第17話 見送る者
町へ入ると、家々の窓には少しずつ灯りがともり始めていた。
夕暮れの通りでは、仕事を終えた人たちが家路を急ぎ、店先からは夕食の支度をする香ばしい匂いが流れてくる。
朝から一日歩き続けたせいか、アリアの足取りはさすがに少し重くなっていた。それでも新しい町へ着いたことが嬉しいらしく、知らない店や家を見つけるたびに顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回している。
「この町も、にぎやかだね」
「ああ」
少し前を歩いていたシリルが、小さく頷いた。
しばらく通りを進んでいくと、家並みの向こうに白い建物が見えてきた。夕焼けを受けた壁の上には高い鐘楼が立ち、その輪郭が茜色の空へくっきりと浮かんでいる。
「あっ、教会!」
アリアの声が弾んだ。
「あそこだ」
シリルが振り返る。
「今日は、あそこで休む」
「うん!」
足は重くなっていても、その返事だけはまだ元気だった。
教会の重い扉を開けると、外の夕暮れとは違う、やわらかな灯りが三人を迎えた。
若いシスターが物音に気づいて顔を上げ、一瞬だけ驚いたような表情を見せたものの、先頭にいるシリルを見つけると、すぐに穏やかな笑顔へ変わった。
「お待ちしておりました」
どうやら、西方騎士団から先に知らせが届いていたらしい。
三人は案内された部屋へ荷物を置き、ほどなくして用意された温かな夕食を囲んだ。
湯気の立つスープを飲み、焼いた肉やパンを口へ運んでいるうちに、朝から歩き続けていた身体の力が少しずつ抜けていく。知らない町へ着いたばかりだという緊張も、温かな食事と教会の穏やかな空気の中で、いつの間にかずいぶん小さくなっていた。
けれど、食事が終わる頃になると、
「ふぁ……」
アリアが大きなあくびをした。
出てしまってから気づいたらしく、慌てて両手で口を押さえる。
その横では、ルカも何度か眠たそうに目をこすっていた。
「今日は、よく歩きましたものね」
シスターが笑った。
「ゆっくり休んでください」
「はぁい」
アリアの返事にも、もう隠しきれない眠気が混じっている。
三人はシスターへお礼を言うと、長い一日を終えるように部屋へ戻っていった。
◇
夜。
礼拝堂には、昼間とはまるで違う静かな時間が流れていた。
祭壇に灯された蝋燭だけが、誰もいない長椅子の間へ淡い光を落とし、時折揺れる炎が壁や柱の影をゆっくりと動かしている。
その一角に、シリルは一人で腰を下ろしていた。
背もたれへ身体を預け、ふう、と長く息を吐く。
目を閉じると、今日一日、街道を歩いていた子どもたちの姿が自然と浮かんできた。
最初は、本気で止めるつもりだった。
六歳と八歳の子どもに、小さなマルル。
そんな三人だけで旅などできるはずがないと思っていた。
たとえ女神から託された使命だとしても、本来なら危険を引き受けるのは大人の役目であって、子どもを見知らぬ土地へ送り出してよい理由にはならない。
だから教会で話した時も、旅の途中で起こり得る危険を一つずつ隠さず話した。
魔物に遭うこともあれば、盗賊に狙われることもある。病気になるかもしれず、道に迷うこともある。食べ物がなくなったり、夜になっても眠る場所が見つからなかったりすることだってある。
それを聞けば、自分たちだけで旅をすることがどれほど難しいか分かり、少しは考え直すのではないかと思っていた。
けれど、ルカは諦めなかった。
『怖くても、行かなきゃいけないんだ』
あの時の声が、今も耳の奥に残っている。
怖くないとは言わなかった。
自分たちなら大丈夫だとも言わなかった。
怖いことは分かっている。
それでも、家族へ会うために行かなければならないのだと、八歳の少年は自分の言葉で伝えた。
シリルはゆっくり目を開けた。
揺れる蝋燭の向こうへ、今度は昼間の街道が重なる。
歩き始めた頃には、見るものすべてが珍しくて足取りまで弾んでいたアリアも、昼が近づくにつれて少しずつ歩幅が小さくなっていった。
それに気づいたルカは、「疲れたか」と尋ねることも、無理に手を引くこともしなかった。
ただ、自分の歩く速さをほんの少し落とし、アリアが並んで歩ける速さへ合わせていた。
樫の木の下では、休んで初めて足の疲れに気づいたアリアが、朝から歩いてきた道を見ながら言った。
『今日だけでも、ちゃんと進めたよね』
疲れていることよりも、自分の足でそこまで歩けたことを喜んでいた。
朝には遠くへ続いているだけだった街道を、自分たちの足で一歩ずつ進み、振り返ればもう出発した町さえ見えないところまで来ている。
