第17話 見送る者
町へ入ると、家々の窓には少しずつ灯りがともり始めていた。
夕暮れの通りを歩く人々も、どこか家路を急いでいる。
アリアはきょろきょろと辺りを見回した。
「この町も、にぎやかだね」
「ああ」
シリルは前を歩きながら、小さくうなずく。
しばらく歩くと、通りの先に教会が見えてきた。
白い壁と高い鐘楼が、夕焼け空を背に静かにたたずんでいる。
「あっ、教会!」
アリアがうれしそうに声を上げた。
「あそこだ」
シリルが振り返る。
「今日はあそこで休む」
「うん!」
三人は教会へ向かって歩き出した。
重い扉が開くと、柔らかな灯りが迎えてくれる。
若いシスターの案内で部屋へ荷物を置き、温かな夕食を囲む頃には、三人の顔から緊張もすっかり消えていた。
食事を終えると、疲れが一気に押し寄せたのだろう。
アリアは何度もあくびをこぼし、ルカも眠そうに目をこすっている。
「今日はゆっくり休んでくださいね。」
シスターに見送られ、三人は部屋へ戻っていった。
◇
礼拝堂には、静かな夜が訪れていた。
祭壇の蝋燭だけが、小さく揺れている。
シリルは長椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
不思議な一日だった。
目を閉じると、今日一日の出来事がゆっくりと浮かんでくる。
最初は、本気で止めるつもりだった。
六歳と八歳。
旅など無理だと思った。
女神の使命だろうと何だろうと、それは大人が背負うものだ。
子どもが危険な旅へ出る理由にはならない。
そう考えていた。
だからこそ、教会であの子たちと向き合った時も、旅を諦めさせる方法ばかり探していた。
危険を並べれば止まるだろう。
現実を知れば考え直すだろう。
そう思っていた。
だが。
ルカは静かに首を振った。
「怖くても、行かなきゃ。」
あの一言が、今でも耳に残っている。
怖くないとは言わなかった。
行けるとも言わなかった。
怖い。
それでも行く。
八歳の子どもが、迷いごと受け止めた上で口にした言葉だった。
街道へ出ても、それは変わらなかった。
俺は先頭を歩いていた。
だからといって、後ろを見ていなかったわけじゃない。
アリアの歩幅が少しずつ小さくなったことも。
それに気付いたルカが、何も言わず歩く速さを合わせたことも。
ちゃんと見えていた。
「大丈夫?」
そんな言葉は掛けない。
手も引かない。
ただ、隣を歩く速さを少しだけゆるめる。
(……そうか。)
あの子は、守り方を知っている。
誰かに教わったわけではない。
家族として、自然に身につけたのだ。
樫の木の下で休んだ時のことも思い出す。
疲れた顔をしていた。
それでもアリアは笑っていた。
『今日だけでも、ちゃんと進めたよね』
普通なら、
『疲れた』
『もう歩けない』
そんな言葉が出てもおかしくない。
なのに、あの子は違った。
歩けたことを喜んでいた。
前へ進めたことを喜んでいた。
俺は、何を見ていたのだろう。
この子たちは危ない。
守らなければ。
そればかり考えていた。
だが、本当に見なければならなかったのは、その先だった。
この子たちは、自分の足で歩こうとしている。
転んでも。
疲れても。
怖くても。
一歩ずつ前へ進もうとしている。
守ることと、信じることは違う。
今日、そのことを教えられた気がした。
「考え事ですか。」
穏やかな声に顔を上げると、神父がゆっくり歩いてきた。
シリルは小さく笑う。
「少しだけ。」
神父は隣へ腰を下ろした。
「子どもたちは、もう眠っています。」
「そうですか。」
シリルは祭壇の灯を見つめたまま、小さくうなずく。
「最初は、旅に出すべきではないと思っていました。」
神父は何も言わず、その続きを待つ。
「ですが……。」
シリルは静かに笑った。
「今日一日で、考えが変わりました。」
「信じてみようと思います。」
「自分たちの足で歩こうとする、あの子たちを。」
神父は穏やかに目を細めた。
「きっと、その言葉を聞けば、あの子たちも喜びますよ。」
シリルは首を横に振る。
「言いません。」
「まだ、その必要はありません。」
「歩いた先で、いつか自分たちで気付けばいい。」
神父は静かに笑った。
「あなたらしいですね。」
礼拝堂には、再び静けさが戻る。
しばらくして立ち上がると、シリルは三人の部屋へ向かった。
扉をそっと開ける。
三人とも、もうぐっすり眠っていた。
