第23話 木箱の中
夜。
教会の小さな部屋には、アリアとルカ、それからマルルの寝息が静かに重なっていた。
窓の外では虫の声が途切れることなく続き、細く差し込んだ月明かりが、テーブルの上を淡く照らしている。
その光の中には、今日、蚤の市で見つけた木箱が置かれていた。
角の欠けた古い箱。
細かな傷の残る木肌。
ルカが直した蓋には、念のため開かないよう細いひもが巻かれている。
昼間、三人で何度ものぞき込んだ時には、何も入っていなかった。
けれど、誰も起きていない部屋の中で、蓋に刻まれた古い紋章がふわりと光った。
一度だけ淡く灯り、消えかける。
そして、もう一度。
まるで長い眠りの底で、ゆっくりと呼吸を始めたように、青白い光が紋章の奥で明滅した。
リン……。
どこか遠くから届いたような、小さな鈴の音が響く。
その音に合わせるように光が紋章からあふれ出し、木箱全体をやわらかく包み込んだ。
蓋を押さえていたひもが、誰の手も触れていないのに少しずつ緩んでいく。
するりとほどけたひもがテーブルへ落ちると、古びた蓋が音もなくわずかに持ち上がり、その隙間から淡い光が静かにこぼれた。
◇
「……ん」
アリアが、うっすらと目を開けた。
何かが光ったような気がした。
まだ眠りの中に半分残ったまま、枕へ頬をつけてテーブルの方を見る。
月明かりの中には、今日買った木箱が置かれている。
暗い部屋の中で目を凝らしてみたけれど、さっき感じた光はもうどこにも見えなかった。
「……気のせいかな」
アリアは眠そうに目をこすると、もう一度布団の中へ顔をうずめた。
すぐにまぶたが重くなり、部屋には再び小さな寝息だけが戻ってきた。
◇
朝。
白いカーテンを透かした朝の光が、部屋の中へやわらかく広がっていた。
「……おはよう」
アリアが目を開けると、隣のベッドに腰掛けていたルカが振り返った。
「おはよう、アリア」
「おはよう!」
アリアは勢いよく起き上がり、両腕を大きく伸ばす。
その腕が、途中でぴたりと止まった。
「あれ?」
昨日までは何もなかったテーブルのそばに、知らない少女が座っていた。
透き通るようなオパール色の髪は朝の光を受けて淡く揺れ、短く切りそろえられた前髪の下には、琥珀色の瞳が見える。
身につけているのは、今の町ではあまり見かけない、古い時代の旅人を思わせる飾り気のない服だった。
その人は両手を膝の上へそろえ、テーブルに置かれた木箱を静かに見つめている。
「…………」
アリアは瞬きをした。
一度。
もう一度。
それでも、その人は消えない。
少女もアリアの気配に気づいたのか、ゆっくり顔を上げた。
二人の視線が重なる。
アリアは声を出すことも忘れ、その人をじっと見つめた。
知らない人が部屋にいる。
怖い、と感じるより先に、どうしてここにいるのだろうという疑問の方が大きかった。
しばらくして、少女の目元がほんの少しだけやわらいだ。
「……天使族ですか」
澄んだ声が、静かな朝の部屋へ落ちる。
「ずいぶん、お久しぶりですね」
「……え?」
アリアが首をかしげた。
その声で、ルカもテーブルの方を見る。
「……!」
知らない人の姿を認めた瞬間、ルカはすぐにベッドを降り、アリアの前へ出た。
寝起きだった表情が一変し、猫耳もまっすぐ少女へ向いている。
その気配に目を覚ましたマルルも、長い耳をぴくりと動かすと、ルカの肩へ飛び乗った。
「知らない人なの」
「うん」
ルカは少女から目を離さないまま、小さく答えた。
アリアはルカの背中から、そっと顔をのぞかせる。
「……だれ?」
少女の唇がわずかに開いた。
けれど、すぐには言葉が出てこない。
胸元へ片手を添えたまま、何かを探すように目を伏せる。
「名前……」
小さくつぶやき、困ったように眉を寄せた。
