が木々の奥へ遠ざかっていく。


 アリアは姿が見えなくなってからもしばらくその方向を見ていた。


「戻ってくるまで、ここにいるの?」


「そうだよ」


「どのくらい?」


「それは道次第だね」


 エッダはそう答えると、今度は二台の荷馬車を引いてきた四頭の馬へ目を向けた。


「ちょうどいい。待っている間に馬たちも休ませよう」


     ◇


 馬具を緩めてもらった四頭の挽馬は、道端の木陰へ移された。


 朝から山道を進み、崩落が起きたあとは同じ道をここまで戻ってきたのだ。首筋にも腹のあたりにも汗がにじみ、呼吸もいつもより少し大きい。


 フィンが水を入れた桶を運び、トアは布を手に一頭の馬へ近づいた。


「わたしもする」


 アリアもすぐに駆け寄る。


「じゃあ、これお願い」


 布を一枚受け取ると、そのまま馬の横へ行こうとして。


「アリア」


「なあに?」


「急に後ろから触らないでね。びっくりするから」


「あ」


 アリアの足が止まった。


 少し考えて、今度は馬から自分の姿が見える方へ回り込む。


 大きな黒い目がこちらを見た。


「今から、ここ拭くね」


 首筋を指さしてから、そっと布を当てる。


 馬は嫌がることもなく、ふうっと鼻から長く息を吐いた。


「いいって」


「本当に?」


「たぶん!」


「そこはたぶんなのね」


 トアが笑う。


 アリアも笑いながら、汗で湿った毛をゆっくり拭いていった。


 いつもは荷馬車の前にいる大きな背中しか見ていない。


 けれどこうして触れてみると、首も肩もアリアの腕よりずっと太く、布を動かすたびに、その下で硬い筋肉がわずかに動くのが分かった。


「今日もいっぱい歩いたね」


 もう一度声を掛けると、馬の耳が少しだけアリアの方へ向いた。


「あ、今のは絶対聞いた!」


「それなら、ちゃんとお礼も言っておかないとね」


「うん。いつもありがとう」


 首を撫でると、馬はもう一度鼻を鳴らした。


 少し離れたところでは、ルカとノルンがフィンの運んできた水を桶へ移していた。


 そして、その足元には。


「ぼくも運ぶなの」


 小さな器を口にくわえたマルルがいた。


 器の中には水が入っている。


 一歩。


 水面が揺れる。


 マルルが止まる。


 揺れが収まるのを待って、また一歩進む。


 ちゃぷん。


「…………」


 また止まった。


 ルカはしばらく黙って見ていたが、やがて手を伸ばした。


「マルル、僕が持とうか?」


「ぼくが運ぶなの」


「でも全然進んでないよ」


「こぼさないようにしてるなの」


 もう一歩。


 今度は水が器の端から少しだけ飛び出した。


「逃げたなの」


「水は逃げないよ」


「逃げたなの」


「マルルがこぼしたんでしょ」


「まだいっぱいあるなの」


「後ろ見てみたら?」


 マルルがゆっくり振り返った。


 歩いてきた場所には、細い水の跡が点々と続いている。


「…………」


 長い耳が少しずつ下がった。


「半分くらい逃げたなの」


 その時、荷馬車の中から小さな笑い声が聞こえた。


 アリアが窓を見ると、固定された右足を伸ばしたコルが、長椅子からこちらを見ていた。


「コル、笑った!」


「ちょっとだけ」


「マルルのお水なの!」


「ごめん」


「いいなの」


 マルルは少し考えたあと、耳を持ち上げた。


「今度ルカがお水こぼしたら、ぼくも笑うなの」


「僕はこぼさないよ」


「じゃあ笑えないなの」


「残念だったね」


 今度はアリアまで笑った。


 昨日まで知らなかったコルが、もうこうして同じ荷馬車の中で笑っている。


 それがなんだか嬉しかった。


 そこへエッダが水差しを持って荷馬車へ入り、コルの右足を覗き込む。


「痛みはどうだい?」


「さっきより少し楽」


「だから歩ける、とは言わないだろうね?」


「…………」


 コルはちょうど長椅子へ手をついて、身体を起こしかけていた。


 そのまま動きを止める。


「分かってる」


「ならよろしい」


 渡された水を受け取りながら、コルは大人しく身体を戻した。


 窓の外から見ていたアリアが、小声でルカへ言う。


「エッダ、言う前に分かったね」


「僕でも分かったよ」


「ほんと?」


「絶対、歩けるって言う顔してた」


 コルの丸い耳が、ぴくりと動いた。


「聞こえてるよ」


「あ」


 ルカが口を閉じる。


 今度はアリアが声を上げて笑った。


     ◇


 それから一時間ほど経った頃。


 最初に道の奥へ顔を向けたのはフィンだった。


 長い耳がぴんと立ち、木々の間へ向く。


「戻ってきたみたいだよ」


「ほんと?」


 アリアも耳を澄ませる。


 少し遅れて、遠くから馬の蹄が聞こえてきた。


「あ、聞こえた!」


 やがて木々の間から二頭の騎乗馬が姿を現し、その背にはロザとヴァンが乗っていた。


「ロザ!」


 アリアが大きく手を振る。


