第22話 リーネの街
朝。
教会の鐘が、やさしく鳴っていた。
その音に誘われるように、アリアはゆっくり目を開ける。
窓から差し込む朝日が、白い毛布の上を明るく照らしていた。
「おはよう」
ルカの声が聞こえる。
もう着替えを済ませ、荷物をまとめているところだった。
「おはよう!」
アリアは勢いよく起き上がる。
今日はリーネへ行く日。
そう思うだけで、眠気なんてどこかへ飛んでいってしまった。
急いで服を着ようとして、ふと白いポシェットが目に入る。
「あ」
昨日のノート。
アリアはポシェットからそっと取り出した。
花の刺繍が入った布張りの表紙を開く。
一ページ目。
少し曲がっているけれど、自分で書いた文字がそこにあった。
アリア
指で、ゆっくりとなぞる。
「えへへ」
昨日も見たのに。
今朝も見たくなった。
ちゃんと書けている。
それだけで、胸がぽかぽかした。
「そのノート、気に入ったんだね」
ルカが笑う。
「うん!」
アリアは大きくうなずいた。
「何回見ても、うれしい」
ノートを閉じると、また大切にポシェットへしまう。
「行こう!」
◇
三人は礼拝堂で朝のお祈りを済ませると、玄関へ向かった。
シスターが、小さな封筒を手に待っていた。
「こちらが、リーネの教会への紹介状です」
「ありがとうございます」
ルカは両手で受け取ると、折れないように荷物へしまう。
シスターは三人へやさしく微笑んだ。
「リーネは、とても大きな町ですよ」
「大きい町!」
アリアの目が輝く。
「お店もいっぱいありますし、人もたくさんいます」
「わあ……」
まだ見てもいない町なのに、頭の中へどんどん景色が浮かんでくる。
どんな町なんだろう。
パン屋さんもあるのかな。
広場はあるかな。
シスターは少しだけ空を見上げた。
「そうそう」
「リーネには、昔からこんな言い伝えがあるんですよ」
「言い伝え?」
「空から鈴の音が聞こえることがあるそうです」
アリアは思わず空を見上げた。
青い空。
白い雲。
鳥が一羽、ゆっくり飛んでいく。
耳を澄ませてみる。
聞こえてきたのは、小鳥のさえずりと、風が木を揺らす音だけだった。
「鈴って、どんな音なんだろう」
思わずつぶやく。
「誰にでも聞こえるわけではないそうですよ」
「でも……」
シスターはアリアを見つめる。
「アリアさんなら、聞こえるかもしれませんね」
「ほんと?」
アリアはもう一度空を見上げた。
今はまだ何も聞こえない。
でも、リーネへ着いたら聞こえるのかな。
そう思うだけで、胸が少しだけ弾んだ。
「聞こえたら教えるね!」
「ええ。楽しみにしています」
シスターは一歩下がり、三人へ一礼した。
「どうぞ、お気を付けて」
「いってきます!」
アリアは大きく手を振る。
ルカとマルルも頭を下げる。
三人は朝日に包まれた街道へ、一歩踏み出した。
朝の街道は、昨日の雨がうそのようによく晴れていた。
草の先で、朝露がきらりと光る。
アリアは小さな水たまりを見つけるたびに、ぴょん、と飛び越えて歩いた。
「あとどれくらい?」
「もう近いと思うよ」
ルカが前を見ながら答える。
その時だった。
「あっ!」
アリアが足を止める。
街道のずっと先。
灰色のものが空へ向かって高く伸びていた。
「ルカ!」
「あれ……」
ルカも目を細める。
「城壁だ」
「お城!?」
「町を囲む壁だよ」
歩くたびに、その壁はどんどん大きくなっていく。
近づけば近づくほど、その高さがよく分かった。
「おっきい……」
アリアは思わず立ち止まる。
見上げても、てっぺんが遠い。
「村より大きいなの」
マルルも耳をぴんと立てて見上げた。
やがて、大きな門が見えてくる。
荷馬車が何台も並び、人が行き交い、門番たちが一人ひとり声を掛けていた。
「いっぱい人がいる」
アリアは思わずルカの袖をつまむ。
知らない人ばかり。
少しだけ緊張した。
「大丈夫」
ルカが小さく笑う。
「教会まで行けば、きっと安心だから」
アリアはこくりとうなずいた。
順番が来ると、門番が三人へ笑顔を向けた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
