第30話 旅の馬車
コンコン。
まだ薄暗い部屋に、小さなノックの音が響いた。
「皆さん、起きる時間ですよ」
扉の向こうから聞こえてきたシスターのやさしい声に、アリアは毛布の中でもぞりと動いた。
「……ん」
ゆっくり目を開けると、窓の向こうはまだ夜の名残を残していた。
深い紺色の空が、東の方から少しずつ青へ変わり始めている。いつもなら、もう少しだけ毛布の中にいたいと思う時間だった。
ぼんやり天井を眺めながら瞬きをしていたアリアは、ふいに今日が何の日だったのかを思い出した。
「今日だ!」
勢いよく毛布を跳ね上げる。
「グラナに行く日!」
「おはよう」
隣から声がして振り向くと、ルカはもう着替えを済ませ、ベッドのそばに置いてあった荷物を確かめていた。
「ルカ、早い!」
「アリアが遅いんだよ」
「ちゃんと起きたもん!」
「シスターに起こしてもらってね」
「起きたからいいの!」
アリアの声に、向こうのベッドでもノルンがゆっくりと体を起こした。
「おはようございます」
「おはよう!」
アリアが元気よく返事をすると、ノルンも小さく笑った。
けれど、部屋の隅にはまだ起きる気配のない白い毛玉が一つ残っている。
マルルは毛布へ半分ほど埋まり、長い耳だけを外へ出して眠っていた。
アリアはそばへしゃがみ込む。
「マルル」
「……なの」
片方の耳だけが、ぴくりと動いた。
「朝だよ」
「……なの」
「今日、出発だよ?」
返事はない。
アリアは少し考えてから、マルルの耳のそばへ顔を寄せた。
「グラナに行く日」
「はっ!」
マルルが飛び起きた。
「今日だったなの!」
「忘れてたの?」
「忘れてないなの! 寝てただけなの!」
「それを忘れてたって言うんじゃない?」
「違うなの!」
慌てて胸元のチョーカーを確かめ、コンパクトがちゃんと付いているのを確認するマルルを見て、アリアが笑い出す。
ルカも肩を揺らした。
「寝坊しなくてよかったね」
「シスターが起こしてくれたなの」
「自分で起きたみたいに言ってる」
「起きたなの!」
出発の日だというのに、いつもの朝と変わらないやり取りが始まった。
けれどアリアは、それが少し嬉しかった。
今日からまた新しい旅が始まる。
知らない町へ向かうことに、楽しみな気持ちはもちろんある。それでも、昨日まで泊まっていた教会を離れると思うと、胸の奥にはほんの少しだけ寂しさもあった。
だからこそ、ルカやノルンやマルルがいつも通りそばにいることが、何となく心強く感じられた。
◇
顔を洗い、着替えを済ませると、アリアは昨日まとめておいた白いポシェットをベッドの上へ置いた。
「もう一回見る」
「やっぱり見るんだ」
ルカが笑う。
「だってトアが、忘れ物したら大変って言ってたもん」
アリアはポシェットの中へ手を入れた。
「お着替え」
ちゃんとある。
「ハンカチ」
これもある。
「水筒」
最後に水筒を持ち上げ、中身が入っていることまで確かめてから戻した。
「よし!」
「昨日も同じことしてたよね」
「今日もあった!」
「一晩で消えないよ」
「でも、見ないと分からないでしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
ルカが苦笑する。
昨日、トアから「忘れ物をすると大変だ」と教えてもらったことが、アリアの中には思っていた以上にしっかり残っているらしい。
自分で確かめて、大丈夫だと分かる。
それだけで、昨日より少しだけ旅の準備が上手になった気がした。
その隣では、マルルも胸元のコンパクトを前足で開いていた。
「マルルも確認なの」
「欠片?」
「なの」
小さなコンパクトの中には、一つ目の欠片が静かに収まっている。
「ちゃんといるなの」
満足そうに頷いて、ぱたんと蓋を閉じた。
「そっちも逃げないよ」
「でも確認は大事なの」
「アリアと同じこと言ってる」
「同じなの!」
「わたしも確認は大事だと思う!」
「はいはい」
ルカが笑う。
ノルンも木箱を抱え直し、中身を一度確かめてから頷いた。
「わたしも準備できました」
これで四人とも大丈夫。
そう思ったところで、もう一度扉が叩かれた。
「皆さん」
シスターの声だった。
「出発する前に、こちらをどうぞ」
