第25話 空に溶けた欠片
どれだけ目を凝らしても、青い空には白い雲が浮かんでいるだけだった。
昨日から何度も見上げているはずなのに、欠片らしいものはどこにも見えない。
アリアはしばらく両腕を上へ伸ばしたまま空を探していたが、やがて力が抜けたように腕を下ろした。
「ないね」
その声には、ほんの少しだけ残念そうな響きが混じっていた。
ルカも額へかざしていた手を下ろし、もう一度マルルのコンパクトを見る。
針は迷っていない。
昨日からずっと、まっすぐ上を指している。
見つからないのは、道しるべが間違っているからではなく、自分たちに見つけられていないだけなのかもしれない。
「もう少し場所を変えてみよう」
「こっちなの」
マルルは胸元のチョーカーから下がったコンパクトを前足で支えながら、教会の裏手へ向かった。
アリアとルカ、ノルンもそのあとに続く。
畑のそばへ立って、もう一度。
井戸の前でもう一度。
教会を囲む低い石塀の向こうまで出て、さらにもう一度。
立つ場所を変えるたびにマルルはコンパクトを開いたけれど、針はどこへ行っても盤面から浮かび、同じように空を指した。
「やっぱり、上なの」
マルルが長い耳ごと首をいっぱいに反らす。
「でも、何も見えないね」
アリアも空を見上げたまま、二、三歩後ろへ下がった。
地上から見えないなら。
もう少し近くまで行けば、何か見つかるかもしれない。
そう思った途端、背中の小さな羽へ淡い光が集まり始めた。
「わたし、上から見てみる!」
光は左右へ大きく広がり、透き通った二枚の翼になる。
アリアは地面を蹴った。
体がふわりと浮かび、教会の屋根と同じくらいの高さまで上がっていく。
昨日より、飛ぶことにはずいぶん慣れてきた。
それでも高くなるほど、地面が遠ざかっていく感覚にはまだ胸が少しどきどきする。
アリアはその場でゆっくりと体の向きを変えた。
屋根の向こう。
鐘楼の横。
遠くの町並み。
そして頭の上。
けれど、空はどこまでも青いままだった。
「アリア、何か見える?」
下からルカの声が届く。
「見えなーい!」
アリアは答えながら、もう少しだけ羽ばたいた。
屋根より高いところまで上がると、空が少し近くなったような気がした。
けれど、見えるものは変わらない。
「針は?」
「まだ上なの!」
地上では、マルルがコンパクトを高く持ち上げている。
アリアはそれを見て、もう少し上まで行ってみようと羽を大きく動かした。
一度。
もう一度。
けれど、上へ進むほど風の流れが変わり、体が少しずつ左右へ揺れ始める。
空を探すことへ気を取られているせいか、いつもの飛ぶ練習より姿勢を保つのが難しかった。
「アリア、戻ってきて!」
ルカの声が、今度は少し強くなる。
アリアは上を見たまま迷った。
あと少し行けば、見えるかもしれない。
けれど、体はもう少しずつふらつき始めている。
昨日シリルに教えてもらったことを思い出した。
疲れ切る前に休む。
無理をして倒れる方が困る。
アリアは唇を少し結ぶと、羽の向きを変えた。
ゆっくり高度を下げ、最後のところで少し前へつんのめりながら、それでも両足で地面へ降りる。
「もっと上まで行けたら、見えるかもしれないのに」
地面へ戻った途端、悔しさが口からこぼれた。
ルカは何も責めず、アリアの服についた草を払った。
「見えないものを探しながら飛ぶのは危ないよ」
「……うん」
分かっている。
分かっているけれど、すぐ上に欠片があるかもしれないと思うと、もう少しだけ頑張りたくなってしまう。
ノルンはそんなアリアを見てから、空とコンパクトを交互に見上げた。
「これほど高い場所を指しているのなら、地上から探すだけでは難しいかもしれませんね」
「じゃあ、どうするなの?」
マルルが尋ねる。
ノルンは少し考えると、教会を振り仰いだ。
その視線の先には、町の中でもひときわ高い鐘楼がそびえている。
「もう少し高いところから見てみましょう」
アリアも鐘楼を見上げた。
自分で飛ぶより安全に高いところまで行ける。
そう分かった途端、さっきまで少し沈んでいた気持ちがまた明るくなった。
◇
教会のシスターへ事情を話すと、四人は鐘楼へ上がることを許してもらえた。
鐘楼へ続く階段は思っていたよりずっと狭く、石の壁に挟まれながら一段ずつ上へ続いている。
先頭を歩くノルンのあとへ、アリアとマルルが続き、いちばん後ろからルカが上ってきた。
最初のうちは、アリアもまだ元気だった。
どこまで高くなるのだろう。
上からなら、今度こそ欠片が見えるかもしれない。
そんなことを考えながら階段を上っていたけれど、いつまで経っても終わりが見えない。
「まだあるの?」
アリアは足を止めないまま、頭の上をのぞいた。
