第24話 1個めのカケラの行方
廊下の先から漂ってくる焼きたてのパンの香りに誘われるように、アリアたちは食堂へ向かっていた。
ついさっきまで三人だったはずなのに、今日はその隣をノルンが歩いている。
アリアは時々、つないだ手の先へ目を向けた。
ちゃんといる。
木箱から現れた不思議な少女が、自分たちと一緒に朝ごはんを食べに行こうとしている。
昨日までにはなかったことが、もう当たり前のように朝の中へ混ざり始めていることが、なんだか嬉しかった。
「いいにおい!」
食堂へ近づくほど香ばしい匂いが強くなり、アリアは思わず鼻をくんくんと動かした。
「今日はパンなの」
マルルの長い耳も、期待するようにぴんと立つ。
食堂へ入ると、シスターたちが焼き上がったばかりのパンを大きな籠へ移しているところだった。ふっくらと膨らんだ白いパンからはまだ湯気が立ち、その温かな匂いが朝の食堂いっぱいに広がっている。
「おはようございます!」
アリアが元気よく声を掛けると、シスターたちも笑顔で振り返った。
「おはようございます」
けれど、その視線がアリアたちの後ろにいるノルンへ移った途端、パンを運んでいたシスターの足がほんの一瞬だけ止まった。
昨日まではいなかった少女が、朝になったら一人増えている。
驚かない方が難しい。
向かいにいたシスターと顔を見合わせる気配に気づいたのか、ノルンは両手をそろえ、静かに頭を下げた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
少し遅れて返ってきた声に、年配のシスターが何も尋ねず、温かなスープの器を一つ増やした。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
そのさりげない気遣いに、ノルンはもう一度丁寧に頭を下げた。
四人が並んで席へ着くと、目の前には焼きたてのパンと野菜のスープ、それから小さな赤い果物が並んだ。
「いただきます!」
アリアが両手を合わせる。
「いただきます」
ルカとノルンも続き、マルルも二本の前足を胸の前へちょこんとそろえた。
アリアはさっそくパンへ手を伸ばしたけれど、その隣でノルンが白いパンを手に取るのが目に入った。
まだ熱の残る表面へ指を添え、ゆっくり二つに割る。
ふわりと立ち上った湯気が、ノルンの頬へ触れた。
そして、一口。
薄い皮が小さく音を立てる。
「……っ」
その瞬間、ノルンの手が止まった。
目の前の食堂が遠のくように、琥珀色の瞳が何か別のものを見つめ始める。
朝の光が差し込む、白い礼拝堂。
幾重にも重なる祈りの声。
雨に濡れた石畳を歩き、冷え切った指で教会の重い扉を押した日。
差し出された温かなスープと、今とよく似た香りのするパン。
鐘の音に見送られ、また次の町へ向かった朝。
旅の途中で出会った人と、同じ食卓を囲んで笑った夜。
そして、長い道の先で何度も見上げた、女神像の穏やかなまなざし。
一つだったはずの記憶が、そのパンの味をきっかけに、次から次へとつながっていく。
「ノルンお姉ちゃん?」
すぐそばから聞こえた声に、ノルンのまぶたがゆっくりと上がった。
アリアがパンを持ったまま、心配そうに顔をのぞき込んでいる。
「どうしたの?」
ノルンはしばらく答えず、手の中のパンへ視線を落とした。
「……この味です」
「このパン?」
「はい」
もう一度、小さくかじる。
今度は、確かめるようにゆっくりとかみしめた。
間違いない。
ずっと遠くへ沈んでいたはずの記憶が、今度は逃げていかなかった。
「旅をしていた頃、何度もいただきました。町へ着くたびに教会の扉をたたいて、食事と眠る場所を分けていただいて……」
パンを包む指先へ、わずかに力がこもる。
何も思い出せなかった朝とは違う。
