第18話 はじめての分かれ道
教会の鐘の音が、背中の方から小さく聞こえていた。
アリアは歩きながら、一度だけ振り返った。
白い教会はもうずいぶん遠く、ついさっきまで門の前に立っていたシリルの姿も、今はもう見えない。
ほんの少し前までは、その人が一緒に歩いていた。
分からないことがあれば教えてくれて、疲れれば休むことを教えてくれて、次の町までどの道を進めばいいのかも知っていた。
けれど、今日からはもういない。
「行こう」
隣からルカの声がした。
「うん!」
アリアは前へ向き直ると、少し先を歩いていたルカの隣へ、とことこと駆け寄った。
肩には白いポシェットがあり、ルカの肩にはマルルがいる。
三人だけで歩く街道は昨日とよく似ているはずなのに、どこか少し違って見えた。
アリアが道端の花へ気を取られて遅れれば、ルカが少し歩幅を緩める。反対に、アリアが何かを見つけて先へ出れば、今度はルカが歩幅を広げて追いついてくる。
昨日一日を一緒に歩いたことで、まだ言葉にしなくても、三人の間には少しずつ同じ速さができ始めていた。
「昨日より歩きやすいね」
アリアが街道に落ちていた白い石を、ぴょんとまたぐ。
「うん。少し慣れてきたのかも」
「なの!」
ルカの肩で、マルルも楽しそうに長い耳を揺らした。
三人の髪や服を揺らしながら、夏の風が草原から街道へ吹き抜けていく。
そして、そのずっと後ろ。
街道から少し離れた林の中にも、同じ風を受けながら歩いている者がいた。
濃い緑色の上着に、動きやすい革のズボン。胸当ては上着の下へ隠し、腰の細身の剣も、できるだけ外から目立たないようにしている。
西方騎士団の若手騎士、エリオ・フェルンだった。
木々の隙間から三人の姿を確かめると、エリオは歩く速さをわずかに落とした。
近すぎれば見つかる。
かといって遠すぎれば、何かあった時に間に合わない。
その距離を保ちながら進むこと自体は、それほど難しいことではなかった。
少なくとも、今のところは。
「姿を見せない。手を貸さない。見失わない」
今朝、シリルから言い渡された三つの約束を、エリオはもう一度小さな声で確かめた。
三人は普通に歩いている。
転ぶわけでも、道を外れるわけでもなく、今のところ何も起きていない。
「……まあ、歩いてるだけなら大丈夫か」
木の根をまたぎながら、エリオは少しだけ肩の力を抜いた。
その判断が早かったことを知るまでに、そう時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いた頃、それまで一本だった街道が、大きく二つに分かれていた。
「あれ?」
最初に足を止めたのはアリアだった。
右へ続く道と、左へ続く道。
どちらも同じくらいの幅があり、荷馬車の轍も残っている。土の踏み固められ方にも、それほど違いはなかった。
アリアは右を見て、それから左を見る。
もう一度右へ顔を向けてから、困ったように首をかしげた。
「……どっち?」
ルカも隣で足を止める。
「道標は……」
二人で辺りを見回したものの、行き先を書いたものはどこにも見当たらなかった。
「どっちだろう」
ルカが腕を組む。
アリアも同じような顔で考えたあと、まず右の道へ一歩出てみた。
「こっちかな」
少し先を見てから戻り、今度は左へ一歩進む。
「こっち?」
「何か違う?」
「……分かんない」
「ぼくも」
また右。
今度は左。
そんな二人を、少し離れた林の中から見ていたエリオは、小さく呟いた。
「右」
もちろん、聞こえるはずはない。
アリアが左を見る。
「そっちじゃない」
今度は右を見る。
「そう。それだ」
アリアが一歩進み、エリオの口元が少し上がった。
ところが、次の瞬間にはまた戻ってくる。
「戻るのかよ」
思わず声が漏れ、エリオは慌てて自分の口を押さえた。
聞こえるような距離ではないとはいえ、任務初日から自分で約束を破るところだった。
木の幹へ背を預け、今度こそ口を閉じたまま三人を見る。
教えれば、一言で済む。
右だ。
それだけ言えばいい。
けれど、その一言を口にしてはいけないのだ。
シリルは言っていた。
これは、あの子たち自身の旅なのだと。
自分たちで迷い、自分たちで考える時間まで、大人が先回りして奪ってはいけない。
