第21話 はじめての文字
三人がベルナ村の教会へたどり着いた頃には、あれほど激しく降っていた雨もすっかり上がっていた。
濡れた石畳には夕暮れの光が映り、歩くたびに靴の下で残った水が小さく跳ねる。家々の軒先からはまだ雫が落ちていたが、空の西側には雲の切れ間が広がり始め、雨上がりの村を淡い金色に染めていた。
教会の前で足を止めたアリアは、自分の白いマントを見下ろした。
雨の中をずっと歩いてきたというのに、布はさらりと乾いたままで、裾にも泥一つ残っていない。
「ほんとに、きれい」
アリアはまだ少し不思議そうにマントを撫でると、丁寧に畳んで白いポシェットへしまった。
隣ではルカも自分のマントを片づけている。その手元を見ていたアリアは、教会の扉へ目を移したところで、ふと大切なものを思い出した。
「紹介状」
「ああ」
ルカもすぐに気づき、首元へ手を添えた。
淡い光が一瞬だけ揺れ、ストレージから一通の封筒が現れる。前の教会で預かった紹介状は、雨に降られたことなど分からないほどきれいなままだった。
「よかった」
アリアがほっとしたように笑う。
「大事なものだからね」
ルカは封筒を両手で持ち直すと、木の扉の前へ進んだ。
知らない教会の扉を叩くのは、これで三度目になる。
最初の町では、教会の扉の前に立っただけで、何をしたらいいのか分からなくてどきどきした。
でも今は、紹介状を渡して、「泊めてもらえますか」と聞けばいいことを知っている。
ちゃんと覚えていたことが、少し嬉しかった。
アリアはそのことを特別意識したわけではなかった。
ただ、自然にルカの隣へ立った。
「行こう」
「うん」
ルカが扉を叩く。
コン、コン。
しばらくすると、向こう側から足音が近づいてきた。
やがて木の扉が開き、白い修道服をまとったシスターが顔をのぞかせる。
「あら」
夕暮れの中に立つ三人を見ると、すぐにやさしく微笑んだ。
「旅の方ですね」
「はい!」
アリアが元気よく返事をすると、ルカが一歩前へ出た。
「前の教会から預かってきました」
紹介状を差し出す。
「お願いします」
「ありがとうございます」
シスターは両手で受け取り、封を確かめると、三人へ穏やかにうなずいた。
「少々お待ちくださいね」
「はい」
シスターが教会の奥へ入っていくと、三人は扉の前で待った。
アリアは石畳に残った水たまりへ映る夕空を見たり、屋根の端から落ちる雫を目で追ったりしながら、ときどき教会の中へ視線を向ける。
今日も泊めてもらえるかな。
そんな気持ちが少しだけ胸をよぎったが、不安でいっぱいになることはなかった。
隣にはルカがいて、足元ではマルルが長い耳を揺らしている。もし何か困ることがあっても、三人で考えればいい。
旅へ出てから覚えたことが、少しずつアリアの中へ積み重なり始めていた。
ほどなくしてシスターが戻ってくる。
「お待たせしました。どうぞ、お入りください」
今度は扉が大きく開かれた。
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
「ありがとうなの!」
三人はそろって頭を下げ、教会の中へ足を踏み入れた。
今日も、自分たちで眠る場所までたどり着けた。
ちゃんと覚えていたことが嬉しくて、アリアは紹介状を渡した時のことを思い出しながら、少し弾むような足取りで礼拝堂へ入っていった。
◇ ◇ ◇
ベルナ村の礼拝堂は、昨夜泊まった教会より少し広かった。
長椅子の数も多く、祭壇もひと回り大きい。高い窓から差し込んだ夕暮れの光が床へ長く伸び、雨上がりの外とは違う、やわらかな温かさに包まれていた。
アリアはシスターについて歩きながら、あちらこちらへ目を向ける。
「ちょっと広いね」
「うん。昨日の教会より大きいね」
ルカも祭壇を見上げた。
二人の会話を聞いていたシスターが、振り返って微笑む。
「ベルナ村は街道沿いにありますから、旅の方もよく立ち寄るんですよ」
「旅の人、いっぱい来るの?」
「ええ。商人の方もいますし、遠くの町へ向かう方もいらっしゃいますよ」
アリアは少し驚いたように周りを見回した。
ここにも、自分たちと同じように長い道を歩いてきた人が泊まる。
疲れて教会へ来て、ご飯を食べて、また次の日には別の場所へ向かっていく。
アリアは、昨日まで歩いてきた街道を思い出した。
自分たちも、明日になればまたここを出て、次の場所へ向かう。
そう思うと、なんだか少し嬉しかった。
シスターに案内されて礼拝堂の奥へ進み、廊下の一番奥にある扉を開ける。
