第18話 はじめての分かれ道
教会の鐘の音が、背中の方から小さく聞こえていた。
アリアは歩きながら、一度だけ振り返る。
白い教会はもう遠く、門の前に立っていたシリルの姿も見えない。
「行こう」
隣でルカが声を掛ける。
「うん!」
アリアは前を向き、少し先を行くルカの隣へ駆け寄った。
三人は昨日とよく似た街道を並んで歩いていく。
けれど、足取りは昨日よりも軽かった。
アリアが少し先へ出れば、ルカが歩幅を広げる。ルカがゆるめれば、アリアも自然と隣へ戻ってくる。
三人は昨日より、少しだけ同じ速さで歩けるようになっていた。
「昨日より歩きやすいね」
アリアが弾む足で白い石をまたぐ。
「うん。少し慣れてきたのかも」
ルカの肩では、マルルも楽しそうに垂れた耳を揺らした。
「なの」
草原を渡る風が、街道の上をまっすぐに吹き抜けていく。
歩き続けてしばらくすると、一本だった道が大きく二つに分かれていた。
「あれ?」
アリアの足が止まる。
右へ伸びる道と、左へ伸びる道。
どちらも同じくらい広く、同じように土が踏み固められている。道標らしいものは、どこにも見当たらなかった。
「どっちだろう」
ルカが二つの道を見比べる。
「昨日までなら、シリルが教えてくれたけど……」
その名が出ると、アリアも後ろを振り返った。
見えるのは、遠くまで続く街道だけだった。
「右かな」
アリアは右の道へ一歩踏み出した。
けれど、すぐに戻って今度は左をのぞき込む。
「やっぱり、こっち?」
「どっちも同じに見えるね」
ルカも腕を組んだまま首を傾ける。
二人が道の前を行ったり来たりしていると、肩の上にいたマルルが小さく声を上げた。
「なの」
ぴょんと地面へ飛び降り、首から下げた小さなコンパクトに前足を添える。
カチリ。
ふたが開いた途端、淡い光が三人の足元へこぼれた。
「わぁ……」
アリアがマルルの隣へしゃがみ込む。
コンパクトの中にある小さな針が、くるくると忙しなく回り始めた。
一周。
もう一周。
やがて勢いを失った針は、ゆっくりと右の道を指して止まった。
「止まった!」
「こっちなの」
マルルが右を向く。
ルカもしゃがみ込み、コンパクトをのぞいた。
「女神様が言ってたね。進む道を教えてくれるって」
「うん」
アリアは小さなコンパクトを見つめてから、マルルの頭をそっとなでた。
「ありがとう、マルル」
「なの!」
マルルは胸を張り、コンパクトのふたを閉じた。
三人はもう一度、右へ続く道を見る。
さっきまではどこへ続いているのか分からなかった道が、今は自分たちの進む道に見えた。
「こっちだね」
「行こう」
三人は並び直し、初めて自分たちだけで選んだ道へ足を踏み出した。
◇
少し離れた林の中で、その様子を見守っている青年がいた。
濃い緑色の上着に、動きやすい革のズボン。胸当ては服の下へ隠し、腰に下げた細身の剣も外套で見えないようにしている。
一見すれば、旅人か猟師にしか見えない。
西方騎士団の若い騎士、エリオ・フェルンだった。
「ちゃんと進めた」
木の幹から顔をのぞかせ、右の道を歩き始めた三人を見送る。
その口元が緩んだことに気づき、エリオは慌てて頬を両手で押さえた。
「違う違う。任務だ」
誰も聞いていないのに小さく咳払いをする。
姿を見せない。
手を貸さない。
決して見失わない。
シリルから命じられた三つの言葉を頭の中で繰り返し、エリオは三人と並ぶように林の奥を進み始めた。
落ち葉の少ない場所を選び、乾いた枝をまたぐ。
風が木々を揺らした瞬間に足を運び、音を紛らわせる。
気配を消して相手を追うことだけは、騎士団の中でも誰にも負けない自信があった。
「見失わなければいいんだ」
そう呟きながら、三人の姿を木々の隙間に捉え続けた。
◇
太陽が頭の上まで昇る頃には、アリアの歩幅も少しずつ小さくなっていた。
「そろそろ休もうか」
ルカが街道の脇に立つ大きな樫の木を指さす。