アリアも慌てて頭を下げる。
ルカは荷物から紹介状を取り出した。
「ベルナ教会から来ました」
門番は封筒に押された教会の印を確かめると、うなずいて返した。
「ありがとうございます」
「お名前だけ、こちらへお願いします」
差し出された木の板には、たくさんの名前が並んでいた。
ルカは鉛筆を受け取り、自分の名前を書く。
それを見ていたアリアは、胸が少しどきどきした。
「アリアも書いてみる?」
「……うん」
昨日の夜も書いた。
今朝もノートを見た。
大丈夫。
鉛筆を持ち、ゆっくり線を引く。
あ。
一文字目は、昨日よりうまく書けた。
落ち着いて。
あと少し。
最後の文字を書き終える。
アリア
「書けた!」
思わず声が弾む。
門番ものぞき込み、にっこり笑った。
「上手ですね」
アリアは照れくさそうに笑う。
その隣で、マルルが前足を上げた。
「ぼくも書くなの!」
「マルルも?」
「書けるなの!」
鉛筆へ飛びつこうとして。
ころん。
体ごと転がった。
「あはは!」
アリアが吹き出す。
ルカも笑いながら抱き上げた。
「マルルはもう少し大きくなってからだね」
「むぅ……」
耳がしょんぼり垂れる。
「じゃあ、ぼくが代わりに書くよ」
ルカは最後に「マルル」と書き添えた。
「これでみんな一緒」
「一緒なの」
今度は耳がぴんと立った。
門番は木の板を受け取り、町の中を指さす。
「教会は、このまま真っすぐですよ」
「ありがとうございます!」
三人は門をくぐった。
一歩。
また一歩。
その瞬間だった。
「わあ……」
アリアは思わず立ち止まった。
昨日まで歩いていた町と、何もかも違う。
道は全部石。
建物は空へ届きそうなくらい高い。
窓には赤や黄色の花。
パンを焼く匂い。
遠くから聞こえる金づちの音。
人の笑い声。
馬のひづめ。
いろんな音が重なっているのに、不思議と嫌じゃない。
町が、生きていた。
「ルカ」
アリアはきょろきょろと辺りを見回す。
「どこを見たらいいか分かんない」
ルカが笑う。
「ぼくも」
三人は顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑い出した。
「まずは教会だね」
「うん!」
三人は白い鐘楼を目印に、大きな町の中を歩き始めた。
教会を目指して歩いていると、建物と建物の間から、白い塔が顔をのぞかせた。
「あっ!」
アリアは立ち止まる。
「あれ!」
ルカも顔を上げた。
「鐘楼だ」
屋根の上へ、まっすぐ空へ伸びている。
歩くたびに、その塔は少しずつ大きくなっていった。
角を曲がる。
次の通りへ出る。
また見上げる。
「まだ大きくなる」
アリアは思わず笑った。
近づけば近づくほど、塔は空へ伸びていく。
「どこまであるんだろう」
「近くで見たら、もっと大きいかもね」
「ほんと?」
アリアは小走りになった。
「転ばないでよ」
「はーい!」
やがて建物が途切れる。
その向こうに、大きな広場が広がっていた。
「わあ……」
広場の奥には、白い石で造られた教会が堂々と建っている。
何本もの柱。
高い鐘楼。
朝日を受けたステンドグラスが、宝石みたいにきらきら輝いていた。
アリアは思わず見上げる。
首をぐっと後ろへ倒しても、てっぺんが遠い。
「すごい……」
昨日泊まった教会とは、まるで違う。
大きくて、静かで。
町のみんなを見守っているみたいだった。
「入ろうか」
ルカが言う。
「うん」
三人は重い木の扉の前へ立つ。
ルカが両手で押すと、
ぎい……。
ゆっくり扉が開いた。
外のにぎやかな音が、すっと遠ざかる。
ひんやりした空気が頬をなでた。
「わあ……」
アリアは思わず声を小さくする。
高い、高い天井。
何列も並ぶ長い椅子。
色とりどりの光が、床へ落ちている。
赤。
青。
金色。
ステンドグラスを通った光だった。
アリアは足元へ落ちた青い光の上へ、そっと立ってみる。
靴まで青く染まった。
「ルカ、見て」
「ほんとだ」
ルカも笑う。
「きれいだね」
アリアは一歩。
また一歩。
歩くたびに、赤い光になったり、金色になったりする。
「光の上を歩いてるみたい」
マルルも肩から飛び降りる。