「今夜はこちらを使ってください」
部屋の中には、小さなベッドが三つ並んでいた。窓際には机と椅子があり、その上には黄色い花が一輪、小さな花瓶へ飾られている。
「ありがとうございます」
ルカが頭を下げる。
「夕食までは、まだ少し時間がありますから、ゆっくり休んでいてくださいね」
「はい!」
アリアも元気よく返事をしたが、シスターが部屋を出ようとしたところで、何かを思い出したように目を丸くした。
「あっ!」
ルカが振り返る。
「どうしたの?」
「お勉強!」
「ああ」
ルカも思い出したように笑った。
「文字の本だね」
「うん!」
アリアは白いポシェットを開き、中へ手を入れた。
取り出したのは、花の刺繍が入った布張りの小さな本だった。
最初の教会を旅立つ朝、シスターからもらった文字を覚えるための本。
町から町へ進みながら、それぞれの教会で少しずつ文字を教えてもらう。
そう聞いてから、アリアはいつ始められるのか楽しみにしていた。
「これ!」
両手で大切そうに持ち上げる。
「最初の教会でもらったの」
「まあ」
シスターは本を見て、嬉しそうに目を細めた。
「とても素敵ですね」
「うん」
アリアは胸へ抱き寄せる。
「大事なの」
まだ何も書いていない本だった。
けれど、これから知らない文字を覚え、いつか自分で手紙を書けるようになるのだと思うと、白いページまで特別なものに見えてくる。
シスターは少し考えると、部屋の机へ目を向けた。
「ここでもできますけれど、食堂のほうが明るくて書きやすいですよ」
「今からできる?」
「もちろん」
「やる!」
迷いのない返事に、ルカが笑った。
「休むんじゃなかったの?」
「お勉強してから休む」
「元気だね」
「だって、楽しみだったもん」
アリアが本を抱えたまま笑うと、シスターも楽しそうに微笑んだ。
「それでは、一緒に行きましょうか」
「はい!」
三人は荷物を置き、シスターのあとについて食堂へ向かった。
◇ ◇ ◇
食堂には、まだ夕方の明るさが残っていた。
窓から差し込んだやわらかな光が木のテーブルへ落ち、外では雨に濡れた葉から雫が静かにこぼれている。
アリアはシスターの向かいへ座ると、布張りの本を机へ置き、そっと表紙を開いた。
真っ白なページが現れる。
「鉛筆はありますか?」
「ある!」
アリアは白いポシェットへ手を入れ、小さな鉛筆を一本取り出した。
そして、そのまま右手でしっかりと握りしめる。
シスターはアリアの手元を見ると、くすりと笑った。
「最初は、みんなそうやって持つんですよ」
「そうなの?」
「ええ。でも、少し持ち方を変えると、もっと書きやすくなります」
シスターは自分の鉛筆を手に取り、親指と人差し指、それから中指でそっと支えるように持ってみせた。
アリアはその手を見る。
自分の手を見る。
もう一度、シスターの手を見る。
「こう?」
ぎゅっと握っていた指をゆるめ、同じ形にしようとした。
けれど、今度は力を抜きすぎたのか、鉛筆が指の間から滑り落ちた。
ころころと机の上を転がっていく。
「あっ」
ルカの肩が少し揺れた。
アリアが振り向く。
「笑った?」
「少しだけ」
「むぅ」
頬を膨らませたものの、シスターが鉛筆を拾って差し出すと、すぐに受け取った。
「もう一回」
「ええ。急がなくても大丈夫ですよ」
今度は落とさないように気をつけながら、それでも握りしめないように、指の位置を一つずつ合わせていく。
何度か持ち直したあと、ようやく鉛筆が手の中へ落ち着いた。
アリアは動かさないようにしながら、そっと顔を上げる。
「できた」
「はい。とても上手ですよ」
たった鉛筆を持てただけなのに、褒めてもらうと少し嬉しい。
アリアはもう一度、自分の指の間にある鉛筆を見た。
これを使って、文字を書く。
そう思うと、さっきまでただの細い木の棒だったものが、急に大事な道具になったように感じられた。
「今日は、自分のお名前を書いてみましょう」
「わたしの名前?」
「ええ」
シスターはアリアの本を少し自分の方へ寄せると、白いページへゆっくりと一文字を書いた。
ア。
「これは『ア』です。アリアさんの『ア』ですよ」
アリアは紙の上に現れた文字をじっと見つめた。
「わたしの?」
「そうですよ」
アリアは思わず自分の胸へ手を当てた。
これまで文字を目にしても、意味の分からない形が並んでいるようにしか見えなかった。
けれど、今目の前にある一文字は、自分の名前の最初の音だった。
「アリアの、ア」
小さく繰り返す。
