第38話 マルルの願い
翌朝。
ダグナは修理した留め金を車輪へ取りつけると、金槌の柄で軽く叩いた。
澄んだ音が一つ、朝の鍛冶場へ響く。
「これで大丈夫だ」
車輪を両手でつかみ、前後へ揺らす。
留め金は少しも動かなかった。
ヴァンも隣へしゃがみ、車軸の周りを確かめていく。
「昨日までの音が嘘みたいだな」
「グラナまで持つように直したんじゃない。これから先も走れるように直したんだ」
ダグナは立ち上がると、荷馬車の車体を大きな手でぽんと叩いた。
アリアはその後ろにある炉をのぞき込んだ。
消えかけた炎のそばで、昨日の小さな火の精霊が、火ばさみの先へしがみついている。
「昨日はありがとう」
アリアが小さな声で言うと、火の精霊は片手を上げた。
もう片方の手を離せば落ちてしまうらしい。
火ばさみにしがみついたまま、何度も腕を振っている。
アリアも胸の前で手を振り返した。
「またね」
「アリア、誰に手を振ってるんだ?」
荷馬車の中から、ルカが顔を出す。
「火の精霊さん」
「まだいるのか?」
「うん。落ちそうだけど」
ルカには見えないはずなのに、炉の方へ片手を上げた。
「落ちるなよ」
その直後、火の精霊の手が滑った。
小さな体が火ばさみから離れ、そのまま炉の中へ落ちていく。
ぱちん、と赤い火の粉が一つ跳ねた。
「落ちた」
「大丈夫なのか?」
「炎の中に帰ったみたい」
「びっくりさせるなよ……」
ルカが胸をなで下ろす。
その声が聞こえたのか、炉の中からもう一度だけ火の粉が上がった。
出発の支度が整い、荷馬車がゆっくりと動き始める。
ダグナは鍛冶場の前に立ち、片手を上げた。
「気をつけて行けよ」
「ありがとうございました!」
アリアたちは荷馬車の後ろから、見えなくなるまで手を振った。
◇
鍛冶村を出た道は、山の斜面に沿って続いていた。
片側には岩と木々が迫り、反対側には細い川が流れている。
道幅はあまり広くなく、荷馬車は曲がりくねった道をゆっくりと進んでいた。
昨日まで聞こえていた音は、もうしない。
車輪は一定の調子で土を踏み、留め金も揺れることなく回っている。
「かちんって言わなくなったね」
アリアが窓から車輪の方をのぞく。
「ダグナ、すごいなの」
マルルも窓枠へ前足を掛けた。
「でも、最初に見つけたのはマルルだよ」
「そうなの。ぼくのお耳が見つけたなの」
長い耳が、誇らしそうにぴんと立つ。
向かいに座っていたトアが笑った。
「今日は何も見つけなくていいからね」
「どうしてなの?」
「また荷馬車が壊れてたら困るもの」
マルルは少し考え、こくりとうなずいた。
「今日は、いい音だけ見つけるなの」
「いい音って?」
「お昼ごはんを作る音なの」
「それはお耳じゃなくても分かると思う」
ルカが言うと、マルルの耳が横へ開いた。
「ルカには教えてあげないなの」
「別にいいよ」
「お肉が焼けても?」
「それは教えて」
アリアとトアが声を上げて笑う。
ノルンも口元へ手を添えながら、小さく笑っていた。
荷馬車は緩やかな坂を上っていく。
木々の隙間から差し込む朝の光が、窓辺を流れていった。
しばらくして、マルルの右耳が動いた。
続いて左の耳も、進行方向へ向く。
「……何かするなの」
「お昼ごはん?」
「違うなの」
マルルは窓枠から身を乗り出した。
耳を澄ませたまま、じっと道の先を見つめている。
荷馬車の車輪が土を踏む。
馬の蹄が、固い地面を鳴らす。
森の奥からは、葉のこすれる音が聞こえていた。
「どんな音?」
アリアが声を落とす。
「こつってしたなの」
「石が転がったんじゃないか?」
「分からないなの」
マルルは一度耳を伏せ、すぐにまた立てた。
こつ。
今度はルカの猫耳も、ぴくりと動いた。
「聞こえた」
「どこから?」
「前の方だ。でも……」
ルカが窓から顔を出した。
道の先には、岩壁に沿った狭い曲がり角が見える。
「地面の下から聞こえた気がする」
「やっぱり、下なの」
マルルの前足が窓枠を強く押した。
「エッダ、止まってなの!」
前の御者台にいたエッダが振り返る。
「どうしたの?」
「道の下から、音がするなの!」
エッダはすぐに御者へ声を掛けた。
手綱が引かれ、荷馬車が道の広くなったところで止まる。
ヴァンとフィンが地面へ降りた。
「また車輪か?」
「違うなの。もっと前から聞こえるなの」
マルルが窓から首を伸ばす。
「曲がったところの向こうなの」
ヴァンはフィンと顔を見合わせると、ゆっくりと道の先へ向かった。
荷馬車の中では、誰も話さない。
やがて二人の姿が、曲がり角の手前で止まった。
フィンが岩壁を見上げる。
その頭上から、小さな石が一つ転がり落ちた。
「戻れ!」
ヴァンの声が飛ぶ。
二人が駆け戻ってくる。
岩壁の奥から、地面を引きずるような音が響いた。
馬が驚いて首を振る。
ロザと御者がすぐに手綱を押さえた。
次の瞬間。
曲がり角の向こうで、斜面が崩れた。