「ぼくもなの!」
青い光へぴょん。
赤い光へぴょん。
「色が変わるなの!」
その様子を見ていた受付のシスターが、くすりと笑った。
「おはようございます」
アリアは少し照れながら頭を下げる。
「お、おはようございます」
ルカは紹介状を取り出した。
「ベルナ教会から来ました」
シスターは封筒を受け取り、その場で静かに目を通す。
読み終えると、三人へ穏やかな笑顔を向けた。
「遠いところを、ようこそ」
「お部屋へご案内しますね」
三人はシスターの後について歩き始めた。
歩きながらも、アリアは何度も振り返る。
さっきまで立っていた青い光。
赤い光。
金色の光。
床の上で静かに揺れている。
「またあとで来よう」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
その言葉に、ルカが静かにうなずいた。
「うん」
「夜は、また違って見えるかもしれないね」
石の階段を上り、シスターの後をついて歩く。
廊下へ出ると、アリアは思わず足を止めた。
「あれ?」
床が、ところどころ光っている。
窓から差し込んだ朝日が、四角い形になって並んでいた。
アリアはそっと、その上へ立ってみる。
「ぽかぽか」
靴の先が明るく光った。
もう一つ。
ぴょん。
また一つ。
ぴょん。
「アリア」
ルカが振り返る。
「置いていくよ」
「待って!」
アリアは慌てて駆け寄った。
シスターがくすっと笑う。
「朝は、この廊下がきれいなんですよ」
アリアはもう一度だけ後ろを振り返った。
床に並んだ光が、きらきらと揺れている。
「また帰るときに歩こう」
「帰るまで残ってるかな?」
「……なくなっちゃう?」
アリアは少しだけ残念そうな顔をした。
「大丈夫ですよ」
シスターは窓を見上げて微笑む。
「夕方になると、今度は反対側から光が入るんです」
「ほんと?」
「はい。朝とはまた違う景色になりますよ」
「見たい!」
その一言に、シスターはうれしそうにうなずいた。
しばらく歩くと、一枚の木の扉の前で足を止める。
「こちらがお部屋です」
扉が開く。
「わあ……」
昨日より少し広い部屋だった。
壁際には三つのベッド。
窓のそばには木の机と椅子。
アリアは部屋へ入ると、まっすぐ窓へ駆け寄った。
「見て!」
窓の外には、町の屋根がずっと向こうまで続いている。
煙突から白い煙が上がり、その向こうでは教会の鐘楼が青空へ伸びていた。
「こんなに遠くまで見える!」
ルカも窓の横へ並ぶ。
「本当に大きな町なんだね」
下を見ると、人が次から次へと通りを歩いている。
荷車を引く人。
花を抱えた女の人。
かごいっぱいのパンを運ぶおじさん。
「みんな忙しそう」
「町だからね」
そのときだった。
ぐぅぅぅ……
静かな部屋に、お腹の音が響いた。
アリアはぴたりと動きを止める。
ルカと目が合う。
「……聞こえた?」
「うん」
ルカが吹き出した。
「朝ご飯、早かったからね」
アリアも照れくさそうに笑う。
すると、廊下へ出かけていたシスターが、ちょうどお盆を持って戻ってきた。
「あら」
やさしく笑う。
「昼食の準備ができましたよ」
「ほんと?」
アリアのお腹が、まるで返事をするようにもう一度鳴った。
今度はルカだけじゃなく、シスターまで笑ってしまった。
荷物を部屋へ置くと、ルカは扉を閉めた。
「町へ行く前に、お金を確認しておこう」
「うん」
アリアは椅子へ腰を掛ける。
マルルも机の上へぴょんと飛び乗った。
ルカはポシェットから革袋を取り出し、中身を机へ並べていく。
「これが旅のお金」
銅貨が小さな音を立てて並んだ。
アリアは身を乗り出す。
「いっぱいある?」
ルカは首を横に振る。
「たくさんあるわけじゃないよ」
「だから、本当に必要な物を買うようにしよう」
「うん」
アリアは真剣な顔でうなずいた。
マルルも隣でこくこくとうなずく。
「むだづかい、だめなの」
三人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、扉がこんこんと鳴る。
「失礼します」
シスターが籠を抱えて入ってきた。
