第26話 空へ届くまで
ちりん。
夕暮れの空から、もう一度だけ澄んだ鈴の音が降ってきた。
朝から一日かけて探し続け、ようやく見つけた淡い青の欠片は、暮れ始めた空の高いところで小さく光っている。
アリアはその姿を見失わないまま、胸いっぱいに息を吸った。
背中の小さな羽へ光が集まり始める。
今なら、どこにあるのか分かる。
飛べば、届くかもしれない。
そう思っただけで、足はもう地面を蹴り出しそうになっていた。
「待ってください」
ノルンの声が届き、広がりかけていた光の羽が途中で揺れた。
アリアは振り返る。
「もうすぐ日が暮れます」
「でも、見つけたよ」
空を指したまま、アリアはノルンを見る。
「あそこにあるの」
「ええ。見つけましたね」
ノルンも欠片を見上げた。
それから、今度は西の空へ視線を向ける。
太陽はもう町の屋根へ触れそうなところまで傾き、空の端では昼の青が少しずつ橙色へ変わり始めていた。
「だからこそ、今日は飛んではいけません」
アリアの顔から、少しだけ笑顔が消えた。
「今から飛んだら、帰ってくる前に暗くなるよ」
ルカも隣へ並び、高い空を見上げる。
「どこまで上れば届くのかも、まだ分からないんだから」
アリアは欠片を見たまま唇を結んだ。
やっと見つけた。
朝から何度も探して、飛んで、鐘楼にも上って、それでも見えなかった欠片。
ようやく目の前に現れたのに、今日は取りに行けない。
「明日も、あそこにあるかな」
心配になってこぼした声へ応えるように、小さな青い光が一度だけ瞬いた。
「朝からずっと同じ場所を指していたなの」
マルルが胸元のコンパクトを前足で押さえる。
「きっと、逃げないなの」
ノルンはアリアのそばへ腰を下ろし、同じ高さから空を見上げた。
「見つけるために一日かかったのです」
アリアが顔を向ける。
「届くために、もう一日使っても遅くはありませんよ」
その言葉を聞いて、アリアはもう一度欠片を見た。
急がなければいけないと思っていた。
欠片を集めなければ、お父さんとお母さんのところへは帰れない。
だから、見つけたらすぐに取りに行かなければならないような気がしていた。
けれど。
今日一日で見つけたのなら、明日は届くために使えばいい。
そう考えると、胸の中で急いでいた気持ちが、少しだけ静かになった。
やがて背中へ集まっていた光が小さくなり、羽の形になる前に消えていく。
「……明日、ぜったいに行く」
「ええ」
「朝から練習する」
「もちろんです」
アリアはもう一度だけ空を見上げた。
「待っててね」
淡い青の欠片は何も答えない。
それでも、そこにいることだけは分かっていた。
四人が取り込んだ布の籠を持って教会へ戻る頃には、夕暮れの色がさらに濃くなり、さっきまで見えていた欠片も、暮れていく空の中へ再び溶け込んでいた。
◇
翌朝。
朝食を終えると、四人はすぐに教会の中庭へ出た。
昨日見つけた欠片は、朝の青空へ戻るとまた姿を消している。
けれど、今日は昨日とは違った。
どこにあるのか分からず探しているのではない。
見えなくても、あそこにある。
それが分かっているだけで、アリアの気持ちはずっと軽かった。
マルルは胸元のコンパクトを開き、盤面を確かめながら石畳の上をゆっくり歩いていく。
針は真上ではなく、少し斜めを向いていた。
「もう少し右です」
ノルンの言葉に、マルルが右へ進む。
すると、斜めになっていた針が少しずつ起き上がった。
「こっちなの?」
「そのまま、まっすぐです」
マルルが一歩。
もう一歩。
三歩ほど進んだところで、針が盤面からまっすぐ立ち上がった。
「ここなの!」
ルカがすぐにしゃがみ込み、小さな石を拾ってマルルの足元へ印をつける。
「ここが欠片の真下ってことだね」
アリアはその印の上へ立った。
首が痛くなりそうなほど顔を上げる。
けれど、朝の空にはやはり何も見えない。