「……分かってますよ、団長」
エリオは誰もいない林の中で、小さく息を吐いた。
その時だった。
「なの」
マルルがルカの肩から地面へ降りた。
三人の視線が、小さな白い身体へ集まる。
マルルは胸元に下がっているコンパクトへ前足を添えた。
「マルル?」
「これなの」
カチリ、と小さな音を立てて蓋が開く。
淡い青い光が足元へこぼれ、中にある小さな針がくるくると回り始めた。
エリオも木の陰から、少しだけ身を乗り出す。
「……何だ、あれ」
針は何度か回ったあと、右へ揺れ、左へ揺れ、まるで道を確かめるように行き来した。
そして、ぴたりと右の道を指して止まった。
「止まった!」
「右なの」
その瞬間、針の先から細い青い光が伸び、右へ続く街道の上をまっすぐ走っていく。
三人が揃って顔を上げた。
「……こっちだ」
ルカの表情が、ふっと緩む。
アリアはすぐにマルルの隣へしゃがみ込み、白い頭を嬉しそうに撫でた。
「ありがとう、マルル」
「なの!」
マルルが誇らしそうに胸を張る。
やがてコンパクトが閉じ、青い光も消えた。
さっきまで右と左を何度も見比べていた三人は、今度は迷わず右の道へ向き直る。
「行こう」
「うん!」
「なの!」
三人が歩き始める。
エリオは、その背中をしばらく見つめていた。
「……それ持ってたのか」
知らなかった。
少なくとも、シリルからそんな話は聞いていない。
「先に言ってくださいよ、団長」
少しだけ不満を口にしながらも、エリオの口元は自然と緩んでいた。
結局、自分は何もしなかった。
それでも三人は、自分たちで進む道を見つけた。
「ちゃんと進めるじゃないか」
今度は、その小さな呟きを咳払いでごまかすこともしなかった。
何となく、嬉しかった。
もちろん、これはあくまで任務である。
「……任務だからな」
誰に言い訳するでもなく呟き、エリオも三人を追って林の中を歩き始めた。
◇ ◇ ◇
太陽が頭の上近くまで昇る頃には、アリアの歩幅も少しずつ小さくなっていた。
昨日よりは慣れた。
それでも、小さな足で朝からずっと歩いているのだから、疲れないはずはない。
ルカは隣のアリアをちらりと見てから、街道の先へ目を向けた。
「そろそろ休もうか」
少し先に、大きな樫の木が立っている。
広がった枝の下には、いかにも涼しそうな木陰ができていた。
「うん!」
三人は街道を外れ、樫の木の下へ向かった。
柔らかな草の上へ腰を下ろすと、まず水筒を取り出す。
昨日シリルから教わった通り、喉が渇ききる前に水を飲む。
アリアは何口か飲んでから、ほっと息を吐いた。
「ふう……」
それから膝の上へ白いポシェットを載せる。
「お昼にしよう」
「うん」
アリアがポシェットへ手を入れた。
「昨日、おばちゃんにもらったパンもあるよね」
「うん。ぼくも見てたよ」
中を探っていると、すぐに指先へ何かが触れた。
「あった!」
嬉しそうに引っぱり出したものの、手にした包みを見た途端、アリアの動きが止まった。
「あれ?」
「どうしたの?」
「パンじゃない」
出てきたのは、白い布に包まれた小さな包みだった。
アリアは膝の上へ載せ、指先でそっと触れてみる。
「……あったかい」
「ほんと?」
ルカも触ってみて、目を瞬いた。
「ほんとだ」
「こんなの入れたっけ?」
「入れてないよ」
三人が不思議そうに包みを覗き込んでいる、その少し離れた林では、エリオも木の陰から首を伸ばしていた。
「何だ、それ」
本人たちにも覚えのない包み。
しかも、なぜか温かい。
アリアが布の端へ指を掛けた。
「待て待て」
エリオの眉が寄る。
中身の分からないものを、そのまま開けるつもりなのか。
止めるべきか。
けれど、姿を見せてはいけない。
もし食べ物ではなく、危険なものだったら。
「いや、でも確認くらいなら……」
本気で迷い始めたところで、マルルが包みへ鼻を近づけた。
「いいにおいするなの」
「開けてみる?」
「うん」
「開けるのかよ……」
エリオが小さく呟く間にも、布はするすると解かれていく。
ふわりと白い湯気が立ち上った。
「わあ……!」
中に入っていたのは、こんがりと焼けた三つのホットサンドと、小さな果物だった。