「うん!」
三人は木陰へ入り、根元の柔らかな草の上へ腰を下ろした。
水を飲んで一息つくと、アリアは膝の上にポシェットを載せた。
「昨日、おばちゃんにもらったパン、ここに入れたよね」
「うん。僕も見てたよ」
アリアはポシェットへ手を入れ、中を探る。
すぐに何かが指先へ触れた。
「あった」
つかんで引き出したものを見た途端、アリアの手が止まる。
「あれ?」
「どうしたの?」
「パンじゃない」
「え?」
アリアが取り出したのは、白い布に包まれた小さな包みだった。
膝の上へ載せると、布越しにも温かさが伝わってくる。
「こんなの、入れたっけ?」
「入れてないよ」
ルカが首を振る。
マルルも包みのそばへ近づき、鼻をひくひくと動かした。
「いいにおいするなの」
アリアは布の端をつまみ、そっと開いた。
ふわりと白い湯気が上がる。
包まれていたのは、表面にこんがりと焼き色のついた三つのホットサンドだった。その隣には、赤や黄色の小さな果物まで添えられている。
「わあ……」
アリアは目を丸くしたまま、湯気へ顔を近づける。
「まだ温かい」
ルカが指先でパンに触れた。
マルルは額の青い宝石をきらりと光らせながら、ポシェットを見上げる。
「女神様なの」
三人の視線が、アリアの膝の上にあるポシェットへ集まった。
昨夜、女神様から受け取った旅の贈り物。
アリアはポシェットの口を両手で持ち、そっと胸へ抱き寄せた。
「女神様……ありがとう」
ルカとマルルも、温かな昼食を囲むように近くへ座る。
「いただきます!」
アリアがホットサンドを両手で持ち、端をひと口かじった。
ぱりっと焼けたパンの中から、とろりとしたチーズが伸びる。
「おいしい!」
アリアの足が草の上でぱたぱたと揺れた。
「中にお肉も入ってる」
ルカもホットサンドの断面を眺めてから、もう一口かじる。
マルルは自分の分を小さな前足で押さえ、一生懸命に口を動かしていた。
「あったかいなの」
「女神様が作ってくれたのかな」
「そうかもしれないね」
アリアはホットサンドを見下ろし、もう一度大切そうに口へ運んだ。
木漏れ日の揺れる樫の下で、三人は初めての旅の昼食をゆっくりと味わった。
◇
食べ終えると、アリアは両手を空へ伸ばした。
「ふうー!」
そのまま後ろへ倒れそうになり、慌てて体を起こす。
ルカは空になった包みをきれいにたたみ、ポシェットのそばへ置いた。
「もう少し休んだら出発しよう」
「うん!」
返事をしたアリアが、突然「あっ」と声を上げた。
立ち上がると、ポシェットを肩へ掛け直す。
「飛ぶ練習してくる!」
「今から?」
「毎日やるって決めたもん」
アリアは胸を張り、街道から少し離れた草地へ駆けていく。
「遠くへ行っちゃだめだよ」
「はーい!」
ルカとマルルが見守る中、アリアは足を肩幅に開いた。
大きく息を吸い、胸元の白い羽のネックレスを握る。
「いくよ」
背中の小さな羽へ、白い光が集まっていく。
光は柔らかく広がり、やがてアリアの背丈よりも大きな二枚の羽となった。
アリアが地面を蹴る。
ふわりと体が浮いた。
「あれ?」
いつもなら浮いた直後に体が傾き、慌てて羽を動かす。
けれど今日は、まっすぐに空中へ止まっていた。
アリアは恐る恐る羽を一度動かした。
体が滑るように前へ進む。
「え?」
今度は右へ体を傾ける。
羽がその動きに合わせ、ゆるやかに向きを変えた。
地面の上を小さく一周し、アリアはルカたちの前へ戻ってくる。
「ルカ!」
足を地面へ着けるより先に、弾んだ声が飛んだ。
「ちゃんと曲がれた!」
「見てたよ。ふらふらしてなかった」
アリアはすぐにもう一度飛び上がった。
少し高く。
少し遠く。
昨日までなら息が切れて降りていた頃になっても、光の羽は消えない。
「まだ飛べる!」
空の上で笑った拍子に体が傾いたが、羽を一度動かすだけですぐに立て直せた。
ルカが目を細め、アリアの胸元を見る。