「もう少しです」
ノルンが振り返る。
「さっきも聞いたよ」
「そうでしたか?」
ノルンは一度足を止め、上を見る。
けれど、そこにはまだ階段が続いていた。
マルルの長い耳が、ぺたりと垂れる。
「もう少しが長いなの……」
後ろからルカの笑い声が聞こえた。
「ほら、止まると余計に疲れるよ」
その言葉に、アリアは小さく息を吐くと、また一段上った。
もう一段。
さらにもう一段。
やっと明るい光が見えた時には、それだけで嬉しくなった。
「着いた!」
鐘楼へ出ると、開いた窓の向こうに町の景色が一気に広がった。
「わあ……!」
アリアは疲れていたことも忘れ、窓辺へ駆け寄る。
さっきまで自分たちが歩いていた通りが細い線のように見え、家々の屋根も小さく並んでいる。
人の姿はさらに小さく、遠くまで続く街道まで見渡せた。
「おうちが、こんなに小さい!」
アリアはもっとよく見ようと少し身を乗り出した。
「アリア」
すぐに後ろからルカが服をつかむ。
「落ちないでよ」
「落ちないよ」
そう言いながらも、アリアは少しだけ後ろへ下がった。
マルルも窓のそばへ座り、胸元のコンパクトを開く。
針が小さく震える。
そして。
やはり、真上を指した。
「ここでも上なの」
せっかくここまで上ってきたのに。
アリアは一瞬だけ肩を落とした。
それでも、地上からより広く空が見える。
四人は窓から身を乗り出しすぎないよう気をつけながら、青空をゆっくり探していった。
右から左へ。
教会の屋根の上から、町のずっと向こうまで。
何度も目を凝らす。
けれど、淡い青の中には何も浮かんでいなかった。
アリアがまた真上を見上げようとした、その時。
ゴォーン!
「わっ!」
すぐそばで、大きな鐘が鳴った。
体の中まで震えるような音に、マルルが飛び上がる。
「びっくりしたなの!」
アリアも慌てて両手で耳を押さえた。
「おっきい!」
ルカも少し驚いた顔をしていたけれど、すぐに苦笑する。
「鐘楼だからね」
「先に教えてほしかったなの!」
「僕だって、今鳴るとは知らなかったよ」
もう一度鐘が響く。
今度は分かっていても大きい。
四人は顔を見合わせると、思わず笑ってしまった。
結局、欠片は見つからないまま。
それでも朝の礼拝を知らせる鐘に追い立てられるようにして、四人は長い階段を下りることになった。
◇
昼になっても、欠片は見つからなかった。
昼食を終えると、四人はまた教会の外へ出た。
マルルがコンパクトを開き、アリアとルカはその針の先を追って空を探す。
ノルンも石塀のそばまで歩き、少し角度を変えながら青空を見渡した。
けれど、何度見ても同じだった。
針の指す先にあるのは、どこまでも続く青だけ。
「雲の中に隠れているのかな」
アリアは流れていく白い雲を目で追った。
あの雲が通り過ぎたら、その後ろから何か出てくるかもしれない。
しばらく待つ。
けれど、雲が移動しても何もなかった。
「雲が動いても出てこないね」
ルカも同じ場所を見上げる。
「透明なのかもしれないなの」
マルルが真剣な顔で言った。
「透明だったら、どうやって見つけるの?」
「分からないなの」
マルルの耳がしゅんと垂れる。
アリアは少しだけ笑ったけれど、自分にも答えはなかった。
午後からは、ずっと空ばかり見ているわけにもいかなかった。
泊めてもらっている教会で、できることを手伝う。
洗った布を干す時。
井戸から水をくむ時。
空になった籠を物置へ運ぶ時。
それでもアリアは、外へ出るたびにどうしても空が気になった。
もしかしたら、今なら見えるかもしれない。
少し時間が経ったら、何か変わっているかもしれない。
そう思って、つい顔が上を向く。
「前、前」
ルカの声に、はっとする。
抱えていた籠が扉の横へぶつかりそうになり、ノルンが横からそっと手を添えた。
「空を探す時は、立ち止まってからにしましょうね」
「……うん」
アリアは少し恥ずかしくなり、籠を抱え直した。
今度はきちんと前を見る。
二歩。
三歩。
物置へ籠を置いてから。
やっぱり気になって、もう一度だけ空を見上げた。
けれど、まだ何も見えなかった。
◇
夕暮れが近づく頃には、朝から探し続けたこともあって、アリアの中にあった「きっとすぐ見つかる」という気持ちは少しずつ小さくなっていた。
教会の中庭では、長くなった影が石畳の上を伸びている。
四人は午後に干した布を取り込み、乾いたものから籠へ重ねていた。
マルルのコンパクトも、今は閉じられたまま胸元で揺れている。
「今日は、もう見つからないのかな」
アリアは最後の一枚を籠へ入れた。
見つからないまま一日が終わることが、少しだけ寂しかった。