 二人とも怪我をした様子はなく、それを見ただけで胸の奥に入っていた力が少し抜けた。


「どうだった?」


 エッダが尋ねる。


 ロザは馬から降りると、今来た旧街道を振り返った。


「通れるよ。この先でちゃんと本来の街道へ戻れる」


「二台とも?」


 アリアがすぐに聞く。


「二台とも。ただし、ゆっくりね」


「途中に雨で削られた場所が二か所ある」


 ヴァンも馬を降りながら続けた。


「右へ寄れば車輪は通せる。枝に布を結んでおいたから、そこでは一台ずつ慎重に抜けよう」


「どれくらいかかりそうだい?」


「荷馬車なら一時間くらいかな」


 ロザが空を見上げた。


「今から出れば、暗くなる前には広い街道へ戻れるよ」


 エッダは少し考えてから頷いた。


「それなら行こう。急ぐ必要はないよ。せっかく先を見てもらったんだから、安全に通る」


 休ませていた四頭の挽馬へ、もう一度馬具が戻されていく。


 アリアも布をトアへ返すと、さっき拭いていた馬の首を一度撫でた。


「またお願いね」


 馬が鼻を鳴らす。


「今度こそ返事した!」


「はいはい」


「ほんとだもん」


 ルカと言い合いながら、アリアも荷馬車へ戻った。


     ◇


 ロザの騎乗馬が先頭へ入り、その後ろから二頭立ての荷馬車が二台続く。


 ヴァンは騎乗馬で最後尾につき、路肩や車輪の通った跡を確かめながら進んでいた。


 広い街道から旧街道へ入ると、すぐに揺れ方が変わった。


 車輪が木の根を越えるたびに車体が少し傾き、地面から顔を出した石を踏めば、板張りの床を通してごとんと振動が伝わってくる。


「わっ」


 アリアは窓枠へ手をついた。


「さっきの道より、がたがたする」


「だからちゃんと座ってて」


 ルカが服の後ろを軽く引く。


「座ってるよ」


「半分しか座ってないよ」


「え?」


 下を見ると、本当にお尻の半分ほどしか長椅子に乗っていなかった。


「ほんとだ」


「落ちてから気づくんじゃ遅いからね」


「はぁい」


 アリアは身体を戻して、今度は真ん中へ座り直した。


 けれど、窓の外を見るのはやめない。


 朝から歩いてきた街道とは違い、木の根が道の端まで張り出し、ところどころでは岩が土から顔を出している。


 向かいの長椅子では、コルが片方の手を床へつけていた。


「何か聞こえる?」


「今は馬と車輪ばっかり」


 コルの指先が揺れに合わせるように、わずかに動く。


「でも、さっきの道より地面が硬いよ。石が多いんだと思う」


「それも分かるの?」


「うん」


 アリアも床へ手を伸ばしかけた。


「今はやめといた方がいいよ」


 すぐにルカの声が飛ぶ。


「まだ何もしてないよ」


「しようとしてたでしょ」


「ちょっとだけ」


「やっぱり」


 その時、前を進んでいたロザが片手を上げた。


「ここ、右へ寄るよ!」


 御者たちが速度を落とす。


 窓から見ると、道の左側が雨で深く削られていた。その反対側の枝には、ロザたちが先ほど結んだ赤い布が揺れている。


「あれだ」


 アリアは自然と背中を伸ばした。


 一台目を引く二頭の馬が、ゆっくり右側へ寄っていく。


 前輪が溝のそばを通り、荷馬車が少し傾いた。


 アリアは今度こそ、長椅子へきちんと座ったまま端を握る。


 やがて後輪も無事に通り抜けた。


「通った!」


 思わず声が出る。


 続く二台目も、同じ場所をゆっくりと越えていった。


 アリアは窓から後ろを見て、最後の車輪が溝を抜けたところまで確かめる。


「二台とも通れた」


「ロザたちが先に見ていてくれたからですね」


 ノルンも遠ざかっていく赤い布を見ていた。


 少し前にアリアは、「ちゃんと道を見てから進む」と言った。


 その時はただ、大人たちに言われたことを覚えていただけだった。


 けれど今は、先に誰かが歩いて、危ない場所を見つけ、目印をつけてくれたからこそ、大きな二台の荷馬車がこうして進めるのだということが、少しだけ分かった。


 アリアは赤い布が見えなくなるまで振り返ったあと、前へ向き直った。


     ◇


 二つ目の傷んだ場所も無事に通り抜けると、道は緩やかな下りへ変わった。


「あとどのくらい?」


「もう半分以上は来たと思うよ」


 トアが答える。


「このままなら、暗くなる前には広い街道へ戻れるね」


「よかった」


 アリアは長椅子へ背中を預けた。


 朝から何一つ、思っていた通りには進んでいない。


 荷馬車が止まり。


 道が崩れ。


 コルを見つけ。


 今は予定になかった旧街道を走っている。


 それでも、少しずつグラナには近づいている。


 コルも家へ帰れる。


 そう思うと、ようやく少し安心できた。


 けれど、その時。


「……待って」


 向かい側から聞こえた声で、アリアはすぐに身体を起こした。


 コルの顔が、さっきまでとは違っていた。