今は、自分が歩いた道も、その途中で見た景色も、自分のものとして胸の中へ戻ってきている。
「思い出しました」
ルカが椅子を少し寄せた。
「記憶が戻ったの?」
「ええ。すべてではありませんが、ほとんどは」
ノルンは胸元へ手を添え、そこに戻ってきたものを一つずつ確かめるように目を閉じた。
「女神様のことも、この世界のことも、町から町へ旅をしていた日々のことも」
「よかった!」
アリアの声が、食堂いっぱいに弾んだ。
自分のことではないのに、思わず笑顔になる。
昨日までは名前さえ分からなかったノルンが、自分の歩いてきた道を思い出した。
それだけで、胸の奥へ明るいものが広がっていく。
ノルンもそんなアリアを見て、やわらかく目を細めた。
けれど、その手はまだ胸元から離れなかった。
「ただ、一つだけ……」
声が少しだけ小さくなる。
「どうしてわたしが、あの木箱の中で眠っていたのか。それだけが、どうしても見えないのです」
戻ってきた記憶の中に、そこだけ穴が空いている。
旅をしていた。
女神様を知っている。
この世界を歩いていた。
それなのに、最後にどうして木箱へたどり着いたのかだけが分からない。
ノルンはその空白を見つめるように、しばらく黙っていた。
ルカもすぐには何も言わず、手に持っていたパンを食べ終える。
それから、いつもの調子で口を開いた。
「じゃあ、それも探そう」
「え?」
ノルンが顔を上げる。
「僕たち、これからも旅をするんだから。途中で分かるかもしれないだろ」
あまりにも当たり前のように言われて、ノルンが目を瞬いた。
アリアもすぐに両手のパンを持ったまま身を乗り出す。
「うん! ノルンお姉ちゃんも一緒に行こう!」
昨日まで知らなかった相手なのに。
どこから来たのかも、まだ全部は分からないのに。
それでも二人にとっては、もう一緒に探せばいいことになっているらしい。
ノルンはしばらくアリアとルカを見つめていたが、やがてその頬へゆっくりと笑みが広がった。
「……ありがとうございます」
窓から差し込んだ朝の光が、四人の並ぶ食卓を明るく照らしていた。
◇
朝食を終えて部屋へ戻ると、マルルがふと思い出したように胸元のコンパクトへ前足を添えた。
「そういえばなの」
窓辺へ向かっていたノルンが足を止める。
「昨日、これが光ったなの」
「急に光って、針が真上を向いたんだよ」
アリアは昨日のことを思い出しながら、天井を指さした。
「教会の外にも出て探したんだけど、何もなかったの」
「教会の周りも見たけれど、それらしいものは見つからなかったんだ」
ルカの言葉を聞きながら、ノルンはマルルの前へ膝をついた。
「見せていただけますか?」
「いいなの」
マルルが小さな蓋を開く。
昨日は不思議な光を放っていたコンパクトも、今は何事もなかったように静かだった。
細い針は盤面の上へ横たわり、ぴくりとも動かない。
「こんな動きだったなの」
マルルは前足をくるくると回してみせる。
それから、その前足を真上へ伸ばした。
「くるくる回って、ぴん、なの」
ノルンが少し眉を寄せる。
「針が盤面から浮いたのですか?」
「うん」
アリアがうなずいた。
「ほんとに、上を向いたの」
ノルンはコンパクトへ顔を近づけ、盤面や針をじっと確かめた。
記憶が戻った今なら、何か分かるかもしれない。
アリアは期待するように、その横顔を見つめていた。
けれど、ノルンはしばらく考えたあと、静かに首を横へ振った。
「わたしも、そのような反応は見たことがありません」
「ノルンお姉ちゃんも知らないの?」
「はい。ですが……」
ノルンが言葉を続けようとした、その時だった。
盤面の奥に、淡い青白い光が灯った。
「あっ!」
「また光ったなの!」
マルルの声と同時に、光が前足の間からこぼれ始める。
細い針が小さく震え、やがて円を描くように回り始めた。
一度。
二度。
