第34話 ひみつのポシェット
日が傾くころ、昼まで街道を走っていた荷馬車は、広場の端で少しずつ今日の家へ姿を変えていた。
横へ広げられた布屋根の下には、大きなテーブルと椅子が並び、ランタンが吊るされている。荷馬車の中では、昼間まで座っていた椅子が一面の寝床になり、その上へ敷物や毛布が広げられていた。
近くの焚き火では、大鍋から白い湯気が立ち上っている。
アリアは、屋根の下と荷馬車の中を何度も見比べた。
さっきまで何もなかった場所に、眠るところも、食べるところもできている。
「わたしも、お手伝いする」
大鍋のそばにいるモーリのところへ行くと、アリアは少し離れたところから中をのぞいた。
とろりとした湯気の向こうで、大きく切った野菜と肉が、ぐつぐつと音を立てている。
「いい匂い」
「もう少し待てば、もっといい匂いになるぞ」
モーリは木べらを動かしながら笑った。
「わたしも混ぜていい?」
「これは俺の仕事だ。アリアには――」
モーリの目が、そばに置かれた籠へ向く。
「スプーンを頼む」
「スプーン?」
鍋を混ぜるのとは、ずいぶん違う。
アリアが大鍋と籠を見比べていると、モーリが言った。
「スプーンがなかったら、みんな手で食べることになるな」
アリアの頭に、大人たちが煮込みへ手を入れている姿が浮かんだ。
「熱いよ」
「だから大事な仕事なんだ」
「分かった。じゃあ、わたしが並べる」
籠を持ち上げようとすると、思っていたよりも重かった。両腕へ力を入れたところで、反対側がふわりと浮く。
ノルンが籠の端へ手を掛けていた。
「一緒に持ちましょう」
「うん」
二人で歩き出すと、マルルも慌ててあとを追ってきた。
「ぼくも手伝うなの」
「マルルは、何をする?」
「ぼくは……」
マルルは籠の周りを一周すると、端からはみ出していた布をくわえた。
「これを運ぶなの」
ぐいっと後ろへ引く。
籠がぴたりと動かなくなった。
「マルル、そっちへ引っぱったら運べないよ」
「でも、ぼくも引っぱっているなの」
マルルがもう一度、力いっぱい布を引く。
水差しを抱えたルカが、その横を通りながら言った。
「マルル。それ、運ぶんじゃなくて止めてるよ」
マルルは布をくわえたまま、目を瞬いた。
そっと口を離す。
「ぼくは見守る係にするなの」
「それなら、一緒に来て」
アリアが笑うと、マルルは何事もなかったように胸を張り、二人の後ろへついてきた。
布屋根の下では、エッダが大きなテーブルを拭き、ロザが椅子を一脚ずつ並べている。ヴァンとフィンは火のそばを行き来しながら、湯の入った鍋やパンの籠を運んでいた。
誰かが運び、誰かが並べ、誰かが火を見ている。
みんなの手が動くたび、さっきまで何もなかった広場へ、夕食の場所ができあがっていく。
アリアとノルンが籠を置くと、エッダが顔を上げた。
「ありがとう。助かったよ」
「うん」
アリアはさっそくスプーンを一本取り出した。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……」
「アリア、先に人数を数えようか」
ノルンが、並べかけたスプーンを指した。
「人数?」
「うん。教会でお手伝いをしていたとき、最初にみんなの数を確かめるように教わったの。そうすれば、あとで足りなくならないから」
「そっか。じゃあ、数えてみる」
アリアは布屋根の下にいる一人一人へ、そっと指を向けた。
「エッダ、トア、ロザ、モーリ、ヴァン、フィン……」
数えている途中で、ヴァンが鍋を取りに動いた。
「あれ?」
どこまで数えたのか分からなくなり、アリアは途中で指差しをやめて、いったん両手を開いた。
ヴァンが鍋を抱えたまま振り返る。
「どうした?」
「もう一回、数えてもいい?」
「そりゃ悪かった。今度は動かないでおく」
「ううん。指を折りながら数えてみるね」
ノルンがアリアのそばへ寄り、一緒にみんなの名前を確かめていく。
今度は、最後まで数えることができた。
「できた」
アリアが数を伝え、ノルンと二人でスプーンを並べる。
一本ずつ真っすぐに並んだスプーンを見ていると、モーリが大鍋から小さなスプーンへ煮込みをすくった。
「それじゃあ、働いた人には味見を頼もうかな」