さっきまで知らなかった形なのに、自分のものだと言われた途端、忘れたくないと思った。
「書いてみますか?」
「うん」
アリアは鉛筆を持ち直した。
見本を見る。
白いページを見る。
どこから手を動かせばいいのか分からず、一度だけ鉛筆が止まった。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
シスターの声に、アリアはこくりとうなずいた。
鉛筆の先を紙へ置き、見本と同じように最初の線を引く。
けれど、思っていたよりずっと難しかった。
まっすぐ動かしたつもりなのに、線が少し曲がっている。
「あ……」
アリアの手が止まった。
失敗したような気がして、曲がった線をじっと見る。
「大丈夫ですよ」
シスターは消そうとはせず、その線を一緒に見た。
「初めて書いたんですもの。そのまま続けてみましょう」
「……うん」
アリアはもう一度見本を見ると、次の線を引いた。
今度は少し短い。
最後の一画も、ほんの少し傾いた。
それでも三本の線を書き終えてみると、そこには見本とよく似た形ができていた。
「……ア」
アリアの声が少し明るくなる。
「アになった」
「ええ。ちゃんと『ア』ですよ」
シスターが微笑む。
アリアは自分で書いた文字をしばらく眺めた。
きれいではない。
少し曲がっている。
それでも、自分の手で書いた最初の文字だった。
「次も書く」
「それでは、今度は『リ』ですね」
シスターが次の見本を書く。
アリアはすぐに鉛筆を持ち直した。
一文字ずつ、見本と紙を行ったり来たりしながら、ゆっくりと線を引いていく。
途中で形が分からなくなると手を止め、もう一度見本を確かめる。力が入りすぎて鉛筆の先が紙へ濃く残ったり、反対に薄くなったりしながら、それでも少しずつ文字が増えていった。
いつの間にかルカもマルルも静かになっていた。
誰も急かさない。
アリアが鉛筆を動かす、小さな音だけが机の上で続いている。
やがて最後の一画を書き終えると、アリアはそっと鉛筆を置いた。
力を入れていたせいか、右手の指先が少しだけ疲れている。
けれど、そんなことはすぐに気にならなくなった。
目の前のページには、少し曲がり、大きさもそろっていない三つの文字が並んでいる。
ア リ ア
アリアはしばらく動かなかった。
シスターの見本を見る。
自分の文字を見る。
もう一度、見本を見てから、自分の書いた三文字へ目を戻す。
「……わたしの名前」
そっと指を伸ばし、最初の文字へ触れた。
一文字ずつ、確かめるようになぞっていく。
「ア」
次の文字へ指を動かす。
「リ」
そして最後。
「ア」
名前はずっと知っていた。
みんなが呼んでくれるし、自分でも言える。
けれど、自分の手で書いた名前を目の前にすると、今までとは少し違って見えた。
紙の上へ残っている。
自分が書いたのだ。
アリアはゆっくりと顔を上げる。
「わたし……」
少し弾んだ声がこぼれる。
「わたしの名前、書けた!」
顔いっぱいに笑顔が広がった。
シスターも目を細める。
「はい。自分のお名前が書けましたね」
「うん!」
アリアはすぐにノートへ目を戻した。
さっきよりも、三つの文字がずっと大切なものに見える。
「ルカ、見て!」
「見てるよ」
「アリアって書いてある!」
「うん」
「わたしが書いたの!」
ルカは自分も嬉しいように笑った。
「ちゃんと読めるよ」
「読める?」
アリアの目がまた少し大きくなる。
「うん」
ルカは最初の文字を指さした。
「ア」
次の文字。
「リ」
最後。
「ア」
そして、もう一度三文字を見る。
「アリア」
アリアは嬉しそうに笑った。
自分が書いたものを、誰かが読める。
たったそれだけのことが、今はとても不思議だった。
マルルも机へ前足を掛け、ノートをのぞき込む。
「これが、アリアなの?」
「そう!」
「この三つで?」
「うん!」
マルルはしばらく文字とアリアを見比べた。
「不思議なの」
「わたしも不思議」
アリアも笑う。
シスターはそんな三人を見ながら、穏やかに口を開いた。
「このページは、大切に残しておいてくださいね」
「どうして?」
「いつか、もっとたくさん文字を書けるようになった時に見返したら、今日、自分のお名前を初めて書いた時のことを思い出せますから」
アリアはもう一度ノートへ目を落とした。
雨の中を歩いたこと。
ベルナ村へ着いたこと。
この教会へ来たこと。
初めて鉛筆を持ったこと。
思ったように線が引けなくて、少し困ったこと。