「……思い出せません」
「忘れちゃったの?」
「はい」
少女は少し申し訳なさそうに笑った。
「長い間、眠っていたようです。もう少しで思い出せそうなのですが……」
ルカはアリアをかばうように立ちながらも、少しずつ少女の様子を見ていた。
こちらへ近づいてくる気配はない。
怒っているようにも見えない。
むしろ、自分でも何が起きているのか分からず戸惑っているようだった。
「昨日まで、この部屋にはいなかったよね」
「はい」
「じゃあ、どこから来たの?」
ルカに尋ねられ、少女はすぐそばに置かれた木箱へ目を向けた。
蓋へ巻かれていたはずのひもは緩み、木箱の横へ落ちている。
少女は、その古い蓋へ指先をそっと触れた。
「そこからです」
「え?」
三人の顔が、一斉に木箱へ向いた。
木箱を見る。
少女を見る。
そして、もう一度木箱を見る。
アリアは頭の中で、少女と小さな木箱の大きさを何度も比べた。
「……この箱から?」
半信半疑のまま確かめると、少女は静かにうなずいた。
「はい」
マルルがルカの肩からぐっと身を乗り出した。
「中、そんなに広くないなの」
「そうですね」
少女の口元へ、小さな笑みが浮かぶ。
「今は、とても小さく見えます」
「今は?」
「昔は……」
その指先が、蓋に刻まれた紋章の上で止まった。
琥珀色の瞳がかすかに揺れる。
何かを思い出しかけている。
アリアにも、そんなふうに見えた。
けれど、しばらくすると少女は小さく首を振った。
「いけません。また、遠くなってしまいました」
その声には、思い出せないことへの寂しさが少し混じっていた。
アリアはルカの背中から出ると、ゆっくり少女の前まで歩いていった。
知らない人。
木箱から出てきたという、不思議な人。
それでも、目の前で困っている顔を見ていると、怖いまま離れている気持ちにはなれなかった。
「おなまえ、思い出せないなら」
アリアは膝の上に置かれていた手へ、自分の小さな手を重ねた。
「一緒に探そう?」
少女の目が大きく見開かれた。
重なった小さな手を見てから、ゆっくりアリアの顔を見る。
「……ふふっ」
細い息と一緒に、初めて自然な笑みがこぼれた。
「ありがとうございます」
そう答えると、少女はもう一度目を閉じた。
「でも、もう少しだけ……」
額へ手を添え、今にもこぼれ落ちそうな記憶をつかまえようとするように眉を寄せる。
「……ノ」
小さな声が漏れた。
「ノ……」
「もうちょっと?」
アリアは少し身を乗り出して顔をのぞき込む。
「はい。あと少しなのですが……」
その時、マルルがルカの肩からテーブルへ飛び移った。
木箱の前へちょこんと座り、蓋の紋章をじっと見つめる。
「これも知ってるなの?」
前足で紋章へ触れた。
コン。
乾いた音が響いた瞬間、紋章の奥へ青白い光が灯った。
「……!」
少女が顔を上げた。
光を映した琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。
忘れていたものが、急に手の届くところまで戻ってきたようだった。
「ノルン……」
自分自身へ確かめるように、その名を口にする。
もう一度。
「わたしの名前は、ノルンです」
「ノルン?」
アリアが嬉しそうに繰り返した。
「はい。ノルンと申します」
「わたし、アリア!」
名前を思い出したことが自分のことのように嬉しくて、アリアはすぐに自分も名乗った。
「ルカだよ」
「マルルなの!」
次々に聞こえてくる名前を、ノルンは一つずつ確かめるように見つめていく。
「アリアさん。ルカさん。マルルさん」
ゆっくり口にしてから、丁寧に頭を下げた。
「お会いできて、うれしく思います」
顔を上げたノルンの視線が、アリアの胸元で止まった。
二枚の白い羽と、その間に揺れる青い石。