「わたし、する」
アリアはすぐに手を上げた。
「味見は一口だけだぞ」
「うん」
モーリがふうふうと息を吹きかけてから、スプーンを差し出す。
アリアはそっと煮込みを含んだ。
ほろりと崩れた野菜の甘さと、肉のうまみが舌の上に広がる。温かな汁が喉を通ると、お腹が急に、自分は空いていたのだと思い出した。
「おいしい」
「何か足りないか?」
アリアは空になったスプーンを見つめた。
「……もう一口食べたら、分かるかも」
一瞬の静けさのあと、トアが吹き出した。
モーリも木べらを持ったまま、声を上げて笑う。
「続きは、みんなが座ってからだ」
アリアは空のスプーンをもう一度見てから、少しだけ残念そうにうなずいた。
「はあい」
◇
空が深い藍色に変わるころ、布屋根の下へランタンが灯された。
揺れる明かりの下には、肉と野菜の煮込みや、温めたパンが並んでいる。
昼までは名前も知らなかった人たちが、今は同じテーブルを囲んでいた。
「それじゃあ、いただこうか」
エッダの声に、アリアは両手を合わせた。
「いただきます」
弾んだ声に重なるように、テーブルのあちこちから「いただきます」が返ってくる。
アリアはうれしそうに煮込みを口へ運んだ。
味見のときより少しとろりとしていて、野菜は舌でつぶせるほど柔らかい。パンを汁へ浸すと、温かな味が中まで染み込んだ。
「おいしいなの」
マルルは小さな器へ顔を近づけ、長い耳が入らないようにノルンに押さえてもらいながら食べている。
そのノルンは、ちぎったパンを煮込みへ浸したまま、しばらく立ち上る湯気を見つめていた。
「どうしたの?」
「前に泊めてもらった教会でも、寒い夜には大きなお鍋で煮込みを作ってくれたの」
ノルンは汁を吸ったパンを口へ運んだ。
「こうすると、最後の一口まで温かいんだよ」
アリアもパンを一切れちぎり、教えてもらったとおり、端を持って煮込みへ浸した。
少し待ってから口へ運ぶと、温かな汁がじゅわりと広がる。
「ほんとだ。中まであったかい」
「冷たくはならないだろう」
モーリが笑う。
「スプーンもきれいに並んでいたぞ」
「ノルンと一緒に、みんなの人数を数えたの」
「途中で俺が動いたから、やり直しになったけどな」
向かいに座っていたヴァンが自分を指す。
「今度は、ちゃんと数えられたよ」
「じゃあ、明日も頼めそうだ」
「うん」
アリアはパンを頬張りながら、テーブルを見回した。
ランタンの光。
湯気の向こうに並ぶ顔。
器やスプーンが触れ合う音。
今日作ったばかりの屋根の下なのに、ずっと前からここで食べていたような気がした。
「初めての馬車は、どうだった?」
トアに聞かれ、アリアは口の中のパンを飲み込んだ。
「窓の外が、ずっと動いてた」
「馬車が動いてたんだよ」
「でも、アリアは座ってたよ?」
「それはそうだけど」
トアが笑う。
「朝に座ってた椅子が、お布団になるのも不思議」
アリアが荷馬車の方を見る。
「明日の朝には、また椅子になるよ」
「そしたら、また走るおうちになる?」
「そう。明日は今日より、少し先まで行くおうち」
エッダの言葉を聞き、アリアは布屋根の向こうに見える荷馬車を見つめた。
ランタンの明かりが窓へ映り、まるで荷馬車の中にも小さな灯りがともっているように見えた。
食事が終わると、今度は片づけが始まった。
ルカが重ねた器を持ち上げたので、アリアもその横へ手を伸ばす。
「アリアは、こっちを頼む」
渡されたのは、スプーンの入った籠だった。
アリアはルカの腕の中に積み重なった器を見た。一番上の器が、歩くたびに少し揺れている。
「分かった。落とさないように持つね」
「うん。頼んだ」
アリアは籠を両腕でしっかりと抱え、ルカの隣をゆっくり歩いた。
洗い物を終えるころには、野営地のあちこちで焚き火が小さくなっていた。
トアに連れられて共同の厠へ行き、水場で手と顔を洗い、歯を磨く。冷たい水で頬をぬらすと、食事のあとの眠気が少しだけ逃げていった。
荷馬車へ戻ると、窓のカーテンは閉じられ、ランタンの柔らかな明かりが、広い寝床を照らしていた。
「今日、ここで寝るんだよね」
アリアは靴を脱ぐと、寝床へそっと片足を載せた。
足の裏が、ふわりと沈む。
「……ふかふか」
