第36話 同じ速さで
山の村を出てから、荷馬車はさらに細い道を進んでいった。
木々の間から聞こえていた川の音が、少しずつ大きくなっていく。
やがて前方に、谷を渡る木の橋が見えた。
昨日上流で降った雨で水かさが増した川は、濁ったしぶきを上げながら、橋の下を勢いよく流れている。
荷馬車が橋の手前で止まると、ヴァンは一人で橋へ向かった。
板を踏み、手すりへ体重を掛け、橋の下までのぞき込む。
「どう?」
御者台からエッダが尋ねる。
「渡れる。ただし、一度に全部は乗せない方がいい」
子どもたちは荷馬車を降り、ロザと一緒に先に橋を渡った。
フィンも二頭の補助馬を連結から外し、一頭ずつ向こう岸へ連れていった。
アリアはルカと手をつなぎ、足元の板を一枚ずつ確かめながら進んでいく。
すぐ下では、茶色く濁った水が岩へぶつかり、大きな音を立てていた。
「下、見ない方がいいよ」
ルカが言う。
「もう見ちゃった」
「じゃあ、前を見て」
「うん」
アリアはルカの手を握り直した。
全員が向こう岸へ着くと、いよいよ荷馬車が橋へ入った。
ぎしり。
大きな車輪が乗った途端、橋が低い音を立てる。
トアの手が、アリアの肩へそっと添えられた。
荷馬車を引く二頭の馬は、エッダの声に合わせ、一歩ずつ進んでくる。
車輪が板の継ぎ目を越えるたび、荷馬車がゆっくりと揺れた。
やがて最後の車輪が橋を渡り切る。
「渡った!」
アリアが両手を上げると、トアも隣で手を上げた。
「渡ったー!」
エッダは馬を止めず、そのまま少し先まで荷馬車を進ませた。
川から離れた頃には、木々の向こうへ夕日が傾き始めていた。
その日は街道から少し入った草地に荷馬車を止め、そこで夜を過ごすことになった。
◇
翌朝。
アリアが顔を洗って戻ると、朝露に濡れた草が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
川の音は遠く、周囲には人家も見えない。街道との間には木々が並び、荷馬車の姿も外からは見えにくくなっている。
ヴァンは馬の脚を確かめ、フィンは荷台へ縄を掛け直していた。ロザとトアは、畳んだ毛布や食器の籠を荷馬車へ運んでいる。
アリアは広い草地を見回すと、ノルンのところへ駆けていった。
「ノルン。ここなら練習できる?」
ノルンも周囲を確かめる。
「木からも崖からも離れていますし、風も強くありません。飛ぶ練習にはよいと思います」
「魔法も?」
「出発まで時間があれば」
アリアはすぐにエッダのもとへ走った。
「エッダ!」
「どうしたんだい?」
「お空を飛ぶ練習と、魔法の練習をしてもいい?」
荷物を持ち上げようとしていたフィンの手が止まった。
「空を飛ぶ?」
トアも毛布を抱えたまま、アリアを見る。
「アリア、飛べるの?」
「うん。まだ練習中だけど」
エッダは街道の方へ目を向けた。
「人に見られても大丈夫なのかい?」
「知らない人には、あんまり見せない方がいいって言われた」
「それなら、ロザとフィンには街道側から見てもらおう。誰か来たら、すぐ知らせておくれ」
エッダはアリアの前へしゃがんだ。
「私たちが見てもいいのかい?」
アリアはルカとノルンを振り返った。
ルカはしばらくエッダを見ていたが、やがて小さくうなずいた。
「みんなには、見ててほしい」
「分かった。ここで見たことは、ほかでは話さないよ」
エッダが立ち上がる。
「馬が驚かないよう、少し離れた場所でやろう」
ヴァンは荷台から二本の細い杭を持ってくると、間隔をあけて一本ずつ地面へ打ち込んだ。
「こっちから、あっちまでなら大丈夫だ。だが、馬の方へは飛ぶなよ」
「分かった!」
「高く上がりすぎるのもなしだ」
「分かった!」
「返事はいいんだがな」
ヴァンがアリアを見る。
「本当に飛べるのか?」
「飛べるよ」
アリアは草地の真ん中へ立った。
街道側では、ロザとフィンもこちらを見守っていた。
ノルンがアリアの後ろへ回った。
「今日は高く飛ぶ練習ではありません。地面からアリア一人分くらいの高さを保ち、ルカと並んで進みます」
「ルカと?」
「そうです」
ルカは自分のチョーカーへ手を掛けた。
「僕も、ここで変わっていい?」
「お願いします」
留め具が、淡い金色に光った。
ルカの体を包むように光が広がり、影が大きく膨らんでいく。
次の瞬間、草の上に立っていたのは、ふわふわの長い毛を持つ大きな猫だった。
「ええっ!?」
トアが抱えていた毛布を落としかける。
「ルカ、大きくなった!」
エッダも目を見開き、大きな猫と、さっきまでルカが立っていた場所を見比べている。
ヴァンの猫耳が、ぴんと立った。
「……これが、ラグドール族の姿か」
「知ってるの?」
ルカが大きな猫の姿のまま尋ねる。
「話に聞いたことがある。見るのは初めてだ」
ロザの頭に、別れ際のエリオの声がよみがえった。
――見た目より、いろいろできる。何か変わったものを見ても騒がないでくれ。
ロザは声を上げそうになるのをこらえ、大きなルカを見つめた。
――これのことだったのか、エリオ!
