第19話 小さな旅人
西へ傾いた太陽が、街道の先を赤く染め始めていた。
朝から歩き続けてきたアリアの足は、さっきから少しずつ重くなっている。昼に一度、ルカの背中へ乗って走ったとはいえ、そのあともずっと自分の足で歩いてきたのだから、疲れないはずがなかった。
それでも、道端に見たことのない花を見つければ目を向け、鳥が草むらから飛び立てば、その行方を追うように空を見上げる。
ただ、朝のように見つけたものへすぐ駆け寄る元気までは、もう残っていなかった。
ルカも同じだった。
まだ歩けないほどではないけれど、いつの間にか何度も街道の先へ目を向けるようになっている。
昼間に出会った荷馬車の男性は、このまま歩けば日が暮れる前には着けるだろうと言っていた。ただ、あまりのんびりしていれば、門が閉まる時間に間に合わなくなるかもしれないとも。
その言葉が、ずっと頭の片隅に残っていた。
「まだかなあ」
アリアがぽつりと呟いた。
「もう少しだと思うよ」
「さっきもそう言ったよ?」
「……言ったね」
ルカも苦笑する。
その時だった。
「あっ!」
突然アリアが足を止め、街道の先を指差した。
夕暮れの霞の向こうに、低い柵と小さな門が見えている。そのさらに奥には、いくつもの家の屋根が寄り添うように並び、細い煙が夕空へ向かってゆっくりと立ち上っていた。
「見えた!」
ついさっきまで重かったはずの足が、急に軽くなったらしい。
「ルカ、見えたよ!」
「うん。見えてる」
ルカも目を細めた。
「思ってたより小さいね。村みたいだ」
「村?」
「うん。家もそんなに多くなさそう」
アリアはもう一度、夕暮れの向こうに見える屋根を眺める。
「でも、泊まれるところあるかな?」
「教会があれば大丈夫だと思う」
そう答えてから、ルカは小さく息を吐いた。
村が見えた途端、それまで胸の隅に引っ掛かっていたものまで、ようやくほどけていくようだった。
「……よかった」
「なにが?」
「ちゃんと着けたから」
口にしてみて初めて、自分が思っていた以上に心配していたことに気づいた。
もし門が閉まっていたら、どうすればいいのか。外で夜を越すことになるのか、それとも暗くなってから、さらに先の町まで歩かなければならないのか。
昨日までなら、シリルがきっと何とかしてくれただろう。
けれど今日は、自分たちだけだった。
それでも、ちゃんとここまで来ることができた。
アリアはそんなルカの顔を見て、にこっと笑った。
「じゃあ急ご!」
「走らなくていいよ」
「でも閉まる!」
「もう見えてるんだから大丈夫」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「アリア、走らない」
「はぁい」
返事をした直後には、もう半歩ほど前へ出ている。
ルカは笑いながら歩幅を少し広げ、その肩ではマルルまで村を見つめながら長い耳を楽しそうに揺らしていた。
「着いたなの!」
「まだ門の外だよ」
「もう着いたの!」
「じゃあ、もうちょっとだけ頑張ろう」
「うん!」
三人が門へたどり着いた時、門番らしい年配の男性が、ちょうど片側の扉へ手を掛けたところだった。
「こんばんは!」
アリアが元気よく声を掛けると、男性は驚いたように振り返り、それから三人の姿を見て笑った。
「こんばんは。ぎりぎりだったな」
「ぎりぎり?」
「もう少ししたら、門を閉めるところだったよ」
アリアとルカが顔を見合わせた。
次の瞬間。
「間に合ったぁ……」
アリアは胸へ両手を当て、大きく息を吐いた。
その姿にルカも笑いながら、それでも胸の中では同じようにほっとしていた。
朝から自分たちだけで歩いてきた一日の道が、門をくぐったことで、ようやく一つ終わったような気がした。
◇ ◇ ◇
村は、街道沿いに家々が集まった小さな場所だった。