シリルは膝の上で組んでいた手を、ゆっくりほどいた。
子どもだから危ない。
だから守らなければならない。
昨日までは、そればかりを考えていた。
けれど今日、あの子たちは本当に自分たちの足で歩いた。途中で疲れたことに気づけば休み、水を飲み、食べ物を口へ入れてから、もう一度立ち上がって歩き始めた。
誰かに抱えられて運ばれたわけではない。
自分たちなりに考えながら、今日一日の道を最後まで歩いたのだ。
そんなことを考えていると、静かな礼拝堂へ別の声が落ちた。
「考え事ですか」
シリルが顔を上げる。
この教会の神父が、長椅子の間をゆっくり歩いてこちらへ来るところだった。
「少しだけ」
シリルは小さく笑った。
神父も隣の長椅子へ腰を下ろす。
「子どもたちは、もう眠っています」
「そうですか」
「よほど疲れていたのでしょう。部屋へ入ってから、ほとんどすぐだったそうですよ」
「初めて一日歩きましたからね」
シリルは祭壇の灯りへ目を向けた。
しばらく炎の揺れを眺めてから、静かに口を開く。
「最初は、旅へ出すべきではないと思っていました」
神父は何も言わず、続きを待った。
「今でも、危険だという考えは変わっていません」
「ええ」
「ですが……」
シリルは今日歩いていた三人の姿をもう一度思い出し、ほんの少しだけ笑った。
「止めることだけが、守ることではないらしい」
神父の目が、わずかに細くなる。
「信じてみようと思います。自分たちの足で歩こうとしている、あの子たちを」
神父はしばらく黙ってその言葉を聞いていたが、やがて穏やかな声で答えた。
「きっと、その言葉を聞けば喜びますよ」
けれど、シリルは静かに首を横へ振った。
「言いません」
「そうなのですか」
「あの子たちは、俺に認めてもらうために歩いているわけではない」
少しだけ間を置き、祭壇から視線を外す。
「自分たちで歩いて、失敗して、また歩いて。その先で、自分たちにもできると分かれば、それでいい」
神父はシリルの横顔を見つめてから、静かに笑った。
「あなたらしいですね」
二人の間へ、また穏やかな静けさが戻った。
しばらくして、シリルは長椅子から立ち上がった。
◇
子どもたちの部屋の扉を、そっと開く。
中は暗く、窓から差し込む月明かりだけが床へ細い帯を作っていた。
三人とも、もうぐっすり眠っている。
アリアは寝返りを打ったらしく、水色の髪が枕の上で少しだけ乱れていた。
ルカは眠ったままアリアの方へ身体を向け、その二人の間では、マルルが白い毛玉のように小さく丸くなっている。
今日一日あれだけ歩き、あれだけ話し、笑っていた三人が、今は同じ部屋で静かな寝息を立てている。
シリルは音を立てないよう部屋へ入り、少しずれていたアリアの毛布を胸元までそっと掛け直した。
アリアはわずかに身じろぎしただけで、目を覚まさない。
それほど深く眠っていた。
シリルはしばらく三人の寝顔を見つめてから、何も言わず部屋を出た。
廊下の窓辺まで来ると、足を止める。
夜空には星が広がり、その下には、明日から三人だけで歩いていく街道が続いている。
「……頼んだぞ」
小さな声だった。
明日から自分の代わりに、この三人を遠くから見守る者たちへ向けた言葉だった。
シリルはもう一度だけ窓の外を見てから、静かな廊下を歩いていった。
◇
翌朝。
小鳥たちのさえずりが、教会の窓辺へ明るく響いていた。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、部屋の床をやわらかく照らしている。
「……ん」
アリアがゆっくり目を開けた。
見慣れない天井をぼんやり眺め、しばらく首を傾げる。
「……あれ?」
けれど少しすると、昨日の出来事が一つずつ頭の中へ戻ってきた。
朝から街道を歩き、途中で大きな木の下へ座ってパンを食べ、それからまた歩いて、この町へ着いた。
「あ」
アリアが小さく笑う。
「昨日、着いたんだった」
毛布をめくり、床へ足を下ろした。
そっと立って、一歩歩いてみる。
もう一歩。
昨日の夕方にはあれほど重かった足が、一晩眠っただけでずいぶん軽くなっている。
「よかった」
ほっとした声が聞こえたのか、隣のベッドがもぞりと動いた。
「……アリア?」
ルカが眠たそうに目をこする。
「おはよう!」
「おはよう」
その時、毛布の中から白い耳がぴょこんと飛び出した。
「……朝なの?」
「朝だよ」
アリアとルカが顔を見合わせて笑う。
そこへ、コンコン、と扉がやさしく叩かれた。
「おはようございます」
昨日、部屋まで案内してくれたシスターの声だった。
「朝食の用意ができていますよ」