女神さまからもらった、大切なネックレス。
ノルンはそれを見た途端、まぶしいものを見るように目を細めた。
「やはり……女神様は、あなたを選ばれたのですね」
「女神様を知ってるの?」
アリアは驚き、胸元のネックレスを両手で持ち上げた。
「はい」
ノルンは木箱へ触れたまま、遠くを見つめるように目を伏せる。
「ずっと昔に、お会いしました」
「女神様と、おともだちなの?」
マルルが尋ねる。
「お友達……」
ノルンはその言葉を確かめるように、ゆっくり繰り返した。
やがて、少し懐かしそうに笑う。
「そう呼んでも、よいのかもしれません。とてもお世話になりました」
「やっぱり!」
アリアの声が弾んだ。
女神さまを知っている。
それだけで、さっきまで知らない人だったノルンとの距離が、一気に近くなったように感じた。
「女神様、すっごく優しいよ! わたしたちにも、おくりものをくれたの!」
アリアは白い羽のネックレスを持ったまま、ノルンの近くへ寄った。
「これ!」
ルカも首元の木のチョーカーへ手を添える。
「僕は、これをもらった」
「ぼくもなの!」
マルルが胸を張ると、額の青い宝石が朝日にきらりと光った。
ノルンは三人を順番に見つめた。
「どれも、女神様の光を宿していますね」
「宝物なの!」
「うん。ずっと大事にする!」
アリアが両手でネックレスを包む。
ノルンは何も言わず、その姿を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「きっと、お喜びになります」
その言葉を聞いたアリアは、女神さまの笑顔を思い浮かべて嬉しそうに笑った。
その時、扉が軽く叩かれた。
「皆さん、起きていますか?」
シスターの声だった。
「朝食の用意ができましたよ」
「はーい!」
アリアが元気よく返事をすると、扉が開いた。
「おはようございま……」
部屋へ入ってきたシスターの足が、途中で止まった。
ノルンを見る。
アリアたちを見る。
そして、もう一度ノルンを見る。
「あの……こちらの方は?」
「ノルンさん!」
アリアがにっこり笑った。
「さっき、おはようってしたの!」
「さっき……?」
シスターの眉がわずかに上がる。
「昨日は、いらっしゃいませんでしたよね?」
ノルンはすぐに立ち上がると、両手をそろえて丁寧に頭を下げた。
「突然お世話になります。ノルンと申します」
その所作につられるように、シスターも思わず背筋を伸ばした。
「ご丁寧に、どうも……」
けれど、すぐに首をかしげる。
「どちらから、いらっしゃったのですか?」
ノルンは隣の木箱へ手を向けた。
「そこからです」
「……そこ?」
「はい」
シスターの目が木箱へ向く。
「その、木箱から……?」
「はい」
シスターは木箱を見たまま、何度か瞬きをした。
それ以上どこから聞けばいいのか分からなくなったようだった。
ルカは片手で額を押さえ、マルルだけが真剣な顔でうんうんとうなずいている。
「ほんとなの」
「そ、そうですか……」
シスターは一度口を開きかけ、そっと閉じた。
しばらく考えた末に、まず今できることを選んだらしい。
「朝食が冷めてしまいますから、ひとまず食堂へ参りましょう。ノルンさんも、よろしければご一緒に」
「ありがとうございます」
「やった! 朝ごはん!」
アリアはそれまでの不思議な出来事をいったん全部忘れたように、嬉しそうに廊下へ飛び出した。
ルカとマルルもそのあとに続き、ノルンも静かに扉へ向かう。
けれど、敷居の前で足が止まった。
「……?」
ノルンは戸惑ったように足元を見る。
もう一歩踏み出そうとする。
けれど、つま先が先へ進まない。
衣服の裾だけが、見えない壁へ触れたようにわずかに揺れた。
ノルンは一度少し下がり、もう一度試す。