 片方だけだった手が、今は両方とも床へついている。


「コル?」


 呼んでも、すぐには返事がなかった。


 右足を動かさないよう身体を傾けたまま、コルは手のひらから伝わってくる何かを探していた。


 アリアは、その顔を知っていた。


 さっき「大地の声」を聞いていた時と同じ顔だ。


 けれど今は、少しだけ眉が寄っている。


「何か聞こえるの?」


 ノルンもそばへ寄る。


 コルの指先が少し動き、次の瞬間には顔が上がった。


「止めて」


「え?」


「荷馬車、止めて!」


 声が変わった。


 ノルンがすぐに窓へ向かい、エッダも同時に御者へ声を飛ばす。


 二台の荷馬車は少しずつ速度を落とし、四頭の挽馬が足を止めた。


 最後の車輪が止まると、それまで絶えず身体へ伝わっていた揺れも消えていく。


 急に静かになった。


 葉が擦れる音や、馬の息遣いが聞こえる。


 その中でコルだけが、まだ両手を床へつけたまま動かなかった。


「……鈴みたいな音?」


 アリアは自然と声を小さくしていた。


「うん」


 コルは答えたものの、すぐに首を傾けて手の位置を少し変えた。


「でも……」


「でも?」


「前にいる」


「前?」


 アリアも窓の向こうを見る。


 そこには旧街道が続いているだけだった。


「ううん。前にいるんじゃない」


 コルの丸い耳が、少しだけ伏せられる。


「こっちへ近づいてくる」


 その言葉を聞いた途端、アリアの指が長椅子の端をつかんだ。


 何日か前から場所を変えながら、少しずつあの古い坑道へ近づいてきた、小さな鈴のような振動。


 それが今度は、自分たちの方へ来ている。


 隣にいるルカの猫耳も、いつの間にか前を向いていた。


 アリアがその横顔を見ていると、荷馬車の外にいたフィンも足を止めた。


 長い耳が旧街道の先へ向く。


「……何か聞こえる」


 ロザが馬を戻してきた。


「どこ?」


「道の下だと思う」


 フィンは少し腰を落とし、さらに耳を澄ませた。


「石を引っかくみたいな音がする」


 その声を聞いたマルルも、すぐに長椅子から降りた。


「ぼくも聞くなの」


 床へぺたりとお腹をつけ、長い耳を板へ沿わせる。


 アリアは三人を順番に見た。


 コル。


 フィン。


 マルル。


 自分には、まだ何も聞こえない。


 それなのに三人とも、同じ方向を見ていた。


 さっきまでただの森だった窓の向こうが、急に違う場所に見えてくる。


「……ごそごそしてるなの」


 マルルがゆっくり顔を上げた。


「前の方なの」


「どのくらい?」


 ルカが尋ねる。


「近いなの」


 コルも両手を床へ押し当てたまま、旧街道の先を見た。


「さっきより近い。それに……大きい」


「大きい?」


 その一言で、アリアの手にさらに力が入った。


 ルカは何も言わずに立ち上がると、アリアと窓の間へ少し身体を入れた。


 それを見て、アリアは自分も窓から少しだけ離れる。


 けれど、目は道の先から離せなかった。


 最初は何も起こらなかった。


 木々が揺れ、落ち葉が風に動いているだけだった。


 本当に何かが来ているのだろうか。


 そう思いかけた時。


 ざり、と。


 道の先から、石を擦るような音がした。


「今の?」


「うん」


 ルカの猫耳がわずかに動く。


 今度は、アリアにも聞こえた。


 ざり。


 さっきより近い。


 そして音だけではなかった。


 旧街道に転がっていた小さな石が一つだけ跳ね、その隣にあった石までわずかに動いた。


 四頭の挽馬も異変を感じたのか、落ち着かないように足を踏み替え始める。


「馬を下げて!」


 ヴァンの声が飛んだ。


 御者たちがすぐに手綱を引き、二台の荷馬車がゆっくり来た道を下がっていく。


 アリアは窓枠へ手を掛けたまま、前方から目を離さなかった。


「何かいるの?」


「いる」


 コルが答える。


「この下に」


 その直後だった。


 少し先の落ち葉が、下から押されるように持ち上がった。


 アリアは瞬きをする。


「……地面?」


 土が膨らんでいる。


 それも、少しではない。


 何か大きなものが下から身体を押しつけているように、道そのものがゆっくり盛り上がっていく。


 アリアにはまだ、それが何なのか分からなかった。


 ただ、コルもマルルも同じ場所を見ている。


 フィンも動かない。


 ルカの身体も、自分の前から退こうとしなかった。


 やがて盛り上がった土の表面から小石がぱらぱらと滑り落ち、その下に黄土色の硬そうなものが見えた。


「……なに?」


 アリアが目を凝らした。


 それは土ではなかった。


 少しだけ動き、光を受けた表面に硬い模様が浮かぶ。


「鱗でしょうか」


 ノルンの声がした。


 次の瞬間、残っていた土が大きく崩れた。


 地面を押し割るように現れたのは、丸みのある巨大な頭だった。


挿絵(By みてみん)