「町へ行かれると伺いましたので、お昼をご用意しました」
布をめくると、焼きたてのパンと果物がきれいに並んでいる。
「わあ!」
アリアの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
ルカが受け取ると、シスターはにっこりと微笑んだ。
「歩きながらでも召し上がれるようにしました」
「助かります」
ルカは大切そうに籠を受け取る。
シスターは思い出したように続けた。
「そうそう」
「今日は町の広場で、蚤の市が開かれているんですよ」
「のみのいち?」
アリアは首をかしげた。
マルルも同じように首をかしげる。
「のみ、なの?」
シスターは目線を合わせるように少しかがんだ。
「古くなった物や、誰かが大切に使っていた物を持ち寄って売る市です」
「新しい物ばかりのお店とは少し違うんですよ」
「いろいろな物が並ぶので、見て歩くだけでも楽しいと思います」
「へぇ……」
アリアの頭の中には、もうたくさんのお店が並び始めていた。
「何があるのかな」
「行ってみれば分かるよ」
ルカが笑う。
「うん!」
アリアは元気よくうなずいた。
白いポシェットを肩に掛ける。
マルルはいつものようにルカの肩へぴょんと飛び乗った。
「それでは、いってらっしゃい」
「いってきます!」
三人はシスターへ手を振ると、教会をあとにした。
重い木の扉が開く。
町のにぎやかな音が、一気に耳へ飛び込んできた。
アリアは思わず笑顔になる。
「どこから見よう!」
ルカは町の地図をちらりと見てから、広場の方向へ目を向けた。
「まずは蚤の市へ行ってみようか」
「うん!」
三人は人でにぎわう通りへ足を踏み出した。
教会を出ると、人の流れがさっきよりも増えていた。
荷車が通り過ぎる。
パン屋さんの前には行列。
どこからか楽しそうな音楽まで聞こえてくる。
アリアは歩きながら、あっちを見て、こっちを見る。
「あっ!」
花屋さんの前で足が止まる。
赤い花。
青い花。
黄色い花。
見たこともない形の花まで並んでいた。
「きれい……」
もう少し近くで見ようとした、その時。
「アリア」
「……はっ」
振り返ると、ルカが少し先で立ち止まっている。
「ごめん!」
小走りで追いかける。
けれど今度は、お菓子屋さん。
窓いっぱいに並んだ焼き菓子から、甘い香りが漂ってきた。
「いい匂い……」
思わず立ち止まる。
「アリア」
「ご、ごめん!」
また走る。
ルカは笑って振り返った。
「今日は忙しいね」
「だって、全部初めてなんだもん」
アリアは照れ笑いを浮かべた。
そのとき、肩の上のマルルが耳をぴくりと動かす。
「なんかにぎやかなの」
前の方から、大勢の話し声が聞こえてきた。
人の流れも、みんな同じ方へ歩いている。
「広場かな」
ルカもその先を見る。
角を曲がると、一気に視界が開けた。
「わあっ!」
思わず声が出た。
広い石畳の広場いっぱいに、お店が並んでいる。
布を広げただけのお店。
木の台を並べたお店。
大きな荷車がお店になっているところもある。
売っている物もばらばらだった。
古い本。
木のおもちゃ。
食器。
ランプ。
帽子。
ぬいぐるみ。
「これが……」
アリアは目を丸くする。
「蚤の市」
ルカもうれしそうに笑った。
「すごいね」
アリアはゆっくり歩き出す。
お店の人たちは、「見ていって!」「掘り出し物だよ!」と声を掛けている。
アリアは一つひとつのお店をのぞき込みながら歩いた。
「これ、お人形かな」
手のひらくらいの木の人形。
片方の腕がなくなっている。
「こっちは?」
古いオルゴール。
ねじはあるけれど、音は鳴らない。
その隣には、小さな木箱がいくつも積まれていた。
「箱がいっぱい」
アリアがしゃがみ込もうとすると、
「お嬢ちゃん」
店番のおじいさんがにこりと笑った。
「気になる物があったかい?」
アリアは並んだ木箱を見回す。
どれも古くて、少し傷だらけ。
アリアは並んだ木箱を一つひとつ見ていく。
四角い箱。
丸い箱。
ふたに花が彫ってある箱。
金具がぴかぴか光る箱。
「いろんな箱があるね」
「ほんとだ」
ルカもしゃがみ込んだ。
おじいさんはうれしそうに箱を並べ替える。