「ルカも練習中なの」
マルルが得意そうに説明する。
「では、アリアも」
「うん」
アリアは両腕を少し広げ、背中へ意識を向けた。
小さな白い羽が、ふわりと開く。
羽の根元に淡い光がともり、それは一枚一枚の羽根を伝いながら、ゆっくりと羽先へ広がっていった。
白い羽根が光へ溶ける。
細い光の筋が空へ伸び、その周りへ、新しい羽根が重なるように現れていく。
小さかった二枚の羽は、アリアの体を包めるほど大きくなり、朝の光を透かす翼へと変わった。
青い髪とリボンが、羽から生まれた風に揺れる。
誰も、すぐには声を出さなかった。
つながれた馬の一頭が、ぶるるっと鼻を鳴らした。
ほかの馬たちも耳を立て、落ち着かないように蹄を踏み替えている。
ヴァンは光の翼から目を離せないまま、馬たちへ低く声を掛けた。
「大丈夫だ。あれは敵じゃない」
その声を聞くと、馬たちは少しずつ蹄を止めた。
フィンの手から、束ねかけていた縄が落ちる。
ロザは目を見開いたまま、唇をきゅっと結んだ。
――まだあったのか!
トアが一歩、前へ出る。
「羽が……伸びた」
「飛ぶときだけ、大きくなるの」
アリアが答える。
エッダは腰へ手を当てた姿勢のまま、光の翼を見上げていた。
「エッダ?」
呼ばれて、ようやく一度瞬きをする。
「ああ……」
大きく息を吐くと、エッダはゆっくりと笑った。
「ずいぶん珍しい旅人を乗せていたんだね、私たちは」
「びっくりした?」
「したとも。ルカが大きな猫になったところで、もう十分驚いたと思ったんだけどね」
エッダは、もう一度アリアの翼を見上げた。
「まさか、そのあとにこんな翼まで出てくるとは思わなかったよ」
「怖くない?」
エッダは光の羽へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「きれいだと思ったよ」
アリアの口元が、ふわりとゆるむ。
羽が一度、大きく広がった。
足元の草が外側へなびき、アリアの靴が静かに地面から離れていく。
「浮いた!」
トアの声が上がる。
その体が少し高く上がり、ノルンがすぐに手を伸ばす。
「アリア。今日は低く飛ぶ練習です」
「あっ」
アリアは羽を小さく動かし、ノルンの頭より少し高いところまで降りた。
「ここ?」
「もう少し下です」
「ここ?」
「もう少し」
「まだ?」
「それでよいです」
アリアの靴は、ルカの背中と同じくらいの高さで止まった。
トアが一本目の杭のそばに立ち、青い布を掲げる。
「これを下ろしたら、始めるよ」
ルカは前脚をそろえ、進む先を見つめた。
アリアもその横へ並ぶ。
「速く走る練習ではありません」
ノルンが二人へ言った。
「同じ速さを保ち、二本目の杭で止まってください」
トアが布を下ろした。
「よーい、始め!」
ルカが地面を蹴る。
大きな体が一気に前へ飛び出し、草の上を駆けていく。
「待って!」
アリアも羽を広げて追いかけた。
けれど追いつこうと力を入れた途端、体が斜め上へ飛び出してしまう。
ルカは地面を走り、アリアはその上を越えていった。
「あれ?」
気づいたときには二本目の杭も通り過ぎ、アリアは慌てて大きな輪を描いた。
ルカも急いで足を止め、長い毛を揺らしながら振り返る。
「ルカ、速いよ!」
「アリアが遅いんだよ」
ルカは大きな猫の姿のまま言い返した。
「でも、最後はアリアの方が速かったなの」
マルルが横から口を挟む。
「どっちも速くなる練習ではありません」
ノルンが言う。
ルカの尻尾とアリアの羽が、同時に下がった。
「速く走るより、難しいね」
トアが二人を見比べる。
アリアは地面へ降りると、ルカの隣へ並んだ。
「ルカ。今度は、アリアを見ながら走って」
ルカがアリアを見上げる。
「アリアも、ルカを見る」
長い尻尾が、今度はゆっくりと横へ揺れた。
二人はもう一度、一本目の杭へ戻った。
トアが布を掲げる。
「もう一回いくよ」
青い布が下りた。
ルカは前へ出かけ、すぐに歩幅を小さくした。
アリアも強く羽ばたかず、地面すれすれの高さを進んでいく。
少しルカが前へ出ると、速度を落とす。
アリアが先へ出ると、羽を小さく傾けて待つ。
足音と羽音が、少しずつ重なっていった。
「並んだ……」
トアが小さな声で言う。
二本目の杭が近づく。
ルカは走る速さを落とし、アリアも羽を立てるように広げた。