白い羽のネックレスが、光を宿したように輝いていた。
「アリア、そのネックレス」
「これ?」
アリアはゆっくりと地面へ降り、胸元の飾りを持ち上げた。
「女神様がくれたものだよね」
「うん」
「もしかしたら、アリアの魔法を助けてくれてるのかも」
アリアはネックレスと背中の光の羽を交互に見る。
思いついたように両手を前へ出した。
「それなら、こっちもできるかな」
手のひらの間へ意識を集める。
「えいっ!」
白い光が集まり、小さな玉になった。
いつもなら、形を作った途端にほどけてしまう。
けれど、光の玉はアリアの手の上でふわふわと浮かび続けた。
一つ。
二つ。
三つと数えたところで、ようやく光の粒になって消えていく。
「長くできた!」
アリアは両手を上げ、その場で飛び跳ねた。
「女神様、すごい!」
胸元のネックレスを握り、空へ向かって大きく手を振る。
「ありがとう!」
その姿を見ていたルカも笑い、マルルは嬉しそうに耳をぱたぱたさせた。
アリアはもう一度空へ飛び上がろうとして、不意に動きを止めた。
くるりと振り返り、ルカを見る。
「ねえ、ルカ」
「ん?」
「猫になって!」
「え?」
「一回だけ。ルカが走って、わたしが羽で軽くなったら、もっと速く進めるかもしれないよ」
ルカは街道とアリアを交互に見る。
すぐには答えず、少しだけ考えてから頷いた。
「試すだけだよ。疲れる前にやめるからね」
「やった!」
アリアが両手を叩く。
「マルルも一緒にね」
「なの!」
マルルはぴょんと跳び、ルカの肩へ乗った。
ルカが首元のチョーカーへ手を添える。
留め具から金色の光がこぼれ、瞬く間に全身を包んだ。
光が消えると、そこには大きなラグドールが立っていた。
肩にいたマルルは、いつの間にかふかふかの頭の上へ収まっている。
「落ちないでね」
ルカが頭を低くしたまま言う。
「だいじょうぶなの!」
マルルはルカの両耳の間で、長い毛へ前足をしっかりと絡ませた。
アリアは二人の姿を見つめ、目を輝かせる。
「かわいい!」
「急に言われると恥ずかしいな」
ルカが困ったように笑う。
「乗るよ」
「うん。しっかりつかまって」
ルカが地面へ伏せると、アリアはふかふかの背中へまたがった。
両手で毛をつかみ、背中の光の羽をゆっくりと広げる。
体がふわりと持ち上がり、背中へかかる重さがわずかに軽くなった。
「軽くなった!」
「ほんとだ。これなら走りやすそう」
ルカが立ち上がる。
アリアは体を低くし、毛を握り直した。
「出発!」
「最初はゆっくり行くよ」
ルカは地面を蹴り、街道を走り始めた。
初めは人が駆けるほどの速さだった。
アリアの体が安定しているのを確かめると、ルカは少しずつ足を速めていく。
「速い!」
アリアの髪と青いリボンが、後ろへ大きくなびいた。
ルカの頭の上では、マルルの垂れた耳が旗のように風に揺れている。
「速いなのー!」
「もっと行けそう?」
「だいじょうぶ!」
アリアが羽を広げ、体をもう少し浮かせる。
背中にかかる重さがさらに軽くなり、ルカの足が勢いを増した。
「きゃあー!」
アリアの笑い声が高い空へ飛んでいく。
ルカも楽しそうに笑いながら、まっすぐに続く街道を駆けた。
三人の笑い声が、どこまでも広い草原へ響いていった。
◇
林の中で、エリオは樫の木のそばに立ったまま三人の出発を見送っていた。
「そろそろ俺も……」
歩き出そうとした、その時だった。
大きなラグドールが速度を上げる。
「え?」
その背中には光の羽を広げたアリア。
頭の上には、耳をなびかせるマルル。
三人は見る間に街道の先へ遠ざかっていく。
「えぇっ!?」
木の陰から顔を出したエリオは、目を見開いた。
「速っ!」
慌てて林の中を駆け出す。
「いや、猫ってあんなに速いの!?」
低い枝をくぐり、倒木を飛び越える。