やはり同じところで止まる。
「ノルンさん?」
アリアが廊下から顔をのぞかせた。
「申し訳ありません。そこまで行けないようです」
「どうして?」
アリアは不思議そうに部屋へ戻る。
ルカはノルンの足元を見たあと、ゆっくり部屋の中へ視線を移した。
テーブルの上には、木箱が残されている。
「あ……木箱だ」
「木箱?」
「ノルンさん、あの箱から離れられないんじゃないかな」
アリアはすぐにテーブルへ戻り、木箱を両腕で抱えた。
「んんっ……」
何とか持ち上がる。
けれど、木箱は六歳のアリアが運び続けるには少し大きく、角が胸元まで隠してしまった。
一歩進むたびに体が左右へ揺れる。
「アリア、無理しないで」
「でも、これを持っていかないと……」
木箱の向こうから顔だけを出し、アリアはしばらく考えた。
どうすれば、ノルンも一緒に行けるだろう。
その目が、肩から下げている白いポシェットへ向く。
「あっ!」
アリアは木箱をいったんテーブルへ戻すと、ポシェットの口を開いた。
「これなら、入るかも!」
「こんなに大きいの、入るなの?」
「やってみる!」
アリアがポシェットを木箱へ近づける。
すると、白い光がふわりと広がった。
三人が見守る中、光に包まれた木箱が少しずつ小さくなっていく。
最後に蓋の古い紋章が一度だけ淡く輝き、木箱は音もなくポシェットの中へ消えた。
「入った!」
アリアは驚きと嬉しさが入り混じった顔で、両手を使ってポシェットの口を広げた。
中をのぞき込む。
ルカも隣から顔を寄せる。
「本当に入ったね」
「女神様のポシェット、すごいなの」
アリアはすぐにノルンのもとへ駆け戻った。
「ノルンさん、歩ける?」
ノルンはもう一度、敷居へ向かって足を出した。
今度は、何にも阻まれない。
一歩。
もう一歩。
そのまま廊下へ出ることができた。
ノルンは少し驚いたように自分の足元を見てから、胸元へ手を添え、静かに目を閉じる。
「……そこにあります」
その指先が、アリアのポシェットへ向いた。
「姿は見えませんが、木箱がすぐそばにあるのが分かります」
「じゃあ、これを持っていれば大丈夫?」
「はい。離れずに済みそうです」
ルカはアリアのポシェットを見てから、ノルンへ顔を向けた。
「それなら、僕たちと一緒に旅もできるね」
ノルンの目が、わずかに見開かれた。
アリアはその言葉を聞くなり、すぐにノルンの前へ回り込んだ。
そして、小さな手を差し出す。
「一緒に行こう!」
ノルンは、その手を見つめた。
ついさっきまで、自分の名前さえ思い出せなかった。
どこから来たのかも、なぜ木箱にいたのかも分からない。
そんな自分へ、目の前の小さな天使は迷うことなく手を差し出している。
しばらくして、ノルンはその手をそっと握った。
「よろしいのですか?」
「うん!」
「マルルもいいなの!」
マルルも嬉しそうに耳を揺らす。
ルカも小さく笑った。
「一人増えても、きっと大丈夫だよ」
ノルンの指が、アリアの小さな手をやさしく包む。
「それでは、しばらくご一緒させてください」
「うん! ノルンお姉ちゃん!」
「……お姉ちゃん」
ノルンはその呼び方を確かめるように、小さく繰り返した。
琥珀色の瞳が、ゆっくりとやわらかく細められる。
その時だった。
ぐうう……。
静かな廊下に、かわいらしい音が響いた。
ルカとマルルが、そろってアリアのお腹を見る。
アリアは、ノルンとつないでいない方の手でお腹を押さえた。
「……朝ごはん、行こう!」
その一言で、さっきまでの不思議な出来事も少しだけ日常へ戻った。
廊下の先から漂ってくる焼きたてのパンの香りを追いながら、アリア、ルカ、マルル、そして新しく加わったノルンは、一緒に食堂へ向かって歩き始めた。