昨日の夕方、確かにあったはずの欠片が、今は青の中へすっかり溶け込んでいる。
「こんなに小さい印から、ずっと上まで行くの?」
「まっすぐ上ろうとすると、すぐに力を使い切ってしまいます」
ノルンは人差し指を上へ向け、そのまま空へ大きな円を描いた。
「この場所を中心にして、少しずつ回りながら上がりましょう」
「上にあるのに、回るの?」
「階段も、まっすぐ上へは伸びていないでしょう?」
アリアは教会の鐘楼を見た。
昨日、どこまで続くのだろうと思いながら上った長い階段が頭へ浮かぶ。
それを思い出した途端、少しだけ頬が膨らんだ。
「空にも、あんなに長い階段があるの?」
「空の階段には、段がありません」
「ないの?」
「ありません」
マルルの長い耳が、ぺたりと垂れた。
「見えない欠片に、見えない階段なの……」
ルカも空を見上げながら笑った。
「難しいものばかりだね」
アリアはしばらく空を見つめたあと、両腕を広げる。
「でも、上れば着くんだよね?」
「ええ」
アリアは飛び立つ前に白いポシェットへ手を入れ、中から木箱を取り出した。
「ノルンお姉ちゃん、これ持ってて」
「はい」
ノルンが木箱を受け取るのを確かめてから、アリアはもう一度空を見上げた。
その返事を聞くと、アリアの背中から淡い光があふれた。
小さな羽が光に包まれ、透き通った大きな翼となって左右へ広がる。
アリアは石畳を蹴った。
ふわりと体が浮き上がる。
まずは、印を中心に小さな輪を描いた。
一周。
二周。
三周。
「アリア、近すぎます」
「え?」
「もっと大きく回ってください」
アリアは言われたとおり、少し外側へ体を傾けた。
輪が大きくなる。
けれど今度は、そのまま外へ流れすぎた。
「アリア、そっちじゃないよ!」
ルカの声に慌てて羽の向きを変える。
「こっち?」
「行きすぎ!」
「ええっ?」
もう一度向きを変えようとしたところで、体がくるりと回った。
「わっ!」
アリアは慌てて羽ばたき、ふらつきながら地面へ降りる。
両足は無事に石畳へ着いた。
けれど、止まったはずなのに体の中だけがまだ回っているような気がして、二、三歩横へよろめく。
「空が、ぐるぐるしてる……」
ルカが笑いながら肩を支えた。
「回るのが速すぎるんだよ」
「だって、落ちそうだったの」
「急ぐ必要はありません」
ノルンは自分の指で、さっきよりもずっと大きな円を空へ描いた。
「羽を何度も動かすのではなく、風に乗せる時間を作ってください」
「風に?」
「ええ。羽を広げたまま、少し待つのです」
アリアは左右の光の羽を見た。
「何もしなくてもいいの?」
「何もしないのではありません」
ノルンは中庭を通り抜ける朝の風へ顔を向ける。
「風がどちらから来るのか、羽で聞くのです」
「羽で、聞く?」
アリアは首をかしげた。
耳で聞くのとは違うらしい。
けれど、とりあえずやってみることにした。
もう一度、石でつけた印のそばへ戻る。
地面を蹴り、今度はさっきよりゆっくり羽を動かした。
一度羽ばたく。
そのあと、言われたとおり羽を大きく広げたまま待ってみる。
風が通り過ぎた。
左の羽が、ほんの少し持ち上がる。
「あっ」
さっきまで気づかなかった。
風は見えないけれど、羽へ触れた時にはちゃんと分かる。
アリアは左の羽へ押される感覚に合わせ、体を少しだけ傾けた。
すると、さっきよりずっと大きな輪を描きながら、体がゆっくり上へ運ばれていく。
「上がった!」
「前を見てください」
「はーい!」
今度は慌てない。
一周するたびに少しずつ高度が増し、教会の屋根が下へ遠ざかっていく。
鐘楼の窓と同じくらいの高さまで来たところで、アリアはそっと下を見た。
石畳へつけた小さな印。
そのそばには、ルカとマルルが並んでいる。
ノルンも空を見上げながら、片手を上げた。
「いったん、そこまでです。下りてきてください」
「まだ飛べるよ!」
「下りる力を残しておくのも練習です」