もう片方の足も載せ、今度はその場へ膝をついた。両手で毛布を押してみると、沈んだところがゆっくり元へ戻っていく。
「ルカ、ここ、すごくやわらかいよ」
「昼に、みんなで毛布を何枚も敷いたからね」
「朝は椅子だったのに」
アリアは毛布の上を手のひらでなで、もう一度、小さく押した。
「ちゃんと、お布団になってる」
寝床の端へ移ると、そこに置いていた白いポシェットを膝へ載せた。
その隣には、ルカの荷物が一つ。
それで全部だった。
自分の荷袋を運んできたトアが、二人の前を通り過ぎかけて――戻ってきた。
「あれ?」
「どうしたの?」
トアの目が、白いポシェットからルカの荷物へ動き、もう一度ポシェットへ戻る。
「荷物は?」
「ここにあるよ」
「それは見れば分かるけど……ほかのは?」
「ほか?」
「アリアとルカと、ノルンとマルルの荷物だよ?」
「うん」
「四人分だよ?」
「うん」
トアは二つの荷物を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
「……少なすぎない?」
アリアは白いポシェットをぽんとたたいた。
「ちゃんと、ここに入ってるよ」
「そこに?」
「うん」
トアはポシェットを見つめたまま、首を傾けている。
アリアは少し考えると、ポシェットの口へ手を掛けた。
「見ててね」
中へ手を入れると、手首が入り、肘が入り、そのままするすると腕が沈んでいく。
「えっ……」
トアが抱えていた荷袋が、どさりと毛布の上へ落ちた。
「待って。腕! アリアの腕、どこへ行ったの?」
「ちゃんとあるよ?」
ポシェットの中で手を振ってみる。
指先には、畳んだ服や柔らかな布の感触がちゃんとあった。
「見えないよ!」
「でも、ここにあるよ」
目当てのものをつかみ、腕を引き抜く。
白い羽のマントが、寝床の上へふわりと広がった。
トアの口が開いたまま、閉じない。
「これは、わたしのマント」
マントを置き、もう一度手を入れる。
「こっちは着替え」
一枚。
「これはノルンの」
もう一枚。
小さなポシェットから、次々と服が出てくる。
トアはアリアの手元を見つめたまま、膝から崩れるように寝床へ座った。
「ちょっと待って。待って、待って」
白いマントを持ち上げ、ポシェットの横へ並べる。
どう見ても、マントの方が大きい。
今度はポシェットを横から見て、その後ろまでのぞき込んだ。
「どこかにつながってるの?」
「ううん」
「じゃあ、この服はどこに入ってたの?」
「ポシェットの中だよ?」
「入らないよ!」
アリアはポシェットとマントを見比べた。
いつも使っているポシェットだ。白いマントも着替えも、食べるものも、みんなここから出している。
「触ってみる?」
「いいの?」
「うん」
トアは両手で受け取ると、まず恐る恐る中をのぞいた。
首を傾ける。
さらに顔を近づけ、片目をつぶって奥まで見ようとする。
「……何にもない」
「入ってるはずだよ?」
トアはそっと手を入れた。
次の瞬間、驚いたようにアリアを見る。
「底、ここだよ!」
片方の手を中へ入れたまま、もう片方の指でポシェットの外側を押す。
中に入れた指先と、外から押した指が、薄い布一枚を挟んで触れ合っていた。
「ほら。こんなに浅い!」
「わたしが使うと、もっと奥まで入るの」
「さっき、肘まで入ってたよね?」
「うん」
「私、見てたよね?」
トアはルカとノルンへ助けを求めるように顔を向けた。
「見てたよ」
ルカが答える。
「私も見てた」
ノルンが続く。
トアはもう一度ポシェットをのぞき込み、今度は底を指で何度も探った。
「空っぽ……」
逆さまにして、そっと振ってみる。
何も落ちてこない。
白いマントも、二人分の着替えも、目の前にあるのに。
「アリア、もう一回やって」
「うん」
ポシェットを受け取り、まず着替えを一枚入れる。
布は淡い光に包まれ、吸い込まれるように消えた。
「消えた!」
「中に入ったんだよ」
「もう一枚」
ノルンの着替えも入れる。
「マントも」
白いマントまでしまったのに、ポシェットは少しも膨らまない。アリアの膝の上で、いつもと同じ形をしている。
トアは両手で自分の頬を挟んだ。
「すごい……。こんなに小さいのに、全部入っちゃった……」