「どれも古い品だけどな。まだ使える物ばかりだよ」
アリアはそっと一つ手に取った。
ふたを開ける。
中は空っぽ。
隣の箱も開けてみる。
こちらも空だった。
元の場所へ戻そうとして、箱を少し持ち上げた。
「あれ?」
箱の陰に、もう一つ小さな木箱が隠れていた。
誰かが重ねた箱の奥に押し込まれていて、半分しか見えていない。
「こんなところにもある」
アリアは両手で引っぱり出した。
ころり、と軽い音がする。
「ずいぶん古いね」
ルカがのぞき込む。
角は少し欠けていた。
木には細かな傷がいくつもある。
金具も黒っぽくくすんでいる。
アリアは箱をくるりと回した。
「……あ」
ふたが少し浮いている。
「壊れてる」
開けようとしてみる。
「ん……」
力を入れても動かない。
「開かないの?」
ルカが受け取る。
金具を確かめ、ふたをそっと持ち上げようとする。
「無理に開けると、割れそうだ」
アリアは少し残念そうに木箱を見つめた。
「何が入ってたんだろう」
「さあ」
ルカは首をかしげる。
「でも、このままじゃ開けられないね」
その様子を見ていたおじいさんが笑った。
「その箱か」
「それだけは、ずっと開かなくてな」
「直そうとした人もいたんだが、みんな途中で諦めちまった」
アリアはもう一度木箱を見つめる。
古くて。
傷だらけで。
誰も見向きもしないような箱。
それなのに、なぜだろう。
棚へ戻そうとしても、手が離れなかった。
「……これ」
アリアはルカを見上げる。
「直したら、使えるかな」
ルカは木箱を受け取り、いろいろな角度から眺める。
壊れているのは金具ではない。
木が少し割れ、ふたが歪んでいる。
ゆっくり指でなぞると、小さくうなずいた。
「うん」
「パパにもらった道具がある」
「接着剤も買えば、直せると思う」
アリアの表情がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「たぶんね」
おじいさんは腕を組みながら笑った。
「もし直せるんなら、その箱も喜ぶだろう」
そして、人差し指を一本立てた。
「その木箱は、銅貨一枚でいいよ」
アリアは思わずルカを見上げた。
ルカは小さく笑ってうなずく。
「買おうか」
その言葉に、アリアは木箱を胸へぎゅっと抱きしめた。
ルカは革袋から銅貨を一枚取り出し、おじいさんへ渡した。
「毎度あり」
おじいさんは木箱を見つめて、少し目を細める。
「大事にしてやってくれ」
「うん!」
アリアは力強くうなずいた。
木箱をそっと抱き直す。
思っていたより軽い。
それでも、なんだか大切なものを抱えているような気がした。
「じゃあ、接着剤を探そう」
ルカが辺りを見回す。
「木工道具を売っている店なら、この町にもあるはずだ」
「接着剤なの!」
マルルも肩の上で耳をぴんと立てる。
三人はおじいさんへもう一度お礼を言うと、店をあとにした。
アリアは木箱を落とさないように、両手で大事に抱える。
「接着剤って、すぐ見つかるかな」
「木工のお店ならあると思うよ」
ルカは通りを見回した。
少し歩くと、小さな木の看板が目に入る。
棚や椅子の絵が描かれていた。
「あそこかな」
三人は店へ入る。
店の中には、木の香りが広がっていた。
壁には、のみや小刀。
棚には木ねじや金具がきれいに並んでいる。
「こんにちは」
奥から白いひげのおじさんが顔を出した。
「何かお探しかい?」
「木を直す接着剤はありますか」
ルカが尋ねる。
「あるよ」
おじさんは棚から小さなビンを取り出した。
「これなら細かい割れもくっつく」
ルカはビンを受け取り、木箱へそっと当ててみる。
「これで大丈夫そう」
「銅貨二枚だよ」
ルカは革袋から銅貨を取り出して渡した。
「ありがとうございます」
ビンを荷物へしまうと、アリアはほっと息をつく。
「これで直せるね」
「教会へ帰ったらやってみよう」
「うん!」
木箱を抱く腕に、少しだけ力が入る。
マルルが肩の上で耳をぴんと立てた。
「ぼく、おなかすいたなの」
アリアは思わず笑った。
「あっ、そうだった」
さっきシスターにもらった籠を見下ろす。
「お昼食べよう!」