その言葉に、アリアは少しだけ口を尖らせた。
まだ上へ行ける。
そう思っていた。
けれど、昨日も同じように「もう少し」と思ったところから体がふらついた。
今日は、欠片を取るだけではない。
ちゃんと戻ってくる練習もしている。
アリアは名残惜しそうにもう一度空を見たあと、羽をゆっくり傾けた。
上ってきた輪をたどるように、高度を少しずつ下げていく。
「そのままです」
ノルンの声を聞きながら地面へ近づき、最後は両膝を軽く曲げた。
足の裏へ石畳の硬さが戻ってくる。
「できた!」
「昨日より高かったなの!」
マルルが嬉しそうにアリアの周りを跳ねた。
アリアも笑った。
けれど、すぐに空を見上げる。
「でも、欠片はもっと上だよね」
ルカがうなずく。
その途端、アリアの顔へまたやる気が戻った。
「もう一回!」
「休んでからです」
「まだ疲れてないよ」
そう言ったものの、広げたままだった光の羽は、先の方から小さな粒になって消え始めている。
ルカは何も言わず、水筒を差し出した。
「まず飲む」
「……うん」
アリアは少しだけ照れながら、両手で水筒を受け取った。
◇
それから何度も、アリアは見えない空の階段を上った。
大きく回ること。
風が来たら、すぐに羽ばたこうとせず、羽を広げてその力を受けること。
印から離れすぎても、慌てて戻ろうとせず、次の輪で少しずつ近づくこと。
一度飛ぶたびに地上へ戻り、水を飲み、しっかり休んだ。
最初のうちは、気づけば輪が小さくなったり、風に流されて印から大きく外れたりしていた。
けれど、何度も繰り返すうちに、アリアは少しずつ風を感じられるようになった。
羽を持ち上げる風。
横から押す風。
ほんの一瞬だけ、体を支えてくれる風。
空の中にも、地上とは違う道がある。
そのことが分かり始めると、飛ぶことは昨日までよりずっと楽しくなった。
昼を過ぎる頃には、鐘楼より高いところまで上がっても、慌てずに戻ってこられるようになっていた。
それでも。
欠片はまだ見えない。
マルルのコンパクトだけが、変わらず空を指し続けている。
午後の光が少しずつ傾き始めると、四人は中庭の石段へ並んで座った。
あとは、空の色が変わるのを待つ。
アリアは何度も空を見上げた。
昨日と同じなら、夕暮れになれば欠片が見える。
その時が来たら。
今日は、取りに行く。
西の空へ淡い金色が混じり始めた頃。
ちりん。
小さな音が聞こえた。
アリアは反射するように立ち上がった。
「聞こえた!」
マルルも急いでコンパクトを開く。
「針が光ってるなの!」
昨日と同じ場所。
昼の青をゆっくり薄め始めた空の中へ、小さな輪郭が浮かび上がってくる。
「あった」
アリアの背中へ光が集まった。
朝から何度も広げた羽が、今度は迷いなく大きな翼へ変わる。
「行ってくる」
「アリア」
ノルンに呼ばれ、アリアは振り返った。
「欠片へ届いても、それで終わりではありません」
アリアは少しだけ考えた。
そして、自分から答える。
「ちゃんと帰ってくる」
ノルンの表情がやわらいだ。
「ええ。帰ってくるまでが飛行です」
アリアは大きくうなずいた。
「無理だと思ったら戻ってきて」
ルカが、朝につけた石の印を指す。
「僕たちは、ここにいるから」
「マルルもずっと見てるなの!」
「うん!」
三人の顔を順番に見てから、アリアは地面を蹴った。
最初の一周は、教会の屋根より低く。
二周目には、鐘楼の窓と同じ高さへ。
三周。
四周。
大きな輪を描くたびに、町の家々が少しずつ小さくなっていく。
左から風が吹いた。
アリアは慌てて羽ばたかず、教えてもらったとおり大きく羽を広げた。
風が羽の下へ入り、体を右へ押していく。
以前なら、すぐに元の位置へ戻ろうとしていた。
でも、今日は違う。
その風を受けたまま大きな円を描き、次の輪で少しずつ石の印の上へ近づいていく。
「できた……!」
声はすぐに風の中へ消えた。
もう地上から、三人の声はほとんど聞こえない。