岩がぶつかり、木の根が折れる。
土煙が道の上へ大きく広がった。
トアがアリアとノルンを抱き寄せる。
ルカもマルルを抱え、窓から離れた。
荷馬車は揺れなかった。
崩れたのは、少し先の道だった。
それでも、響いてくる音だけで床まで震えているように感じられた。
やがて岩のぶつかる音が止み、辺りが静かになる。
「みんな、けがはない?」
エッダが荷馬車の中を確かめる。
「大丈夫」
トアが腕を緩めた。
アリアは窓の外を見た。
曲がり角の向こうには、茶色い土煙がまだ残っている。
「マルルが止めてくれなかったら……」
トアが言いかけたところで、ヴァンが荷馬車の横を通った。
「まだ外へ出るな。上から石が落ちてくるかもしれない」
大人たちは馬を落ち着かせ、荷馬車を少しずつ後ろへ移動させた。
崩れた場所から十分に離れたところで、車輪が再び止まる。
「もう大丈夫なの?」
アリアが尋ねると、エッダは窓のそばへ来た。
「ここなら大丈夫。でも、道がどうなったか分かるまでは、荷馬車の中にいてね」
「うん」
土煙が薄くなるのを待ってから、ヴァンとフィンがもう一度、道の先を確かめに向かった。
今度はロザも一緒だった。
マルルはルカの腕から降りると、窓辺へ戻った。
長い耳が、前を向いたまま動かない。
「マルル?」
「まだするなの」
「何が?」
「あの音なの」
マルルは窓枠へ耳を近づけた。
「さっきより小さいけど、まだ、こつってするなの」
ルカも耳を澄ませる。
けれど、今度は聞こえないらしい。
「本当に?」
「するなの。土の向こうから聞こえるなの」
しばらくして、ロザが荷馬車へ戻ってきた。
「道は完全に塞がってる。今日はグラナへ進めそうにないね」
「そんなに?」
トアが窓から身を乗り出す。
「大きな岩が何個も落ちてる。それから……変なものが出てきたよ」
「変なもの?」
「石で造った入口みたいなもの」
ロザの後ろから、ヴァンとフィンも戻ってくる。
ヴァンは手袋についた土を払いながら、エッダへ話した。
「崩れた斜面の下に、古い坑道らしきものがある。入口は今の崩落で塞がれてるが、奥へ続いているように見えた」
「坑道なら、別の入口があるかもしれないわね」
「ああ。中に人がいるとは思えないが……」
「いるなの!」
マルルの声に、大人たちが振り返った。
「向こうで音がするなの。誰かが、石をこつってしてるなの」
ヴァンはすぐには答えず、崩れた斜面へ目を向けた。
「どの辺りから聞こえる?」
「入口の奥なの」
「今も聞こえるのか?」
「聞こえるなの」
エッダはフィンを振り返った。
「ダグナたちへ知らせて。ここからなら、まだ村へ戻れるわ」
「分かった」
「ヴァンとロザは、入口へ近づけるか確かめて。ただし、無理はしないで」
二人がうなずく。
モーリたちは荷馬車から縄や木材を下ろし始めた。
トアも毛布を抱えて外へ出る。
「アリアたちは、もう少しここで待っていてね」
扉が閉まり、荷馬車の中にはアリアたちだけが残った。
マルルは窓から離れなかった。
「大丈夫かな」
アリアが隣へ座る。
「分からないなの。でも、まだ音はしてるなの」
崩れた斜面では、ヴァンたちが縄を張り、木材を運んでいる。
大きな岩を動かす前に、これ以上崩れないよう支えを組むらしい。
ロザが縄を結ぶ。
ヴァンが木材を押さえる。
モーリとトアは、必要な道具を次々と運んでいた。
マルルは窓枠へ置いた自分の前足を見た。
小さくて丸い、白い前足。
何かを持とうとしても、爪の先に引っ掛けることしかできない。
縄を結ぶことも、木を押さえることもできない。
「ぼくも行くなの」
マルルが扉へ向かう。
ルカがその前へ手を出した。
「まだ危ないって言われただろ」
「でも、ぼくが見つけたなの」
「だからこそ、ここで音を聞いててくれ」
ルカはマルルの隣へしゃがんだ。
「音が止まったり、場所が変わったりしたら、マルルにしか分からない」
マルルは何も言わず、外で働く大人たちを見つめた。
アリアが、窓枠の上へ手を置く。
「マルルのお耳がなかったら、荷馬車も止まれなかったよ」
「分かってるなの」
マルルは自分の前足を、アリアの手の上へ重ねた。
けれど、人の手のように指を曲げて、握ることはできない。
「お耳も、いるなの」
アリアの指が、小さな前足をそっと包む。
「でも……」
マルルは、もう一度斜面の方を見た。
大人たちの手から手へ、縄と木材が渡っていく。
岩の向こうから、かすかな音がした。
こつ。
マルルの耳が立つ。
「待っててなの!」
窓から身を乗り出し、届くように声を張った。
「ぼくたちが、絶対に助けるなの!」
しばらくすると、岩の奥から小さな音が返ってきた。
こつ。
マルルはアリアの手の上にある自分の前足を見つめた。
「ぼくにも、みんなみたいなおててがあったらいいのに」
アリアの指が、その丸い前足をもう一度、ぎゅっと包んだ。




