第40話 大地の声
マルルの長い耳がゆっくりと持ち上がった、そのすぐあとだった。
「……っ」
コルが地面へ手をつき、立ち上がろうとする。
けれど、木材に挟まれていた足に力を入れた途端、体が大きく傾いた。
「危ない!」
そばにいたルカが、慌ててコルの肩を支えた。
「動いちゃ駄目だよ」
アリアも反対側から腕を伸ばす。
「歩ける」
「その顔で言っても、説得力がないね」
エッダがコルの前へしゃがみ込んだ。
「まずは、ここから離れるよ。まだ斜面が崩れるかもしれない」
ヴァンがコルの背中と膝の下へ腕を入れ、そっと抱き上げる。
コルは少し驚いたように目を瞬いたが、痛めた足が揺れないよう、すぐにヴァンの上着をつかんだ。
アリアもマルルを抱き上げる。
「マルルも、疲れたでしょう?」
「ぼくは歩けるなの」
そう答えたものの、マルルはアリアの腕から降りようとはしなかった。
ルカとノルンもそばにつき、みんなで荷馬車へ戻る。
ロザとヴァンは崩れた扉の前へ太い枝を組み、街道を通る人が近づかないよう、目印の布を結んだ。
荷馬車は斜面から離れ、少し先の平らな場所までゆっくりと進んだ。
窓の外を流れていた木々が止まると、ヴァンはコルを窓際の長椅子へ寝かせた。ロザが丸めた毛布を痛めた足の下へ差し込み、エッダが靴ひもをほどいていく。
靴を脱がせると、足首から甲にかけて赤く腫れていた。
「痛むところは、ここかい?」
エッダの指が足首へ触れた途端、コルの丸い耳がぴくりと動く。
「……そこ」
「こっちは?」
「少しだけ」
エッダは指先が動くことを確かめると、冷たい水でぬらした布を腫れたところへ当てた。
「折れているかどうかは、ここでは分からない。グラナへ着いたら、ちゃんと診てもらおう。それまでは歩くんじゃないよ」
薄い板を足の両側へ添え、布を巻いて固定していく。
そのあいだ、コルは一度も痛いとは言わなかった。
けれど、布が締まるたび、長椅子の端をつかんだ大きな手へ力が入った。
アリアは膝に抱いていたマルルを下ろすと、荷物の間に置かれていた水差しを両手で持ち上げた。
「お水、飲む?」
「うん」
コルは体を起こし、差し出された器を両手で受け取った。ゆっくりと水を飲み、空になった器をアリアへ返す。
「ありがとう」
「わたしはアリア。こっちはルカと、ノルン。それから――」
「マルルなの」
マルルが長椅子のそばで胸を張る。
「さっき聞いた」
コルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「忘れないよ」
マルルの耳の付け根が、またふわりと持ち上がった。
エッダは使った布を籠へ戻すと、コルの隣へ腰を下ろした。
「コル。家はどこにあるんだい?」
「グラナ」
「グラナの町かい?」
コルは首を横に振った。
「町の下」
アリアが目を丸くする。
「グラナの下に、おうちがあるの?」
「うん。地下に里があるんだ」
コルは手のひらを下へ向けた。
「ぼくたち、モグラの獣人は、土の下に道を作って暮らしてる。明かりは少ないけど、夏は涼しいし、冬は暖かいよ」
「お空は見える?」
「里からは見えない。でも、地上へ出る道はある」
コルは目元まで下ろしていたゴーグルを、少しだけ持ち上げた。
窓から差し込む明るさに、黒い瞳が細くなる。
「外は、ちょっとまぶしいけど」
アリアが窓の外を見てから、もう一度コルを見る。
「ずっと夜みたいなの?」
「真っ暗じゃないよ。光る石を使うんだ。水路にも小さな明かりが並んでる」
「見てみたい」
アリアが身を乗り出すと、エッダがその肩をそっと戻した。
「その前に、聞いておかなくちゃいけないことがあるね」
コルの手が、膝の上で止まる。
「あの坑道で、何をしていたんだい?」
窓の外で、馬が一度だけ鼻を鳴らした。
コルは長椅子の下へ目を落とす。
「あそこは、里から地上へ続く古い道なんだ。今は使われてないけど、何日か前から、あの道の奥で変な音がしてた」
「変な音?」
ルカが尋ねる。
「石が動く音とも、水が流れる音とも違う。小さな何かが、土の中からたたいてるみたいな音」
コルは片方の手の指先で、もう片方の手のひらを、こつ、こつ、とたたいた。
「父さんと一緒に調べるはずだった。でも、里の水路が壊れて、父さんはそっちへ行かなくちゃならなくなったんだ」
「それで、一人で入ったの?」
コルはしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「明日まで待てって言われた。でも、昨日より音が小さくなってたから……消える前に、どこから聞こえるのかだけ確かめようと思って」
エッダは何も言わず、コルの顔を見ている。
「すぐに戻るつもりだった」
「そう言って入った子を、さっきみんなで掘り出したんだよ」
コルの丸い耳が下がった。
「……ごめんなさい」
「聞く力があっても、崩れた木を一人で持ち上げることはできない。できることがあるからって、一人で行っていい場所になるわけじゃないんだ」
コルは膝の上に置いた手を見つめたまま、もう一度うなずいた。
その足元へ、マルルが近づく。
「ぼくも、一人では助けられなかったなの」