「……トカゲ?」


 ルカが呟く。


 アリアも同じものを思い浮かべていた。


 黄土色の鱗。


 土のついた鼻先。


 頭だけでも、今まで森で見たどんなトカゲとも比べられないほど大きい。


 やがて土の中から現れた金色の目が一度ゆっくり瞬き、その視線がこちらへ向いた。


 アリアの指が窓枠をぎゅっと握った。


 逃げた方がいい。


 近づいてはいけない。


 そう思うのに、大きな金色の目を見ていると、すぐには身体が動かなかった。


 怒っているようには見えない。


 こちらへ飛びかかろうとしているわけでもない。


 ただ地面の中から顔を出し、アリアたちを見ている。


「おっきな……トカゲさん?」


 思わず口から出た。


「アリア、下がって」


 ルカの手が肩へ触れる。


「うん」


 今度は素直に一歩下がった。


 その直後、大きな生き物が口を開いた。


 低い声が響く。


 耳から聞こえたというより、床を通り、足の裏から身体の中へ伝わってきたような音だった。


「……!」


 アリアが思わず足元を見ると、コルはもう床へ両手をつけていた。


「この音……」


「鈴なの?」


 マルルも顔を上げる。


「違う」


 コルはすぐに首を横へ振った。


「これは、この子の声」


「じゃあ、鈴みたいなのは?」


 アリアが尋ねた。


 コルは返事をせず、もう一度手のひらから伝わる振動へ意識を向けた。


 そして。


 ゆっくり顔を上げる。


「……あの中」


「え?」


「鈴みたいな音」


 コルは巨大な生き物から目を離さなかった。


「あの子の中から聞こえる」


 アリアも大きな身体を見る。


 まだ半分以上が地面の中に埋まっていた。


 けれど生き物は、こちらを襲おうとしているのではなく、自分の身体を地上へ引き上げようとしているようだった。


 太い前脚が土の中から現れ、大きな爪が古い街道へ掛かる。


 その時。


 みし、と低い音がした。


 生き物ではない。


 道の方からだった。


 アリアが足元を見ると、爪の掛かった場所から細い亀裂が伸びている。


「まずい!」


 ヴァンの声が響いた。


「道が弱ってる!」


「みんな、窓から離れて!」


 エッダがアリアたちを奥へ下がらせる。


 アリアも今度は抵抗せず、長椅子のそばまで下がった。


 それでも窓の向こうが気になった。


 大きな生き物が身体を引き上げるたびに、道から嫌な音がする。


 ようやく四本の脚と大きな胴が地上へ出た頃には、古い路面に何本もの亀裂が走っていた。


 そして、その大きな身体が完全に道へ乗った瞬間。


 路肩が沈んだ。


「崩れる!」


 ロザの声が飛ぶ。


 大きな生き物も、自分の足元がなくなり始めたことに気づいたらしい。


 慌てて身体を動かした。


 けれど、太い脚が地面を踏み直すたびに亀裂はさらに広がり、石と土が斜面へ滑り落ちていく。


 アリアはもう、その生き物が怖いということを忘れていた。


「落ちちゃう!」


 さっきまで自分たちを見ていた大きな金色の目が、今は足元へ向いている。


 逃げようとしている。


 けれど身体が大きすぎて、動くたびに道が崩れてしまう。


「向こうへ行ける?」


 アリアが思わずルカを見る。


「分からない」


 ルカも窓の外から目を離していなかった。


 向こう側にはまだ道が残っている。