夕暮れとともに窓へ灯りがともり始め、どこかの家からは鍋の蓋を開ける音まで聞こえてくる。焼いたパンの香ばしい匂いに、煮込み料理らしい温かな香りまで風へ混じり、一日中ひらけた街道を歩いてきた三人には、それだけで人の暮らしの中へ戻ってきたような安心感があった。
大きな店が並んでいるわけでもなく、通りを歩く人もそれほど多くない。
それでも、誰かの家へ帰る足音や、窓の向こうから聞こえてくる話し声があるだけで、不思議とほっとした。
「教会、どこだろう」
アリアが辺りを見回す。
村へ入る前には、小さな鐘楼らしいものが見えた気がしたけれど、家々の間へ入ってしまうと、どちらにあったのか分からなくなっていた。
「誰かに聞こうか」
「うん!」
そう言った、ちょうどその時だった。
通りの向こうから、一人の青年がこちらへ歩いてくる。
濃い緑色の上着を着て、肩には小さな荷物を掛けていた。旅人にも見えるし、村の外から帰ってきた若者にも見える。
アリアの目がぱっと輝いた。
「あの人!」
「え、ちょっと」
ルカが止めるより早く、アリアは小走りで青年の方へ向かっていった。
「あの!」
声を掛けられた青年が振り返る。
「…………」
エリオだった。
その瞬間、今朝のシリルの声が、頭の中へ鮮明によみがえった。
姿を見せない。
手を貸さない。
見失わない。
目の前にはアリアがいて、何の疑いもない青い瞳で自分を見上げている。
エリオの背中を、ひやりと冷たいものが走った。
待て。
違う。
自分から姿を見せたわけではない。
向こうから来た。
これは不可抗力だ。
そうだ。
団長。
これは絶対に不可抗力です。
「あの?」
黙ったままの青年を見て、アリアが不思議そうに首を傾げる。
「……あっ」
エリオは慌てて平静な顔を作った。
「どうしたの?」
「教会って、どこですか?」
よりによって、道案内だった。
手を貸さない。
いや、道を聞かれて答えることまで「手を貸す」に入るのか。
普通の旅人なら答える。ここで突然知らないふりをしたり、不自然に立ち去ったりした方がよほど怪しい。
エリオの頭の中を、ものすごい勢いで言い訳が駆け抜けていく。
「教会……だね」
「はい!」
「ええと」
少し考えたあと、村の奥へ続く道を指差した。
「この道をまっすぐ行って、あそこの大きな木を右へ曲がれば、小さな教会があるよ」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった!」
アリアがぱっと笑った。
「ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げたところへ、ルカも追いついてくる。
「すみません。ありがとうございました」
「いやいや」
エリオは、なるべく普通の旅人らしい顔で頷いた。
「気をつけて」
「ありがとうなの!」
「…………」
今度は、白いロップイヤーにまで普通に礼を言われた。
一瞬だけ固まりかけたものの、何とか耐える。
三人は教えてもらった道へ向かって歩き始めた。
「大きい木だって!」
「聞こえてたよ」
「右なの!」
楽しそうな声が遠ざかっていく。
エリオはそのまま反対方向へ何歩か進み、角を曲がって三人の視界から完全に外れたところで、ようやく壁へ片手をついた。
「……危なかった」
何が危なかったのか、自分でもよく分からない。
「団長の言いつけが、初日から……」
昼には、ルカが突然巨大な猫へ変身して街道を爆走し、今度は見守っている本人たちから道を尋ねられた。
「聞いてないですよ、こんなの……」
額を押さえながら小さくぼやく。
それでも、壁の陰からそっと通りを覗けば、アリアたちは教えた方向へちゃんと歩いていた。
その姿を見ているうちに、エリオの口元が少しだけ緩んでいく。
「……まあ、道を聞かれただけだからな」
誰に言うでもなく呟いた。
「これはノーカウントだ」
そういうことにして、十分に距離が開くのを待ってから、エリオも再び三人のあとを追い始めた。