コルが顔を上げた。
「ぼくは音を聞いただけなの。岩を動かしたのはヴァンたちで、木を持ち上げたのも、コルを引っぱったのも、ぼくじゃないなの」
「でも、マルルが見つけなかったら、誰も掘らなかったよ」
アリアが隣へしゃがむ。
「だから、みんなで助けたんだよ」
マルルはアリアを見て、それからコルへ向き直った。
「今度は、一人で行かないなの」
「……うん」
コルの大きな手が、マルルの頭へ伸びる。
けれど、額の青い宝石へ触れそうになったところで止まり、代わりに、耳の間をそっとなでた。
「今度は、誰かと行く」
エッダは二人を見てから立ち上がった。
「それなら、グラナまでは私たちが連れていくよ。ちょうど同じ場所へ向かっているからね」
「でも、ぼく、歩ける」
「歩かない」
「少しなら」
「歩かない」
コルは口を開きかけたが、エッダの顔を見ると、そのまま閉じた。
トアが隣で小さく笑う。
「エッダが二回言ったら、もう決まりだよ」
「……分かった」
エッダはコルの毛布を掛け直すと、荷馬車の外へ出た。
「さて、もう一つ決めなくちゃならないね」
ロザが荷台から地図を持ってくる。
この先の街道は、崩れた斜面に塞がれている。土砂を越えて進むことはできない。
「来た道を戻れば、今朝出た村へ戻れる」
ロザが地図の上を指でたどる。
「グラナへ向かうなら、少し戻ったところから古い街道へ入って、山裾を回ることになるね」
「荷馬車は通れるの?」
トアが地図をのぞき込む。
「前に通ったときは問題なかったよ。ただ、しばらく使っていない道だからね」
「日も高い。分かれ道まで戻って、ロザと俺で先を見てこよう」
ヴァンが崩れた斜面を振り返った。
「通れないようなら、そのときは村へ戻ればいい」
エッダは荷馬車の中へ目を向けた。
窓際の長椅子では、コルが固定された足を見つめている。
「村へ戻るより、グラナへ行った方が、あの子の足を診てもらえるね」
「里の家族にも知らせなくちゃならないしね」
ロザの言葉に、エッダはうなずいた。
「それじゃあ、古い街道へ向かおう。無理はしない。危ないと思ったら、すぐに引き返すよ」
「分かった」
話が決まると、みんなはもう一度、馬と荷馬車の様子を確かめた。
ダグナの所へ知らせに行っていたフィンも戻って来ていた。
それから荷馬車はゆっくりと向きを変え、古い街道へ続く分かれ道を目指して、来た道を戻り始めた。
大きな車輪が土を踏み、窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
コルは長椅子の端へ体を寄せると、片方の手を床へ伸ばした。
じっと動かなくなる。
「何してるの?」
アリアも床へ手をついた。
「聞いてる」
コルの指先が、わずかに動く。
「前に四頭。右と左で、足の速さが少し違う。車輪は四つ。後ろの右側だけ、小さな石を踏んだ」
その直後、荷馬車の下から、こつん、と軽い音がした。
アリアは床へ顔を近づける。
「どうして分かったの?」
「地面から伝わってくるんだ」
コルは手のひらをつけたまま答えた。
「馬が歩けば土が揺れる。車輪が石を踏んでも、水が流れても、少しずつ違う揺れ方をする。目には見えなくても、地面はずっと何かを伝えてる」
「地面が、何かを伝えてくるの?」
ノルンが尋ねた。
「うん。父さんは、それを“大地の声”って呼んでる」
アリアは両手を床へつけ、目を閉じた。
荷馬車の揺れに合わせて、体も小さく上下する。
「何か聞こえる?」
「うん。どくん、どくんってする」
コルはアリアの手元を見た。
「それは、たぶんアリアの胸の音」
アリアが目を開ける。
「わたしの?」
ルカが吹き出し、ノルンも口元へ手を当てた。
「もう一回やる」
アリアは今度こそと、両手を床につき直す。
マルルも隣へ来ると、床へぺたりとお腹をつけ、両耳を前へ垂らした。
「ぼくは、お耳で聞くなの」
「床に耳をつけたら、馬車の音は聞こえるよ」
ルカが言うと、マルルはしばらくそのままでいた。
「……いっぱい聞こえすぎるなの」
「ぼくも最初はそうだった」
コルは小さく笑った。
「何度も聞いていると、少しずつ分かるようになるよ」
ノルンがコルのそばへ座る。
「さっき言っていた変な音も、手のひらで感じたの?」
「うん。三日前、里で地面に手をついたとき、聞いたことのない音がしたんだ。石より軽くて、水よりも澄んでいて……遠くで、小さな鈴が鳴ってるみたいだった」
「それが、あの坑道から聞こえたの?」
「最初はもっと遠かった。でも、日がたつたび、少しずつあの道へ近づいてきたんだ」
コルは床へつけた手を、ゆっくりと握った。
「だから、どこへ向かってるのか確かめたくて」
「グラナに着いたら、また聞こえる?」
「分からない。でも、地面に残っていれば、たぶん追える」
マルルの耳の付け根が、ふわりと持ち上がった。
「今度は、ぼくも一緒に聞くなの」
「うん」
コルは小さく笑った。
「今度は、一人で行かない」
アリアは、マルルのチョーカーにある小さなコンパクトを見つめた。
荷馬車は四頭の馬の足音を大地へ刻みながら、古い街道へ続く分かれ道を目指して進んでいった。