アリアとルカが顔を見合わせる。
「ぼくたち、これ入れてないよね」
「うん」
マルルが白いポシェットを見た。
「女神様なの」
「女神様?」
「きっと、お昼なの」
「それで納得するのか」
エリオは思わず額へ手を当てた。
けれど、考えてみれば、あの白いポシェットも女神から与えられたものだと聞いている。
それなら、本当にそういうこともあるのかもしれない。
「……女神様なら、いいのか?」
自分で口にしておきながら、やはりどこか納得しきれない。
その間にも、アリアは嬉しそうにポシェットを両手で抱き寄せていた。
「女神様」
青い空を見上げる。
「ありがとう」
そして三人揃って手を合わせた。
「いただきます!」
ホットサンドへかぶりつくと、ぱりっと焼けたパンの間から、とろりとチーズが伸びた。
「わぁ!」
アリアの目が輝く。
「おいしい!」
あまりに嬉しいのか、草の上で足をぱたぱたさせている。
ルカも一口食べると、少し驚いたように頷いた。
「ほんとだ」
「あったかいなの」
マルルも前足で自分の分をしっかり押さえ、一生懸命食べている。
「…………」
エリオは木の陰から、その様子を黙って見ていた。
楽しそうだ。
どう見ても危険なものを食べているようには見えない。
むしろ。
「……うまそうだな」
ぽつりと漏れた。
それを聞いたかのように、自分の腹が小さく鳴った。
「…………」
エリオは何事もなかった顔で自分の荷物へ手を伸ばした。
中から出てきたのは、朝に持たされた固いパンだった。
「任務だからな」
誰にともなく言い訳しながら、ひと口かじる。
林の外からは、
「女神様が作ったのかな」
「どうだろうね。でも、おいしいね」
「うん!」
と、楽しそうな声が聞こえてくる。
エリオは手の中の固いパンを見た。
「……団長」
少しだけ恨めしそうな声だった。
◇ ◇ ◇
昼食を終える頃には、アリアの顔にもすっかり元気が戻っていた。
両手を空へ向かって大きく伸ばす。
「ふうー!」
その勢いで後ろへ倒れそうになり、
「わっ」
慌てて身体を起こした。
ルカが笑う。
「もう少し休んだら出発しよう」
「うん!」
返事をしたアリアは空を見上げ、それから何かを思い出したように目を大きくした。
「あっ!」
「どうしたの?」
「飛ぶ練習!」
「今から?」
「毎日やるって決めたもん」
得意そうに胸を張る。
ルカは少しだけ考えてから頷いた。
「ちょっとだけだよ」
「うん!」
アリアは街道から少し離れた草地へ駆けていった。
林の中では、エリオも反射的に身体を起こす。
「飛ぶ?」
聞き間違いかと思った。
けれどアリアは本当に胸元の白い羽のネックレスへ手を添え、大きく息を吸っている。
「いくよ」
背中の小さな白い羽へ淡い光が集まり、それが少しずつ大きく広がっていく。
やがて現れたのは、アリアの背丈よりも大きな二枚の光の翼だった。
「……本当に飛ぶのか」
エリオが思わず身を乗り出す。
アリアが地面を蹴った。
ふわりと小さな身体が浮かび上がり、そのまま少し前へ進む。
右へ曲がり、今度はゆっくりと草地の上を回っていく。
まだ危なっかしいところはある。
それでも、思っていたよりずっとちゃんと飛んでいた。
「ルカ!」
アリアの声が空から弾む。
「ちゃんと曲がれた!」
「見てたよ。今日は、ふらふらしてなかった」
「ほんと?」
「うん」
嬉しくなったアリアは、もう一度飛び上がった。
今度はさっきより少し高く、少し遠くまで進んでみる。
途中で身体が傾いても、慌てず羽を動かし、自分で姿勢を戻していた。
エリオは腕を組んだ。
「なるほど」
飛べる。
もし大きな危険があれば、空へ逃げることもできる。
それなら、少しくらい距離を取っていても大丈夫なのかもしれない。
「案外、俺の出番はないかもしれないな」
本当にほんの少しだけ、エリオはそう思った。
その時だった。
地面へ降りたアリアが、ルカの顔をじっと見た。
何かを考えている。
しかも、だんだん目が輝いてきている。
林の中から見ていたエリオの眉が寄った。
あの顔は。
何か思いついた顔だ。
「ねえ、ルカ」
「ん?」
「猫になって!」
「…………猫?」
林の中で、エリオもほとんど同じ調子で呟いた。