「食べるものも入ってるよ」
「まだ入ってるの?」
トアの声が、荷馬車の中へ響いた。
アリアは思わず笑った。
荷馬車のことを何でも知っているトアが、今はポシェットを横から見たり、下からのぞいたりしている。
「もう一回、触ってもいい?」
「うん」
「アリア」
荷馬車の入口から聞こえた声に、伸ばしかけたトアの手が止まった。
エッダが中へ入ってくる。
いつもの優しい顔だったけれど、その目はアリアの膝にあるポシェットへ向けられていた。
「それは、知らない人の前では見せない方がいい」
アリアはポシェットを両手で持った。
「どうして?」
「使えなくても、欲しがる人はいるんだよ」
エッダは寝床の端へ腰を下ろした。
「それに、ポシェットを持っていけないと分かったら、アリアに中のものを出させようとするかもしれない」
肩ひもを握る指に、力が入った。
「知らない人が?」
「そうだ。旅をしていると、いろんな人に会う。いい人か悪い人か、初めから分かるとは限らないからね」
いつも肩に掛けているだけだった白いポシェットが、急にひどく目立つものに思えた。
もし誰かが手を伸ばしてきたら。
もし、返してくれなかったら。
アリアはポシェットを胸へ引き寄せた。
「ずっと隠しておくの?」
「ずっとじゃないよ」
エッダの声が、少し柔らかくなる。
「誰も見ていないところで使うんだ。見せる相手は、自分でちゃんと選ぶ。それも旅をするための知恵だよ」
「トアにも、見せない方がよかった?」
隣を見ると、トアの顔から、さっきまでの笑みが消えていた。
「私、見せてって言っちゃった。大きな声も出した」
「トアを疑えと言っているんじゃないよ」
エッダは二人を順番に見た。
「ここには、私たちしかいない。だから、今ここで気づけてよかったんだ。次から気をつければいい」
アリアは胸に抱いたポシェットへ目を落とした。
「……わたし、トアがびっくりするかなって思ったの」
「うん。分かってるよ」
エッダがアリアの頭をそっとなでる。
「知らなかったことは、知ったときに覚えればいい」
ポシェットを抱くアリアの手に、トアの手がそっと触れた。
「ごめんね。私、誰にも言わないから」
「ううん。トアには見せたかったの」
「ものすごくびっくりした」
トアの返事があまりに早くて、アリアの口元が緩んだ。
「ほんと?」
「腕がなくなったと思った」
「ちゃんとあるよ」
「それは出てきたから分かったけど」
トアが確かめるように、アリアの腕を両手で包む。
その様子を見て、エッダも小さく笑った。
「でも、ポシェットのことは、ここにいるみんなだけの秘密だ」
「うん」
「絶対に言わない」
トアは真剣な顔でうなずいた。
隣で話を聞いていたノルンが、胸元の服をそっと押さえた。
「私も、前に同じことを教わったよ」
「ノルンも?」
「うん。旅先で大切なものを見せるのは、本当に必要なときだけにしなさいって、泊めてもらった教会の神父さまが教えてくれたの」
ノルンはアリアの抱えているポシェットへ目を向けた。
「これからは、私も一緒に気をつけるね」
「ぼくも気をつける」
ルカがアリアの隣へ座る。
「ぼくもなの」
毛布の上で丸くなっていたマルルが、長い耳の間から顔を出した。
「マルルは、前から知ってたよね?」
「ずっと秘密にしていたなの」
「誰かに聞かれたこと、あったの?」
「聞かれても言わなかったなの」
「でも、まだ誰にも聞かれてないよね?」
「それでも言わなかったなの」
マルルが勢いよく胸を張る。
長い耳がふわりと跳ね、隣に座っていたノルンの膝へ、ぺたりと載った。
ノルンは膝に載った耳をそっと持ち上げる。
「じゃあ、これからもお願いね」
「任せるなの」
マルルが胸を張ったまま答えると、荷馬車の中へ小さな笑い声が広がった。
◇
ランタンの明かりが落とされると、荷馬車の中は静かな夜の色に包まれた。
アリアは白いポシェットを自分と壁の間へ置き、上から毛布を少し掛けた。
これなら、入口からは見えない。
その上へ手を載せると、いつもの柔らかな布の感触が掌に返ってきた。
すぐ隣にはルカがいる。その向こうでは、ノルンが毛布へ入り、トアも自分の寝床を整えていた。