アリアが扉を開けると、シスターはいくつかの布包みを抱えて立っていた。
「朝ごはんです」
「わぁ!」
アリアの目が一気に輝く。
「馬車の中で召し上がってください」
差し出された包みを両手で受け取ると、布越しにもほんのりと温かかった。
「パン?」
「はい」
「シスターが焼いたの?」
「皆さんが起きる少し前に」
「すごい!」
アリアは布包みを胸の前で大事そうに抱えた。
焼きたての香ばしい匂いが、布の隙間からふわりと漂ってくる。
その途端、足元でマルルの鼻が忙しそうに動き始めた。
「いい匂いなの……」
「まだ食べちゃだめだよ」
「分かってるなの」
そう答えながらも、マルルの顔はずっと布包みの方を向いている。
アリアは笑いながら、自分の分をポシェットとは別にしっかり抱え直した。
これから乗る馬車の中で食べる。
そう思うだけで、いつもの朝ごはんとは少し違うものに感じられた。
◇
荷物を持ち、四人は教会の玄関へ向かった。
扉を開けた途端、ひんやりとした朝の空気が頬へ触れる。
「わ……」
アリアは思わず空を見上げた。
夜の色を残していた東の空が、少しずつ白み始めている。
まだ人通りの少ない町は静かで、遠くから小鳥の声だけが聞こえていた。
玄関の前には、手の空いているシスターたちが集まっている。
「お気をつけて」
「女神様が、皆さんをお守りくださいますように」
アリアたちはそろって頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「本当にお世話になりました」
ルカも丁寧に礼をする。
「ありがとうございました」
ノルンも木箱を抱えたまま一礼し、マルルは長い耳まで一緒に下げた。
「ありがとうなの」
「行ってらっしゃい」
「またいつでもいらしてくださいね」
「うん!」
アリアは大きく手を振った。
「行ってきます!」
四人は教会をあとにした。
何歩か進んだところで、アリアは足を止めて振り返る。
朝の淡い光の中に、白い教会が静かに立っていた。
初めてここへ来た時には、次にどこへ行けばいいのかさえ分からなかった。
それなのに、この町でノルンと出会い、一つ目の欠片を見つけ、次に向かう場所まで分かった。
昨日まで眠っていた部屋も、シスターたちがいた食堂も、もう見えない。
けれど、自分たちがここで過ごした時間までなくなるわけではない。
アリアはもう一度、小さく手を振った。
それから、待っている新しい旅へ向かって前を向いた。
◇
東門近くの荷馬車置き場へ近づくと、昨日探した赤い布が朝の風に揺れているのが見えた。
「あった!」
アリアの足が自然と速くなる。
二台の大きな馬車の周りでは、すでに商隊のみんなが出発の準備を進めていた。
ヴァンは馬具を一つずつ確かめ、フィンは積み荷へ掛けられた縄を引いて緩みがないか調べている。
その二人の仕事を確かめながら、護衛隊長のロザは周囲にも目を配っていた。
モーリは食材の入った籠を荷馬車へ積み込み、エッダは帳面を手に商隊全体を見渡している。
その中で最初にアリアたちへ気づいたのは、トアだった。
「アリアー!」
「みんな、おはよう!」
「おはよう!」
アリアも負けないくらい大きく手を振り返す。
昨日も近くまで来たはずなのに、今日は馬車がもっと大きく見えた。
たぶん、昨日は「乗せてもらえるだろうか」ということばかり考えていたからだろう。
今日は違う。
これから本当に、この馬車へ乗って旅をする。
そう思って見上げると、背の高い車輪も、分厚い木の車体も、高く張られた幌も、自分たちを遠くまで運んでくれるものに見えた。
「……おっきい」
車輪だけでも、アリアの胸よりずっと高い。
その前には、馬車を引く大きな馬たちが並んでいた。
「お馬さんもおっきい!」
栗色の毛並みが朝の光を受けてつやりと光っている。
一頭が、ぶるるっと鼻を鳴らした。
白い息が冷たい空気の中へふわりと広がる。
アリアはもっと近くで見たくなり、そのまま馬の後ろへ回ろうとした。
「アリア」
ヴァンの声で足を止める。
「後ろから行くなよ」
「あ」
「大人しい馬でも、驚けば蹴ることがある」
アリアは馬の大きな後ろ脚を見た。
あれで蹴られたら、きっとものすごく痛い。
「じゃあ、どうするの?」