「一回だけ!」
「何するの?」
「ルカが走って、わたしが羽で軽くなったら、もっと速く進めるかもしれないよ!」
ルカが街道を見る。
アリアを見る。
もう一度、街道へ目を向ける。
エリオも、なぜか同じ順番で見た。
「いや……」
嫌な予感がした。
「待て」
「試すだけだよ」
「うん!」
「疲れる前にやめるからね」
「やった!」
「待て待て待て」
もちろん、三人には聞こえない。
ルカの首元から淡い金色の光がこぼれ、全身を包んでいく。
人の輪郭が大きく揺らいだ次の瞬間、そこには一頭の大きなラグドールが立っていた。
「…………」
エリオが黙る。
かなり大きい。
小柄なアリアなら、十分背中へ乗れるほどの大きさだった。
「そういう猫か」
思っていたものと、かなり違った。
マルルはいつの間にか、ふかふかの頭の上へ収まっている。
「かわいい!」
アリアが声を上げた。
「急に言われると恥ずかしいな」
大きな猫が答える。
「…………」
エリオは一度、目をこすった。
「そうだった。喋るんだった」
通達には書いてあった。
たぶん。
いや。
猫になるとは聞いていない。
アリアがルカの背中へよじ登り、長い毛をしっかりつかんだ。
そこへ光の羽を広げると、小さな身体がふわりと持ち上がり、ルカの背中へ掛かる重さが少し軽くなる。
「軽くなった!」
「ほんとだ。これなら走りやすそう」
「出発!」
エリオの顔から、さっきまでの余裕が消えた。
「……ちょっと待て」
ルカが地面を蹴る。
たっ、たっ、たっ。
最初は、人が駆けるくらいの速さだった。
それを見て、エリオも少しだけ安心する。
「なんだ。これなら……」
「大丈夫?」
「だいじょうぶ!」
「なの!」
三人の声が聞こえた途端、ルカの足へさらに力が入った。
速度が上がる。
「わぁ!」
アリアの水色の髪と青いリボンが後ろへ流れ、マルルの長い耳も風に押されて斜め後ろへなびいた。
「速いなのー!」
「速い!」
アリアが楽しそうに笑い、さらに光の羽を大きく広げる。
するとルカの背中へ掛かる重さが、もう一段ふっと軽くなった。
「おっ」
ルカの足がさらに速くなる。
「…………」
エリオは一瞬、動かなかった。
目の前にいたはずの三人が。
いや。
もう目の前ではない。
見る間に街道の先へ遠ざかっていく。
「えぇっ!?」
木の陰から身を乗り出した。
「速っ!」
そこでようやく我に返る。
「いやいやいや!」
エリオは林の中を全力で走り出した。
「猫って、あんなに速いの!?」
低い枝をかがんで避け、倒木を飛び越える。
伸びた枝が頬をかすめたが、そんなことを気にしている場合ではない。
木々の隙間からようやく三人の姿を捉えたと思えば、次にはもう一つ先の木々の向こうへ移っている。
「ちょ、ちょっと待って!」
当然、声は届かない。
「団長……!」
息を切らしながら地面を蹴る。
「こういうことは……!」
倒木を飛び越えた。
「先に教えてくださいよ……!」
姿を見せない。
手を貸さない。
見失わない。
三つ目の約束が、任務初日にしてものすごい勢いで遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
しばらく走ったところで、ルカは少しずつ速度を落とした。
「そろそろ止まるよ」
「はーい!」
やがて街道の端で足を止め、アリアが背中から降りる。
マルルも頭の上から草へぴょんと飛び降りた。
ルカは少し息を弾ませながら変身を解き、淡い金色の光の中で少年の姿へ戻っていく。
「すごく速かった!」
アリアが両手をいっぱいに広げた。
「町まで、すぐ着いちゃうかも!」
「でも、ずっと走るのは無理かな」
「疲れた?」
「少しだけ」
ルカが水筒を取り出した。
それを見て、アリアもすぐ自分の水筒へ手を伸ばす。
「シリルが言ってたね」
「うん?」
「喉が渇く前に飲む」
「それから、疲れる前に休む」
「うん!」
三人は街道脇の草へ腰を下ろした。
ルカの呼吸が戻るまで、アリアもマルルも急かさず、のんびり待つ。
その頃。
かなり後ろの林では。
「はぁ……っ、はぁ……」
エリオがまだ走っていた。
遠い。
けれど、まだ見える。
「止まった……?」