ルカもうなずいた。
「広場なら座れる場所がありそうだ」
三人は広場の噴水のそばまで歩いてきた。
縁石には何人もの人が腰を掛け、おしゃべりをしながら昼食を食べている。
「ここならいいかな」
ルカが言う。
「うん!」
アリアは木箱を膝の上へそっと置いた。
シスターからもらった籠を開ける。
布をめくると、焼きたてのパンと赤い果物が顔をのぞかせた。
「いただきます!」
三人はそろって手を合わせる。
パンをひと口かじる。
外は少しかたく、中はふんわりとしていた。
「おいしい」
アリアが笑う。
ルカもうなずきながらパンをちぎる。
「歩くと、おなかがすくね」
マルルは両前足で果物を抱えると、小さくかじった。
「しゃくっ」
かわいらしい音がして、アリアは思わず吹き出す。
「おいしいなの!」
口のまわりを果汁でぬらしながら、マルルは夢中で食べている。
「そんなに急がなくてもなくならないよ」
ルカが布を差し出す。
「ふける?」
「ありがとうなの」
マルルは顔をごしごしと拭いた。
昼の広場には、楽しそうな笑い声が響いている。
近くでは大道芸人が玉乗りを披露し、その周りには子どもたちの輪ができていた。
「あっ!」
アリアが思わず立ち上がる。
「すごい!」
細い棒の上で、色とりどりの玉がくるくると回る。
子どもたちから大きな拍手が起こった。
アリアも夢中で手をたたく。
「上手だね」
「うん!」
しばらく見ていたが、ルカが空を見上げた。
「そろそろ戻ろうか」
アリアも同じように空を見る。
太陽は少し西へ傾き始めていた。
「木箱も早く直したいしね」
その一言で、アリアは膝の上の木箱を見つめる。
「うん!」
大事そうに抱き上げる。
「早く開くといいな」
三人は広場をあとにし、教会への道を歩き始めた。
教会へ向かって歩き出すと、アリアは腕の中の木箱をそっと見下ろした。
「早く直したいな」
「ぼくも、どんな箱か気になる」
ルカが笑う。
「開くといいなの」
マルルも肩の上で耳をぴんと立てた。
三人は通りを抜け、広場を横切る。
ふと、教会の鐘楼が見えた。
「あっ、あそこだ」
アリアが指をさす。
「もうすぐだね」
教会へ戻ると、さっきのシスターが入口で花壇に水をやっていた。
「あら、お帰りなさい」
「ただいま!」
アリアは笑顔で駆け寄る。
「いい物は見つかりましたか?」
アリアは胸の前へ木箱を持ち上げた。
「これ!」
シスターは木箱を見つめ、やさしく微笑んだ。
「かわいらしい木箱ですね」
「壊れてたんだけどね」
ルカがビンを見せる。
「接着剤も買ってきました」
「そうでしたか」
シスターはうなずいた。
「直るといいですね」
「うん!」
アリアは大きくうなずいた。
三人は部屋へ戻る。
机の上へ木箱をそっと置くと、ルカは木工道具を取り出した。
小さなのこぎり。
細いのみ。
やすり。
そして、今日買ってきた接着剤のビン。
アリアは机の向かいへ座る。
「手伝えることある?」
ルカは木箱を手に取りながら笑った。
「じゃあ、道具を取ってもらおうかな」
「うん!」
アリアはうれしそうに身を乗り出した。
マルルも机の上へ飛び乗る。
「ぼくも手伝うなの!」
「マルルは……」
ルカは少し考えて笑う。
「応援係」
「応援なの!」
マルルは胸を張る。
アリアは思わず吹き出した。
部屋に、小さな笑い声が広がった。
ルカは木箱を静かに手に取り、ゆっくりと修理を始めた。
ルカは木箱を膝の上へ置いた。
「まずは、この割れ目からだね」
細い木べらで、割れ目に挟まった古い汚れをそっと取り除いていく。
アリアは机の上へ道具を並べた。
「次はこれ?」
「うん。その細い布を取って」
「はい」
ルカは布で木くずをぬぐう。
割れ目がきれいになると、ビンのふたを開けた。
「ちょっとにおいがするよ」
「ほんとだ」
アリアは鼻をひくひくさせる。
少しつんとしたにおいだった。
ルカは細い棒の先へ少しだけ接着剤をつける。
割れ目へゆっくり塗り込み、木を元の形へ押し戻した。
「ここを押さえててくれる?」
「うん!」
アリアは両手で木箱をそっと押さえる。
「これくらい?」
「そのままで大丈夫」
マルルは机の端へちょこんと座った。