「こいつに見える方から近づけばいい」
ヴァンは馬の頬へ手を添え、落ち着かせるようにゆっくり撫でた。
「声を掛けながら、ゆっくりな」
「うん」
アリアは言われた通り、馬の顔が見える方へ回った。
さっきより少し慎重に近づく。
「おはよう」
大きな黒い目が、こちらを見た。
「わたし、アリアだよ」
しばらく馬はじっとしていた。
やがて、ふんっと鼻息を吐く。
「わっ!」
アリアの前髪がふわっと持ち上がった。
「挨拶なの」
隣でマルルが耳を揺らす。
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
思わず笑ってしまう。
ヴァンも口元をわずかに緩めた。
「首の横なら触っていいぞ」
「うん!」
アリアはゆっくり手を伸ばした。
大きな体へ掌が触れる。
朝の空気はこんなに冷たいのに、馬の体は驚くほど温かかった。
「ぽかぽか」
「生きてるからね」
隣へ来たルカが言った。
「ルカも触る?」
「あとで」
「気持ちいいよ」
大きくて少し怖いと思っていた馬が、触れてみると温かい。
そのことが何となく嬉しくて、アリアはもう一度首の横を撫でた。
すると今度は馬の方が少し顔を寄せてきた。
「またこんにちはしてくれた」
アリアが笑ったところで、馬車の入口から声が飛んできた。
「アリア!」
トアが顔を出している。
「こっち!」
「なあに?」
「中、見たいでしょ?」
その言葉だけで、アリアの目が輝いた。
「見たい!」
◇
馬車の横には、小さな階段が付いていた。
アリアは手すりにつかまりながら、一段ずつ上っていく。
その後ろからルカとノルンが続き、最後にマルルもぴょんぴょんと階段を上った。
中へ足を踏み入れた瞬間、アリアはその場で立ち止まった。
「わぁ……」
思っていた荷馬車とは、まるで違っていた。
左右の壁際には、向かい合うように長い木のベンチが置かれ、その上には厚めの敷物が敷かれている。
幌の内側に沿って作られた棚には、食器や小さな木箱がきれいに収められ、窓には布が掛けられていた。
天井からは、小さなランタンが一つ下がっている。
木と布の匂いに混じって、毛布や食器から、ここでずっと旅をしてきた人たちの気配が残っているような気がした。
「お部屋みたい!」
「でしょ?」
トアが得意そうに胸を張った。
「ここでグラナまで行くんだよ」
「ここで?」
「うん。ごはんを食べるのも、休むのも、夜寝るのもここ」
「全部?」
「全部!」
アリアはもう一度、馬車の中をぐるりと見回した。
今見えているのは二本の長いベンチと棚、それに机くらいだ。
それなのに、ここで十日も暮らせるという。
「すごい……」
「でもね」
トアがにやっと笑った。
「見えてるところだけじゃないよ」
「まだあるの?」
「ある!」
そう言うと、トアはベンチの下へしゃがみ込み、一つの取っ手をつかんだ。
ごろごろと木の擦れる音がして、大きな引き出しがゆっくり出てくる。
「わっ!」
アリアもすぐ隣へしゃがんだ。
中には毛布や袋が、隙間なく収められている。
「こんなところにも入るの?」
「旅は荷物が多いからね」
今度は床に付いた金具へ手を掛ける。
かちゃりと床板が持ち上がると、その下からまた収納が現れた。
「まだある!」
マルルが長い耳を揺らしながら覗き込んだ。
「馬車の下まで荷物なの?」
「床の下」
「同じなの」
「ちょっと違うよ」
ルカはアリアたちとは少し違うところを見ていた。
しゃがみ込んで床板の厚みや高さを確かめ、それから外で見た馬車の形を思い出すように目を細める。
「だから外から見た時に、床が高かったんだ」
「気づいてたの?」
トアが驚いた。
「何となく」
「ルカ、そういうところよく見てるね」
「普通だよ」
そう答えたルカの尻尾の先が、ほんの少しだけ動いた。
アリアはそれを見つけて笑いかけたが、ルカが先に気づいて尻尾を後ろへ隠した。
「何?」
「なんでもない」
「絶対何かあったでしょ」
「ないよ」
「ほんと?」
「ほら、トアがまだ何か見せてくれるって」
「あ!」
すぐにそちらへ向き直る。
トアは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、もっとすごいの見せてあげる!」