前方の街道に小さな三人の姿を見つけ、ようやく少しだけ速度を落とした。
「止まってる……」
安堵した途端、足が急に重くなった。
近くの木へ片手をつき、大きく息を吐く。
「……休んでる」
自分も休みたい。
ものすごく休みたい。
けれど、前方で三人が立ち上がった。
「…………」
エリオは木に置いていた手を、ゆっくり離した。
「はいはい」
呼吸を整える間もそこそこに、また歩き始める。
「見失いませんよ」
今度の声には、少しだけ意地が混じっていた。
◇ ◇ ◇
しばらくすると、街道の前方から一台の荷馬車がやって来た。
三人は道の脇へ寄り、少し速度を落とした荷馬車へ頭を下げる。
御者台の男が何か声を掛けると、アリアが一歩前へ出た。
「あの」
「ん?」
「聞いてもいいですか?」
林の中を進んでいたエリオが、また足を止めた。
「次の町まで、あとどれくらいですか?」
今度は、口を出したいとは思わなかった。
エリオは黙って木の陰へ入り、三人の様子を見守る。
御者の男は太陽の位置を確かめ、それから街道の先を指した。
「君たちの足なら、このまま歩けば日が暮れる前には着けるだろう」
「ほんと?」
「ああ。ただし、途中であまりのんびりしていると、門が閉まる時間に間に合わなくなるかもしれないぞ」
「急いだ方がいい?」
「走らなくていい」
その言葉が聞こえた瞬間。
林の中で、エリオは思わず深く頷いた。
「そう。それです」
今日一番、心から同意できる言葉だった。
「走らなくていいんだ」
御者の男はそんなことなど知らず、話を続ける。
「転んだり、途中で歩けなくなったりしたら、その方が遅くなる。自分たちの歩ける速さで、まっすぐ進めばいい」
「はい!」
「ありがとうございます!」
三人が揃って頭を下げる。
荷馬車が去っていくと、アリアとルカが顔を見合わせた。
「日が暮れる前には着けるって」
「うん。でも、寄り道はできないね」
「じゃあ、まっすぐ行こう!」
「がんばるなの!」
三人は再び歩き始めた。
エリオも木の陰から出る。
額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、その小さな背中を見た。
分かれ道では、自分たちで答えを見つけた。
昼になれば、自分たちで休み、水を飲んだ。
走ったあとも、シリルから教わったことを思い出して、自分たちから足を止めた。
そして今度は、知らない人へ自分たちから声を掛け、必要なことを聞いた。
「……ちゃんと旅してるんだな」
ぽつりと声が漏れた。
思っていたよりも、ずっと。
だからといって、安心して距離を取る気にはもうなれない。今日一日だけでも、あの三人が自分で考え、自分で決めながら進んでいくことは十分に分かった。
そして同時に、時々こちらの想像を軽々と飛び越えることも。
「油断できないな……」
エリオは小さく笑った。
今朝、シリルから言われた時には、ただ任務の条件として聞いていた「見失わない」という言葉が、今は少しだけ違う意味に思えていた。
危険から守るためだけではない。
あの三人がこの先で何を見つけ、何を考え、どんなふうに自分たちの道を選んでいくのか。それを最後まで見届けるためにも、見失いたくないと思い始めていた。
「……もう少し近くにいるか」
エリオは三人との距離を、ほんの少しだけ詰めた。
すると街道を歩いていたアリアが、突然ぴたりと足を止める。
「!」
エリオも反射的に止まり、木の陰で身を低くした。
アリアが道端へしゃがみ込む。
ルカも隣へ行き、マルルまで地面へ降りた。
「今度は何だ?」
息を詰めて見守っていると。
アリアが、小さな花を指さして笑った。
「…………」
エリオの肩から、すっと力が抜ける。
「花かよ」
思わず笑ってしまった。
やがて三人は何事もなかったように立ち上がり、また街道を歩き始める。
エリオも木の陰から身体を起こした。
「まったく……」
呆れたような声とは裏腹に、その顔は少し楽しそうだった。
「しばらく、よろしくな」
もちろん、その声は三人には届かない。
広い夏空の下で、三人の小さな旅は今日も続いていく。
その少し後ろを、今度は決して離されすぎないように、エリオもまた静かに歩き始めた。