それでも最後には、ちゃんと自分の名前になったこと。
アリアはページの端を、汚さないようにそっと押さえた。
「大事にする」
「ええ」
シスターは嬉しそうにうなずいた。
「今日はここまでにしましょう。これから少しずつ、いろいろな文字を覚えていきましょうね」
「もう終わり?」
「最初からたくさん書いたら、指が疲れてしまいますよ」
言われて、アリアは鉛筆を握っていた右手を見た。
指を開いたり、握ったりしてみる。
「……ちょっと疲れた」
「でしょう?」
ルカが笑う。
「文字を書くのも疲れるんだね」
「うん」
アリアは少し考えてから、シスターを見た。
「歩くのと同じ?」
「そうかもしれませんね」
シスターは微笑んだ。
「一度に全部できなくても、少しずつ続ければ、いつか遠くまで進めますよ」
アリアは自分で書いた三文字を見た。
今日は、ここまで。
明日は、また続きを覚えればいい。
「うん」
大きくうなずくと、最後にもう一度だけ自分の名前を見てから、本を大切に閉じた。
花の刺繍を指先でそっと撫で、白いポシェットへしまう。
しまい終えたあとも、アリアは一度だけその上へ手を添えた。
◇ ◇ ◇
夕食の時間になると、木のテーブルには焼きたてのパンと温かな野菜のスープが並んだ。
雨の中を歩き、慣れない鉛筆を握っていたせいか、アリアは思っていたよりもお腹が空いていた。
三人で手を合わせる。
「いただきます」
アリアは湯気の立つスープをひと口飲んだ。
温かな野菜の味が喉を通り、少し冷えていた体の中へゆっくり広がっていく。
「おいしい」
思わず顔がほころんだ。
「雨の日って、やっぱりちょっと寒くなるね」
「マントがあっても、空気まで暖かくなるわけじゃないからね」
ルカもスープを飲みながら答えた。
「でも、服が濡れなかったから助かったよ」
「うん」
アリアは白いポシェットへちらりと目を向けた。
マントも。
その中にしまった文字の本も。
旅へ出る前には、自分が今日こんなふうに使うことになるなんて思ってもいなかった。
「女神さまに、ありがとうって言わなくちゃ」
アリアが言うと、ルカも静かにうなずいた。
その横では、マルルがパンを両前足で押さえ、夢中になって食べている。
「おいしいなの!」
「マルル、聞いてた?」
「聞いてるなの」
そう答えながらも、口は止まらない。
アリアとルカは顔を見合わせ、思わず笑った。
夕食を食べながらも、アリアは何度かポシェットへ目を向けた。
中には、自分が初めて書いた名前がある。
それを思い出すたびに、口元が少しずつ緩んでしまう。
◇ ◇ ◇
夕食を終えると、三人は礼拝堂へ向かった。
外はもう暗く、雨上がりの夜空が高い窓の向こうに広がっている。祭壇にはろうそくが灯り、小さな炎が静かな礼拝堂の中でゆっくりと揺れていた。
アリアは祭壇の前へ立つと、胸の前で両手を組んだ。
今日は女神さまへ話したいことがたくさんある。
雨のこと。
マントのこと。
ベルナ村まで歩いてきたこと。
けれど、目を閉じた途端、一番最初に口から出てきたのは、やっぱり自分の名前のことだった。
「女神さま」
アリアの声は、少しだけ弾んでいた。
「今日ね、わたし、自分の名前が書けたの!」
隣に立つルカの口元が、ほんの少し緩む。
アリアは気づかないまま続けた。
「アリアって書いたの。ちょっと曲がっちゃったけどね」
自分で書いた三つの文字を思い出すと、また嬉しくなってくる。
「でも、ルカもちゃんと読めたんだよ」
静かな礼拝堂へ、アリアの声がやわらかく広がっていった。
しばらく返事はなかった。
それでもアリアは気にする様子もなく、もう一つ伝えたかったことを話し始める。
「それからね、今日は雨もいっぱい降ったの。でも、マントのおかげで全然ぬれなかったよ」
ルカも祭壇へ目を向けた。
「本当に助かりました」
その時、祭壇のろうそくが、風もないのにふわりと大きく揺れた。
アリアが目を開く。
次の瞬間、静かな礼拝堂の中へ、聞き覚えのあるやわらかな声が届いた。
『よく頑張りましたね』
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「女神さま!」
姿は見えなかった。
それでも、その声が誰なのかはすぐに分かった。
「聞いてた?」
『ええ。初めて書いたお名前、大切にしてくださいね』
「うん!」
アリアは何度もうなずいた。
「ずっと大事にする!」
少し間があり、女神さまの声がもう一度届く。
『マントも、お役に立てたようでよかったです』
