第30話 旅の馬車
コンコン。
まだ薄暗い部屋に、小さなノックの音が響いた。
「皆さん、起きる時間ですよ」
扉の向こうから、シスターの優しい声が聞こえる。
「……ん」
アリアはゆっくり目を開けた。
窓の外は、まだ夜明け前。
空は深い紺色から少しずつ青へ変わり始めていた。
ぼんやり天井を見つめていたアリアは、はっと目を丸くする。
「今日だ!」
勢いよく起き上がる。
今日は、グラナへ向けて旅立つ日だった。
「おはよう」
隣では、ルカがもう起きていた。
荷物を肩へ掛けながら、小さく笑う。
「おはよう!」
アリアも笑顔で返事をした。
その声で、ノルンもゆっくり体を起こす。
「おはようございます」
木箱を抱え直しながら、穏やかに微笑んだ。
部屋の隅では、白い毛玉が布団に埋もれたまま動かない。
「マルル」
アリアがそっと呼ぶ。
「朝だよ」
「……なの」
耳だけがぴくりと動く。
「出発の日だよ」
「はっ!」
マルルは飛び起きた。
「今日だったなの!」
慌ててチョーカーを確かめ、耳をぴんと立てる。
その様子がおかしくて、みんなが笑った。
「寝坊しなくてよかったね」
ルカが苦笑する。
「ほんと!」
アリアは元気よくうなずいた。
四人は身支度を整えると、昨日まとめた荷物をもう一度確認する。
アリアは白いポシェットを開いた。
「お着替え」
「ハンカチ」
「水筒」
一つずつ指差しながら確かめる。
最後に口をきゅっと閉めると、満足そうに笑った。
「忘れ物なし!」
「トア先生のおかげだな」
ルカが笑う。
「えへへ」
アリアは少し照れくさそうに笑った。
マルルは胸元のコンパクトを前足で開く。
中には、一つ目の欠片が静かに収まっていた。
「ちゃんといるなの」
ぱたん、と閉じる。
ノルンも木箱を抱え直した。
「わたしも準備できました」
その時だった。
コンコン。
「皆さん」
再びシスターの声が聞こえた。
「お見送りの前に、こちらをどうぞ」
扉を開けると、シスターは四つの布包みを抱えて立っていた。
「朝ごはんです」
「わぁ!」
アリアは目を輝かせる。
「馬車の中で召し上がってください」
「商隊は朝が早いですから」
「ありがとうございます!」
アリアは両手で大事そうに受け取った。
焼きたてのパンの温もりが、布越しにじんわりと伝わってくる。
「シスターが焼いてくれたの?」
「はい」
シスターは優しくうなずいた。
「皆さんが元気に旅を続けられるようにと思って」
「やったぁ!」
アリアは嬉しそうに布包みを抱きしめた。
荷物を持ち、四人は教会の玄関へ向かう。
外へ出ると、ひんやりとした朝の空気が頬をなでた。
東の空は、ほんのり白み始めている。
玄関の前では、手の空いた数人のシスターが待っていた。
「お気を付けて」
「女神さまが、皆さんをお守りくださいますように」
四人はそろって頭を下げる。
「ありがとうございました!」
ルカも静かに礼をする。
「本当にお世話になりました」
ノルンも木箱を抱えたまま微笑んだ。
「ありがとうございました」
マルルも耳をぺこりと下げる。
「ありがとうなの」
シスターたちは笑顔で手を振った。
「行ってらっしゃい」
「またいつでも帰ってきてくださいね」
「はい!」
アリアは元気いっぱいに手を振る。
「行ってきます!」
四人は教会をあとにした。
一度だけ振り返る。
朝の静けさの中に立つ白い教会。
ここでノルンと出会い、一つ目の欠片を見つけ、多くの人の優しさに支えられた。
アリアは小さく手を振ると、前を向いた。
町の入口では、二台の大きな馬車が、出発の時を静かに待っていた。
その前では、エッダたちが最後の準備を進めている。
馬具を確かめるヴァン。
荷台へ荷物を積み込むモーリ。
ロザは積み荷を見回り、トアは待ちきれないように何度も町の方を見ていた。
そして、アリアたちの姿を見つけると、大きく両手を振る。
「アリアー!」
「ルカー!」
「みんな、おはよう!」
「おはよう!」
アリアも元気いっぱいに手を振り返す。
そして、思わず駆け出した。
近付くにつれて、荷馬車の大きさがますますはっきりと見えてくる。
「わぁ……」
昨日見たはずなのに、今日はもっと大きく見えた。
二頭の立派な馬。
背の高い車輪。