教会も。
中庭も。
自分が朝から何度も立った石の印も。
ずっと下へ小さくなっている。
胸の奥へ、少しだけ怖さが戻ってきた。
けれど、アリアは一度だけ唇を結び、空を見た。
ちりん。
鈴の音が聞こえる。
さっきより近い。
その音を追うように、もう一度羽ばたいた。
欠片はまだ上にある。
見えているのに、なかなか近づいてこない。
一周するたびに少しずつ高くなる。
それでも、欠片との距離はほんの少しずつしか縮まらなかった。
羽を動かすたびに肩が重くなってくる。
高いところを流れる風は地上より冷たく、指先にも少しずつ冷たさが染みてきた。
アリアは手を握り直した。
あと少し。
でも。
帰る力も残さなければならない。
朝から何度も聞いた言葉が、胸の中へ戻ってくる。
無理に急がない。
風を使う。
帰ってくるまでが飛行。
アリアはもう一度、大きく輪を描いた。
一周。
もう一周。
夕暮れの色が深くなるほど、淡い青の欠片は空からはっきり浮かび上がっていく。
ちりん。
今度は、すぐそばで鳴った。
「あった……」
もう手を伸ばせば届きそうなところに、小さな青い光が浮かんでいる。
アリアは右手を伸ばした。
けれど。
指先の、ほんの少し向こう。
あと少しだけ足りない。
もう一度羽ばたく。
光の羽が揺れ、今度は体がわずかに沈んだ。
「あと、ちょっと……」
肩が重い。
息も少し苦しい。
それでも、あの欠片を取るために今日一日練習してきた。
アリアは左手で、胸元の白い羽のネックレスを握った。
「お父さん」
大きく息を吸う。
「お母さん」
最後に一度だけ、光の羽を大きく動かした。
体がふわりと持ち上がる。
伸ばした指先が、淡い青の光へ触れた。
ちりん。
透き通った鈴の音が、夕暮れの空いっぱいへ広がった。
欠片はアリアの指先から逃げることなく、そのまま手のひらへ落ちてくる。
淡い青を閉じ込めた、小さな結晶だった。
「つかまえた……!」
アリアは両手で大切に包み込んだ。
嬉しくて、すぐに地上へ見せたくなった。
その時。
体が、ふっと下へ落ちた。
「わっ……!」
反射的に羽を大きく動かしかける。
けれど。
ノルンの言葉が、頭の中へ戻ってきた。
帰ってくるまでが飛行です。
アリアは慌てて羽ばたくのをやめ、光の羽を大きく広げた。
落ちかけた体の下へ風が入り込む。
ふわり。
体が支えられた。
「……大丈夫」
小さく自分へ言い聞かせる。
欠片を胸元へ抱えたまま、ゆっくりと大きな円を描き始めた。
上ってきた時と同じように。
一周。
また一周。
高度が下がるたび、教会の屋根が少しずつ大きくなる。
やがて中庭が見えた。
そこに。
三つの小さな姿がある。
「アリアー!」
ルカの声が届いた。
「こっちなのー!」
マルルが長い耳を大きく振っている。
アリアの胸が、ほっと温かくなった。
戻る場所が見える。
待っている人がいる。
それだけで、最後の力が少し戻ってきたような気がした。
アリアは最後の大きな輪を回ると、石の印へ向かってゆっくり高度を下げた。
足の裏が石畳へ触れる。
一歩。
二歩。
そこで力が抜け、体が前へつんのめった。
「アリア!」
駆け寄ってきたルカが、その体を受け止める。
アリアはしばらく息を弾ませていた。
けれど、すぐに顔を上げる。
「取れた?」
ルカに尋ねられ、アリアは胸元で握っていた両手をゆっくり開いた。
手のひらの上で。
淡い青の欠片が、夕暮れの光を受けて静かに輝いている。
「取れたよ」
「やったなの!」
マルルがその場で高く跳ねた。
ノルンもすぐそばへ歩み寄る。
最初に欠片を見るのではなく、アリアの顔を確かめた。
「よく戻ってきましたね」
アリアは、その言葉を聞いて少しだけ笑った。
「ちゃんと、帰ってきたよ」
「ええ」
ノルンもやわらかく笑う。
それからマルルが胸元のコンパクトを開いた。
丸い盤面には、八つの小さなくぼみが並んでいる。