じっと見ていたけれど、やがて小さな声で言う。
「ぼく、応援するなの」
前足を胸の前でぎゅっと握る。
「がんばれなの」
アリアは思わず笑った。
「ありがとう」
しばらくすると、ルカが木箱をのぞき込む。
「もういいかな」
アリアは手を離した。
木箱はちゃんと元の形に戻っている。
「すごい」
アリアの目が輝く。
「ほんとに直っちゃった」
「まだ終わりじゃないよ」
ルカは金具を確かめながら、小さく笑った。
「開くかどうかは、これから」
三人は顔を寄せ合う。
アリアは、ごくりとつばを飲み込んだ。
ルカはふたへそっと手を掛ける。
「開くかな」
ゆっくりと持ち上げる。
さっきまでびくともしなかったふたが、
こん、と小さな音を立てて浮き上がった。
「開いた!」
アリアが思わず声を上げる。
ルカはふたをゆっくり開いていく。
三人は息をのんで中をのぞき込んだ。
そこには、
何も入っていなかった。
「……空っぽ」
アリアが小さくつぶやく。
マルルも箱の中をのぞき込む。
「ほんとになにもないなの」
ルカは箱の底を軽く指でなでる。
隠し箱がないか、側面も静かに確かめる。
けれど、どこにも仕掛けは見当たらない。
「普通の木箱みたいだね」
アリアは少しだけ残念そうに笑った。
「でも」
木箱をそっとなでる。
「直ってよかった」
その言葉に、ルカも静かにうなずいた。
アリアは木箱のふたを閉じる。
こん。
今度は、気持ちよく閉まった。
「さっきと全然違う」
何度か開けたり閉めたりしてみる。
かたくもない。
引っかかりもしない。
「ちゃんと開くね」
「うん」
ルカもほっとしたように笑う。
「うまく直ってよかった」
アリアは木箱を大事そうに抱える。
「ありがとう、ルカ」
「どういたしまして」
マルルもぴょんと飛び上がった。
「ルカ、すごいなの!」
ルカは少し照れくさそうに頭をかく。
「パパに教えてもらったから」
その言葉に、アリアは木箱を見つめた。
「パパも喜ぶかな」
「きっとね」
ルカは静かにうなずく。
「『ちゃんと直せたな』って言ってくれると思う」
アリアはうれしそうに笑った。
木箱を机の上へそっと置く。
そのときだった。
こんこん。
部屋の扉が鳴る。
「失礼します」
シスターが顔をのぞかせた。
「夕食の準備ができましたよ」
「はーい!」
アリアは元気よく返事をする。
三人は部屋を出る前に、木箱をもう一度見た。
「ここで待っててね」
アリアは小さく話しかけるように言うと、ふたをそっとなでた。
木箱は何も答えない。
それでも、なんだか少しだけうれしそうに見えた。
三人は部屋の明かりを消し、扉を閉める。
夕暮れ色に染まり始めた廊下を歩き、食堂へ向かった。
三人は食堂へ向かうと、シスターたちが迎えてくれた。
「木箱は直りましたか」
席へ着く前に、シスターが声を掛ける。
アリアはうれしそうにうなずいた。
「うん! ルカが直してくれたの」
「それはよかった」
シスターは目を細める。
「古い物は、手を掛けてあげれば、また長く使えますからね」
ルカは少し照れくさそうに笑った。
「パパに教えてもらったことを思い出しながらやってみました」
「きっと、そのお父さんも喜ばれますね」
その言葉に、アリアとルカは顔を見合わせて笑った。
夕食は温かい野菜のスープと焼きたてのパンだった。
一日歩き回ったあとの食事は、いつもよりおいしく感じる。
「町は、楽しめましたか?」
シスターが尋ねると、アリアは待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「すっごく楽しかった!」
「お花もあったし、お菓子屋さんもあったし、広場にはお店がいーっぱい並んでたの!」
話し始めると止まらない。
マルルも負けじと前足を上げる。
「木箱も見つけたなの!」
「接着剤も買ったなの!」
シスターたちが思わず笑う。
「マルルさんも、楽しかったようですね」
「楽しかったなの!」
ルカはそんな二人を見ながら、静かにパンを口へ運ぶ。
その表情は穏やかだった。
夕食を終えると、シスターたちや神父が立ち上がる。
「それでは、今日も礼拝堂でお祈りをいたしましょう」