大人が何人も乗れそうな荷台。
アリアは思わず立ち止まる。
「おっきい……!」
荷馬車の前には、大きな馬が二頭並んで立っていた。
太い首。
丸太のようにたくましい脚。
朝日に照らされた栗色の毛並みが、つやつやと輝いている。
大きな馬がゆっくりと息を吐くたび、白い息が朝の空気へ溶けていった。
アリアは思わず見上げる。
こんなに大きな馬を近くで見るのは初めてだった。
「お馬さんもおっきい!」
アリアはそっと馬の前まで歩いていく。
大きな馬は静かにアリアを見つめていた。
「おはよう」
アリアはにっこり笑う。
「わたし、アリアだよ」
「よろしくね」
馬はゆっくりと鼻を寄せる。
アリアの手のひらへ、あたたかな鼻先がちょこんと触れた。
「わっ」
少しくすぐったくて、アリアは思わず笑い声をあげる。
「ふふっ」
「こんにちはしてくれた」
その様子を見ていたエッダが優しく微笑んだ。
「気に入ってもらえたみたいだね」
「この子は人懐っこいんだよ」
「ほんと?」
アリアは嬉しそうにもう一度馬をなでた。
馬は気持ちよさそうに目を細める。
「いい子だね」
ルカも安心したように笑った。
「すっかり仲良しだ」
トアがにやりと笑う。
「でも、もっとびっくりするのは馬車の中だよ」
「えっ?」
アリアはぱっと顔を上げた。
「中?」
トアは得意そうにうなずく。
「うん!」
「早く乗ってみて!」
エッダが馬車の横に付いた階段を指さした。
「さあ、乗ってごらん」
「うん!」
アリアは木の階段を一段ずつ上っていく。
ルカ、ノルン、マルルもあとに続いた。
馬車の中へ足を踏み入れた瞬間、アリアは目を丸くした。
「わぁ……!」
「お部屋みたい!」
馬車の中には、両側へ長い木のベンチが並んでいる。
木の床とベンチから、ふんわりと木の香りが漂っていた。
窓辺には布のカーテン。
天井には小さなランタン。
荷馬車というより、小さな部屋のようだった。
アリアはきょろきょろと辺りを見回す。
「かわいい!」
ルカもゆっくり中へ入り、周囲を見渡した。
「……」
その視線が止まる。
「どうしたの?」
「これ」
ルカはベンチの角へ指を添えた。
「全部丸く削ってある」
指先でそっとなぞる。
「ぶつかっても痛くないようになってる」
アリアも触ってみる。
「ほんとだ!」
つるつるしてる。
ルカはさらに辺りを見回した。
「棚も」
ベンチの上。
幌の骨組みに沿うように取り付けられた棚には、食器や木箱がきれいに並んでいる。
その前には一本の丸い木の棒が渡されていた。
「棒があるなの」
マルルが耳をぴくりと動かす。
「荷物が落ちないようにしてあるんだ」
ルカは感心したようにうなずいた。
「走っても飛び出さない」
「そうそう!」
トアが嬉しそうに身を乗り出す。
「まだあるよ!」
「えっ?」
「ほら!」
トアはベンチの下へしゃがみ込むと、一つの取っ手を握った。
「見ててね」
ガラガラガラ……。
木でできた大きな引き出しが、ベンチの下からゆっくりと姿を現す。
「わぁ!」
アリアは思わずのぞき込んだ。
「こんなところにも入るの?」
「うん!」
トアは得意そうにうなずく。
「ここには毛布とか、お鍋とか、食べ物とかを入れてるんだよ」
引き出しの中には、きれいに畳まれた毛布や袋が隙間なく並んでいた。
「いっぱい入ってる!」
「床の下にも収納があるんだよ」
「えっ!?」
アリアはぱちぱちと目を瞬かせた。
トアは今度は床の金具へ手を掛ける。
カチャ。
一枚の床板を持ち上げると、その下にも大きな収納が現れた。
「すごーい!」
「まだ入るなの!?」
マルルは耳をぴんと立てる。
「旅が長いからね」
エッダが笑う。
「食べ物も、水も、予備の道具も積んでおかないと困るんだ」
ルカは静かにうなずいた。
「だから床が少し高かったんだ」
「気付いた?」
エッダは少し驚いたように笑う。
「普通の荷馬車より高く作ってあるんだよ」
ルカはもう一度床へ目を向ける。
「ちゃんと考えて作られてる……」
その横で、アリアは窓の方を見上げていた。
「あれ?」
ベンチの上には棚が並び、その下には布が下がっている。
「これ、カーテン?」
「違う違う」
トアはにやっと笑った。
「もっとすごいんだから」