「ここに入れるなの?」
アリアは手のひらに載せた欠片を、一つ目のくぼみへ近づけた。
すると。
欠片がふわりと浮かび上がった。
ちりん。
小さな音とともに、淡い青の結晶が一つ目のくぼみへぴたりとはまる。
その瞬間、青い光が盤面を一周した。
アリア。
ルカ。
マルル。
ノルン。
四人の顔が、淡い光に照らされる。
「入った……」
アリアは指先で、最初の欠片へそっと触れた。
八つあるうちの。
一つ。
まだ一つだけ。
それでも。
昨日までは、一つもなかった。
アリアは小さな青い光を見つめながら、胸の中でずっと思っていた二人の顔を思い浮かべた。
「お父さん、お母さん」
コンパクトの中で、青い光がもう一度瞬く。
「ひとつ、見つけたよ」
夕暮れの中庭へ、澄んだ鈴の音が静かに広がっていった。
◇
その鈴の音は、教会の礼拝堂まで届いていた。
窓辺に立っていたシスターは、中庭から聞こえてくる声へ耳を澄ませながら、胸の前で組んでいた手をようやくほどいた。
今朝。
食堂へ姿を見せたアリアたちの中に、昨日までいなかった少女が一人増えていた。
どうして何も尋ねなかったのかと聞かれれば、シスター自身にもよく分からなかった。
ただ。
アリアたちがあまりにも当たり前のようにその少女を連れてきたものだから、朝食を冷ますより先に聞かなければならないことではないような気がしたのだ。
けれど、何も不思議に思わなかったわけではない。
食事を終えたあと。
シスターはその足で、神父のもとへ向かった。
「神父様」
書物を読んでいた神父が顔を上げる。
「どうしました?」
「昨夜まで三人だった子どもたちが、今朝は四人になっています」
神父の目が、わずかに丸くなった。
「お連れの方が戻られたのですか?」
「いいえ」
シスターは一度、食堂の方を振り返った。
「木箱から出てきたそうです」
神父の手が、開いていた頁の上で止まった。
「……木箱から?」
「はい」
さすがの神父も、すぐには続きを返せなかった。
やがて二人で中庭へ出ると、四人はちょうど飛行の練習を始めようとしていた。
神父はノルンへ歩み寄り、静かに尋ねた。
「あなたを、どのような方としてお迎えすればよいのでしょう」
「ノルンとお呼びください」
「その箱から現れたと聞きました」
「はい」
ノルンは少しだけ目を伏せる。
「どうしてあの箱の中にいたのか、それだけは思い出せないのです」
「ご自分が何者なのかは?」
ノルンはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ考えてから、静かに顔を上げる。
「……わたしはノルンです」
神父はその言葉の先を待った。
けれど、ノルンはそれ以上何も続けなかった。
その隣で、アリアが大きくうなずいた。
「ノルンは、ノルンだよ」
神父は二人をしばらく見つめた。
分からないことは残っている。
けれど、今ここで無理に聞き出す必要はないのかもしれない。
「そうですか」
やがて穏やかに笑った。
「では、ノルンとお呼びしましょう」
しかし。
その朝、教会の者たちを驚かせたのは、それだけではなかった。
アリアが中庭の石の印の上へ立つ。
小さな背中から淡い光があふれ出し、それが透き通った二枚の大きな羽となって広がった瞬間。
洗った布を運んでいたシスターも。
庭を掃いていた者も。
その場で足を止めた。
「神父様、あの羽は……」
「ええ。見えています」
朝の光を受けた羽は、まるで空そのものから切り取った光のように揺れていた。
「まるで、聖画に描かれた天使のような……」
神父はすぐには答えなかった。
天使ならば。
なぜ、あんなにも一生懸命に空を回っているのだろう。
なぜ何度も失敗し。
地上へ降り。
水を飲んで。
また空へ上がっていくのだろう。
神父がこれまで見てきた聖画の中の天使は、いつも完成された姿で空に浮かんでいた。
けれど、目の前の小さな子どもは。
