第39話 マルルにできること
こつ。
アリアの手の中で、マルルの前足がぴくりと動いた。
「……いまの」
垂れていた耳が、すっと持ち上がる。
こつ。
もう一度。
さっきよりも、ずっと小さな音だった。
「まだ聞こえるなの」
マルルはアリアの手から前足を抜くと、窓のそばへ駆け寄った。
外では、ヴァンと御者が崩れた斜面から岩を運び出していた。ロザは土の間へ木材を差し込み、これ以上崩れないように支えている。
少しずつ取り除かれた土の奥には、古びた扉が半分ほど姿を現していた。
「扉の向こうなの」
マルルの声に、ルカが窓から身を乗り出す。
「誰かいるの?」
「分からないなの。でも、さっきからずっと、何かをたたいてるなの」
マルルは身を乗り出し、耳を前へ傾けた。
こつ。
長い間を置いて、かすかな音が返ってくる。
「エッダ!」
ルカの声に、斜面の前にいたエッダが振り返った。
「どうしたんだい?」
「マルルが、扉の向こうから音がするって」
エッダの顔から笑みが消えた。
「ヴァン。手を止めて」
二人はすぐに岩を置き、扉から離れた。
辺りが静かになる。
土の落ちる音。
馬たちが鼻を鳴らす音。
それらが消えるのを待って、マルルは目を閉じた。
けれど、今度は何も聞こえなかった。
「マルル?」
アリアが隣へ来る。
「……聞こえないなの」
マルルは窓枠へ前足を掛けた。
「もっと近くへ行くなの」
「待って」
ルカがマルルを抱き上げた。
「ぼくが連れていく」
三人が馬車を降りると、ノルンもあとに続いた。
エッダは扉の前から少し離れた場所を指さした。
「そこから先へは来るんじゃないよ。まだ上の土が動くかもしれない」
ルカは言われた場所でしゃがみ、マルルを地面へ下ろした。
マルルは鼻先が土へつきそうなほど頭を低くする。
右の耳を向ける。
今度は左。
何度も角度を変えながら、じっと音を探した。
「……いるなの」
マルルが顔を上げた。
「扉の向こうに、誰かいるなの」
「間違いないかい?」
「息の音がするなの」
エッダはすぐに扉へ向き直った。
「中に誰かいる! 急ぐよ!」
ヴァンとフィンが再び岩を運び始める。ロザは扉の上へ太い木材を渡し、その両端を別の木で支えた。
土を取り除くたび、扉の下に黒い隙間が少しずつ広がっていく。
やがて、ヴァンが膝をついて中をのぞき込んだ。
「駄目だ。奥は広そうだが、ここが狭すぎる」
「もう少し掘れないの?」
トアが尋ねる。
「左側の岩が扉へ乗ってる。下手に動かせば、また崩れるぞ」
ヴァンが隙間へ腕を入れてみたが、肩のところで止まってしまった。
「子どもでも通れそうにないな」
その横で、マルルが隙間を見つめていた。
大人の腕が入らないほど狭い場所。
けれど、自分なら。
「ぼく、入れるなの」
アリアが息をのんだ。
「マルルが?」
「うん」
「駄目だ」
ルカがすぐに言った。
「また崩れるかもしれない」
マルルの耳が少し下がった。
こわくないわけではなかった。
隙間の向こうは真っ暗で、どこまで続いているのかも分からない。
けれど、その奥にいる誰かの息は、さっきよりも小さくなっていた。
「ひとりで待ってるなの」
マルルは暗い隙間へ目を向けた。
「きっと、こわいなの」
ルカは何も言えなくなった。
エッダが扉の上へ渡した木材を確かめる。ロザも両側の支えを何度も押し、土の動きを見た。
「マルル」
エッダがしゃがみ込んだ。
「少しでも変な音がしたら、すぐに戻るんだよ」
「いいなの?」
「細い縄を体へつなぐ。合図をしたら、すぐに引き戻せるようにする」
ヴァンが布を折り、マルルの胸とお腹を包むように巻いた。その上から細い縄を結び、苦しくないか何度も指を入れて確かめる。
「一回引いたら止まる。二回なら、誰かを見つけた。三回なら、戻りたい。分かったか?」
「一回、止まる。二回、見つけた。三回、戻るなの」
ロザは小さな革袋へ水を入れ、マルルの背中に結びつけた。
アリアがマルルの前へしゃがむ。
「帰ってきてね」
「うん」
マルルが差し出した前足を、アリアは両手でそっと包んだ。
「約束だよ」
「約束なの」
アリアの手が離れる。
マルルは暗い隙間へ体を滑り込ませた。
◇
扉の向こうは、湿った土の匂いがした。
お腹が地面につくほど低い場所を、マルルは少しずつ進んでいく。
背中の縄が、土の上をするすると滑る。
前足へ小石が当たるたび、暗闇の中で音が大きく響いた。
「どこにいるなの?」
返事はない。
マルルは立ち止まり、耳を澄ませた。
ぽたり。