昨日からずっとコンパクトは場所を教えてくれている。
自分たちが見つけられないだけ。
分かっているからこそ、余計にもどかしい。
アリアは籠へ手を掛けながら、何となく空を見上げた。
朝にはどこまでも同じ青だった空が、いつの間にか少しずつ色を変え始めている。
西へ傾いた日の光が町の屋根を淡い金色に染め、空の端にはやわらかな橙色が混じり始めていた。
こんな時間まで探していたんだ。
そう思いながら籠を持ち上げようとした、その時だった。
ちりん。
小さな音がした。
「あれ?」
アリアの手が止まる。
聞き間違いかと思った。
けれど、隣にいたルカの猫耳もぴくりと動いた。
マルルも長い耳を立てる。
「今、何か聞こえたなの」
アリアは籠から手を離した。
三人とも同じように耳を澄ませる。
ノルンも静かに周囲を見回していた。
しばらくして。
ちりん。
今度は、はっきり聞こえた。
どこか遠くではない。
頭の上から降ってきたような音だった。
「上……?」
アリアはゆっくり空を仰いだ。
朝から何度も見上げた空。
何度探しても、何もなかったはずの空。
けれど今は、朝とは違っていた。
夕暮れへ向かって青が少しずつ薄くなっている。
その中に。
一か所だけ。
周りと色の違うところがあった。
「空が……変」
「どこ?」
ルカも顔を上げる。
アリアは目を凝らした。
今度こそ見失わないように、その小さな違いを追う。
「あそこ」
指を伸ばす。
「少しだけ、色が違う」
ルカとノルンも、アリアの指した先へ目を凝らした。
最初は。
やはり何も見えなかった。
けれど、日がゆっくりと傾くほどに、周囲の空だけが少しずつ橙色を帯びていく。
その中で。
そこだけが変わらない。
朝と同じ青を残している。
「……あ」
ルカが小さく声を漏らした。
アリアにも、今度ははっきり見えた。
青の中に、小さな輪郭がある。
そして、その中心で。
淡い光を宿した何かが、静かに浮かんでいた。
「あれは……?」
アリアは思わず一歩前へ出る。
胸が急にどきどきし始める。
「もしかして、あれがそうなの?」
マルルが急いで胸元のコンパクトを開いた。
盤面の奥へ青白い光が灯る。
針が小さく震え、ゆっくりと盤面から浮かび上がると、迷うことなくアリアの指した場所へ向いた。
「欠片なの!」
その声に応えるように。
空の中の小さな光が、一度だけ瞬いた。
ちりん。
「あった……」
朝からずっと探していたもの。
飛んでも。
鐘楼へ上っても。
何度空を見上げても見つけられなかったものが、今、確かにそこにある。
アリアの顔いっぱいに笑顔が広がった。
「見つけた!」
思わず駆け出しかける。
けれど。
一歩踏み出したところで、足が止まった。
見つかった。
でも。
近づいたわけではない。
欠片は、あまりにも高い場所に浮かんでいた。
鐘楼の屋根よりもずっと上。
空を横切る鳥よりも高い。
今日、自分が精いっぱい飛んだ場所よりも、さらに遠い。
アリアの背中へ光が集まり始めた。
小さな羽が、透き通った大きな翼へ変わりかける。
今なら場所が分かる。
飛べば届くかもしれない。
そんな気持ちが胸の中へ一気に湧き上がった。
けれど、その隣へルカが立った。
「今日はやめよう」
アリアは欠片から目を離さないまま、羽の光を揺らした。
「でも……」
「飛ぶなら、ちゃんと行く方法を考えてからだよ」
朝。
少し高く飛んだだけでも、体がふらついた。
あの欠片は、その何倍も高いところにある。
アリアにも、それは分かっていた。
それでも。
やっと見つけた。
ここまで来た。
早く取りに行きたい。
胸の中へいくつもの気持ちが押し寄せ、アリアは白い羽のネックレスをぎゅっと握った。
「……集めないと」
欠片を見上げる。
あれを集めなければ。
次へ進めない。
「お父さんと、お母さんを見つけるんだから」
その言葉を聞いて、ノルンがアリアのそばへ膝をついた。
「では、みんなで考えましょう」
アリアが顔を向ける。
「アリア一人で届く方法ではなく、みんなで安全に届く方法を」
「僕も考えるよ」
ルカが笑う。
「マルルもなの!」
マルルも長い耳を大きく揺らした。
アリアは三人の顔を順番に見た。
自分だけで急がなくてもいい。
見つけたことは、もう消えない。
明日になっても、きっとあそこにある。
そう思うと、ネックレスを握っていた指から少しずつ力が抜けていった。
「うん」
背中へ集まっていた光も、ゆっくりといつもの小さな羽へ戻っていく。
その頭上で。
鈴の音が、もう一度だけ響いた。
ちりん。
朝には空と同じ色へ溶け込み、誰にも見つけられなかった最初の欠片。
それは夕暮れの空の中で。
今度は確かに、四人の目の前で淡く光っていた。