布の端を持つと、くるくると巻き上げていく。
朝の光が、ぱっと馬車の中へ流れ込んだ。
「わぁーっ!」
外の景色が大きな窓いっぱいに広がる。
草原を渡る朝の風が、ふわりと吹き抜けた。
「ほんとにお部屋みたい!」
アリアは嬉しそうに窓から外をのぞく。
その上では、幌の骨組みに沿って作られた棚に、食器や木箱がきれいに並んでいた。
棚の前には一本の丸い木の棒が渡されている。
「落ちないようになってる」
ルカが小さくつぶやく。
「そう!」
トアは嬉しそうに笑う。
「走っても飛び出さないように、父さんが付けたんだ!」
エッダは少し照れくさそうに頭をかいた。
「旅をしてるとね」
「便利なように、少しずつ直してたら、こんな馬車になっちゃったんだよ」
アリアはぐるりと馬車の中を見回す。
引き出し。
床下収納。
大きな窓。
たくさんの棚。
どれも初めて見るものばかりだった。
「これ……」
「動くおうちだ!」
アリアが目を輝かせる。
トアはにんまり笑った。
「まだ終わりじゃないよ」
「えっ?」
「この馬車の一番すごいところ、まだ見せてないもん」
「まだあるの!?」
アリアは思わず声を上げた。
トアはベンチをぽんぽんと叩く。
「夜になったら、みんなここで寝るんだ」
アリアは首をかしげた。
「でも……」
ベンチを見回す。
「四人しか座れないよ?」
「ふふん」
トアは得意そうに笑った。
「だから変身するんだよ」
「変身!?」
その言葉だけで、アリアの目がきらきらと輝く。
ルカも興味深そうにベンチへ近付いた。
トアは座面へ手を掛ける。
「まずはここ」
カチャリ。
小さな留め金を外す。
座面がゆっくりと持ち上がった。
「収納なの!」
マルルが耳をぴんと立てる。
「うん」
トアは笑いながら中を見せた。
「ここにも荷物が入るんだ」
毛布や着替えがきれいに並んでいる。
「でもね」
トアは座面を元へ戻した。
「見せたいのはこっち」
今度は背もたれへ手を添える。
「ここも動くの?」
アリアは思わず身を乗り出した。
「うん」
トアは留め具を外す。
カチッ。
そして、背もたれをゆっくり前へ倒していく。
「わぁ……」
アリアたちは息をのんだ。
背もたれはそのまま止まらない。
座面と一直線になるまで、ゆっくりと開いていく。
「一枚になった!」
アリアが目を丸くする。
「すごい……」
ルカはしゃがみ込み、蝶番をじっと見つめた。
「座面と背もたれがつながってるんだ」
「そう」
エッダがうなずく。
「全部広げると、一枚の板になるように作ってあるんだよ」
トアはその板の先を、馬車の真ん中にあるテーブルへそっと載せた。
ぴたり。
板はぐらつくことなく、まっすぐ支えられた。
「えっ!」
アリアはびっくりしてテーブルを見る。
「テーブルがおんなじ高さ!」
「昼は少し高くして使うんだけどね」
ヴァンが横から笑う。
「夜は脚を短くして、この高さに合わせるんだ」
「なるほど……」
ルカは感心したように何度もうなずいた。
「だから支えられるんだ」
「反対側も同じように広げると……」
トアは反対のベンチを指さした。
「どうなると思う?」
アリアは想像するように左右を見比べる。
「えっと……」
「えっと……」
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなった。
「ベッド!」
「正解!」
トアは嬉しそうに笑った。
「夜になると、馬車の中いっぱいが大きなベッドになるんだ!」
エッダはにっこり笑った。
「さあ、そろそろ出発しようか」
「はーい!」
アリアたちはベンチへ腰を下ろした。
居住馬車の御者が御者台へ上がり、手綱を握る。
後ろでは、荷馬車の御者も馬具をもう一度確かめると、御者台へ腰を下ろした。
ロザたち護衛は、それぞれの持ち場へ向かった。
モーリは荷馬車の積み荷を最後にもう一度見回す。
エッダは商隊全体を見渡す。
二台の馬車。
六頭の馬。
積み荷。
そして旅の仲間たち。
忘れ物はない。
馬具にも緩みはない。
エッダは小さくうなずいた。
「それじゃあ、出発しよう」
「はい!」
みんなの返事が重なる。
御者が手綱を軽く動かし、馬たちが一歩を踏み出す。
ゴトン。
ゴトン。
二台の馬車がゆっくりと町を離れ始めた。