◇ ◇ ◇
「あった!」
大きな木を右へ曲がった先に、白い壁の小さな教会があった。
村の家々に囲まれるように建つ、こぢんまりとした建物で、屋根の上には小さな鐘楼がある。入口の脇には色とりどりの花が植えられ、木の扉の上には、長い年月を感じさせる古びた飾りが掛けられていた。
「かわいい教会」
アリアは足を止め、嬉しそうに見上げた。
「うん」
ルカも、ようやく少しほっとしたように息を吐く。
村へは着いた。
教会も見つかった。
けれど、まだ今夜ここへ泊まれると決まったわけではない。
ルカは胸元へ手をやった。
前の教会を出る時、神父が持たせてくれた紹介状がある。
「行こう」
「うん」
アリアが扉の前へ立った。
「わたし、叩くね」
こん、こん。
小さな音が木の扉へ響いた。
少しすると、内側から足音が近づいてくる。
ゆっくり扉が開き、白髪の混じった穏やかな顔の神父が姿を見せた。
「こんばんは」
「こんばんは!」
アリアが頭を下げる。
ルカも続いて丁寧に頭を下げた。
「突然すみません」
胸元から封筒を取り出す。
「前の教会の神父さまから、これを預かってきました」
両手で差し出すと、神父は封筒を見ただけで、すぐに表情をやわらげた。
「紹介状ですね」
「はい」
「拝見します」
手紙が開かれるのを見ながら、ルカは無意識に背筋を伸ばした。
隣ではアリアも、さっきまで村へ着いたと喜んでいた時とは違い、少しだけ緊張した顔で神父の様子を見つめている。
もし、ここで泊まれなかったら。
その先のことを、まだ二人とも考えたくはなかった。
やがて神父が手紙を読み終え、ゆっくり顔を上げる。
「長い道のり、お疲れさまでした」
その声が、さっきよりずっと温かく近いものに聞こえた。
「今夜はこちらで休んでいってください」
「……!」
アリアがルカを見る。
ルカもアリアを見る。
「泊まっていいの?」
「もちろんですよ」
その答えを聞いた途端、アリアの肩から目に見えるほど力が抜けた。
「よかったぁ……」
今度こそ、本当に今日の旅が終わった。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
「ありがとうなの!」
三人の声が重なる。
神父は笑いながら扉を大きく開いた。
「どうぞ。夕食もちょうどできる頃です」
その一言で、アリアの目がさらに輝く。
「ごはん?」
「そこなんだ」
ルカが吹き出した。
「だって、おなかすいたもん」
神父の笑い声に迎えられながら、三人は教会の中へ入った。
建物そのものは大きくなかったけれど、木の床はよく磨かれ、小さな窓には白い布が掛けられている。廊下の棚には野の花が飾られ、初めて入った場所なのに、どこか懐かしいような温かさがあった。
前の教会とは、何もかも同じではない。
それでも、人を迎えてくれる空気はよく似ていた。
神父に今夜使う部屋を案内してもらい、荷物を置くと、ほどなくして夕食へ呼ばれた。
◇ ◇ ◇
夕食は、神父と年配のシスターと一緒だった。
卓には焼きたての丸いパンと、野菜や肉をじっくり煮込んだ温かなスープが並んでいる。
アリアはスープをひと口飲んだ途端、目を大きくした。
「おいしい!」
朝から使い続けてきた身体へ、温かさがゆっくり染み込んでいく。
ルカもパンをちぎりながら、ようやく本当に気を抜けたような気がしていた。
屋根があり、今夜眠る場所もある。
明日の朝までは、もうどこへも歩かなくていい。
それだけで、目の前の食事がいつもよりずっとおいしく感じられる。
食事が一段落した頃、シスターが卓の端に置かれていたアリアとルカの水筒へ目を留めた。
「明日の朝、お水をいっぱいにしておきましょうね」
アリアがパンを持ったまま顔を上げる。
「いっぱい?」
「ええ」
「途中でなくなったら、そこで入れたらだめなの?」
「だめではありませんよ」