「まだあるの!?」
「一番大事なのが残ってるよ」
アリアはもう完全にトアの後ろへくっついている。
「どれ?」
「これ」
トアがベンチをぽんぽんと叩いた。
「椅子?」
「今はね」
「今は?」
その言葉だけで、また何かが起こりそうだと分かる。
トアが留め具へ手を掛けた。
かちん。
「見てて」
背もたれがゆっくり前へ倒れていく。
アリアは目を離さず、その動きを追った。
ぱたん。
背もたれは座面と同じ高さまで開き、一枚の平らな板になった。
「平らになった!」
「反対側も同じだよ」
アリアは左右のベンチを見比べた。
平らになった板。
反対側のベンチ。
真ん中の机。
それを頭の中で並べてみる。
そして、ぱっと顔を上げた。
「ベッドになる!」
「正解!」
トアが嬉しそうに笑う。
「夜になると、左右を全部広げて、真ん中まで平らにするんだよ」
「ここ全部?」
「うん」
「大きいベッド?」
「大きい寝床かな」
「すごーい!」
アリアは平らになった板を両手でぺたぺた触った。
昼は椅子だったものが、夜になると寝る場所になる。
昨日まで教会で眠っていた自分たちが、今日からはここで毛布にくるまって寝るのだ。
そんな姿を想像した途端、馬車の中が急にもっと身近な場所に思えてきた。
一方のルカは、やはり寝床そのものよりも、蝶番や留め具の方を見ている。
「これ、揺れても外れないの?」
「ちゃんと止まるよ」
入口から顔を出したエッダが答えた。
「何年も旅をしながら、不便なところが見つかるたびに直してきた馬車だからね」
「ずっと直してるの?」
「そうさ。使ってみないと分からないこともあるからね」
アリアはもう一度、馬車の中を見渡した。
座るところ。
眠るところ。
荷物を入れるところ。
ごはんを食べるところ。
窓もある。
夜になればランタンも灯る。
小さいけれど、旅に必要なものが全部ここへ詰まっている。
「……走るおうちだ」
思わず口から出た。
トアが笑う。
「そうかも」
「今日からここがおうち!」
「グラナに着くまではね」
「十日のおうち!」
「そう!」
その響きが気に入ったらしい。
アリアはもう一度、左右のベンチや棚を見回した。
「十日のおうち……」
知らない場所へ十日も掛けて向かうと聞いた時には、とても長く感じた。
けれど、この馬車の中で過ごすのだと思うと、少しだけ楽しみに変わってきた。
◇
「そろそろ出るよ!」
外からエッダの声がした。
「はーい!」
トアが倒していた背もたれを元へ戻す。
かちんと留め具がはまり、さっきまで寝床だった板が、いつものベンチへ戻った。
「夜になったら、また作ろうね」
「うん!」
アリアたちはベンチへ腰を下ろした。
窓の外では、ヴァンが馬具を最後に確認し、フィンも荷物へ掛けた縄を一本ずつ確かめている。
ロザは二人の様子を見ながら、出発前の周囲にも目を配っていた。
エッダも二台の馬車を見渡す。
居住用の馬車と、荷物を積んだ馬車。
馬車を引く四頭の馬。その脇では、ロザたち護衛の二頭も出発を待っている。
積み荷も旅道具もそろい、今日からはアリアたち四人も商隊の中へ加わった。
「よし」
エッダが頷く。
「出発しよう」
御者が手綱を握った。
「出ますよ」
馬たちがゆっくり歩き始める。
最初に車体がぐっと前へ引かれた。
「わっ」
アリアが思わずベンチへ手をつく。
すぐに大きな車輪が回り始め、ごとん、ことんと木の床へ振動が伝わってきた。
「動いた!」
窓へ駆け寄ろうと腰を浮かせたところで、ルカに服の裾をつかまれる。
「座って」
「あ」
「動いてる時は危ないよ」
「はぁい」
さっきヴァンから馬へ近づく時のことを教わったばかりなのに、今度は馬車の中でも一つ覚えた。
アリアは大人しく座り直し、窓から外を覗いた。
町の建物が、少しずつ後ろへ流れていく。
「ほんとに出発した……」
昨日までは、地図の上に名前が書いてあるだけだったグラナ。
そこへ続く道を、今、自分たちは本当に進み始めた。
アリアは窓の向こうへ小さく手を振った。
もう教会は見えない。
それでも、その白い建物がある方角へ向かって。
「行ってきます」
小さく呟いた。
◇
町を抜ける頃には、東の空から朝日が昇り始めていた。