「はい」
三人も椅子から立ち上がる。
食堂を出る前に、アリアは窓の外へ目を向けた。夕焼けはもうほとんど消え、濃い青色の空に最初の星が光っている。
教会で祈れば、女神さまや先生に会えるかもしれない。
アリアはルカとマルルのそばへ駆け寄ると、二人と一緒に礼拝堂へ向かった。
礼拝堂へ入ると、昼間とは違う静けさが三人を包んだ。
祭壇の上では何本ものろうそくが小さな炎を揺らし、そのやわらかな明かりが白い壁を淡く照らしている。
アリアたちは空いている席へ並んで座ると、静かに手を組んだ。
祈りが終わると、神父は静かに顔を上げた。
「今日も一日、無事に過ごせたことへ感謝しましょう。どうぞ、ゆっくりお休みください」
「おやすみなさい」
シスターたちは穏やかにほほえみながら礼拝堂をあとにする。
アリアたちも立ち上がったが、すぐには後を追わなかった。
神父は振り返り、やさしくほほえむ。
「もう少しお祈りをしていきますか」
「うん」
アリアがうなずくと、神父は小さく頭を下げた。
「それでは、お先に失礼します」
三人もぺこりと頭を下げる。
「おやすみなさい」
最後にシスターが扉を静かに閉めると、礼拝堂にはアリアたちだけが残った。
さっきまで聞こえていた足音も遠ざかり、広い礼拝堂は水を打ったように静まり返る。
ろうそくの炎だけが、ゆらりと揺れている。
アリアは祭壇を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「……今日も会えないのかな」
誰かの声は聞こえない。
聞こえるのは、ろうそくの火がかすかに揺れる音と、夜の教会を渡る風だけだった。
アリアはそっと目を閉じる。
(女神さま。)
(先生。)
(今日も会えるかな。)
木箱を見つけたこと。
ルカがきれいに直してくれたこと。
町がとてもにぎやかだったこと。
伝えたいことが、今日はたくさんあった。
けれど、どれくらい時間が過ぎただろう。
礼拝堂は静かなままだ。
アリアはゆっくり目を開け、小さく息を吐いた。
「……今日は会えないのかな」
その声は、静かな礼拝堂へ溶けるように消えていく。
しばらく、誰も動かなかった。
そのときだった。
マルルの胸元で、小さな光がふわりと灯る。
「……!」
三人は同時に顔を上げた。
コンパクトが淡い青い光を放っている。
針がゆっくりと動き始めた。
北でもない。
南でもない。
くるり、くるりと向きを変えながら回り続け、やがてぴたりと止まる。
その先が示していたのは、真上だった。
「上……?」
アリアは思わず天井を見上げる。
高いアーチ状の天井。
色鮮やかなステンドグラス。
その向こうには、分厚い屋根があるだけだ。
「屋根の上かな」
ルカもコンパクトと天井を見比べながら首をかしげた。
アリアはもう一度コンパクトへ目を落とす。
針はぴくりとも動かず、真上を指したままだった。
「外から見てみよう」
三人は礼拝堂を出て、教会の外へ回る。
夜風が頬をやさしくなで、見上げると鐘楼が夜空へ高く伸びていた。
アリアは屋根の上へ目を凝らした。
十字架の周り。
鐘楼の窓。
塔の先まで、何度も見回してみる。
ルカも辺りを見渡し、マルルは耳をぴんと立てて気配を探した。
「何もないね……」
「見えないなの」
三人は教会の周りをぐるりと歩いてみたが、それらしいものはどこにも見つからない。
しばらくすると、コンパクトの光は静かに弱まり、やがて何事もなかったように消えてしまった。
ルカは小さく息を吐く。
「今日は分からないね」
アリアは少しだけ残念そうに夜空を見上げた。
「また明日、探そう」
「うん」
三人は顔を見合わせてうなずくと、静かな教会の中へ戻っていった。
◇
その頃。
誰もいない部屋では、昼間ルカが修理した木箱が、テーブルの上に静かに置かれていた。
窓から差し込む月明かりだけが、部屋を淡く照らしている。
そのとき。
木箱の蓋に刻まれた古い紋章が、
ふっ。
ほんの一瞬だけ、淡い光を放った。
次の瞬間には、その光も静かに消え、部屋には再び静寂だけが戻る。
その小さな変化に気づく者は、まだ誰もいなかった。