シスターは少し笑った。
「でも、次にお水が見つかるとは限りませんからね」
アリアの手が止まった。
「見つからないの?」
「私も若い頃に旅をしたことがあるのですが、一度、水筒にまだ少し残っていたので、次の井戸で入れればいいと思ったことがあったんです」
「うん」
「ところが、その次の井戸がなかなか見つからなくて、とうとう残っていたお水も全部飲んでしまいました」
「えっ」
アリアの眉が下がる。
「どうしたの?」
「困っていたところへ、たまたま通りかかった旅人の方が、お水を分けてくださったんですよ」
「よかったぁ……」
自分のことでもないのに、アリアが心底安心したように息を吐いた。
ルカも、そばへ置いた自分の水筒を見る。
「じゃあ、水があるところで入れられるなら、まだ残ってても入れておいた方がいいんですね」
「そうですね」
シスターが頷いた。
「旅では、なくなってから考えるより、まだあるうちに次の用意をしておく方が安心です」
アリアは自分の水筒を持ち上げた。
中には、まだ半分ほど残っている。
これまでなら、まだこんなにあると思っただろう。
けれど今は少し違った。
「明日の朝、いっぱいにする」
「ええ」
「忘れない」
「ぼくも」
「マルルもなの!」
「マルル、水筒ないでしょ」
「…………」
マルルが、自分の周りをきょろきょろと見回した。
「ないなの」
アリアが笑う。
「わたしのお水あげる」
「ありがとうなの!」
小さな笑い声が、温かな食卓へ広がった。
◇ ◇ ◇
食事を終えて廊下へ出た頃には、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
神父に教えてもらった部屋へ戻ろうとしていたアリアが、途中でふと足を止める。
開いた扉の向こうに、小さな礼拝堂が見えていた。
木の長椅子がいくつか並び、その先にはこぢんまりした祭壇がある。大きな礼拝堂ではなかったけれど、祭壇の周りは丁寧に整えられ、白い花と数本のろうそくが静かな夜の中で小さな光を揺らしていた。
アリアは、しばらくその灯りを見つめた。
「……お祈りしてもいい?」
「うん」
ルカはすぐに答えた。
三人は静かな礼拝堂へ入り、祭壇の前で膝をついて手を組む。
アリアは目を閉じた。
「女神さま」
今日一日の景色が、頭の中へ次々と浮かんでくる。
最初に迷った分かれ道。
ポシェットから出てきた温かい昼食。
ルカの背中から見た、流れていく街道の景色。
ぎりぎりで間に合った村の門。
そして、自分たちで見つけた小さな教会。
「今日も、ちゃんとここまで来られました。ありがとうございました」
少しだけ笑ってから、ほんのわずかに間を置く。
「先生にも……会いたいです」
そのまま目を閉じ、静かに待った。
けれど、何も聞こえてこない。
ろうそくの炎が揺れる小さな音さえ聞こえてきそうなほど、礼拝堂は静まり返っていた。
アリアはゆっくり目を開け、祭壇を見た。
「…………」
何も起こらない。
今日は、会えないのかもしれない。
そう思った途端、胸の奥へ小さな寂しさが落ちた。
「……せんせ」
もう一度だけ呼んでみる。
それでも返事はない。
先生も忙しいのかもしれない。
アリアが組んでいた手をゆっくり下ろそうとした、その時だった。
「アリア」
小さな手が止まった。
ぱっと顔が上がる。
「……先生?」
聞き間違えるはずがなかった。
祭壇の前に、小さな光が一つ浮かんでいる。
もう一つ。
そして、また一つ。
淡い光の粒がゆっくりと集まり、やがて一人の人の輪郭を作り始めた。
アリアは瞬きも忘れて、その姿を見つめる。
白い翼。
やさしい顔。
ずっと知っている、大好きな人。
「先生!」
思わず立ち上がりかけ、慌ててもう一度膝をつき直す。
それでも身体は前へ出たままだった。
「先生、先生! 今日ね!」
エルシアが微笑む。
「ええ」