 大きな生き物もそれに気づいたのか、身体をそちらへ向けた。


 残っている地面へ太い脚を踏ん張る。


 その足元からまた土が落ちた。


「早く……」


 アリアの手が胸の前でぎゅっと握られる。


 次の瞬間、生き物が地面を強く蹴った。


 大きな身体が崩れ始めた道を越え、向こう側へ飛ぶ。


 太い前脚が路面の端へ掛かった。


 けれど身体の重さで土が削れ、一度ずるりと滑り落ちる。


「頑張って!」


 気づけば、アリアは声を上げていた。


 爪が土へ深く食い込む。


 もう片方の前脚も掛かった。


 大きな身体が少しずつ持ち上がり、やがて後ろ脚まで向こう側へ乗る。


「上がった……」


 アリアの肩から、一気に力が抜けた。


 無事だった。


 そう思ったのも束の間。


 生き物が最後に蹴った場所から、残っていた路面が大きく崩れ始めた。


 石と土がまとまって斜面へ落ち、その重い音に驚いた四頭の挽馬が一斉にいななく。


 二台の荷馬車も大きく揺れた。


「馬を押さえて!」


「大丈夫! そのまま下げて!」


 外から大人たちの声が飛び交う。


 アリアは長椅子へ手をつき、ルカもすぐ隣で身体を支えてくれていた。


 揺れが収まるまで、誰も窓へ近づかなかった。


 やがて、石の落ちる音が一つずつ減っていく。


 最後に小さな土の塊が斜面を滑り落ち、それきり静かになった。


「もう……大丈夫?」


 アリアが尋ねる。


 エッダが外を確認してから、ようやく腕を緩めた。


「荷馬車はね」


 その言葉に、アリアはそっと窓へ近づいた。


 そして。


 足が止まった。


 ついさっきまで、自分たちが進もうとしていた道がなくなっている。


 向こう側の旧街道は見えていた。


 けれど、その間には深く斜面が崩れ、二台の荷馬車が通れる場所などどこにも残っていなかった。


「……道」


 アリアは窓枠へ手を置いた。


「なくなっちゃった」


 あと少し進めば、広い街道へ戻れるはずだった。


 コルをグラナへ連れていけると思っていた。


 けれど今、自分たちはまた進めなくなってしまった。


 アリアは崩れた斜面をしばらく見つめたあと、向こう側へ目を移した。


 あの大きな生き物がいる。


 全身を土だらけにしながら、木々の間でこちらを見ていた。


 逃げていかない。


 襲ってもこない。


 ただ、さっきと同じ金色の目でアリアたちを見ている。


「……トカゲさん」


 アリアが小さく呼んだ。


 返事はない。


 馬たちも少しずつ落ち着き、大人たちの声も止んだ。


 木々の間へ、いつもの森の音が戻ってくる。


 その静けさの中で。


 リン。


 澄んだ音が、一つだけ響いた。


「……!」


 コルがすぐに床へ手をついた。


 アリアも向こう側を見る。


 大きな生き物は、まだそこにいる。


「あの音だ」


 コルは向こう側の大きなトカゲを見つめたまま、小さく呟いた。


「ずっと追ってた音」


 アリアは崩れてしまった道と、その向こうに立つ大きな生き物を交互に見た。


 グラナへ続く道は、また途切れてしまった。


 けれど、何日も地面の下を移動し続けていた小さな鈴のような音だけは、とうとうアリアたちの目の前までやって来ていた。

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