マルルは何度も場所を変えた末、アリアとノルンの間へ丸く収まった。
「そこにするの?」
「ここが一番ふわふわなの」
「毛布、どこも同じだよ」
「ここが一番なの」
マルルは長い耳を体へ巻きつけ、満足そうに目を閉じた。
外から、焚き火のはぜる音が聞こえる。
ときどき馬が鼻を鳴らし、見張りをする大人たちの低い声が、近づいたり遠ざかったりする。
知らない人にポシェットを見られたら。
さっき聞いた話が、ふいに頭へ戻ってきた。
アリアは毛布の下に隠したポシェットを、もう一度そっと押さえた。
けれど、壁の向こうにはエッダたちがいる。
隣にはルカがいて、ノルンもトアもいる。
ポシェットを押さえていた手から、少しずつ力が抜けていった。
アリアは反対の手を伸ばし、木の壁へ触れた。
昼間、みんなで引き出したり倒したりしていた椅子は、今ではアリアたちを包む広い寝床になっている。
「ねえ、ルカ」
「なに?」
「明日になったら、このおうちも一緒に行くんだよね」
「うん。寝床を椅子に戻したら、また走るよ」
アリアは暗い天井を見上げた。
「おうちが走るんだ」
「そうだね」
「教会の部屋には何度も泊まったことがあるけど」
毛布の向こうから、ノルンの声がした。
「走るおうちで眠るのは、私も初めて」
「ノルンも初めて?」
「うん。朝、目を覚ましたときに、ここがどこなのか忘れそう」
「わたしも忘れるかも」
「二人とも、起きたら天井を見て固まりそうだね」
ルカの声に、暗がりからトアの笑い声が聞こえた。
アリアはもう一度、木の壁をゆっくりとなでる。
今日作られたばかりの寝床。
今日初めて一緒に食べた人たち。
今日教えてもらった、大切な秘密の守り方。
「おやすみ、今日のおうち」
外で、馬が返事をするように鼻を鳴らした。
アリアは小さく笑い、毛布の下のポシェットへ手を戻した。
やがて、その呼吸がゆっくりと整い始める。
ルカはまだ目を閉じず、すぐ隣の小さな横顔を見ていた。
毛布から出た片手は、白いポシェットの上に載ったままだ。
耳の奥には、今日一日聞いていた車輪の音が、まだかすかに残っている。
朝、この荷馬車へ乗ったとき、ルカは誰かがアリアへ声を掛けるたび、気づかれないように相手の顔を確かめていた。
アリアは、うれしいものを見つけると、すぐに誰かへ見せたくなる。
楽しかったことも、おいしかったものも、自分だけのものにはしない。
今日だって、トアを驚かせたくて、大切なポシェットを開いた。
それがアリアなのだと、ルカは知っている。
誰も信じてはいけないと教えたら、アリアはきっと困った顔をするだろう。
けれど、何も知らないままでは、いつか本当に危ない目に遭うかもしれない。
次にポシェットを開こうとしたときには、先に周りを見よう。
駄目だと取り上げるのではなく、今は誰かに見られるかもしれないと、ちゃんと伝えよう。
そう考えながら、ルカはアリアの肩から落ちかけていた毛布をそっと掛け直した。
朝には、みんな知らない人だった。
けれど、荷馬車が止まると、ヴァンとフィンは荷物より先に馬のところへ向かった。ロザは車輪や金具を一つずつ確かめ、モーリは全員が食べられる大きな鍋を火へ掛けた。
エッダはアリアを叱らず、知らなかったことは今から覚えればいいと教えてくれた。
トアはアリアの腕を両手で包み、誰にも言わないと約束した。ノルンは、これからは一緒に気をつけると言った。
マルルも、きっと本気で秘密を守るつもりなのだろう。
外で、焚き火がぱちりと鳴った。
見張りをする大人たちの声が、低く交わされている。
朝には知らなかった声なのに、今はもう、誰の声か分かる。
アリアが笑えば、一緒に笑ってくれた人たち。
アリアが知らないことを、怒らずに教えてくれた人たち。
ルカは暗がりの中で、眠っているアリアから、ノルン、マルル、トアへと目を移した。
アリアを見ているのは、ぼくだけじゃない。
そう思うと、一日中ぴんと立っていた耳から、少しだけ力が抜けた。
明日も、ちゃんと見ていよう。
けれど今夜は、目を閉じても大丈夫だと思えた。
ルカはもう一度だけ、毛布の端をアリアの肩へ掛け直し、静かに目を閉じた。
車輪のついた家に守られながら、初めての夜がゆっくりと更けていった。