「今日ね、分かれ道があってね! 右と左があって、最初どっちか分かんなかったの。でもマルルがコンパクト出してくれて、それでね!」
話したいことが多すぎて、どこから話せばいいのか分からない。
「それから、お昼ね、ポシェットから温かいのが出てきて! あと、ルカが猫になって、すっごく速くて!」
「速かったなの!」
「マルルの耳、こうなってたの!」
アリアは両手を斜め後ろへ倒し、風に煽られていた長い耳を一生懸命再現してみせる。
ルカが思わず笑った。
「そこまで説明するの?」
「だって先生見てないもん!」
「そうだね」
「それでね、それで村に着いてね! 門が閉まる前だったの。ほんとにぎりぎりでね」
話しているうちに、今日一日の景色がアリアの中へもう一度鮮やかに戻ってくる。
迷ったことも、少し怖かったことも、嬉しかったことも、初めて自分たちだけでできたことも。
全部、先生に聞いてほしかった。
「それから、自分たちで教会探したの。知らないお兄さんに聞いたの!」
少し離れた場所にいるエリオが聞いていたなら、きっと頭を抱えていただろう。
「それでね、ルカが紹介状渡してね、泊まっていいって言ってもらえたの!」
「そうでしたか」
エルシアは、一度も急かさなかった。
話が前へ行ったり戻ったりしても、同じことを二度話しても、ただ穏やかに頷きながら聞いている。
ようやく一息ついたアリアは、まだまだ話したいことが残っているのに気づいた。
それでも、一番伝えたかったのは、きっとこれだった。
「先生」
「はい」
アリアは嬉しそうに笑った。
「ちゃんと、ここまで来られたよ」
エルシアの目が、やわらかく細くなった。
「ええ。よく頑張りましたね」
「……えへへ」
褒められた途端、アリアの頬が少し赤くなる。
その横で、ルカもほっとしたように笑った。
「先生」
アリアはもう一度、エルシアを見上げる。
「わたしたちのお祈り、聞こえるの?」
「いつもこうしてお話しできるわけではありません」
「毎日は?」
「毎日は難しいですね」
「……そっか」
少しだけ残念そうな顔になったアリアへ、エルシアはやさしく微笑んだ。
「でも、会えない日でも、心を込めて祈ってくれたことは届いていますよ」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ、先生に会えない日もお話ししていい?」
「もちろんです」
その答えだけで、アリアはすぐに元気を取り戻した。
「じゃあ、いっぱい話す!」
「それは楽しみですね」
「今日よりいっぱいかも」
「アリア」
ルカが笑う。
「先生、大変だよ」
「大丈夫です」
エルシアが答えた。
「アリアのお話は、楽しみにしていますから」
「ほんと?」
「ええ」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
しばらくして、エルシアを包んでいた光がわずかに揺らいだ。
それに気づいたアリアの表情が変わる。
「……先生?」
「そろそろ戻る時間です」
「もう?」
胸の奥がきゅっとした。
けれど、さっきまでとは少し違う。
今度は、これで終わりではないことを知っている。
「また会える?」
「ええ。またお話ししましょう」
「うん!」
エルシアは今度はルカへ目を向けた。
「ルカ」
「はい」
「これからも、アリアと一緒に歩いてあげてください」
ルカはエルシアの瞳をまっすぐ見返した。
「はい。一緒に行きます」
迷いのない返事だった。
次にマルルへ顔を向ける。
「マルルも」
「はいなの!」
「二人と、よい旅を」
「まかせるなの!」
胸をいっぱいに張るマルルを見て、エルシアが小さく笑った。
そして最後に、もう一度三人を見渡す。
「焦らなくても大丈夫です。一歩ずつ、皆さんの速さで歩いてください」
「一歩ずつ?」
「ええ。今日知ったことも、出会った人も、これからきっと皆さんの旅を助けてくれます」