草原へ長い光が伸び、朝露をまとった草の先がきらきらと輝いている。
アリアが窓の外に夢中になっていると、膝の上に置いていた布包みが、馬車の揺れに合わせてことんと動いた。
「あ!」
「朝ごはん」
向かいに座ったトアが笑う。
「忘れてた!」
「アリアが食べ物を忘れるなんて珍しいね」
「忘れてないもん!」
「今、忘れてたって言ったよ」
「ちょっとだけ!」
アリアは慌てて布包みを開いた。
ふわりと焼きたてのパンの香りが馬車の中へ広がる。
「いい匂い……」
ノルンが嬉しそうに笑った。
「まだ温かいなの」
マルルの鼻も、また忙しそうに動き始める。
「いただきます!」
アリアは両手でパンを持ち、一口かじった。
表面はほんのり香ばしく、中はまだ柔らかい。
「おいしい!」
思わず目を細めた。
「シスターのパン、大好き!」
ルカも一口食べて、ゆっくり頷いた。
「朝早くから焼いてくれたんだね」
「帰ったら、おいしかったって言う!」
「いつ帰るの?」
アリアの手が止まった。
「……帰った時!」
「ずいぶん先だね」
「覚えてるもん」
「じゃあ忘れないようにしないとね」
「忘れない!」
そんな話をしている間にも、馬車は一定の揺れを繰り返しながら街道を進んでいく。
時々、大きめの石を車輪が踏むと、車体が少しだけ傾いた。
「わっ」
アリアは反射的にパンを両手でつかんだ。
落ちていない。
それを見ていたトアが笑う。
「ちゃんと持てたね」
「落とさないよ!」
「馬車で食べる時は、それも大事だからね」
「パンを落とさない?」
「そう」
「それも旅の練習?」
トアは少し考えてから笑った。
「そうかも」
アリアは急に真剣な顔になり、パンをさっきよりしっかり持ち直した。
「絶対落とさない」
「そこまで?」
ルカが笑う。
けれどアリアにとっては、それも今日覚えた新しいことだった。
馬車に乗れば、ただ座っていればいいと思っていた。
でも実際には、動いている時には立たない方がいい。
パンを食べる時には揺れにも気をつける。
馬へ近づく時にも決まりがある。
昨日まで知らなかったことが、朝から少しずつ増えている。
それが何だか面白かった。
◇
朝日に照らされた草原が、窓の向こうをゆっくり流れていく。
道端では朝露をまとった小さな花が風に揺れ、その向こうから何羽もの鳥が空へ飛び立った。
馬の蹄が一定の音を刻み、車輪の振動がベンチ越しに体へ伝わってくる。
昨日まで自分の足で歩いていた時とは、同じ街道なのに景色の流れ方まで違って見えた。
「すごいね」
アリアが言う。
「何が?」
「歩いてないのに、景色が動く」
「馬車が動いてるからね」
「分かってるよ!」
ルカが笑った。
アリアは窓枠へ手を置き、遠くへ伸びる街道を見つめる。
教会もリーネの町も、もう見えない。
窓の向こうにあるのは、これまで歩いたことのない街道だけだった。
「トア」
「なに?」
「グラナまでに、いっぱい村ある?」
「あるよ」
「山もある?」
「ある」
「川も?」
「あるよ」
アリアの頭の中に、まだ見たことのない景色が次々に浮かぶ。
どんな村だろう。
どんな山だろう。
川は大きいのだろうか。
そして、もう一つ気になった。
「お店もある?」
「あると思うよ」
「おいしいものも?」
トアが少し黙った。
「そこが一番気になるの?」
「うん!」
迷いのない返事に、トアが吹き出した。
ルカも笑い、ノルンも口元を緩める。
「マルルも気になるなの!」
「でしょ?」
「そこだけ仲いいね」
「ずっと仲いいもん!」
「なの!」
アリアは笑いながら、もう一度窓の外を見た。
さっきまで少しだけ寂しかった教会との別れも、いつの間にか胸の奥へ静かに収まっている。
代わりに膨らんできたのは、これから先に待っているものへの楽しみだった。
今日から十日、この走るおうちに乗って、知らない村を通り、山を越え、川を渡る。
その先には、二つ目の欠片が待っている。
笑い声を乗せた二台の馬車は、ごとん、ことんと一定の音を響かせながら、これまで自分たちの足で進んできた旅とは違う速さで進んでいく。
窓の向こうへ続いているのは、まだ知らない景色へつながる街道だった。
グラナまでの長い旅が、いよいよ始まった。
★おまけ★