光の羽を持っていても。
やはり六歳の子どもだった。
アリアの体がくるりと回り、ふらつきながら石畳へ下りる。
ルカが駆け寄って肩を支え、マルルが長い耳を揺らしながらその周りを回った。
ノルンはすぐに次の飛び方を説明している。
その姿を見ながら、神父は静かに口を開いた。
「今は、見守りましょう」
シスターが神父を見る。
「それから、ここで見たことは、しばらく私たちの胸に留めておきましょう」
神父はそれだけを告げた。
昼の休憩に水を届けた時。
シスターは、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「皆さんは、空に何を探しているのですか?」
ルカが真上を指した。
「僕たちの村へ帰るための、鍵の欠片です」
マルルも胸元のコンパクトを見せる。
「八つ集めれば、消えた村へつながる道が開くなの」
光の羽を持つ小さな女の子。
木箱から現れた、正体の分からない少女。
人の言葉を話し、額に青い宝石を持つ白い生き物。
そして、その三人のそばに立つ猫獣人の少年。
シスターには、分からないことがいくつもあった。
それでも。
この子たちは、消えた家族のところへ帰ろうとしている。
そのために、朝から何度も飛んでは戻り、休んではまた空へ上がっている。
それだけは、よく分かった。
◇
夕暮れ。
アリアが最後の飛行を始める頃には、神父やシスターたちも礼拝堂の窓辺へ集まっていた。
朝から何度も練習する姿を見ていた。
けれど、今度はいつもよりずっと高い。
教会の屋根を越え。
鐘楼を越え。
小さな光になりながら、さらに上へ上っていく。
「やはり、あの子は天使なのでしょうか」
一人のシスターが、小さな声で尋ねた。
「分かりません」
「ノルンも?」
「ええ」
神父は、高く上っていくアリアから目を離さなかった。
何者なのか。
なぜここへ来たのか。
分からないことを数えれば、いくらでもある。
けれど今は。
「まずは、あの子が無事に戻れるよう祈りましょう」
一人のシスターが胸の前で手を組んだ。
それに続くように。
一人。
また一人。
礼拝堂の窓辺で、いくつもの手が重なる。
「どうか、届きますように」
「そして、無事に帰ってこられますように」
高い空で。
アリアの光の羽が大きく揺れた。
その光が一瞬だけ強くなり、羽根の一枚一枚が淡く輝く。
祈りが本当に届いたのかどうか。
それは誰にも分からない。
けれどシスターには、礼拝堂から送り出された願いが、あの小さな羽を少しだけ支えたように見えた。
ちりん。
透き通った音が響く。
夕暮れの空に、小さな青い光が瞬いた。
「あ……」
誰かが息をのむ。
やがて、欠片を胸へ抱いたアリアが、ゆっくり地上へ下り始めた。
「戻っておいで」
シスターが、聞こえるはずのない声で呼びかけた。
一周。
また一周。
さっきまで空の中の小さな光だったものが、少しずつアリアの姿へ戻っていく。
羽が見える。
銀色の髪が見える。
そして。
石畳へ下りたアリアを、ルカとマルル、ノルンが一斉に取り囲んだ。
アリアが両手を開く。
その手のひらには、淡い青の欠片が輝いていた。
ちりん。
もう一度。
澄んだ鈴の音が、中庭から礼拝堂へ届く。
神父は静かに目を閉じた。
「届きましたね」
「ええ」
シスターの頬が、ゆっくりと緩んだ。
「四人で、見つけたのですね」
窓の向こうから聞こえてくるアリアたちの声に耳を傾けながら。
教会の者たちは、そっと笑みを交わしていた。
★お読みいただきありがとうございます★
一つ目の欠片を取るまでの動画はこちらです(;^ω^)
↓↓↓
https://www.instagram.com/reel/DbIE3ZNphbN/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==&igsi=MzRlODBiNWFlZA==