アリアは遠ざかっていく教会へ、小さく手を振った。
やがて町を抜けると、朝日が草原を金色に染め始める。
窓から吹き込む風が気持ちいい。
トアがアリアの向かいへ腰を下ろした。
「そうだ」
「朝ごはん食べよう!」
「あっ!」
アリアは思い出したように布包みを取り出す。
「シスターのパン!」
四人はそれぞれ布包みを開いた。
ふわり。
焼きたての香ばしい香りが馬車いっぱいに広がる。
「いい匂い……」
ノルンが小さくほほえむ。
「まだ温かいなの」
マルルは鼻をひくひくさせた。
「いただきます!」
みんなで声をそろえる。
アリアは一口かじった。
外はほんのり香ばしく、中はふんわり柔らかい。
「おいしい!」
思わず笑顔になる。
「シスターのパン、大好き!」
ルカもうなずいた。
「朝早く焼いてくれたんだね」
エッダが振り返って笑う。
「教会のパンは評判だからね」
「町へ来るたび、楽しみにしてるんだ」
「そうなんだ!」
アリアはもう一口頬張る。
馬車はゆっくり揺れながら街道を進んでいく。
ゴトン。
ゴトン。
「揺れるね」
アリアが笑うと、
「このくらいなら、今日はずいぶん静かな方だよ」
トアが肩をすくめた。
「雨のあとなんて、もっと跳ねるんだから」
「えぇっ!?」
アリアが目を丸くする。
「パンを落とさないように食べるのも、旅のコツなんだよ」
「そうなんだ」
アリアは両手でパンを持ち直した。
馬車が小さく揺れるたびに、自然と体もふわりと揺れる。
けれど、不思議と怖くはなかった。
ベンチの背もたれがしっかりと体を支えてくれている。
「座りやすい」
ノルンがぽつりと言った。
ルカもうなずく。
「背もたれの角度がちょうどいい」
「でしょ?」
トアは嬉しそうに笑った。
「長い時間座っても疲れにくいように作ってあるんだ」
アリアは窓の外を眺めながらパンを頬張る。
朝日に照らされた草原が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
「きれい……」
道端には朝露をまとった草花が揺れ、その向こうでは小鳥たちが飛び立っていた。
馬のひづめの音が、一定のリズムで街道へ響く。
カッ、カッ、カッ。
ゴトン。
コトン。
馬車は穏やかに揺れながら進んでいく。
「これなら歩くより楽だね」
アリアが笑う。
「うん」
ルカもパンを口へ運びながらうなずいた。
「景色を見る余裕もある」
その時。
前の方から、御者が小さく声を掛けた。
「少し揺れます」
「つかまってください」
馬車がゆるやかな坂を下り始める。
コトン。
ゴトン。
「きゃっ」
アリアは思わずベンチへ手を付いた。
けれど、大きく跳ねることはない。
「平気?」
トアが笑う。
「うん!」
アリアも笑い返した。
「思ったより大丈夫!」
「父さんがね」
トアはクッションを軽く叩いた。
「長い間座っていても疲れにくいように作ったんだ」
ルカは座っていたクッションへ手を添えた。
指先で厚みを確かめる。
「このクッション、普通のより厚い?」
トアはにやりと笑った。
「気付いた?」
「うん。ずいぶん厚く作ってある」
「正解!」
トアは嬉しそうにうなずいた。
「綿をたくさん詰めてあるんだ」
「長旅だからね」
エッダが笑う。
「ずっと木の椅子じゃ、お尻が痛くなっちゃうでしょ」
「だから座るところだけは、少しだけ柔らかくしてあるんだ」
「すごーい!」
アリアはもう一度座り直した。
「ほんとだ!」
「さっきよりふかふかに感じる!」
朝日を浴びながら、二台の馬車は街道をゆっくりと進んでいく。
ゴトン。
コトン。
規則正しい揺れに合わせるように、馬のひづめの音が響いていた。
アリアは窓から外を眺める。
教会も、リーネの町並みも、もう見えない。
見えるのは、どこまでも続く街道と、朝日に輝く草原だけだった。
「きれい……」
思わずつぶやく。
これから先には、どんな町があるんだろう。
どんな人たちと出会うんだろう。
どんな景色が待っているんだろう。
アリアは胸の前で小さく手を握る。
「楽しみ!」
アリアの笑顔を乗せて、
ゴトン。コトン。
二台の馬車は街道を進んでいく。
グラナへの長い旅が、いよいよ始まった。
★おまけ★