「すごかったよ!」
アリアは思わず両手を広げた。
「雨がね、ころころって落ちるの。泥もぜんぜん付かなかった!」
話しながら、マントの上を雨粒が転がっていった様子を思い出したのか、楽しそうに笑う。
『それなら安心ですね』
「うん!」
ルカも静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
『これからも、一つずつ、できることを増やしていってくださいね』
その言葉を聞き、アリアは今日のことを思い出した。
最初は鉛筆をうまく持つことさえできなかった。
線も曲がった。
けれど、一文字書いて、また一文字書いて、最後にはちゃんと「アリア」になった。
アリアは胸の前で組んでいた手へ少しだけ力を込めた。
「うん。一つずつ」
『ええ』
その言葉を最後に、女神さまの声は聞こえなくなった。
祭壇のろうそくは、何事もなかったように静かに揺れている。
アリアはしばらく祭壇を見つめていたが、やがて満足したように笑った。
「女神さまにも言えた」
「よかったね」
「うん!」
三人はそろって祭壇へ頭を下げ、礼拝堂をあとにした。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻る途中も、アリアの足取りはまだ軽かった。
「明日はリーネだね!」
「うん。今度こそ大きな町だね」
ルカが答えると、アリアはすぐに昨日聞いたものを思い出した。
「噴水!」
「やっぱりそれなんだ」
「パン屋さんも!」
「そっちもだったね」
「ぼくは、おいしいものなの!」
マルルまで嬉しそうに跳ねる。
「マルルはずっとそれだね」
「大事なの!」
アリアの笑い声が、夜の廊下へやさしく響いた。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻って寝支度を終えても、アリアはすぐにはベッドへ入らなかった。
白いポシェットを膝へ置き、中から花の刺繍が入った本をもう一度取り出す。
「また見るの?」
ルカが自分のベッドから笑った。
「うん」
アリアは迷わず答え、本をそっと開いた。
夕方に書いたページには、少し曲がり、大きさもそろっていない三つの文字が、そのまま残っている。
ア リ ア
当たり前のことなのに、消えずに残っているのが嬉しかった。
アリアは最初の文字へそっと指を置く。
「ア」
次の文字へ動かす。
「リ」
そして最後。
「ア」
三文字を順番になぞってから、もう一度最初から見た。
「アリア」
今度は、自分で読めた。
アリアは嬉しそうに笑った。
「もう覚えた?」
ルカが尋ねる。
「うん。これがアで、これがリ。それで、これもア」
指で一つずつ示していく。
「正解」
「えへへ」
アリアはしばらく自分の名前を眺めていたが、やがてページの先へ視線を移した。
まだ真っ白なところがたくさん残っている。
「明日は、何を書くのかな」
「次の教会でも教えてもらえるといいね」
「うん」
アリアは本を閉じると、表紙の花の刺繍を指先でそっと撫でた。
「大事にする」
夕方、シスターへ言ったのと同じ言葉だった。
今度は誰に聞かせるでもなく、自分へ約束するような小さな声だった。
本を白いポシェットへ戻し、ようやくベッドへ入る。
「おやすみ」
「おやすみ!」
「おやすみなの」
マルルも布団の上で小さく丸くなった。
部屋の灯りが消えると、窓の外には雨上がりの夜空が広がり、雲の切れ間からいくつもの星が静かに瞬いていた。
アリアは布団へ横になり、目を閉じる。
今日覚えたばかりの三つの文字が、もう一度頭の中に浮かんできた。
ア。リ。ア。
「……えへへ」
小さな笑い声がこぼれた。
今日初めて自分の手で書いた名前は、たった三文字だった。
けれど、その三文字を書けたことが嬉しくて、明日はもう少し先まで知りたいと思える。
旅へ出てから、アリアは毎日少しずつ新しいことを覚えていた。
歩き方も。
雨の日の進み方も。
知らない教会の扉を叩くことも。
そして今日は、自分の名前を書くことを覚えた。
明日は、何を知るのだろう。
そんなことを考えているうちに、アリアのまぶたはゆっくりと重くなっていった。
白いポシェットの中には、花の刺繍が入った小さな本がある。
その最初のページには、少し曲がった三つの文字が、アリアが初めて自分の手で残した小さな宝物として、静かに並んでいた。
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