「はーい!」
三人は返事をすると、身支度を整えて部屋を出た。
◇
食堂へ入ると、焼きたてのパンの香りが部屋いっぱいに広がっていた。
教会で働く人たちも朝の支度を終え、それぞれ席へ着き始めている。
「おはようございます」
シスターが振り返る。
「おはよう!」
アリアが元気よく答え、ルカも頭を下げた。
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
「うん!」
アリアは笑いながら席へ座った。
神父が皆の顔を見渡し、静かに手を合わせる。
「それでは、いただきましょう」
「いただきます」
食堂へいくつもの声が重なり、アリアたちも一緒に手を合わせた。
温かなスープから湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンと、少し甘い果物が朝の卓へ並んでいる。
一晩眠っただけなのに、昨日町へ着いた時とは何かが少し違って感じられた。
昨日は、一日歩ききったことで精いっぱいだった。
けれど今日は、また次の道へ出ていく朝だった。
◇
朝食が終わると、教会の人たちは慣れた様子で食器を運び始めた。
それを見たアリアも、自分の前にある空の皿を両手で持ち上げる。
「これ、どこに持っていけばいい?」
シスターが振り返った。
「ありがとう。では、こちらへお願いします」
「うん!」
教えてもらった場所まで運び、ことん、と皿を置く。
戻ってきたアリアは、自分も少し役に立てたことが嬉しいらしく、ほんの少し得意そうだった。
「できた」
「それじゃあ、ぼくたちも準備しようか」
ルカが言う。
「うん!」
三人は部屋へ戻った。
荷物のほとんどは、アリアのポシェットやルカのストレージへしまってある。
それでも忘れ物がないか、アリアは部屋の隅まできょろきょろ見回し、ルカもベッドの下や窓辺まできちんと確かめていった。
その間を、マルルがぴょんぴょんと行ったり来たりしている。
「マルル、忘れ物ない?」
「ないなの」
「ほんとに?」
「マルルは、マルルだけなの」
「…………」
アリアとルカは顔を見合わせた。
確かに、マルル自身がここにいるなら、それで全部なのかもしれない。
二人は同時に笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
「大丈夫なの!」
◇
三人が教会の入口へ向かうと、神父とシスター、それからシリルが待っていた。
「お世話になりました!」
アリアが元気よく頭を下げる。
「ありがとうございました」
ルカも隣で丁寧に頭を下げた。
「ありがとうなの」
マルルまで二人を真似して、ぺこりと頭を下げる。
神父は三人を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「皆さんの旅が、良きものになりますように」
「疲れた時には、いつでも教会を訪ねてくださいね。また来てください」
シスターも笑う。
「うん!」
アリアが大きく頷いた。
その時、シリルが一歩前へ出た。
「俺とは、ここで別れだ」
アリアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「シリル、行かないの?」
「ああ。俺は騎士団へ戻る」
「……そっか」
アリアは少しだけ俯いた。
昨日までずっと、自分たちのそばを歩いてくれていた。
街道の歩き方も、水を飲むことも、疲れた時には休んでいいことも教えてくれた。
だから、今日も当然一緒にいるような気がしていたのかもしれない。
けれどアリアは、すぐに顔を上げた。
「昨日、一緒に歩いてくれてありがとう」
「ありがとうございました」
ルカもまっすぐシリルを見る。
「教えてもらったこと、忘れません」
シリルは二人の顔を順番に見た。
昨日、町の門を出たところで、果てしなく続く街道を見つめていた二人。
あの時には、期待と同じくらい不安もあったはずだ。
けれど一日歩いた今は、少し違う。
疲れることを知った。
休めば、また歩けることも知った。
それでも二人は、今日も自分たちの足で次の道へ出ようとしている。
「昨日も言ったな」
シリルは静かに口を開いた。
「最初から、遠くばかり見る必要はない」
「うん」
「まずは、今日歩く道のことを考えろ。疲れたら休み、困った時は三人で考えるんだ」
「はい」
ルカが力強く頷いた。
シリルは今度はマルルへ目を向ける。
「二人のことを頼んだぞ」
マルルは胸を張った。
「まかせるなの!」
その返事に、アリアが笑う。
「ふふっ」