どこかで水が落ちている。
その向こうから、浅い息が聞こえた。
「こっちなの!」
マルルは体の向きを変え、右へ続く狭い道を進んだ。
少し先で天井が高くなり、立って歩けるようになる。
暗闇の奥に、何かがうずくまっていた。
「だれかなの?」
「……ここ」
小さな声が返ってきた。
マルルが駆け寄る。
崩れた木材の下に、一人の男の子が倒れていた。
土にまみれた山吹色の上着。首には青緑色の布を巻き、頭の上には丸いゴーグルが乗っている。
小さな丸い耳と、少し前へ出た鼻先。
男の子の片足には、太い木材が乗っていた。
「見つけたなの!」
マルルは体を後ろへ引き、縄を二回引いた。
すぐに、外から二回、縄が返される。
「もう大丈夫なの。外にみんないるなの」
男の子がゆっくり顔を上げた。
「馬車は……?」
「馬車?」
「さっき、地面を伝わってきた。大きな車輪の音がしたから……」
男の子は土のついた手を扉の方へ伸ばした。
「上が崩れそうだった。だから、石で扉をたたいたんだ」
「あの音、きみだったなの?」
男の子が小さくうなずく。
「聞こえた?」
「聞こえたなの。だから、馬車は止まったなの」
男の子の肩から力が抜けた。
「よかった……」
マルルは背中の革袋を外そうとした。
けれど、前足では留め具をつかめない。
何度か体をひねっていると、男の子が手を伸ばして革袋をほどいた。
「水なの。飲めるなの?」
男の子は水を一口飲み、息をついた。
「ありがとう」
「足、痛いなの?」
「少しだけ。でも、この木が動かないんだ」
男の子は地面へ手のひらをつけた。
目を閉じ、じっと何かを探る。
「外の人に伝えて」
「何をなの?」
「左から掘ったら駄目。左の上は空洞になってる。崩れるから」
男の子の広い手のひらが、土の上をゆっくり動く。
「右側は岩が続いてる。右からなら開けられる」
マルルは扉の方へ向き直った。
「右から掘るなの!」
声が暗い道を走っていく。
「左は空洞で、崩れるなの!」
しばらくすると、遠くからエッダの声が返ってきた。
「分かった! 右から開けるよ!」
岩を動かす重たい音が響き始める。
ごつん。
ごろり。
音がするたび、男の子は地面へ手を当てていた。
マルルも隣で耳を澄ませる。
地面の下を伝わる音を聞く男の子。
その音が空気へ漏れる瞬間を拾うマルル。
「止まってなの!」
マルルが叫ぶと、外の音がぴたりと止まった。
ぱらぱらと、左側の天井から土が落ちる。
土の音が消えるのを待ち、男の子がもう一度地面へ手を置いた。
「もう大丈夫。今度は少し下」
「少し下なの!」
再び岩を動かす音が始まる。
やがて、暗かった道の先へ細い光が差し込んだ。
「見えたぞ!」
ヴァンの声がする。
光は少しずつ太くなり、土の向こうから大きな手が伸びてきた。
「いた! 子どもだ!」
ロザも駆け寄ってくる。
ヴァンが木材の下へ太い棒を差し込んだ。
「持ち上げるぞ。せーの!」
三人が力を込める。
木材がわずかに浮いた。
「今だ!」
エッダが男の子の腕をつかみ、土の上を滑らせるように引き寄せた。
男の子の足が、木材の下から抜ける。
「マルルも!」
「ここにいるなの!」
アリアの声が聞こえた。
「マルル!」
マルルは縄をつけたまま、広くなった隙間を駆け抜けた。
扉の外へ出た途端、アリアが両腕を広げる。
「おかえり!」
「ただいまなの!」
マルルはその胸へ飛び込んだ。
ルカが隣から手を伸ばし、マルルの頭を何度もなでる。ノルンも胸の前で両手を握り、ほっと息をついた。
そのそばでは、助け出された男の子が眩しそうに目を細めていた。
「まぶしい……」
男の子は頭の上にあったゴーグルを目元へ下ろした。
濃い茶色の丸いレンズの奥から、マルルを見る。
「きみが、来てくれたんだね」
「ぼくはマルルなの」
「ぼくは、コル」
コルは土に汚れた手を差し出した。
マルルも前足を伸ばす。
コルの手は、マルルの前足よりもずっと大きかった。土を掘るための幅広い手が、小さな前足を両側からやさしく包む。
「ぼく、木を持ち上げられなかったなの」
マルルがぽつりと言った。
コルは首を横に振った。
「ぼくの手じゃ、外まで音を届けられなかった」
コルの丸い耳が、少しだけ動いた。
「きみのお耳が見つけてくれたから、ぼく、ここにいるんだ」
マルルは、コルの手の中にある自分の前足を見つめた。
その隣で、アリアが何も言わずにマルルの背中へ手を添える。
しばらく下がっていた長い耳が、ゆっくりと持ち上がった。