二人はほとんど同時に止まった。
「できた!」
アリアが空中で振り向く。
ルカも大きな頭を上げた。
「できたよ、ルカ!」
アリアが抱きつくと、ルカの長い毛が顔を覆った。
「ふわふわ!」
ルカは困ったように耳を横へ向けたが、離れようとはしなかった。
トアが青い布を振りながら駆けてくる。
「すごい! 二人ともぴったりだった!」
「速くなくても、できたよ」
「速くない方が難しそうだったよ」
少し休み、水を飲んでから、今度は魔法の練習を始めることになった。
ノルンは一本目の杭に青い布を結び、その十歩ほど手前にアリアを立たせた。
「光を同じ大きさに保ったまま、あの布まで動かします。最後は自分で消してください」
「同じ速さで?」
「速さよりも、大きさです」
アリアは両手を胸の前へ出した。
手のひらの間に、小さな光がともる。
光はゆっくりと丸くなり、りんごほどの大きさになった。
「わあ……」
トアの声が聞こえる。
「すごい!」
アリアの頬がゆるんだ瞬間、光の玉がぐんと膨らんだ。
「大きくなった!」
フィンが声を上げる。
光はアリアの顔よりも大きくなり、ぶるぶると震えた。
「待って。小さく、小さく……」
ぽしゅん。
光の玉は、細い煙のような光を残して消えた。
アリアは空になった両手を見つめる。
「……なくなった」
「大きくする練習ではありませんよ」
ノルンが言う。
「すごいって言われたら、大きくなっちゃった」
「次は、褒められても大きくしないでください」
「それも練習なの?」
「それも練習です」
トアは両手で口を押さえた。
「今度は静かに見てるね」
「すごいと思っても?」
アリアが尋ねる。
トアは口を押さえたまま、何度もうなずいた。
アリアはもう一度、両手を出した。
小さな光が生まれる。
今度は、トアが声を出さない。
フィンもロザも、じっと光を見つめている。
「すごいなの……」
マルルが小さくつぶやいた。
光の玉が、ほんの少し大きくなる。
「マルル」
「応援なの」
アリアは光から目を離さなかった。
大きくなりかけた光は、ゆっくりと元の大きさへ戻っていく。
「そのままです」
ノルンの声に合わせ、アリアは片手を前へ出した。
光の玉が動き始める。
途中で少し上下へ揺れたものの、大きさは変わらない。
一歩。
もう一歩。
アリアも光と一緒に、ゆっくり前へ進んでいく。
やがて光は、青い布の前までたどり着いた。
「そこで消します」
アリアは伸ばしていた指を、そっと閉じた。
光の玉が小さくなり、最後に一度だけきらりと輝いて消える。
草地に朝の光だけが戻ってきた。
「……できた?」
「できました」
ノルンが答える。
その途端、トアが口から両手を離した。
「すごかったー!」
フィンとロザも声を上げ、エッダは笑いながら拍手をする。
アリアは両手を後ろへ隠した。
大きな光の羽が、ふわりと一度だけ揺れた。
「もう一回していい?」
「続きは、次の野営地です」
エッダが空を見上げた。
「そろそろ出発しないと、次の村へ着く前に日が暮れてしまうよ」
「もう行く時間?」
「旅をしながら練習するなら、時間を守るのも練習だね」
「うん」
アリアは背中の力を抜いた。
大きな光の羽が、羽先から細かな光へ変わっていく。光は朝露の上へ降りる前に消え、あとにはいつもの小さな白い羽が残った。
ルカも金色の光に包まれ、男の子の姿へ戻る。
「速く走るより、ゆっくりの方が疲れた」
「わたしも。低いところにいるの、難しかった」
二人は顔を見合わせた。
「でも、一緒にできたね」
「まあね」
ルカはそう答えたが、尻尾の先はゆっくりと左右へ揺れていた。
荷物を積み終えると、アリアたちは荷馬車へ乗り込んだ。
馬が歩き始め、車輪が朝の街道を転がっていく。
アリアは隣に座るルカを見た。
「次は、曲がる練習もしようね」
「今度は置いていかないから」
「わたしも! 今度は上に飛んでいかないようにする」
「それはどうかな」
「飛んでいかないもん」
二人の間から、マルルが顔を出す。
「マルルが見ててあげるなの」
「応援するだけじゃなくて?」
「見て応援するなの」
荷馬車の中に笑い声が広がる。
がたん、ことん。
窓の向こうには、山の間を抜ける道が続いている。
アリアの小さな羽が、荷馬車の揺れに合わせてふわりと動いた。
荷馬車は朝の光の中を、次の村へ向かって走っていった。