最初は迷うように動いていた針が、少しずつ速さを失っていく。
そして、ぴたりと止まった。
その次の瞬間、針の先端だけがふわりと盤面から持ち上がった。
アリアたちの目の前で、細い針がまっすぐ天井へ向く。
「昨日と同じだ」
ルカが椅子から立ち上がった。
アリアも針の先を追い、白い天井を見上げる。
「やっぱり上だね」
昨日見た時と何も変わらない。
この上に何かある。
そう言われているようなのに、見えるのはただの天井だけだった。
ノルンも立ち上がり、天井とコンパクトを何度か見比べる。
「女神様から授かった物が、意味もなく光るとは思えません」
「じゃあ、本当に上に何かあるなの?」
「少なくとも、何かを示しているのでしょう。ただ、この場所では針の先に天井があります」
ノルンは少し考えてから、扉へ目を向けた。
「場所を変えてみましょう」
今度は、天井のないところで確かめればいい。
その考えを聞くと、アリアの胸が少しだけ弾んだ。
昨日は分からなかったことが、今日は少し先へ進むかもしれない。
四人はコンパクトを開いたまま、教会の外へ向かった。
◇
重い扉を開けると、まぶしい朝の光が一斉に降り注いだ。
アリアは思わず目を細め、片手を額へかざした。
昨日の夜には星が浮かんでいた空が、今はどこまでも青く澄み渡っている。
白い雲が一つだけ、教会の屋根の向こうをゆっくりと流れていた。
マルルはコンパクトを前足で支えたまま、教会から少し離れていく。
一歩。
また一歩。
アリアたちもそのあとをついていった。
けれど、針は揺れなかった。
教会の屋根から離れても。
鐘楼の真下を外れても。
その先は、変わらずまっすぐ空へ向いたままだった。
ノルンが教会の屋根を振り返る。
「屋根ではないようですね」
「じゃあ……もっと上?」
アリアの顔が、ゆっくり上を向く。
「そうかもしれません」
ノルンも青空へ目を凝らした。
ルカは額へ手をかざし、コンパクトの針と空を交互に見る。
「空に何かあるってこと?」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの目が明るくなった。
「見てみる!」
二、三歩前へ駆けると、さっそく空を見回す。
右。
左。
それから真上。
今まで空を見上げたことは何度もある。
飛ぶ練習もしてきた。
けれど今日は、ただ空を見るのとは違った。
どこかに何かがあるはずだと思って探している。
「……どこ?」
青い空は、どこを見ても同じように見えた。
マルルもコンパクトを開いたまま、その場でくるりと向きを変える。
教会へ背を向けても。
横を向いても。
針は空を指し続ける。
「やっぱり上なの」
「鳥ならいるけど」
ルカが遠くを飛んでいく小さな影を見つける。
マルルの耳が横へ広がった。
「鳥じゃないなの」
「分かってるよ」
アリアはつま先立ちになり、少しでも高いところまで見えるように背伸びをした。
「うーん……」
もちろん、それで空へ近づけるわけではない。
それでも両腕まで上へ伸ばしながら、青の中を一生懸命に探す。
白い雲。
小さく飛んでいく鳥。
朝の光にかすむ、どこまでも続く青。
「何もないよ?」
目を凝らしすぎて少し痛くなった目を瞬かせながら、アリアは困ったように振り返った。
ルカもまだ空を見つめている。
「本当に、あそこなのかな」
針は迷っていない。
けれど、自分たちには何も見つけられない。
そのことが、アリアには少しだけもどかしかった。
けれど。
四人のはるか頭上。
誰も気づかないほど高い青空の中に、小さな欠片が浮かんでいた。
雲とともに流れることもなく、朝日を受けてもきらめかない。
空よりも、ほんの少しだけ淡い青。
アリアが目を凝らしている、そのさらに先で。
小さな欠片は青空へ溶け込み、誰にも見つからないまま、静かにそこに浮かんでいた。