シリルの口元にも、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
そして町の外へ続く道を一度見てから、三人へ目を戻す。
「行ってこい」
「行ってきます!」
三人の声が、朝の教会前へ重なった。
アリアは何度も手を振りながら歩き始め、ルカも少し進んだところで一度だけ振り返った。その肩の上では、マルルが小さな前足を一生懸命振っている。
シリルも軽く片手を上げた。
三人は通りを進み、やがて角を曲がって見えなくなった。
それでもシリルは、しばらくその場から動かなかった。
◇
町外れの林。
朝露の残る草の上で、一人の青年が木の幹へ背を預けていた。
濃い緑色の上着の下には、目立たないよう革の胸当てを身につけ、腰には細身の剣が一本下がっている。
一見すれば、森へ入る若い猟師か、少し旅慣れた青年にしか見えないだろう。
けれど、その青年は西方騎士団の若手騎士、エリオ・フェルンだった。
昨日、誰よりも早く三人の姿を見に行き、しっかりシリルに見つかっていた、あの騎士である。
「…………」
エリオは木の幹へ背を預けたまま、小さく息を吐いた。
今朝、団長から言い渡された任務を、もう一度頭の中で確かめる。
姿を見せない。
手を貸さない。
見失わない。
三つだけ聞けば単純に思える。
けれど、実際にやるとなると、かなり難しい。
「……難しい任務だな」
思わず苦笑した。
ただ助けるだけなら、もっと簡単なのだ。
危険なものが近づけば飛び出し、転びそうになれば支え、道に迷えば正しい方向を教えてやればいい。
けれど、それではこの任務の意味がない。
あの三人は、自分たちで考え、自分たちの足で歩かなければならない。
何でも先回りして手を出してしまえば、その旅は三人のものではなくなってしまう。
だからエリオに求められているのは、危険から守ることだけではなかった。
自分なら簡単に助けられる場面でも、三人が自分たちで乗り越えられるなら手を出さずに待つ。その一方で、本当に危険が迫った時には、間に合う距離を決して離れない。
「……できるかな」
エリオが小さく呟いた、その時だった。
木々の向こうから、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
エリオはすぐに顔を上げる。
「来た」
街道へ出た三人が、朝日を浴びながら歩いていた。
アリアが何かを楽しそうに話し、隣でルカが笑っている。その肩の上では、マルルの長い耳が歩くたびにゆらゆらと揺れていた。
エリオの頬が、自然と少し緩む。
「…………」
そこで、はっとした。
両手で自分の頬を、ぺちん、と叩く。
「違う違う。任務だ、任務」
もちろん、誰も聞いていない。
それでも、もう一度自分へ言い聞かせた。
三人はそんなエリオの存在など知らず、楽しそうに話しながら街道を歩いていく。
エリオは街道へ直接出ることなく、木々の陰を使いながら、その横を並行して進み始めた。
乾いた枝や落ち葉を避け、風が葉を揺らす音に自分の足音を重ねる。三人から近すぎず、かといって何かあった時に駆けつけられないほど遠くもならない距離を保ちながら、森の中を静かに進んでいった。
姿は見せない。
手は貸さない。
けれど、絶対に見失わない。
しばらくすると、街道を歩いていたアリアが突然足を止めた。
「!」
エリオも反射的に立ち止まり、木の陰で身を低くする。
何かあったのか。
さっそく危険なものでも見つけたのかと思い、息を詰めて様子をうかがった。
アリアが街道の脇へしゃがみ込み、ルカもその隣へ行く。マルルまで肩から飛び降り、三人で何かを覗き込んだ。
エリオがいつでも動けるよう身体へ力を入れた、その直後。
アリアが、小さな花を指さして笑った。
「……花か」
思わず、エリオの肩から力が抜けた。
「びっくりさせないでくれよ」
小さく呟きながら、自分でも笑ってしまう。
やがて三人は立ち上がり、何事もなかったようにまた歩き始めた。
エリオも少し遅れて、再び木々の間を進み始める。
枝葉の隙間から見えるのは、小さな三人の背中。
まだ始まったばかりの旅だ。
これから先、自分がどれだけ我慢しなければならないのかも、どんな危険に出会うのかも分からない。
けれど。
「さて……」
エリオの口元へ、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「しばらく、よろしくな」
その声は、もちろん三人には届かない。
青年は気配を朝の風へ溶かすようにしながら、小さな旅人たちのあとを静かに追い始めた。