木々の間からようやく姿が見えたと思えば、次の瞬間には、もう一つ先の木立の向こうへ消えていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
届くはずもない声を上げながら、必死に足を動かす。
「団長……!」
息を切らし、それでも前だけを見て走る。
「こういうことは、先に教えてくださいよ……!」
姿を見せない。
手を貸さない。
決して見失わない。
最後の一つが、初日から早くも危うくなっていた。
◇
しばらく走ると、ルカは徐々に速度を落とした。
「そろそろ止まるよ」
「はーい!」
足取りがゆっくりになり、やがて街道の端で止まる。
アリアが背中から降りると、マルルも頭の上から草の上へ飛び降りた。
ルカは白い光に包まれ、元の少年の姿へ戻る。
「すごく速かった!」
アリアが両手を広げる。
「町まで、すぐに着いちゃうかも!」
ルカは額へ浮かんだ汗を腕で拭い、呼吸を整えた。
「でも、ずっと走るのは無理かな」
「疲れた?」
「少しだけ」
ルカは水筒を取り出し、何口か水を飲んだ。
アリアもそれを見て、自分の水筒をポシェットから取り出す。
「シリルが言ってたね。喉が渇く前に飲むんだよね」
「うん。疲れる前に休むのも」
三人は道端の草の上へ腰を下ろし、しばらく足を休めた。
ルカの呼吸が元へ戻るのを待ってから、再び街道へ出る。
今度は走らず、三人でゆっくりと歩き始めた。
しばらくすると、前方から車輪の音が聞こえてきた。
木箱をいくつも積んだ一台の荷馬車が、馬の蹄を鳴らしながら近づいてくる。
「端へ寄ろう」
ルカの声に、アリアとマルルも街道の脇へ移動した。
御者の男性は三人のそばまで来ると、手綱を引いて馬の歩みをゆるめた。
「こんにちは」
ルカが頭を下げる。
「こんにちは。ずいぶん小さな旅人たちだな」
男性も笑って片手を上げた。
アリアは一歩前へ出る。
「あの、聞いてもいいですか?」
「いいよ。どうした?」
「次の町まで、あとどれくらいですか?」
男性は振り返り、自分が来た方角へ目を向けた。
「次の町か」
アリアたちの足元を見てから、空にある太陽の位置を確かめる。
「大人なら、ここから半日もかからない。ただ、君たちの足だと……」
三人が揃って男性の顔を見上げた。
「このまま歩けば、日が暮れる前には着けるだろう」
「ほんと?」
「ああ。ただし、途中であまりのんびりしていると、門が閉まる時間に間に合わなくなるかもしれないぞ」
アリアは街道の先を見る。
町らしいものは、まだどこにも見えなかった。
「急いだ方がいい?」
「走る必要はないよ」
男性は首を振った。
「転んだり、途中で歩けなくなったりしたら、それこそ遅くなる。自分たちの歩ける速さで、まっすぐ進むといい」
「はい!」
「ありがとうございます!」
三人が揃って頭を下げると、男性は笑いながら手綱を握り直した。
「気をつけてな」
「さようなら!」
荷馬車は再び動き出し、三人の横をゆっくりと通り過ぎていく。
車輪の音が背後へ遠ざかると、アリアは街道の先へ向き直った。
「日が暮れる前には着けるって」
「うん。でも、寄り道はできないね」
ルカが歩き始める。
アリアもすぐにその隣へ並んだ。
「まっすぐ行こう!」
「がんばるなの!」
広い空の下を、三人は次の町へ向かって歩いていく。
◇
少し離れた林の中。
ようやく追いついたエリオは、木の幹へ片手をついたまま肩で息をしていた。
「はぁ……間に合った……」
三人が荷馬車の男性へ頭を下げる姿を見て、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「道もちゃんと聞けたか」
子どもたちは、もう次の町へ向かって歩き始めていた。
エリオは額の汗を拭い、その小さな背中を追って再び足を踏み出す。
「でも……油断はできないな」
今度は少しだけ距離を縮め、三人を見失わない位置から静かについていった。