アリアの三つ編みは少しだけほどけ、ルカは眠ったままアリアの方へ体を向けている。
その間で、マルルが小さく丸くなっていた。
シリルは、毛布を掛け直してやる。
起きる気配はない。
安心しきった寝顔だった。
「……。」
廊下へ出ると、一度だけ夜空を見上げた。
「……頼んだぞ。」
その一言は、明日から三人を見守る騎士たちへ向けたものだった。
シリルは小さく笑うと、静かな廊下をゆっくりと歩いていった。
◇
小鳥たちのさえずりが、教会の窓辺に響いていた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋をやわらかく照らしている。
「……ん。」
アリアはゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井を見上げ、小さく首をかしげる。
「……あれ?」
ぼんやりしていた頭に、昨日の出来事が少しずつよみがえってきた。
街道を歩いて。
新しい町へ着いて。
教会で夕食を食べて、そのまま眠ってしまった。
「あっ。」
アリアは小さく笑う。
「昨日、着いたんだった。」
毛布をめくり、そっと床へ足を下ろす。
昨日は重たかった足も、もうすっかり軽くなっていた。
「よかった。」
その声で、隣のベッドがもぞりと動く。
「……アリア?」
ルカが眠そうに目をこする。
「おはよう。」
「おはよう!」
その時、毛布の中から白い耳がぴょこんと現れた。
「……朝なの?」
「朝だよ。」
マルルの一言に、二人は思わず笑う。
コンコン。
部屋の扉が優しく叩かれた。
「おはようございます。」
リリアの声だった。
「朝食の用意ができていますよ。」
「はーい!」
三人は身支度を整え、部屋をあとにした。
◇
食堂には焼きたてのパンの香りが広がっていた。
教会で暮らす子どもたちも、それぞれ席につき始めている。
リリアが食堂を見渡し、やさしく声を掛けた。
「さあ、みんな席につきましょう。」
「朝ごはんですよ。」
「はーい!」
元気な返事があちこちから返ってくる。
椅子を引く音が重なり、食堂は朝らしい賑わいに包まれた。
神父が静かに手を合わせる。
「それでは、いただきましょう。」
「いただきます。」
食堂いっぱいに声がそろう。
アリアたちも手を合わせた。
「いただきます。」
温かなスープの湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンの香りがふわりと広がる。
穏やかな朝の時間が、ゆっくりと流れていった。
◇
朝食を終えると、教会の子どもたちは慣れた様子で食器を運び、シスターたちは後片付けを始めた。
アリアも空になった皿を両手で持ち上げる。
「これ、どこに持っていけばいい?」
リリアが振り返り、やさしく笑った。
「ありがとう。では、こちらへお願いします」
「うん!」
教えられた場所へ皿を置くと、アリアは少しだけ得意そうな顔で戻ってきた。
「できた」
「それじゃあ、僕たちも準備しようか」
ルカの言葉に、アリアは元気よくうなずいた。
「うん!」
三人は部屋へ戻り、出発の支度を始めた。
といっても、荷物のほとんどは女神のポシェットの中だ。アリアは忘れ物がないか部屋を見回し、ルカもベッドの下や窓辺まで確かめていく。
マルルは二人の間をぴょんぴょんと行き来していた。
「マルル、忘れ物ない?」
「ないなの」
「ほんとに?」
「マルルは、マルルだけなの」
アリアとルカは顔を見合わせ、笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
三人が部屋を出ると、教会の入口では神父とリリア、そしてシリルが待っていた。
「お世話になりました!」
アリアが元気よく頭を下げる。
「ありがとうございました」
ルカも隣で頭を下げた。
「ありがとうなの」
ルカの肩に乗ったマルルも、ぺこりと頭を下げる。
神父は三人を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「皆さんの旅が、良きものになりますように」
「疲れた時には、いつでも教会を訪ねてくださいね」
リリアもやさしく笑う。
「また遊びに来てください」
「うん!」
アリアが大きくうなずいたところで、シリルが一歩前へ出た。
「俺とは、ここで別れだ」
アリアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「シリル、行かないの?」
「ああ。俺は騎士団へ戻る」
「……そっか」
アリアは小さく答えたあと、シリルを見上げた。
「昨日、一緒に歩いてくれてありがとう」
「ありがとうございました」
ルカもまっすぐシリルを見る。
「シリルが教えてくれたこと、忘れません」
シリルは二人の顔を順番に見た。
昨日の朝、城門の前で果てしなく続く街道を見つめていた、小さな子どもたち。
あの時の二人の目には、期待と同じくらい不安が浮かんでいた。
けれど、今は違う。
疲れることを知った。
休むことも覚えた。
それでも、また自分たちで歩こうとしている。
たった一日。
だが、その一日は決して小さくなかった。
「昨日も言ったな」
シリルは静かに口を開いた。
「最初から遠くばかり見る必要はない」
「まずは、今日歩く道のことを考えろ」
「うん」
「疲れたら休め。困った時は、三人で考えろ」
「はい!」
ルカが力強く答える。
シリルはマルルへも目を向けた。
「二人のことを頼んだぞ」
マルルは胸を張った。
「まかせるなの!」
「ふふっ」
アリアが笑い、シリルの口元にもわずかな笑みが浮かんだ。
「では、行ってこい」
「行ってきます!」
三人の声が、朝の教会前に重なった。
アリアは何度も手を振りながら歩き出す。
ルカも一度振り返り、シリルへ笑顔を向けた。
その肩の上では、マルルが小さな前足を振っている。
シリルは軽く手を上げ、その姿を見送った。
やがて三人は通りの角を曲がり、見えなくなった。
それでもシリルは、しばらくその場を動かなかった。
◇
町外れの林の中。
朝露に濡れた草を踏みしめ、一人の青年が静かにしゃがみ込んでいた。
濃い緑色の旅人用の上着。
革の胸当ても上着の下へ隠し、腰には細身の剣を一本。
一見すれば、森へ入る若い猟師か旅人にしか見えない軽装だった。
その青年こそ、西方騎士団の若手騎士。
エリオ・フェルンである。
昨夜、誰よりも早く三人の様子を見に来てしまい、シリルに見つかったあの青年だった。
木の幹へ背を預けながら、小さく息をつく。
「始まるんだな……。」
今朝、団長から受けた命令が頭によみがえる。
『姿を見せるな。』
『手を貸すな。』
『だが、決して見失うな。』
「……難しい任務だ。」
思わず苦笑が漏れる。
助けるだけなら簡単だ。
危険があれば飛び出せばいい。
転びそうなら支えればいい。
迷ったなら道を教えればいい。
だが、それでは意味がない。
あの三人が、自分たちで考え、自分たちの足で歩く旅を守る。
そのためには、見守る側が我慢しなければならなかった。
木々の向こうから、小さな笑い声が聞こえてきた。
エリオは音のした方へ目を向ける。
街道へ出たアリアたちが、朝日を浴びながら歩いていた。
「来た。」
思わず頬が緩む。
慌てて両手で自分の頬をぺちんと叩いた。
「違う違う。」
「任務だ、任務。」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
三人は楽しそうに話しながら歩いている。
エリオは木から木へと身を移し、街道から少し離れた林の中を並行して進んだ。
足音はほとんどしない。
落ち葉を避け、枝を踏まず、風の音に合わせて歩く。
それは騎士というより、森で育った狩人のような身のこなしだった。
しばらくして、アリアが街道脇で立ち止まる。
エリオの肩がぴくりと動く。
「何かあったか?」
身を低くして様子をうかがう。
だが次の瞬間、アリアは咲いていた小さな花を見つけて笑った。
ルカもしゃがみ込み、マルルがその周りをぴょんぴょん跳ねている。
「……花か。」
エリオは胸をなで下ろした。
「びっくりさせないでくれよ。」
そう苦笑しながらも、その表情はどこかうれしそうだった。
三人が再び歩き始める。
エリオは十分な距離を空けて、その後を追う。
近すぎない。
遠すぎない。
見えない。
けれど、何かあれば駆けつけられる距離。
それが、彼に与えられた役目だった。
エリオは木々の間から、小さくなる三人の背中を見つめる。
「さて……。」
口元に笑みを浮かべ、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「しばらく、よろしくな。」
青年は気配を風の中へ溶かしながら、小さな旅人たちのあとを静かに追いかけていった。