アリアの頭に、さっきシスターから聞いた水筒の話が浮かんだ。
なくなってからではなく、なくなる前に次の準備をする。
今日一日だけでも、昨日までは知らなかったことをいくつも覚えた。
「うん」
アリアは大きく頷いた。
「いっぱい覚える」
「楽しみですね」
エルシアを包む光が、少しずつ淡くなっていく。
「おやすみなさい、アリア」
「おやすみなさい、先生!」
「ルカ、マルルも」
「おやすみなさい」
「おやすみなの!」
「また、お会いしましょう」
「うん!」
エルシアの姿が細かな光へ変わり、礼拝堂の中を静かに舞った。
最後の一粒が消えたあとも、アリアはしばらく先生のいた場所を見つめていた。
けれど、その顔にはさっきまでの寂しさはない。
「また会えるね」
「うん」
ルカが答える。
「またお祈りする」
「そうだね」
三人は祭壇へもう一度頭を下げ、小さな礼拝堂をあとにした。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻る頃には、アリアはもう何度もあくびをしていた。
「眠い?」
「ねむくない」
言い終わった直後、また一つ大きなあくびが出る。
「眠いじゃん」
「ちょっとだけ」
ベッドへ潜り込むと、その「ちょっと」は、どうやらすぐに限界へ達したらしい。
「今日ね……先生にね……いっぱい……お話し……」
そこまで言ったところで、声が途切れた。
ルカが隣を見る。
アリアはもう目を閉じ、静かな寝息を立て始めている。
「寝るの早いなあ」
小さく笑った。
マルルも別のベッドで身体を丸くし、長い耳を自分の身体へ寄せる。
「おやすみなの……」
「おやすみ」
ルカが灯りを消すと、窓から差し込む淡い月明かりだけが部屋の中へ残った。
すぐそばから、アリアの穏やかな寝息が聞こえてくる。
先生に会えて、よほど嬉しかったのだろう。
あれだけ夢中になって今日の出来事を話し、たくさん笑って、今はすっかり安心した顔で眠っている。
ルカも目を閉じた。
けれど、なかなか眠りは訪れなかった。
昼間は歩くことに夢中で考える暇もなかったことが、周りが静かになった途端、胸の奥から少しずつ浮かんでくる。
しゃっ、しゃっ、と一定の速さで木を削っていたかんなの音。
仕事をしている父の背中。
台所から漂ってくる料理の匂いと、その向こうでいつも笑っていた母。
思い出した途端、胸の奥がじわりと痛んだ。
「……父さん」
声にならないほど小さく呼ぶ。
「母さん」
アリアは、先生に会えた。
だから余計に、自分も会いたくなった。
父にも、母にも、村のみんなにも。
いつ会えるのかは、まだ分からない。
今日一日歩いたくらいでは、何も近づいていないように思えてしまうこともある。
けれど、ルカは昼間の分かれ道を思い出した。
迷ったけれど、自分たちで進む道を見つけた。
自分たちだけで村まで歩き、知らない人へ声を掛けて教会の場所を尋ねた。
そして紹介状を差し出し、今夜眠る場所も自分たちで見つけることができた。
昨日までシリルがそばにいて教えてくれていたことを、今日はほんの少しだけ、自分たちだけでできたのだ。
礼拝堂で聞いたエルシアの声が、もう一度静かに胸へ戻ってくる。
一歩ずつ、自分たちの速さで歩けばいい。
ルカは布団の端を少しだけ握った。
家族へ会いたい気持ちは、きっと明日になっても消えない。
無理に消す必要もないのだと思った。
会いたいと思ったまま、その気持ちを抱えて歩けばいい。
今日、自分たちだけで一歩進めたのなら、明日もまた一歩進めばいい。
隣では、アリアが安心しきった顔で眠っている。
ルカはその寝顔を一度だけ見てから、今度こそゆっくり目を閉じた。
今日より、もう一歩先へ。
明日もまた三人で歩いていこう。
そう思っているうちに、張っていた気持ちも少しずつほどけていき、ルカもやがて静かな眠りへ落ちていった。




